発端は取るに足らない違和感で、今となっては些事である。ただ、一度発露したものを引っ込める事が出来ないまま感情任せに転がるうち、それなりの[[rb:大事 > おおごと]]へと発展してしまった。が富田の家へと転がり込んでから——否、交際を開始してから初めての喧嘩だった。 喧嘩と言っても、感情的になっているのはひとりだ。富田は至極冷静に、の心を理解しようとしていた。 しかし、富田の意見をぶつけるどころか寄り添おうとするだけの態度は、怒りで頭が沸き立ったにとって神経を逆撫でするものだった。自分の思うことは一つも言わないくせして、人のことばかり気にかけて、そういうところが嫌になる——と、受け止めた相手の気持ちも考えないまま、はそのようなことを勢い任せに口走った。富田は言い返す言葉がないらしく、「ごめんね」と謝罪するばかりだ。それがまた、の癪に触った。 時が経つにつれ冷静になったは、段々自分に非があることを自覚し始めた。元より富田には喧嘩をする気など毛頭ないのだろう。彼は徹頭徹尾、衝動に身を任せ怒り狂う彼女を宥めようと努めていた。 自己嫌悪が怒りを上回ると、は静かにリビングを出て寝室に篭った。それから一時間ほど、年甲斐もなくメソメソ涙を流した。 この頃になると、頭にあるのは怒りの発端についてではなく、いかにして日常に戻るかである。富田のことだからしおらしく謝ればすぐに許してくれるだろうが、一方的に怒り散らした手前、すぐに顔を合わせるのも気まずかった。 ひとまず気分転換をすべく、はベッドから身体を起こした。富田が一人暮らしだった時から使っているクイーンサイズのベッドは広く、降りるには数歩膝で歩かねばならない。床に脱ぎ捨てたスリッパを通り越し、足音を殺して玄関へと向かった。 今や毎日出入りする場所なのだから既視感も何もないはずだが、「前にも似たようなことがあった気がする」とは思った。それを気のせいだと切り捨て、サンダルに足を通す。 ドアノブに手をかけた時、その声を聞いては思い出した。いつだったか、早朝に富田の部屋からこっそり抜け出そうとしたときのことを。 バッグを持っていたその時と違って、の片手は空だった。富田は[[rb:三和土 > たたき]]にスリッパのまま踏み込んで、の手を掴んだ。反射的に振り返って見た顔には、動揺が浮かんでいる。彼は「どこに行くの」とらしくない早口で訊ねて、の返事を待っていた。 「ちょっと外に」 「……私と同じ部屋にいたくないなら、私が出るよ。君はここにいて」 「そういうんじゃなくて、コンビニ行きたいだけなの」 「この時間に? 何か必要なものでもあるの?」 「えっと……」 がドアノブから手を離しても、富田はを解放しなかった。掴まれた手首は痛みこそないものの、の行動を制したままである。しかしこれも、が「離して」と頼めばすぐにその通りにするのだろう。 は、それが気に入らなかった。顔と行動は行かないでほしいと雄弁に語るくせ、日頃よく回る口はこういう時ちっとも役に立たないらしい。 ただ一言、思うままに伝えて欲しかった。それだけだったのに。 「何かあるなら明日にしよう。急ぎなら、私が用意するから」 「…………」 ここまで必死になってが部屋を出る理由を奪おうとしておきながら、富田は肝心なことを依然として口にしない。まるで自分自身の思いに気付いてすらいないようだ。それどころか、感知する必要すらないと思っていそうなものである。斯様にさみしい話があるだろうかと、は胸が苦しくなった。 いつだったか、彼の親友に同棲を始めたことを知らせたときに、人知れず耳打ちされた言葉がある。あれから目を離すな——と。 当時は何かの聞き間違えかと思って問い返したが、何事もなかったかのようにはぐらかされてしまったので、深く考えることはなかった。しかし今この状況で、彼は富田のこういう面を気に掛けていたのではないだろうかとは思い至る。人に気を回すばかりで自分の心を二の次にしてしまう寂しい彼をひとりにしてやるなと、それを伝えたかったのではないか——そんな風に、は思った。 が富田の方を向いて少し手を揺らすと、富田はすぐに腕を解放した。はそのまま富田の胸に飛び込んで、彼の長身に反して細い腰に腕を回す。頭を撫でながら抱き寄せられる感触があって、少しだけ富田の衣服が濡れた。 「……アイス、食べたいかも」 「買ってこようか。何がいい?」 「一緒に行く……」 「うん、行こう」 は富田の胸から顔を上げて、ゴシゴシと雑に目元を拭った。 真っ直ぐ目を見て話が出来ず、コンビニまでの夜道はいつもと比べ静かなものであった。けれど、軽快な音と共に開いた自動ドアを潜り明るい店内に足を踏み入れる頃には、普段のふたりの調子に戻っていた。