楽しいなら、それで。

現パロ

 その日は珍しくすっきりとした目覚めだった。ヘッドボードに置いていたスマホに手を伸ばす。ロック画面に表示された時刻は7時前を示していた。予定のない休日の目覚めにしては、随分早い。虫の知らせとでもいうのか、は画面を見た瞬間、頭の片隅に追いやっていたあることを思い出した。  独り寝には持て余すクイーンサイズのベッドは、恋人である富田のものだった。この家の主である彼は、まだ夢の中だ。穏やかに寝息を立てる姿を見て、は起こすのは偲びないとそろりとベッドを抜け出した。  なんでもそつなくこなす彼が、実は朝が苦手だということを知ったのは、ごく最近のことだ。寝坊をしているところは見たことがないし、この家で寝泊まりするようになった当初は、先に起きての目覚めを待っていることが多かった。  彼の意外な一面を知り得る距離まで近づけた事をは喜ばしく思ったが、それを口にしようとは決して思わなかった。恋人想いの彼は、どんな些細なことでもの願いを叶えようとしてしまう。自分が彼の負担になることが、は怖かった。  物音ひとつ立たぬよう注意を払い、身支度を整える。連絡は、もう少し経ってからメッセージアプリで入れておけばいいだろう。  忘れ物がないか部屋を見回した後に靴を履いて、はドアノブに手をかけた。家賃に見合った厳重なセキュリティが敷かれている為、施錠の心配は不要だった。ドアノブががちゃりと音を立てる。予想外の大きな音に驚いた直後、は名前を呼ばれて弾けるように振り返った。 「こんな早くに、もう出るの?」 「お、起きてたの」 「ついさっき目を覚ましたら、君がいなかったから」  ベッドから出てそのままの姿の富田は、いつもの背筋が伸びた凛とした姿と比べると、少しばかり気が抜けて見えた。目が開き切っておらず、暖色の照明に照らされた長いまつ毛の影が頬まで落ちて、瞬きをするたびに上下していた。 「今日の午前中、対面受け取りの荷物が届くの。すっかり忘れてた」 「そう。……なら、車で送ろうか。少し待っていて」 「えっ」  だからもう出るね——とが続ける前に、富田は身を翻して洗面所へと入っていった。すぐに水音が聞こえる。顔を洗っているようだ。  足音を聞いて気付いたが、スリッパを履いていない。隣にいるはずの恋人の姿がないことに気がつき、玄関の音を聞いて慌ててやってきたのだろう。彼の言う『少し』がどのくらいを指すのかわからず、は荷物を持ったまま玄関に立って待っていた。  数分経って、富田は身支度を整えて「お待たせ」とキーケースとスマホだけを手に玄関へやってきた。ドアを開けるついでにさりげなくの手からカバンを攫う。質のいいスウェットとデニムのラフな服装だが、スタイルのいい富田が着ていると様になっていた。  富田が住んでいるのは、いわゆる高級タワーマンションだ。今でこそ慣れたもののあまりに高級感のある内装と行き届いたサービスに、はいつも息が詰まる思いだった。あまりにも場違いだ。住民とは滅多に会わないものの、有名な芸能人らしき姿を見かけたこともある。恋人にとってはこれが日常だと思うと、金銭感覚の違いに身震いがした。  エレベーターで駐車場のある地下まで降り、彼が『星崎』と呼ぶ愛車に乗り込む。早朝ということもあり、互いに口数が少なかった。車を発進させた富田の顔にはもう眠気は見られなかったが、眼差しは朧げにどこか遠くを見ている。まるで、不本意だとでも言いたげな表情だった。  富田はあまり自分の気持ちを口にしたがらない。その分は、表情や声色、行動からそれを汲み取ろうと心掛けていた。些細な変化に気がついたのも、その甲斐あってのことだ。  寂しいなら、そう言って引き留めればいいのに。配達業者には手間をかけるが、受け取り時間の変更手続きだって間に合うはずだった。それをさせてまであの家に留めようとしないところが、彼らしいとは思った。 「富田、私が帰るの寂しいんでしょ」  はからかい調子でそんなことを訊ねた。彼女の甘えるような冗談に、富田はいつも品のある微笑みで返す。けれど今は、心から同調するように「そうだね」と頷いた。 「君さえよければ、ここに住んでくれてもいいのだけど」 「えー、それは……」  それはちょっと難しい、と否定しかけたの口は、僅かに開いたままだった。続きの言葉を言えなかったのは、フロントガラスを見つめる表情に儚げな孤独を見たからだ。素直に心から、「こんな酷いことは言えないな」とは思った。 「家賃払ってくれるなら、考えよっかなあ。高いもん」 「そんなことを気にしていたの?」 「当たり前じゃん。払えないよ、絶対」  がコミカルに怯えた動きを見せると、富田は「ははっ」と声を立てて笑った。 「君と暮らしたら、退屈しないだろうね。楽しそうだ」  柔和に細められた瞼から覗く金色の瞳が、朝日に照らされてキラキラと輝いている。この顔を毎日見られるのなら、多少の手間や面倒も惜しくはないかと、の考えは引っ越しに前向きに傾きつつあった。

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