[chapter:二] 宿泊モニターは飽くまでも特別任務のひとつであり、私的かつ浮ついた目的ではない。そう言い訳をするように、と波平行安がホテルへ向かったのは、すべての定常業務を終えた後、日没の直前だった。 ホテルがあるのはとある地方都市だ。こんな用でもなければ赴く機会は一生得られなかったであろう場所で、時間の都合上観光は叶わなかったが、久しぶりの現世、見知らぬ土地と新鮮な環境には胸を躍らせていた。 ホテルに到着したふたりは、まず併設のレストランで夕食を取った。食事には力を入れているらしく、土地の名産品を使った料理の数々は、本丸の美味な食事に慣れたたちの舌を唸らせるほどの素晴らしいものばかりだった。波平行安も、任務であることを見失うまいとはしゃぐを諫めながらも、馴染みのない料理を楽しんでいた。 惜しい点を挙げるとすれば、大浴場の利用が禁じられているところだろうか。現世にいる審神者の気配は歴史修正主義者に悟られやすく、指定の宿泊施設には特殊な結界が張られている。入浴時は大きな隙になるため、決して油断はしないように、と時の政府から釘を刺されていた。 食事の後、はフロントで手続きを済ませ、ルームキーを受け取った。 エレベーターに乗り込みキーをかざし、客室のある階のボタンを押す。真新しいつくりのエレベーター内は静かで、沈黙を際立たせた。 「……ごはん美味しかったね」 無言の空間に耐えられなくなったは、何気なく隣に立つ波平行安に声をかけた。 波平行安は、これが初めての現世渡航である。審神者や刀剣男士といったものの存在を知らない一般人の前では、本丸通りの振る舞いは違和感として印象に残ってしまう。不慣れな彼に、は「自分の隣にいて、無理に動かないで。あと主殿とは呼ばないで」と指示をした。 未だどう立ち回るのが正しいのか、掴みきれずにいる様子の波平行安は、の言葉に一拍遅れて返事をした。 「見たことのない料理が多く、新鮮でした」 「波平はあんまり本丸の外でご飯食べたことないもんね」 また今度、どこかに食べに行こうか。——そんな事を言いかけた時、軽快な音が目当ての階に到着したことを知らせる。扉が開いた先、進んだ廊下はエレベーター以上に静まり返っていた。 物音を立てることも憚られるような空間に、は思わず口を噤んだ。客室番号を確かめ、ルームキーをかざすと電子音が鳴る。その間も落ち着かなさそうにしていた波平行安は、がカードキーを握り直す間にドアノブに手をかけ、扉を開いた。 あらかじめ送っていた一泊分の荷物がバゲージラックの上にあるのを確認した後、客室を見渡したは、思わず声を上げそうになった。 「だっ……」 「主殿、どうかしましたか」 「っ……な、んでもない!」 客室の向かって左手側には大きな窓があり、美しい夜景が広がっている。窓の前には一対のシングルソファがラウンドテーブルを挟んで並んでおり、ホテルの案内とともにアンケート用紙らしき書類が置かれていた。 そして広い客室の中央には、大きなダブルベッドが鎮座している。 皺一つない完璧なベッドメイクが施されたそれに出迎えられ、は絶句した。頭の中の軍師が、気を利かせておきました、と言わんばかりにウインクをする。余計なことをするな、と叫びたくとも、ここにいるのは不思議そうに彼女の様子を窺う波平行安だけだ。 確かに、は波平行安との関係の進展を望んでいた。大所帯の本丸、生真面目で律儀な性格の恋人——様々な条件が重なり、ステップアップのきっかけを掴みきれないことを深く悩んでいた。が、いくらなんでも早すぎではないか。 モニター応募の手続きを任せた安宅切に「きちんと策は用意しておきますので、大船に乗った気持ちでいてください」と言われた事をは思い出す。大船には違いないが、とんでもない仕込みだ。これでは波平らかだろうがなんだろうが、が心穏やかでいられない。ふたりは今日、ここに来るまで手すら繋いでいなかった。 「主殿、羽織を」 「ど、どうも……」 部屋を見渡し悶絶し、立ち尽くしたのジャケットに波平行安がそっと手をかけた。 それを脱がせてもらうついでに、は波平行安の様子を窺う。その表情は平常通りのもので、動揺は一切見られない。海の家での件を考えれば、女として全く意識されていない、なんてことはないはずだ。 「ベッド、一個しかないね」 は恐る恐る、そう口にした。そんなつもりはないのに誘い文句のような音になってしまい、胸が擽ったくなる。果たして彼の反応は、とハンガーフックから振り返った彼の顔を見上げた。 「一晩程度でしたら睡眠を取らずとも動けますので、ご安心ください」 「え? まさか、寝ないつもり……?」 「現世に渡航しての試用ということでしたから、訓練も兼ねているのかと。違うのですか?」 「えっ……と」 予想外の認識の相違を目の当たりにし、冷や汗がの背筋を流れた。 恋人とのふたりきりの甘い時間をうっすら期待していたと違い、波平行安はあくまで護衛任務としてここへやってきている。ベッドがひとつでもふたつでも、任務である以上、休むという選択肢は存在しない。彼女が休んでいる間も、本丸よりも守りが手薄なこの場所で君主を守り切る——そのような覚悟でいるようだった。 は愕然とし、膝をつきたくなった。己の浅はかさにも、あまりに無欲な恋人にも。 「…………」 「主殿?」 波平行安は、の言葉を待っている。どうすべきか迷って——どうにか彼と離れるため、客室の出入り口とは別の扉へとふらふら向かった。 「お風呂に、入ります……」 「支度をしてまいります」 「じ、自分でやる! っていうかこういうお風呂の使い方、波平知らないでしょ」 「御心配には及びません。湯殿の支度も含め、現世の宿の作法については安宅切さんから指導を受けています」 「なぜこういうところだけ気が回るんだ……!」 結局は「こういうお風呂はお湯張りながら入るのが楽しいんだよ」と無理矢理波平行安を押しのけ、衣類が入った荷物を抱えて浴室へと閉じこもった。 服を脱いで体を洗ってからバスタブへと入り、湯を溜め始める。はバスタブのふちに頭をのせて目をつむり、体が湯に浸っていくのを感じながら、「風呂トイレ別なのはいいですね」とアンケートに記入する内容を考えて現実逃避をした。 なんとなくわかってきたことは、波平行安はを恋人として、異性として意識していないわけではない。ただ、女に惑わされ欲に溺れることを良しとしない薩摩の風土が、矜持が、彼を制するのである。 いくらお誂え向きの状況だとしても、任務中は私情に流されてはならない。薩摩の兵児にとっては当然のこと。それが、の欲を阻んだ。 「どうしたらいいんだろ……」 物思いに耽るうち、湯はバスタブいっぱいに貯まっていた。 が身じろぎをするだけで、溢れた湯が流れていく。排水溝に渦巻く湯をぼんやり眺めていると、眠気が襲ってくる。 あまり長湯をしては、波平行安に心配をかけてしまうだろう。身体を重ねるよりも先にこんなくだらない理由で身体を見られたくはなかったので、慌てて湯船から上がった。 の入浴の後、波平行安は「主殿と同じ湯を使うわけには」と渋ったが、「刀剣男士もお風呂の感想を書かないといけないっぽい」と架空のアンケート項目をでっち上げ、彼を風呂場へと押し込んだ。 数分後、バスルームから出てきた波平行安は、きっちり髪を結い直した状態であった。 髪は彼にとって心構えの現れであるらしい。非番の日は長い髪を下ろし、眼鏡をかけて過ごしているが、今こうして戦場と同じく結って出てきたということは、やはり身を清めた後も油断する隙を作らぬ、という意思表示なのだろう。 着ているラフな洋服は、篭手切江に用意を頼んだものだ。部屋のナイトウェアは使用せず、非常時に備え就寝時も外に出られる服を着るようにとの時の政府からの指示で、同じくもTシャツにジャージを着用している。 「それで、波平は……どうする? ベッド、使う?」 「私は立ったままでも問題ありません」 「あるよ! っていうか居心地悪い。せめて座って」 が窓際のソファを手で示すと、波平行安は言われるがまま、そこに腰を下ろした。 広いベッドはふっくらとしていて、いかにも寝心地が良さそうだ。勢いよく飛び込んで横たわりたい欲に駆られるが、背筋を伸ばした彼の前でだらけるのは気が引ける。はソファの前、ベッドの端に座った。 恋人同士、ふたりきりの夜とはまるで思えない緊張した時間が続いていた。 そのうちこの空気に耐えられなくなったは、こてんと転がるようにベッドに寝そべった。波平行安は急なの動きに驚いた様子で眉をぴくりと跳ねさせたが、それだけだった。 「こんなに広いんだから、一緒に寝ても平気じゃない?」 「主殿、軽率な発言は控えてください」 「軽率かなあ……」 ここで「恋人なのに?」と訊ねることを躊躇ってしまったのが、自分の弱さだとは思った。 場も状況も、何もかも完璧なはずだった。それでもこの鉄壁を崩すには足りない。それは己の色気か、勇気か——波に飛び込むように無茶なことをしたってよかったが、それは彼の大事なものを傷つけることにも繋がる。 大前提として、はただ色欲に身を委ねたいのではなく、波平行安に恋をしているのだ。好いた相手が重んじる矜持を退けてまで得たいとは、思えない。 ——叶うなら、彼自身に心から望まれたい。 しかし今は、のそんな願いは叶えられそうにない。諦めたは唇を尖らせ、身体を起こした。 四つん這いになって膝でベッドの端まで歩き、枕元にある調光パネルに手を伸ばす。ふて寝をしようと思ったのだ。つまみやボタンがいくつかあるパネルをあれこれ触りながら「どれかな……」と独り言をぼやき、なんとなく左右に身体を揺らす。 「っ、主殿!」 「え?」 すると波平行安は、突然勢いよく立ち上がって焦りを帯びた声でを呼んだ。 は調光パネルから手を離し、彼の方を振り返った。 「え、なに。やっぱ一緒に寝る?」 「……いえ。その、何でもありません」 「ん?」 波平行安はきまり悪そうにひとつ咳払いをすると、「もうお休みになられますか」と訊ねた。は頷き、部屋の照明を睡眠に最適な明るさに調整する。 思えば、外泊なんて何年ぶりのことだろう。審神者に就任したばかりの頃の講習会でホテルに泊まって以来だろうか。用があって現世に赴くことはあっても、必ずその日中に帰ることにしていた。現世での思い出は、あまりいいものばかりではなかったから。 ホテルのさらっとしたシーツに包まれて足の指を動かしていると眠気が襲ってくる。慣れた自室以外で眠れるものかと心配していたが、杞憂だったようだ。は心地よい微睡みに身を委ねた。 「……?」 眠りに落ちかけた意識が、暗闇の中で動く影を知覚する。他に誰もいるはずがない、波平行安だ。 何の用だろう、とは薄目で人影を見つめた。しかし次第に瞼の重さに抗えず、目を閉じてしまう。 半ば眠った状態の彼女の額に、手が触れる。躊躇いがちな指先はの前髪だけを僅かに撫でて、すぐに離れていった。 「どうぞ、よくお休みください」 穏やかな声に返事を出来たのかどうか、それすら曖昧なまま、は深い眠りに落ちていった。 [newpage] ぱちりと目を覚ます。肌に触れる慣れない感覚、いつもより暗い部屋——ああそうだ、ホテルに泊まっているんだったと、は寝ぼけた頭で今の状況を思い出した。 静謐な客室には人の気配がない。調光パネルに手を伸ばし、最初に触れたボタンを押す。客室の中央にある一番大きな照明のスイッチだったようで、一気に部屋が明るくなった。 「あれっ……?」 波平行安が座っていたはずの窓の前のソファは、もぬけの殻だった。彼が任務を放棄するとは考えられず、は首を傾げた。 ベッドサイドの端子から充電していた電子端末を見ると、時間は深夜三時である。部屋を明るくしてしまったせいかすぐには寝付けそうになく、何より波平行安の姿が見えないことが気がかりだ。 は思い切って、ベッドから体を起こした。音を立てないようにカーペットへと降りる。物音を立てぬよう、そっとドアノブを下げ、ドアを押し開こうとしたところで、何かにそれを阻まれた。 「どちらへ」 「わっ!? な、波平!?」 ドアの隙間から聞こえた声は、紛れもなく波平行安のものだ。ドアにぶつかったのは波平行安の身体だったらしい。彼はドアを開くと、怪訝な顔つきでを見下ろした。 「びっくりした……。起きたら部屋にいなかったから、どこにいっちゃったのかと。えっ、ずっと廊下にいたの?」 「はい。ですがご心配なく。敵の気配を気取り損ねることはありません」 「そんな心配はしてないけど、いないから驚いたよ」 ひとまず波平行安がすぐに見つかったことに、は胸を撫で下ろす。波平行安はそんな彼女を見下ろしながら、「それよりも、主殿」と棘のある声を漏らした。 「持ち場を離れたことは私の落ち度です。とはいえ、鍵も持たず、そのような格好で部屋を出るつもりだったのですか」 「えっ……、あ、本当だ。鍵、忘れてた」 波平行安の手元にはルームキーが握られている。けれど、鍵はもともとソファの前のテーブルに置いてあったはずだ。波平行安がそれを持って部屋を出ていたから忘れてしまっていただけで、置いてあれば持ってきていたはず——と言い訳を並べたくはなったが、今度は部屋を一人で出ようとした行動自体を咎められるに決まっている。なんとなく彼の思考パターンを掴めてきたは、「ごめんなさい」と大人しく謝罪の言葉を口にした。 波平行安はなぜ、部屋を出たのだろう。は抱いた疑問をそのまま言葉にするか迷っていた。不用意な問いが、彼の矜持を傷つけることにならないだろうか、と躊躇していた。 「あのさ、波平。私ちょっと眠れなくなっちゃったんだ。よかったら……お散歩しない?」 「散歩、ですか?」 「うん。私、ホテルって泊まるのすごく久しぶりなの。ドキドキしちゃって……。波平が着いてくれてるなら、安全でしょ」 「……そうですね。御伴致します」 迷った末の提案は、存外容易く受け入れられた。 が扉を閉めようとすると、波平行安が静止する。彼は扉を押さえたまま部屋に足を踏み入れ、ハンガーにかけていたジャケットを持って戻った。 「屋内とはいえ、この時間は冷えますので」 「ありがとう」 波平行安はにジャケットを着せ、自身も上着を羽織った。彼が静かに扉を閉める音を聞き届けてから、ふたりは廊下を進んだ。 他の客の眠りを妨げぬよう、口を噤み足音を殺し、長い廊下を進む。客室の多いホテルだが、さすがにこの時間ともなると他の客とすれ違うことはない。 エレベーターでフロントや共用エリアのある階へ降り、ふたりはホテル内を探索した。職員もバックヤードで作業しているのか、人の気配はするのに姿は見えない、不思議な空気が漂っていた。 当然ながらレストランは閉まっていて、フロントにも人はいない。好奇心から提案した散歩だが、あまりの静けさには悪いことをしているような気がしてきてしまった。 気の向くままに歩き回ること十分ほど。思いのほか歩ける場所が少ないことがわかったは、どこか行き場は無いかとあたりを見渡した。 ロビーの中心部には芸術的で大きなオブジェが飾られていて、それを囲むようにして高級感のあるソファが並んでいる。ここならば客室からも離れているし、少し喋っても迷惑はかからないだろう。 「波平、ちょっとあそこに座ろう」 彼は頷いたが、がソファの座面に腰を下ろしても隣に立ったままだった。 「波平も座ったら?」 「しかし」 「喋りにくいよ」 一度は渋った波平行安だが、審神者がソファの座面を叩くと「失礼します」とそこに腰を下ろした。 「波平、こういう任務って……ちょっと負担大きい?」 「そのようなことはありません。命じられれば、どんな任務であろうと遂行いたします」 「そうじゃなくって。現世の空気に馴染める子とそうでない子、いるからさ。ほら、さ……」 笹貫とかは得意な方——と言いかけて、口を閉ざす。半端なところで言葉を区切ったことで変に思われぬよう、「五月雨とかは、向いてるみたい」と続けた。 「五月雨さんは、忍びですから。こういった任務に長けているのも頷けます」 「あ、知ってるんだ。同じ部隊になったことはない気がするけど……。五月雨と話したりする?」 「はい。以前畑当番でご一緒し、この本丸の季語を教えて頂きました。主殿が就任されたときから大事に育てられている木や花があると」 遠くから様子を窺う限り、波平行安は笹貫以外の本丸の仲間とは上手くやれている様子である。件の事件があって心配していたものの、薩摩隼人らしい勤勉な姿勢は刀剣男士らに好意的に受け止められているようだ。 五月雨江は特に独特の感性を持つ刀だが、比較的穏やかな気性だ。見慣れぬ植物に興味を持つ波平行安に、五月雨江が本丸の季語について楽しげに語る光景は、用意に想像がついた。二振りが並んで季語を愛でている姿を思い描き、は口元を緩ませた。 「審神者になるまで、植物を見て季節を感じることなんてなかったんだけど……みんなに教えてもらって、好きになったんだ」 「薩摩では見ない植物も多く、勉強になります」 波平行安の意外な交友関係についての話題で、場が弛緩する。しかし、本題はそこではない。は「話を戻すんだけどね」と声を張った。 「ちゃんと言ってしまうとね、こういう任務で波平を指名したのは近侍だからってのもあるけど……その、どこかに泊まりにいくなら波平とがいいなって思ったんだ。でも、いつもより気を張ってくれていたみたいだから……。負担が大きいようなら、迷惑だったかなって」 「私の力不足故、そのように見えてしまったのであればお詫び致します。不慣れを言い訳にするつもりはありません」 「そ、そうじゃなくて!」 ふたつの視線が絡み合う。どこまで言葉にすべきか、葛藤の末——は波平行安から視線をそらした。 逃げた先は、彼が膝の上に置いた手である。長い指はほっそりとした印象を受けるのに、甲は大きく骨ばっていてたくましい。四角い爪が男性的で、爪紅を塗ったら映えそうだ、と思った。 「私の手に、なにか」 「えっ!」 「じっと見ておられたので」 熱視線への言い訳を探すも思い浮かばず、はしどろもどろになる。逃れたはずが、却って核心へと迫ってしまい、狼狽えた。 静かなロビーが、不思議そうに見つめる波平行安の眼差しが、ふかふかとしたソファの座面が、彼女を駆り立てる。逃げても隠れても、言い訳をしても、回りくどい策を敷こうとも——結局、同じ結末になってしまうのだと突きつけてくるように。 は勇気を振り絞って——指の先で、彼の手の甲を突いた。 「……主殿?」 「あっ、えっと……」 波平行安の手は滑らかだった。浮き出た血管を指の腹で押さえつける彼女を、波平行安はただ受け止めていた。 手を握りたいですと言うのも、触れたいですと言うのも不埒な考えが透ける気がしてしまう。そんな思いで取った行動があまりに幼稚だったものだから、は自分で自分に呆れてしまう。 大きな手は依然として、彼の膝の上でされるがままになっていた。 「ご、ごめん。変な触り方して……。嫌だよね」 「嫌、ということはありません」 「あ、そう……」 は手を引っ込め、膝の上で両の手を握り合わせた。落ち着きなく指を重ねたり擦り合わせたりしながらそれを注視していると、視界に別の大きな手——波平行安の手が映り込む。 「えっ」 波平行安はの手を取ると、指を絡めて握った。 「私はあなたの刀です。遠慮なく、好きに触れていただいて構いませんよ」 「な、なみのひら?」 「こうしたかったのではないのですか?」 は手を握り返し、首を縦に振った。手のひらの感触を必死に確かめようと握ったり開いたりする。がどんなに力を込めて握っても、決して折れたりすることのない逞しい手だ。 「えへ……」 「私の手が、そんなに面白いですか?」 「面白いから笑ってるんじゃなくて、嬉しいの。波平に触れるの……」 が思わず笑みを零すと、波平行安は首を傾げた。たかが手に触れただけ、握り合っただけ、こんな些細なことですら幸せで堪らない。そんな様子のが、不思議なようだった。 「……正直なところ、主殿とどのように接するべきか、計りかねていました」 「え?」 波平行安は、ぽつりと言葉を落とした。 「私の気持ちは、お伝えした通りです。この気持ちは一生、何があろうと変わることはありません」 波平行安の熱い想いが、手のひらを通して痛いほどに伝わってくる。は胸がいっぱいで、なぜだか目頭が熱くなった。 「ですが、刀と主——それも変わらぬ、私たちの間柄です。刀として、兵として、主殿が成すべきことを成すための駒。容易にその御身に触れるなど、あってはならないことです」 「そんな……」 「それでも、主殿へ焦れるこの気持ちを止める事は出来ません。己の責務も、主殿への想いも、どちらも生半可なものではないのです」 波平行安は、握っていた手をの手ごと持ち上げた。それを顔に近づけたかと思うと、の手を己の頬に当てる。思いの外柔らかい頬に手の甲が沈み込む感触は未知のもので、はその所作から目を離せずにいた。 試しているようだ、とは思った。己の理性を、に受け入れられることを。 「触れても、よろしいですか」 「もう、触ってるよ……」 「こちらに」 波平行安は、の手の甲を己の唇に触れさせた。湿度のある吐息が手の甲を滑り、ぞくりと身震いしそうなほどに高揚する。顔中が火照っているのが、触れずとも分かった。 が頷いたまま俯くと、波平行安が顔を寄せた。下ろした手が解かれ、有無を言わさず顔を上げさせられた。 刹那絡まった海色の眼差しはすぐに瞼に隠され、そうすることが作法であると教わるかのように、も同じく目を閉じる。やわい粘膜の表面だけが触れ合い、熱を分け合った。離れるときにわずかに音が立ち、名残惜しさを掻き立てる。 「波平……」 「はい」 「もう一回……」 今度はから瞼を閉ざす。するとすぐに、再び唇が重なった。離れた後、しばし見つめ合い——また口付け合う。それから数度口付けを繰り返し、は身を引いて照れくさそうに笑った。 「明日も本丸へ戻って、任務があります。そろそろ部屋で休まれては」 「そう、だね。うん……」 波平行安が差し出した手を取り、はソファから立ち上がる。波平行安はの手を離さぬまま、もう反対の手でポケットに仕舞っていたルームキーを取り出した。 部屋へ戻るまでの道中、手は繋がれたままで、は「これって本丸の外だから繋いでくれてるのかな」と考える。部屋の前へ到着し、ルームキーをかざして扉を開けるときにようやく手が離された。 波平行安に入室を促され、はそのまま部屋へと入り、ベッドに座る。波平行安はソファの前へと移動していた。 あれだけ熱い時間を過ごしたのだから、このまま一緒に添い寝くらいしてくれても——と淡い期待を抱いたが、彼にはその気はないようだ。口付けでいっぱいいっぱいになってしまったもそれ以上を求めることなく、大人しく掛け布団に包まった。 「明かり、消すね」 「主殿」 調光パネルを操作しようとしていたに、波平行安が声をかける。声がした方へ顔を向けると、ソファの前にいたはずの波平行安がいつの間にかベッドのそばにいた。 まだなにかある? ——そう問い返す前に、唇が塞がれた。 「……主殿の時代では、こういった習慣があると教わりました」 「か、偏った知識かも……」 どこで聞いたんだ、そんなこと! とは頭の中で唸る。情報の出所は、十中八九この場を整えた軍師だろう。大方、洋室の使い方と共に異国の伝統とでも尾鰭をつけて。 「作法を誤りましたか」 が掛け布団に顔を埋めると、波平行安は自分が不躾な真似をしたのではないかと不安げに訊ねる。暗闇の中、太刀の彼に見えているのかは定かではないが、は首を横に振った。 「作法とかはわかんないけど、嬉しかった」 波平行安がソファに腰掛ける音を聞いてから、は掛け布団を頭から被った。 唇に触れると、まだ熱を持っている。日の出までさほど猶予はない。少しでも休まなければと思うのに、なかなか寝付けそうになかった。