兵士だけで戦争が出来ないように、歴史を守ろうと懸命に戦っているのは何も審神者と刀剣男士のみではない。 時の政府には様々な役職の者がおり、その誰もが大役を負うあまり生活に制約がかけられている。そういった者たちがより暮らしやすくするための施設が、時の政府によっていくつか設立されていた。 そのうちの一つがここ、『時の大図書館』である。 審神者という職は、刀剣男士を顕現させるための霊力に加え戦場へ彼らを送り出すための采配力、そして膨大な知識が求められる。名だたる偉人や名刀の功績、伝説を知らずして本丸の長は務まらない。 加えて、時の政府の呼び声に応える刀剣は少しずつではあるがその数を増やしている。知識のアップデートは審神者にとって不可避だ。 ある程度の書籍は電子データとして本丸からもアクセス可能であるが、物によっては内容そのものが歴史を変えかねない。例えば、歴史の闇に葬り去られた伝記。後世に伝わっていないはずの物など、厳重に取り扱われる書籍が『時の大図書館』には集められていた。 刀剣男士の暮らす本丸は、彼らの過ごし易さを優先して馴染み深い武家屋敷を再現したような古めかしい造りをしている。 その反動か、時の政府の管理する施設はどこも近未来的な構造だった。真っ白な壁にスケルトン素材のエレベーター、凹凸のないネオンリングのようなボタンは、幼少期に観たSFアニメの世界観そのものだとは感じた。 審神者の意向を汲みこういった造りを採用している本丸もあるそうだが、自分はきっと落ち着かなくて一週間も暮らせないな、と思っていた。今の本丸の間取りや造りは、田舎にある彼女の祖父の屋敷によく似ている。 白すぎるあまり遠近感を狂わせる吹き抜けの天井を、は口を開けたまま見上げた。 最上には天窓のようなものがあるが、その奥の空が本物かどうかは見分けがつかない。本丸やこの場所をはじめとした時の政府管理施設は、歴史修正の影響を受けないよう時空の狭間に位置している。本丸の空も模造品で、気候を操ることが出来るのはそのためだ。 「主、首が折れるぞ」 その日の供を務めていた刀剣、鶯丸が彼女に声をかけた。 見上げるあまり彼女の体は半ば仰け反るようになっている。重心がぶれてよろめいた体を支えてやると、は鶯丸の顔に視線をやった。こちらも見上げる形にはなるが、あまりの遠さから不明瞭なほどの天窓よりははるかに近い。 「だってすごくない? 上の方登れるのかなあ。行ってみてもいい?」 「用はいいのか」 「ちょっとくらい探検しても怒られないよ」 は鶯丸を伴って、ある歴史書を探してここへやってきた。 時の大図書館へは審神者として正式に就任する前の研修で訪れたことがある。しかし当時は詰め込まれる知識をひとつひとつかみ砕くことに集中するあまり、こうして建物を眺める余裕などなかった。 目的の書物と遠く離れた項目のコーナーに向かうを鶯丸は止めなかった。滅多に来ることのない場所だから、まあ好きにすればいいさと干渉することないながらも、彼女から視線は離さない。 審神者はその身を守るため、半ば軟禁の様な生活を強いられている。自由に外に出ることも叶わないから、政府管理施設といえど目新しくてたまらないのだろう。 別の鳥の名を冠する太刀ではないが、退屈は人を殺す。夕餉が控えた時間とはいえ、急いでいるわけでもないと鶯丸ははしゃぐの背中を見ていた。 は書架を回り階段を上り、図書館内を探索して回った。本来の目的は疾うの昔に忘れ去ったという様子だ。 人の気配はのほかになく、鶯丸もこの場にそぐわない態度を咎める様な刀ではない。歌仙兼定あたりならきつく叱って目的を果たさせていただろう。 が幾つも並ぶ本棚の陰に隠れる。鶯丸は少しだけ歩調を速めた。 「何かお探しですか?」 が角を曲がると、これまで本棚が規則的に並んでいたのとは全く違う空間が広がっていた。 モニターがあり、壁と同じく真っ白な机と椅子が幾つか。そしてカウンターがあった。の知る図書館と同じく、『時の図書館』でも貸し出しの手順はそう変わらないようだ。 カウンターの内側には人影があった。と、同じく追いついた鶯丸も足を止めた。 彼は、真っ白な空間に一滴落ちた染みの様な彩だった。紺色のスーツを身に着けており、そういう形で生まれたかのように背筋をしゃんと伸ばしている。 「どなた……ですか?」 「藤と申します。この図書館の司書の役目を仰せつかっております」 「司書さん」 藤は恭しく礼をする。はその所作に頬を染めて見惚れていた。 彼女に身を寄せた鶯丸がの背を軽く叩く。 「主、司書に尋ねたらどうだ。探している本があるんだろう」 「あっそうだ!」 はぱたぱたと足音を鳴らしてカウンターへと近づくと、懐に入れていたメモを取り出して藤に見せた。藤はそれに目を通すと、「ご案内致します」とカウンターを出る。と鶯丸はおとなしくそれについて行った。 の目は始終藤の後姿を追っていた。穴が開くのではないかというほどに熱烈に見つめている。 藤は目的の場所へと辿り着くと本を取り出し、に手渡した。 電子端末で何か手続きを進めている。カウンターに戻らずとも貸し出しが可能だそうで、ハイテク技術にが感嘆の声を上げていた。 「すごいですねえ」 「恐縮です。『時の大図書館』の書籍は全てシステムで管理されております。くれぐれも返却日をお忘れなきよう宜しくお願い致します」 「はぁい」 図書館のシステムに関心しているのか、はたまた別の理由か。顔を綻ばせたに鶯丸が声をかける。 「主、そろそろ戻ろう。夕餉の時間だろう」 「あっそうだ! 藤さん、ありがとうございます」 「お役に立てたなら光栄です」 藤の顔が笑みを形取る。鶯丸は催促をするように、の腕を引いた。 図書館の出入り口へと足を向けてすぐ、が藤の方を振り返る。藤は笑顔のまま、を見送っていた。 本丸へと戻ると、転移門の前では内番服姿の歌仙兼定が仁王立ちで待っていた。着物をたすき掛けしてどこか所帯染みているが、般若の形相である。は「まずい」と顔を青くし、竦み上がった。 「主、随分と遅かったじゃないか。どこで油を売っていたんだい」 「ひいっ! ごめんなさい!」 「もう夕餉は出来ているよ。みんな待っている」 「はあい!」 はこれ以上怒られまい、と歌仙兼定の脇を抜け、夕食の待つ大広間へと駆けて行った。その背中に歌仙兼定は「きちんと手を洗うんだよ」と声をかける。 幼い頃から付き合いのあると初期刀である歌仙兼定は、父と娘のような関係性であった。審神者としては優秀な成績を残しているものの、礼儀作法に欠ける彼女をここまで育て上げた自負があるのだろう。を見つめる歌仙兼定の視線は厳しく、そして優しい。 歌仙兼定は鶯丸の方を振り返り、尋ねた。 「鶯丸、ところで本当はどこに行っていたんだい」 「図書館だ」 「それにしては長居がすぎるんじゃないか? 寄り道していたんだろう」 「いいや、図書館にしか行っていない」 が本丸を出てから帰るまで、二時間の時が経過していた。 いくら政府施設への入館手続きで時間がかかるとはいえ、「ちょっと本借りてくる」とだけ言って出かけたのである。物理的移動距離はそう遠くないことから一時間かそこらで帰るだろうと見送ったもののなかなか帰らず、歌仙兼定は内心気を揉んでいた。 鶯丸はのんびりしているが、実力は折り紙付きだ。トラブルに巻き込まれたところでの身に危険は及ばないだろうと信じて身を預けたが、少しばかり『のんびり』が過ぎるのである。 二人のことだから夕食の時間が近いことも忘れて甘味処にでも行っているんじゃないだろうなと歌仙兼定は疑っていた。 高い霊力と優れた感性から審神者としては優秀であるものの、彼女は落ち着きのない娘だ。座学を嫌い、大人しく本など読んでいられる性分ではない。図書館に長居していた、と聞いて歌仙兼定は眉を顰めた。 「そんなに面白いものでもあったのかい」 「ああ。俺も予想外だった」 鶯丸がの駆けて行った方向を遠い目で見つめる。そこにはもう彼女の姿はない。歌仙兼定はその先を追及せず、話を切り上げようと足をそちらに向けた。 「俺の主は新しいもの好きだな」 鶯丸の呟きは、誰の耳にも届かなかった。 夕飯は天ぷらだった。大皿にこれでもかと盛られた天ぷらが机の中央に乗せられ、各々それを奪い合う形式となっている。茶碗が丼に代わっていることから、一応『天丼』のていでいるのだろう。 一部の刀剣は「雅じゃない」「カッコいいとは言えないよね」と意見したい様子であったが、本丸全体としては「自分で品目を選べるので楽しい」と概ね好評であった。因みに考案者は御手杵と鯰尾藤四郎である。 大皿料理の日はいつものことだが、には甲斐甲斐しく世話焼きの刀が「召し上がっていますか」「主、これも食べな」「美味しいですよ」と食わせたがった。は塩をつけた大葉のてんぷらを小さく齧り、てんぷらの山を苦し気に見つめる。 「ごめん、今日あんまり食べられないかも」 は箸を置き、気まずそうにそう零した。食卓に着いてからしばらく経つが、の丼の中身はあまり減っていない。 「どうしたんだい主、体調でも悪いのかな」 「たくさん食わねば大きくなれんぞ」 「腹でも痛むか? 白湯を貰ってきた」 「主、もしかして天ぷら嫌いだったか?」 石切丸、岩融、巴形薙刀、御手杵とやたら大きな刀剣らが、を囲んで心配そうにのぞき込んでいる。大男に囲まれる少女の姿は、本丸の中でなければ異様に見えただろう。 「うーん、おなかじゃなくて……胸が痛い」 は胸を押さえた。 本丸に戻ってから――否、もっと前。図書館にいた時からだ。の体には異変が起きていた。 気分が高揚し、鼓動が激しい。喉が締まるような閉塞感があるがそれは苦痛ばかりでなく、どこか心地いいとも思える。美味そうに輝くてんぷらの山を見ても、腹は少しも鳴らなかった。 脳裏に浮かぶのは優しい微笑みだ。藤は、がこれまで出会ったどの男とも違っていた。 無骨な刀剣男士に囲まれているからか、彼が童話に出てくる王子様のようにキラキラして見える。刀剣男士にも一期一振のように王子様の様な気高く麗しい佇まいを持つ者がいたが、結局は刀の付喪神である。 「ふへへ……」 は奇妙な笑みを浮かべながら、だらしなくも座布団の上で横になった。 彼女の異常な行動を体調不良と見誤った巴形薙刀が慌ててその身を抱き上げ、の寝室へと運び込む。そうして呼びつけられた薬研藤四郎に話を根掘り葉掘り聞きだされ、彼女は「恋の病だな」と診断された。 は自室で古めかしい本を捲っていた。複製品ではあるが、長い歴史を思わせる劣化した表紙は決して手触りのいいものではない。それをは少女が憧れるトキメキ恋物語を綴った少女漫画を読むように恍惚と眺めていた。 中身はその表情に相応しくない、過去に起きた歴史的事件を綴った書物である。最近が歴史への干渉を察知し、時間遡行軍を退けた場所だ。報告書に一点気になる個所を見つけたは、正しい歴史を確認すべくその書物を探して図書館へ足を運んだ。 その結果、こうして恋に落ちたというわけである。 の部屋に本棚はない。すべて電子端末の中の電子書籍で事足りるからだ。ファッション雑誌も、漫画も、教科書も、何もかもがその中にあった。紙の本など幅を取るし汚れるしで邪魔なものだと思っていた。 しかし、今の彼女には何よりも素晴らしい宝物のように思える。電子なら返却の必要もないが、物があれば態々足を運んで返す必要がある。人によっては手間でしかないそれが、にとっては逢瀬の約束となっていた。 想い人が手ずから探してくれた本だ。藤はただ仕事をしただけとはいえ、彼女には運命的な瞬間だった。はそのひと時を何度も頭の中で思い返し、恋の甘さに浸っていた。 返却期限は一週間後である。ちょうど来週の同じ時間、鶯丸は非番だ。また彼を伴って図書館へ行こうとは計画立てた。 薬研藤四郎には話さざるを得なかったが、あまり広めたい話ではない。彼は口の堅い刀なので心配はないだろう。となれば、他に藤のことを知るのは鶯丸のみである。 鶯丸は本丸の刀剣の中では珍しく、放任的な人物だった。『物』であることから刀剣男士は主である審神者を慕うが、彼は表立ってそれを明らかにしない。口癖のように言う「他人のことなど気にするな」という言葉通り、審神者にあまり干渉してこなかった。 しかし、それを不満に思ったことはない。自分のことを気にかけてくれる刀剣たちは有り難くもあったが、一般家庭に生まれ育った彼女には少しばかり荷が勝ちすぎると思う瞬間もある。そういう時、鶯丸の自由奔放な気楽さは彼女の救いとなった。 かといって、彼もに無関心というわけではないらしい。最初こそ同郷の大包平にばかり気を取られのことなど気にも留めていないかと思えば、存外彼はをよく見ている。 それは長い間の付き合いを経て、少しずつ日々の会話の中からが感じ取ったことだった。他人に振り回されず己が道を行く彼の情は、少しばかり分かりにくい。 藤に出会ったとき、連れていたのが鶯丸で良かったとは思う。見放さず干渉しすぎずの距離は居心地がよかった。 にとって本丸の刀剣たちは従者であり助けの手を貸してくれた神でありながら父や兄に近い存在だ。身内に色恋沙汰のあれこれを知られるのは、年頃の少女には耐えがたい。 そうと決まればアポイントを取るのは早い方がいいとは自室を出た。どこにも行きようのない、逸る思いが彼女をそうさせていた。 大方縁側で茶でも飲んでいるんだろうとあたりをつけたは、ひとまず本丸をぐるりと一周回った。庭はよく手入れされており照明設備も充実していることから、夜といえど見応えがある。 しかし、目当ての一振りは見当たらない。代わりに出会ったのが、鶯丸が兄弟のようなものだと呼び面白がってよく観察している太刀、大包平だ。彼は首から手拭いを下げ、寝巻きで本丸をうろついていた。 「大包平、ちょうどいいところに。鶯丸見なかった?」 「鶯丸ならまだ風呂だが」 「ああ……長風呂だもんね。ありがとう」 はぐるりと方向転換し、刀剣たちのための大浴場へ向かった。 女性であるの部屋とと刀剣の居住区は離れて作られている。同じ建物なのに遠いなと改めて思いながらはその道を進んだ。 不寝番を除けば交代で湯浴みをする時間だからか、道中風呂上りらしき刀剣とすれ違う。がこの場所にいることが珍しいのだろう、彼らは不思議そうにその姿を見ていた。 脱衣所の前に辿り着くと、洗い立ての毛を撫でる小狐丸に出会った。彼はの姿を見つけると嬉しそうに微笑み声をかける。 「おやぬしさま、何か御用ですか?」 「小狐丸、脱衣所ってこっちだよね?」 「我らのでございますか? そうですが……ぬしさま!?」 は顔色を変えた小狐丸の制止も聞かず、脱衣所の扉をあけ放った。浴場から流れた湯気が漏れ、の視界が真白に染まる。誰かが風呂場に来たのだろうと何気なくそちらに視線をやった裸の刀剣たちの悲鳴が上がったのは、湯気が霧散した後だ。 「鶯丸いる?」 「ああああああるじ!?」 髪に塗布する油を手にしていた加州清光はそれを取り落とし顔を覆った。「今すっぴんなんだけど!」と恥じらう様を、特にどこを隠すでもない大和守安定に「そこ?」と突っ込まれる。 女人に見せるべきではないと肌を隠す者、動じず堂々としている者、寧ろ肉体美を見せつける者――これは千子村正だけであるが、反応は様々だ。 は「別に手入れの時に全部見てるんだけどな」と思いながら特に気に留めることなく、視線で人を探した。 「あ、鶯丸いた!」 「俺に用か、主」 「鶯丸さん! 服着てからにしてッ!」 全裸のまま呼び止めたの元へ赴こうとする鶯丸を、オフの時はかっこよくないのであまりに見られたくない派の燭台切光忠が引き留め、浴衣を引っ掛けた。 [[rb:男 > おのこ]]の下半身など嫁入り前のぬしさまに見せつけるべきではない派の小狐丸の誘導に引かれ、と鶯丸は脱衣所を出る。再び扉が閉まった脱衣所の中では刀剣たちの思い思いの声が漏れていたが、扉を隔てたには音がくぐもって聞こえなかった。 「あのね、来週の午後って暇かな? 図書館に本を返しに行くのをついてきてほしいの」 「かまわないが、俺でいいのか」 「うん。鶯丸がいい」 鶯丸は引っ掛けただけの着物を小狐丸がせっせと着付けるのを機にも留めず、と話をしていた。 もじもじと恥ずかしそうに言葉を紡ぐ姿は、見る者が見ればいじらしく愛の告白をしているようにも映っただろう。しかしながら事情を知る鶯丸は、露わになった片目をすっと細めた。 「拝命した。畑当番に当たらなければいいんだが」 「当たってたらさぼる気でしょ……とにかくお願いね」 鶯丸は「俺は髪を乾かしてくる」と脱衣所へ戻っていく。 自室へ帰ろうとするに、小狐丸が「お見送り致します」と後ろをついてきた。小狐丸の嫋やかな髪は時間をかけて手入れされているのだろう、歩くたびに毛束が揺れ、馨しい香りが漂った。 「ぬしさま、お供なら小狐めがいたします」 「えっ!」 刀剣たちの居住区を抜けたところで小狐丸がそんなことを口にする。 小狐丸と言えば、審神者の間では主好きで有名な刀剣だ。この本丸の彼も例に漏れずそうで、の役に立とうと買って出た。 しかし、には鶯丸でなくてはならない事情がある。大きな体を屈めてお伺いを立てる小狐丸の申し出を無下にすることは心が痛んだ。 「それはちょっと……えーと、あっ、小狐丸が嫌ってわけじゃなくてね……。どうしても鶯丸がいい理由があるんだ」 「小狐では及ばぬ役目でしょうか」 「そうじゃないんだけど……」 の目には、小狐丸の赤い瞳がウルウルと揺れているように見えた。 小狐丸が審神者想いであることを知っている。だからこそ連れていくわけにはいかなかった。審神者を深く慕っているほどこの役目は不向きである。 何と断ればいいだろうと考えこむあまり、は押し黙った。そんな彼女を見てか、小狐丸は「分かりました」と表情を和らげる。 「では他に何かあれば、この小狐めにご用命ください」 「うん。ありがとう小狐丸。ごめんね、気を遣わせて」 「いいえ、ぬしさまにも事情はございましょう。出過ぎた真似を致しました」 小狐丸の微笑みに、はつられて笑い返した。 話をしていると、の部屋に辿り着く。夕食を済ませてからずっと本を読んでいた彼女には、まだするべきことが山のように残っていた。 「ぬしさま、今夜はとても冷えますゆえ。どうか暖かくしてお休みください」 「ありがとう。小狐丸もね。おやすみ」 小狐丸に手を振って、は障子を閉めた。 湯浴みを済ませ報告書を作成し、日課である日記を書こうとは文机の前に座った。筆を執り、遠征の記録や食事のメニューをつらつらと並べる。それから文末に「好きな人ができたかもしれない」と綴った。 [newpage] その日は朝からしとしとと雨が降っていた。 は湿気で広がった髪と格闘し、念入りにヘアアイロンで伸ばしていた。次の遠征の件で話をしに来た燭台切光忠がその姿を見つけ、ヘアセットの手伝いをする。おかげで普段は飾り気のないの髪には結婚式に出席するかのような複雑なヘアアレンジが施されていた。 鏡を見て首を左右に振りながら、は感嘆の声を上げる。プロさながらの手捌きを語彙の限りに褒め称えれば、伊達男のかたちをした刀は照れ臭そうに頭を掻いた。 「燭台切ホントに器用だね、すごい」 「ありがとう。喜んでもらえてうれしいよ。ところで、そんなにおめかししてどこへ行くんだい? 鶯丸さんと出かけると聞いたけど」 何気ない燭台切光忠の質問に、の肩が跳ねた。 表情を強張らせた彼女は、鏡越しに燭台切光忠の様子を窺う。そんな反応をされると思っていなかった燭台切光忠は、やたらと様になった所作で首を傾げた。 「ごめん、聞くべきではなかったかな」 「イヤ……ううん。えっとね、図書館に行くの」 「図書館? 珍しいね」 「本を借りてるんだ。前の出撃の報告書で気になることがあったから、ちょっとね。貴重な本とかは電子で取り寄せられなくて」 「そうなんだ」 図書館に行くのにわざわざめかしこむ必要があるのか、という点について燭台切光忠は深追いしたりしなかった。 優れたコミュニケーション能力を持つ刀剣男士が揃う長船派の祖というだけあって、人の機微を察することに長けている。は燭台切光忠が真実とそう遠くない予想をしているんだろうな、ということを分かってながら口を噤んだ。 藤に会うのが待ち遠しくて堪らず、の上機嫌な様子は刀剣たちにも伝わっていた。「今日は随分かわいいね」と声を掛けられるのに、にへにへと満面の笑みで返事をする。 戦をするために集められた者ばかりが暮らす場所なので、手先が器用でを結えるような刀剣は限られている。燭台切光忠は他の刀剣たちから「主はどうしたの」と質問攻めにあったが、彼も返事を持たなかった。の想像通り色々と察していたものの、彼女の濁した事実に勝手な想像を交えて広めることは気が引けた。 昼食を食べてすぐ、は約束通り鶯丸を伴って本丸を出た。足取りは軽く、音の響く近未来的なつくりの廊下をスキップで歩いている。鶯丸は前と変わらず、一定の距離を保ちながらの後ろをついていった。 図書館に入館し、は一直線にカウンターへと向かう。以前と変わらず、藤はそこに立っていた。 の頬が桃色に染まり、瞳が輝く。気持ちを抑えきれず、今にも走り出してしまいそうだった。 「藤さん!」 「ようこそ。『時の大図書館』へ。本の返却でよろしいですか?」 「は、はい。これ、ありがとうございました」 は鶯丸に持たせていた手提げから本を取り出し、藤へと手渡した。本棚への返却は後程行うのか、モニターに触れて何か手続きをしている。「返却手続きは終了しました。ありがとうございました」と事務的な言葉と共に藤はお辞儀をした。 鶯丸が藤の顔をまじまじと見ると、藤はから彼へと視線を移す。緩く円弧の描いた唇は、先週と寸分の違いなく穏やかだ。 「何か御用でしょうか?」 「いいや、俺じゃない。この子だ」 背を叩かれたは、鶯丸を見上げた。彼は何かを促すように顎をしゃくる。の瞳は、緊張に揺れていた。手持ち無沙汰に手提げの紐を弄び、「えっと……」と言葉を漏らす。 「主、話がしたいんだろう。俺は傍で控えている」 「えっ!」 そう言うと鶯丸は言葉通りの元を離れ、すぐ近くの本棚の壁に寄り掛かった。の様子を見ることはできるが、言葉は届かないような距離だ。珍しく彼なりの気配りなのだろうと気付き、の顔が羞恥に赤く染まった。 「お掛けください」 「あ……。はい」 は藤に促され、カウンターのすぐそばの椅子を引いて座った。机の下で指先同士を擦り合わせ、ちらちらと藤の様子を見る。 この一週間、何度もこの日のことを考えて脳内でシミュレーションを行ってきた。 審神者という仕事は、同業以外と話す機会に乏しい。守秘義務項目は多岐に渡り、刀剣男士についてもその存在以外を語ることは禁じられている。歴史修正主義者のスパイは至る所に潜んでいるのだ。 そうなれば、と藤の話題はごく僅かに限られる。その中で頭を捻って話題を考えてきたはずなのに、の頭は真っ白になっていた。 「何かお探しですか?」 「あっ、えっと……しょ、植物の本を」 向き合った藤の問に、はついそう答えた。 準備していたのはもっと知的で上品な話題のはずである。しかし一度口をついて出た以上引っ込めるわけにもいかず、は何とか会話を続けようと嘘に嘘を重ねていった。本丸に木を植えたいだとか、畑の品目を増やしたいだとか、そういう話だ。 藤は頷きながらの言葉を聞き、的確に本を勧めていった。いくつかモニターに本を映し、二冊目ぼしいものを決めると該当書籍を扱う書架へと案内される。には気に掛ける余裕もなかったが、鶯丸は遠くでそれを見守っていた。 結局、は前回と同じく本を借りた。本丸から電子データの取り寄せが可能な、なんてことない園芸に関する本である。その手の分野に明るい桑名江にでも聞けばわかるようなことばかりがポップなイラスト付きで解説されていた。 持ってきた手提げの中の二冊分の逢瀬の重みを感じながら、鶯丸の元へ戻る。 「鶯丸、お待たせ……」 「話せたか」 「うん……」 帰りのは、口数が少なかった。鶯丸もお喋りな刀剣ではないので、わざわざ話しかけたりはしない。二人は沈黙を保ったまま、転移門までの道を歩いた。 「あのね、また来ていいかって言ったらお待ちしていますって言ってた」 はそう口にするだけでも一杯いっぱいのようだった。鶯丸は彼女の俯いてよく見えるようになったつむじを見て、「そうか」とだけ返した。 [newpage] はさらに一週間後、また図書館へ行く約束を早々に鶯丸と取り付けた。 藤との話題つくりのためか、熱心に畑仕事に打ち込んでいる。本を開いては、出たばかりの芽に異変がないかなど確認していた。 土いじりに熱心な刀剣たちは「主が畑仕事に興味を持つなんて」と嬉しそうだ。鶯丸は縁側でその様子を茶を飲みながら眺めていた。馬当番をさぼっていたので、相方の大倶利伽羅にひどく睨まれた。 藤と出会ってからのは、目に見えて様子が変わった。元々陰気な性質でもないが、より明るくなったと周囲に評されている。鶯丸もその変化は感じていた。 再び図書館へ向かう約束が近付いたある日、夕食後に膳を下げようとした鶯丸に歌仙兼定が声をかけた。彼は人気のない厨横の食材貯蔵庫に鶯丸を呼びつけると、声を潜めて尋ねた。 「君が護衛についているからと心配はしていないけれど……一体いつも図書館で何をしているんだい?」 遠くからはたちの楽し気な笑い声が聞こえる。 歌仙兼定はの行動を訝しむというより、不思議に思い身を案じているようだった。彼女をよく知る刀剣であるからこそ、その変化が気にかかるのだろう。読書の楽しさに目覚めただけならいいものの、彼にはそういう風に思えないようだ。 「話をしている」 「話? 一体誰と。待ち合わせでもしているのかい」 「いや、そうじゃない」 「あの場所は図書館というが、滅多に人は来ないだろう。僕も初期刀として何度か付き添いで訪れたことはあるけどね、いつも静かな場所だった」 「ああ、そうだ」 鶯丸の的を射ない返答に、歌仙兼定の眉に皺が寄る。普段から何を言っても暖簾に腕押しというか、碌に注意も聞く様な刀剣ではない。けれどに関してまで、こうも理由なくはぐらかすとは思えなかった。 「いつか話すさ。まだ浸っていてもいいだろう。楽しそうなところに水を差すんじゃない」 「……まあ、そうだね。最近の主は明るくなった。悪いことじゃあないと思っているよ」 これ以上鶯丸と話をしても無駄だと判断した歌仙兼定は、夕餉の後始末をするため大広間に戻った。鶯丸はらが楽し気に話をしている輪を盗み見、それから自室へ戻った。 が藤に出会って三週間が経った。 図書館に訪れるのも、これで三週連続である。は落ち着かないのか、しきりに鶯丸に話しかけていた。藤との会話の予行練習のつもりだ。ここ一週間で新たに植えた植物の名を指折り数えながら上げてゆく。 見慣れ始めた真白の廊下を抜け、図書館へと入館する。いつもは静まり返っている広い空間に、何か物音が響いていた。 先客がいるのだろうか。と鶯丸は顔を見合わせる。は一度手鏡で身形を確認してから、いつも通りカウンターへと向かった。 「あれ」 藤がいるはずの場所にいたのは、見慣れぬ中年男性だった。時の政府職員であることを現すパスを首から下げている。職員はを見て作業の手を止め、顔を上げた。 「おや、お客さんだ。珍しいですね。審神者の方ですか」 「は、はい」 藤に対しては希少なケースだったに過ぎないが、は人見知りのきらいがある。人当たりの良さそうな笑みを浮かべた職員に対し、怯えるようには一歩鶯丸との距離を詰めた。 「返却ですか?」 「はい……」 職員に促されるまま本を差し出しながら、の視線はそこらを彷徨い目的の人物を探し続ける。それに気付いた職員が、不思議そうに首を傾げた。 「何かお探しで?」 「えっと……藤さんって、今日はおやすみですか」 の瞳は心配そうに揺れていた。風邪か何かだろうか。それとも用事? 何事もなければいいがと不安そうな表情に、職員は少し思案する。それから合点がいったという様子で手を叩いた。 「藤さん……ああ! ここの司書システムのことですね。今日はメンテナンスですよ」 「ししょ……システム?」 の手が無意識に鶯丸の服の裾を掴んだ。鶯丸は露わになった片目で、少女を見下ろす。 「ええ。ここに立ってたスーツのヒューマノイドのことでしょう」 「ヒュー……えっ?」 「半年に一度メンテナンスをするんです。普段はあれがやってくれてるんですが、まあ誰もいないのはまずいってんで自分が来たんです。……返却処理しますね」 職員は話の片手間に返却手続きを始めた。藤がするよりずっと手間をかけて、バーコードを読み込み何かを入力していく。しばらく経って、「済みましたよ」と声を掛けられるまでは茫然としていた。 「主」 「…………」 「審神者さん? 大丈夫ですか?」 の背を鶯丸が優しく撫でる。彼女は焦点の合わない瞳で、鶯丸の顔を見つめ返した。 鶯丸はそれを痛ましげに眺め、目を細める。 「すまないが、主は体調が悪いようだ。失礼するよ」 「え、ええ。お気をつけて」 そこからのの記憶は酷く曖昧だ。彼女は気が付くと、通称審神者街と呼ばれる街の一角にある喫茶店にいた。 審神者と刀剣男士が多く利用することからその名がつけられているが、時間遡行軍との戦いに従事し生活に制限がかけられた者たちのための娯楽スポットである。入場には審神者の手続きが必要なため彼女自身の意志でここへ立ち寄ったはずだが、一連の行動は酷く朧げだった。 座席の半分ほどの客の入りの喫茶店で、鶯丸は茶を飲んでいた。知らない間に注文したのか、の前には巨大なパフェがある。およそ夕飯前に食べるべきとは思えないサイズだ。 アイスに生クリームに、白玉やウエハース、小さなブラウニーなんかも乗っている。腹持ちを考えると、恐らく完食すれば夕食は入らなくなってしまうだろう。 「食わないのか」 「…………鶯丸」 「食わないなら俺が貰おう」 溶け出したアイスがパフェグラスを伝い、テーブルを汚している。それを見かねて、鶯丸はパフェを手繰り寄せようと手を伸ばした。 「鶯丸、知ってたの」 「藤のことか」 「そう」 「ああ。知っていた——というより、見ていれば分かった」 の瞼が憐みを誘うように震えていた。 彼女ばかりが知らなかったのである。藤がひとではなく、ものであることを。それも刀剣男士のように心を持つでもない。ただのシステムに過ぎない。そうとも知らずに、は恋に落ちた。 どうして教えてくれなかったの、と尋ねようとして、は下唇を噛んだ。そして、言葉を飲み込む。尋ねるまでもなく、答えは決まり切っていた。 のためだ。この太刀がの誤解を知っていて尚、面白がって寡黙を貫くはずがない。そんな悍ましいことが出来るような刀ではなかった。 もしくは、彼女が物に恋をすることをよしとしていたのかもしれない。彼ら自身がそもそも物なのだから。人と物の間に横たわる、大きな価値観の溝だった。 ぐずっ、とが鼻を啜った。鶯丸が手にしたパフェスプーンを奪い取り、アイスを口にかきこむ。泣き腫らして温かい肌に、それはじわりと溶けていった。 「うっ、ううっ」 が涙と鼻水で顔を汚しながらパフェを食べ、それを刀剣男士が唯々見ているという構図は否が応でも人目を引いた。店員の女性が、心配そうにを見ている。鶯丸はそれ気にも留めず、の気が晴れるのを待っていた。 時間をたっぷりかけて食べたせいで、パフェグラスの底には糖度の高い液体が堪っていた。は口をチョコソースで汚したまま、顔を手で覆った。 「……つらいのは、藤さんが人間じゃなかったことじゃないの」 指の間から、涙に塗れた瞳が覗く。瞬きのたびに決壊し、雫が頬を滑っていった。 「気付かず好きになった自分が情けない」 のこころに未だ深く疼く傷は、『藤』という人物が存在しなかったことでも思いを伝える先を失ったことでもない。自分自身にだった。 物心ついた時から本丸という閉鎖空間に留まり、碌に人と接すことなく生きてきた。人ならざる者に囲まれて、己が何者かもわからなくなりそうな年月を過ごしてきた。 身の回りにいるのは自身が呼び出した刀の付喪神ばかりで、彼女の心の隙間を時折孤独という風が吹き荒ぶ。刀剣男士たちは皆に寄り添ってくれる。慕い、敬い、その身を粉にして働いてくれる。 けれど、それはが主であるからだ。 そこに心は、彼らの意志はあるのか? ものとしての本質がそうさせているだけではないのか? 彼らの優しさに触れる度、そう思う瞬間があった。 恋をして、は自身が人間であることが証明された気がしていた。このまま死ぬまで争いの渦中にあり、戦いにすり減って死んでいくだけの人生に意味が生まれたような、そう大袈裟なまでの思いがあった。 ——しかし、それすら誤りであったとするならば。 その事実は、の心を深い闇の底へと突き落とした。 濡れたの顔を、鶯丸の手が拭う。体液も溶けたアイスも混じって、とてもじゃないが人に見せられた顔ではなかった。それを鶯丸は、慈しむように見つめている。 「そう思い詰めることもない」 「……鶯丸にはわかんないよ。だって物だもん」 彼が彼なりに慰めようとしているのを理解していて、は冷たい言葉で突き放した。 刀剣男士たちは審神者に励起され、身と心を得ている。自由に動く身体を楽しみ、儘ならぬ感情に苦しむ姿を幾度も見てきた。 だから、彼らの心が作り物でも何でもないことをは分かっている。分かっていても、素直に受け取ることが出来なかった。所詮ものじゃないかと、残酷で利己的な感情でわざと鶯丸を傷つけようとしていた。 「そうでもないさ」 鶯丸はの尖った言葉を意に介さず、彼女に顔を上げさせた。は険しい表情で鶯丸を睨む。 彼は恨めしいくらい平素と変わらぬ様子だった。慰める気があるなら憐れむような顔くらいすればいいものを、とは心の中で八つ当たりをする。 鶯丸の親指がの唇を拭った。 「俺も刀の身で、主に惚れているのでな」 真直に鶯色の瞳がを貫いた。至近距離でそう囁き、一瞬時が止まったように錯覚する。が驚きの余り口を開くと、鶯丸は何事もなかったかのように離れていった。 「まあ、よくある話だ。あまり気にするな」 湯呑を手に、茶を啜る。やたらと休みたがって茶を飲みたがる刀だから、その姿は何十回も何百回も、ともすれば何千回も見てきた。そんな所作が、止まった時を何気ない日常の一コマであるかのように演出する。の手からパフェスプーンが零れ落ち、からんと音を立てて机を叩いた。 「ど、ういうこと?」 「……………」 「鶯丸、わたしのこと好きだったの」 「ああ」 彼にとっては何でもないことのように、鶯丸は肯定する。は差し出された想いをどう取り扱っていいか分からず、しばし硬直した。 「なん、……え? 今まで全然そんな……」 「困らせたいわけではないからな」 「困るって……」 「俺が気にするなといっても、主はそうはいかないだろう」 しばらく悩みぬいて、出てきたのは罪悪感だ。 鶯丸がひた隠しにし、知らなかったとはいえの行いはあまりにも残酷だった。彼女に想いを寄せる鶯丸を供に連れて、彼女の片思いの人に会いにいくだなんて。己のやった頃を自覚し、すっと頭が冷えていく。 「……ごめん」 「謝られるようなことじゃない」 「うん……」 仕えるべき主君に思慕の念を伝えたとは思えぬくらい、鶯丸は平然としていた。 結果的にではあるが、は冷静さを取り戻しつつあった。鶯丸の思いを知り、思考停止してはいられなくなったからだ。 それが良策であったかはさておき、先ほどのように茫然自失となっていた頃に比べれば幾分か気持ちは落ち着いている。混乱の余りそうならざるを得ないだけだが。 「帰るか」 鶯丸が席を立つ。もそれにつられて店を出た。 「晩御飯、食べられないかも……」 「俺から話しておく。藤のことも、話して構わないか。歌仙が気にかけていた」 「うん……」 二人は並んで転移門へと向かい、本丸へと帰った。 夕飯は洋食のようで、本丸に到着するとクリームシチューの香りが玄関から漂っている。彼らの帰りを首を長くして待っていたらしい歌仙兼定は、の顔を見るなり表情を変えた。鶯丸が「夕飯は済ませてきた」と勝手なことを言っても、咎めたりはしなかった。 は部屋に戻ってすぐ、湯浴みをして横になった。 泣きつかれたのか、知らない間に眠りに落ちている。帰った時はまだ夕日が覗いていたはずの空は、目が覚めると墨色一色だ。新月だからか薄暗く、星が瞬いていた。 眠りながら泣いていたのか、頬には白く涙の跡が残っている。濡らした手拭いで顔を綺麗にし、身なりを多少整えてからは自室を出た。 道中、何振りかの刀剣とすれ違う。彼らはが夕餉の席にいなかったことを知っていたため、心配そうに声をかけてきた。 は「ちょっと調子が悪くなった」と申し訳ないながらもはぐらかし、主思いの刀剣たちは会話も負担になるだろうと一言、二言交わすだけで話を切り上げた。 目的の部屋の前へ辿り着く。中からは光が漏れているから、留守ではないのだろう。は深い深呼吸をしてから、部屋の主に声をかけた。 「鶯丸、いる?」 「主か」 障子越しにくぐもった声が聞こえる。その奥で、鶯丸が立ち上がり、影が揺らめいた。その所作が縁側からでもぼんやりと見て取れる。障子が開くと、彼は寝巻の浴衣姿だった。 「こんな夜更けに男の部屋を訪ねるのは感心しないな」 「う、ごめん……。今日のこと、きちんと謝りたくて。上がってもいいかな」 刀剣たちの部屋は本丸の中である程度纏めて並んでいる。鶯丸の隣は大包平で、その隣は三日月宗近、小狐丸と太刀が続く。なんとなく彼らにここで話をしているのを見られるのを避けようと、はそんな提案をした。 「……茶でも淹れたいところだが」 「うん?」 「主、悪いが今日は上げられない」 鶯丸は首を横に振った。 彼の部屋はとにかく物が少ない。茶筒や茶菓子の箱の他には本棚に冊子がいくつか並んでいるだけで、綺麗に整頓されているというよりは散らかりようもないといった様だ。 何か不都合なのだろうかとは鶯丸を見上げる。無理して押し入る用でもないため、「わかった」と引き下がった。 どちらともなく、縁側に腰を下ろす。鶯丸の部屋から見える庭は整備が行き届いておらず、新月の夜は数メートル先を見渡すことも出来ないような闇だ。見応えのない一面の黒に顔を向けながら、は足を揺らした。 「あの、今日はありがとう。それからいろいろ迷惑かけてごめん」 「そのことか。ああ、気にするな」 「うん……」 の太ももに触れるような距離に、鶯丸が座っている。 普段ならば、別段気に掛けることもないことだった。古い時代を生きた刀ばかりだが、に触れると霊力が心地いいのか人としての距離間隔は常人よりも近い傾向にある。短刀なんかは特に見た目に精神年齢が引きずられることもあって、に抱き着いたりするのが好きだった。 だから、鶯丸と並んで座るときのこの距離とて何ら不思議ではなかった。ないはずだった。 しかし今、唐突に、体温が触れ合う場所が気になって仕方なくなってしまった。 鶯丸のことは、手入れの際に隅々まで目にしている。脱衣所に臆面なく突入出来るほどに、にとっては意識するまでもないことだ。 それが急に一体どうしたというのか。浴衣から覗く鎖骨と、湯浴みしたばかりのしっとりとした肌に視線が吸い付いた。彼特有の香りなのか、それとも何かつけているのか。平安文化に明るくないには判断がつかなかったが、良い香りが漂っている。小狐丸の毛や燭台切光忠の衣類から良い香りがすることはあったけれど、鶯丸から何かを感じたのは初めてのことだった。 ふと、太ももに載せていたの手に何かが触れる。視線を落とせば、鶯丸の手がを包んでいた。細く筋張っており美しい形をしているが、やはり刀を握る男のそれである。の心臓が一拍、大きく高鳴った。 「う、鶯丸」 「どうかしたか」 「それはこっちのセリフ!」 暗い夜でよかった、とは思った。汗を流したばかりの肌がじっとりと湿っていく。顔に熱が集まって、妙な心地だった。数年共に過ごし家族とも呼べる間柄の鶯丸に、緊張を覚えているのが理解できなかった。 「隠す必要もなくなったのでな。まあ、そういうことだ」 「どういうこと?」 はそう尋ね、鶯丸の方へ顔を向けた。そしてすぐ、それが過ちだったと知る。 「遠慮をしないということさ」 長い睫毛が、すぐそばに迫っていた。障子から漏れる光が鶯丸の頬を照らし、影の形すら美しい。は呼吸を忘れて、その様に見入っていた。 刀でも、神でも、従者でも、家族でもない。ただの男が、の瞳に映っていた。