問わない約束

現パロです。富田に元カノがいます。

 土曜朝のローカル番組で紹介されていた創作フレンチの店に対し、「美味しそう、行ってみたい」とつぶやいたのが先週の話、「例の店、平日なら予約が取れそうなのだけれど」と連絡を受けたのが一昨日の話だ。個人経営のこぢんまりとした店ながら評判は確かなもので、テレビで紹介された直後であることを考えるとそう容易に予約を取れるはずがないのだが、それを叶えてしまうのが富田という男だった。  物心ついた時から王子様のあだ名で親しまれていた、と本人が恥ずかしげもなく言うだけあって、容姿も稼ぎも性格も三拍子揃った有料物件である。自身、未だに自分と交際していることが不思議に思えるくらいのできた恋人だ。本来ならば、彼と同様に容姿も家柄も学歴も優れた女が相応しいのであろうその隣に、なぜか彼女は立っていた。  まあしかし、意思表示を得意としない彼が熱烈に伝えてくれる愛情を蔑ろにするような卑下は失礼だと弁える程度の常識はある。客観的に見て釣り合わなくても、相性がいいと感じているのだろう。彼はちょっと変わった王子様なので。そんな風に自分を納得させて、身に余るほどの愛を享受していた。  オフィス勤務のと違い、富田は時間に融通の利く仕事をしている。待ち合わせの時刻はの勤務時間に合わせて店の最寄り駅に定められた。  その日に限って定時ぴったりの退社が叶ったので、少し早く約束の場所へとは向かった。彼女が覗いたのは駅前のコーヒーチェーン店である。待ち合わせ自体は駅の出口を指定していたが、彼のことだから少し早くついてここで時間を潰しているのだろう、とは考えた。  自動ドアの前にある季節限定メニューの看板を横目で眺め、店の外からスーツ姿の客で賑わう店内の様子を窺う。店の奥で、美しい金髪に白いアウターを着た彼がカップを手にしているのが目に入った。は自分の予想が当たったことににやりと笑みを浮かべる。  しかし、店に入ろうとしたの視界にとんでもないものが飛び込んできた。富田の隣に座る女の姿だった。  富田が座っていたのは、壁に沿うように据え付けられたソファの隣に小さな円形のテーブルが置かれた小さな席である。女子高生なんかがそのテーブルを囲むようにふたり並んで座っていることもあるが、立地柄仕事の合間に立ち寄るサラリーマンの多いこの店舗では、一人分の座席としての使用を想定しているはずだ。大人二人がコーヒーを楽しみながら会話するには、少々手狭だった。  女は、机の合間に体をねじ込むようにしてソファに座っていた。人目を憚らずスキンシップを交わす恋人同士のような、余程親密な仲でなければあり得ない距離で富田へと迫るその様は、としてはちょっと看過出来ない光景だ。それと同時に、絵になる二人だと思ったのも素直な感想だった。  富田に引けを取らない美しい容姿は『彼に釣り合う恋人』の想像をそのまま形にしたようなものである。それもそのはず。の記憶違いでなければ、女はいつぞや写真で見た富田の元恋人であった。  いつぞや、重い口を無理に開かせて聞き出した話によると、中高一貫の男子校を親友とともに卒業し大学に進んだ富田は、当たり前のように女の先輩に目をかけられた。それが、今の視線をくぎ付けにしている美女である。  富田曰く、一方的に別れを突き付けられたそうだが、元恋人の試し行動を富田が真に受けてしまった、というのが同性であるの見解だ。女も、数年付き合った自分をこんなに容易く手放すとは思っていなかったのだろう。それからひと月が経たぬ間にと富田は出会い、関係を深め、今に至る。  は咄嗟に建物の影に隠れ、震える手でスマホを取り出し、電話を掛けた。コール一回ですぐに聞こえた声は、愛想を感じられない重低音である。が助けを求めたのは、富田の親友である稲葉だった。 「稲葉さん突然すみません、助けてください!」 「何の用だ」 「富田が! 元カノと密会してます!」 「は?」  怪訝な声に臆することなく、は今の状況を捲し立てた。女の特徴を伝えたところ、稲葉の知る富田の元恋人とも相違ないようである。稲葉は相槌も入れず黙々と話を聞き、「それで、なぜ我に連絡を」と訊ねた。 「なぜって……びっくりして?」 「……はあ」 「す、すみません」  電話越しの重いため息に、はさすがに迷惑だったかと反省をする。反射的に謝罪の言葉を口にした。 「何を臆することがある。貴様の恋人なのだから貴様が直接問質せばいい」 「え? じゃあ稲葉さんは彼女が男と会ってたら乗り込んで直接聞くってこと?」 「…………切るぞ」 「うそごめん! ちょっと待……ッ」  不意に、の肩を何者かが叩いた。思わず振り向くと、そこには見慣れてしまった恋人の美しい顔がある。電話している間に富田は女を振り切り、店を出ていたらしい。  国宝指定の彫刻に引けを取らない美貌はいつしかの日常に溶け込み、今では言葉を失うほどの完成された造形にいちいち感動することもなくなった。けれど突然それを眼前に突きつけられれば驚くのも無理はない。は思わず手からスマホを取り落とし、それはタイルを滑って富田の足元へと転がった。  富田は長身を屈め、スマホを手に取った。画面を見て通話相手を確認し、そのまま耳元へと当てる。 「稲葉、私だけど。うん。……ははっ、そうだね。うん、肝に銘じておくよ。それじゃ」  流れるような動きで通話を切り、富田はにスマホを手渡す。画面に傷がないことを確かめてから、はスマホを鞄に仕舞った。  彼女の背に手を添え、「行こうか」と富田が出発を促した。はそれに流され歩き出し、気づけば手を取られていた。 「えっと、今日はちょっと早く終わって」 「連絡をくれたら駅まで迎えに行ったのに」 「あはは……びっくりさせたくて」  そしたら、こっちがびっくりさせられたんですけども。そんな言葉は飲み込んで、は乾いた笑いを零した。  頬に当たる風が、動揺から滲んだ汗を乾かしていく。少し乾燥した空気が秋を感じさせた。  外はもう暗く、街灯が眩しく輝いている。近いうちに、街路樹には電飾が取り付けられるのだろう。去年の冬、まだ恋人ではなかった富田と見た景色をは思い出した。  季節の境目の寂しげな空気は、沈黙の気まずさを緩ませた。  電話口では密会なんて大仰な言葉を使ったが、その実疑うべきことなど何もないとは知っている。富田は聞いたこと全てに誠実に答えるだろうし、疑惑の芽をが全て摘み取るまでどんな問答にも付き合ってくれることだろう。しかし今、それをすべきことなのかには判別がつかなかった。  疑うべき事由があるならば富田はもっと上手くやっただろうし、それがなくの目についた以上彼に後ろめたいことなど何もないということだろう。ならば富田を無闇に責め立てても得られるものはなく、ただの八つ当たりに他ならない。  元恋人との偶然の再会なんてものは、彼に限らずにだってあり得ることで、立場が逆転することだって考えられる。そしてそうなった時、富田はきっと何も訊ねたりはしないだろうと思った。  浮ついた気がなかったことの証明なんて出来はしないのだから、問い詰めるだけ無駄なことだ。だから、の胸に渦を巻く憂鬱はひとりの問題である。  時が経てば忘れてしまうと分かっていても、複雑な心情は呼吸を浅くさせた。明らかに様子がおかしいに理由を訊ねないということは、少なからず富田にも彼女の胸の内は伝わっているはずである。  店までは徒歩十分ほどかかると聞かされている。地図も見ず富田に導かれるまま歩いているが、歩いた時間を考えればもうそろそろ着いてもおかしくないだろう。  せっかくの機会なのだから、こんな食欲を削ぐ悩みを頭に残したまま臨みたくはない。は意を決し、口を開いた。 「さっきの人、てさ。元カノだよね?」 「……うん。だから稲葉に確認を?」 「まあ、そんなところ」 「ごめんね、悲しい気持ちにさせてしまったね」 「悲しいっていうか……びっくりした。富田のこと信じてるし、心配もしてない、でも……」  でも——その先で言葉を詰まらせ、は足を止めた。  大通りを逸れたせいか、人通りは少ない。閑散とした夕暮れの中、街灯と道に面した店の明かりがパンプスにつるりとした艶を作っている。視界の端の富田の靴が、のほうを向くのが見えた。 「君がそんな顔をする理由を、私に教えて」 「富田が悪いわけじゃないから、八つ当たりになっちゃう……」 「構わないよ。私が知りたいんだ」  広い胸に飛び込みたい衝動を、ぐっと押し留める。頭の端には、膝の触れ合う距離で迫る女の姿があった。 「やきもち、なのかな……。嫌だった。分かってる、分かってるんだけど」 「無理に納得することはないよ。思うように口にしていいんだ」 「うん、えっと……」  富田は悪くない。わかってる、わかってるけど——彼に導かれるように、はぽろぽろと言葉にするのも躊躇うような本音を、拙く零す。まるで子供の泣き言だ。分別が付いた大人にしては幼稚な言葉を、富田は全て拾い上げた。自分でも言うつもりのなかった、それどころか自覚していなかった気持ちが溢れ出て、冷静を気取って俯瞰的な自分が頭の中で驚いている。ああ、そうだ。結局のところ—— 「めんどくさいって思われたくなかったから、言いたくなかったの」 「だから、我慢しようとしていたんだね」 「うん……」  このくらいならば、とはつないだ手をほどいて腕にしがみ付いた。顔を腕につけると、富田のジャケットが少しだけ濡れた。 「やっぱりめんどくさい?」  は小さな声でそう訊ねた。顔を上げずとも、彼が首を横に振ったのが分かった。 「君が話してくれないことが、私は一番苦しいよ」 「……そっか」 「落ち着いた?」 「うん」  富田の腕時計を盗み見ると、予約の時刻まで残り数分の所に迫っていた。がしんみりとした空気を振り払うように「遅れちゃう」とわざとらしく声を張り上げる。富田は「急がなくとも、もうすぐそこだよ」と微笑んだ。 「……できれば、あまり君の耳に入れたいことではないけれど」 「うん?」 「あの人とのことは、聞いてくれればなんだって答えるよ。気になる?」  富田は神妙な顔つきで、にそう訊ねた。は数秒考えて、首を横に振る。 「ううん、いい。それより、お腹空いちゃった」 「先日の件は片が付いたのか」  数日後。久方ぶりにと顔を合わせた稲葉は、富田が仕事の電話で離席した隙をついてそう訊ねた。  元カノ騒動のことをすっかり忘れ去っていたは、『先日の件』が何を指すか思い当たらず、首を傾げる。 「なんの話だっけ……」 「電話の件だ」 「ああ!」  ようやく思い出したは、にこりと笑って「解決しました」とピースを稲葉へと向ける。彼は面倒そうに顔を顰め、ため息を吐いた。 「これ以上我を巻き込むな。いいな?」 「その節は本当に申し訳ないと思って……」 「そうではない。あれが面倒な——」 「待たせたね。それで、何の話だったかな」  稲葉の言葉を遮り、富田が席に戻る。浮かべる微笑みはなんら変哲のない、幾千回『王子様スマイル』と呼ばれてきたそれだった。  稲葉はやりづらそうに眉を顰めると、に「分かったな」とでも言いたげに目配せをした。は事情が読めぬまま、その眼圧に屈し頷くのだった。

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