逆鱗の在処

 食い意地の張った者におかずを搔っ攫われても、水遊びの流れ弾で水浸しになっても、私物の茶器をうっかり割られてしまっても、富田江が怒りをあらわにすることはなかった。  優雅な微笑みはひとときも曇ることなく、天下一の江と称されるに相応しい余裕を崩さない。そんな様を見ているうち、戦場ですら声を荒げることのない彼が一体何に怒りを覚えるのか、は質の悪い好奇心を抱いた。 「富田って怒ったことある?」 「どうだろう、覚えはないね。ここの者は皆親切だから」  本刃に直接訊ねてみたが、答えはにとって物足りないものだった。その上「君の心がそうさせるのだろうね」と柔和な微笑を添えて褒められてしまったので、ただ審神者がニヘニヘと照れ隠しの笑みを浮かべるだけの結果となった。  しかし、はこれでは満足できない。その後も彼女は、方々に「富田が怒ってるところ見たことある?」と聞いて回った。  刀剣男士らの答えは当然否であり、付き合いの長い前田家ゆかりの加賀っこたちや、江のものたちも見たことがないという。最も富田江と親しく、共に過ごす時間の長い稲葉江には、「下らん」と一蹴されてしまった。  これ以来、は度々富田江にちいさないたずらをするようになった。  正座をしている彼の足の裏をつついたり、彼の髪ゴムをかわいいピンクのシュシュにこっそり取り替えたり、畑から取ってきた虫を突然見せてみたりした。結果はというと、行儀が悪いと歌仙兼定に審神者が叱られたり、乱藤四郎に「富田さん、かわいいっ!」と褒められているのを見かけたり、運悪くその場に居合わせた雲次にしばらく口を聞いてもらえなくなったり——とそんな具合で、やはり富田江の怒りを掻き立てるには至らない。  富田江は、のいたずらを咎めるどころか「君が楽しそうでなによりだ」と肯定する始末だ。富田江の寛容さを見かねた他の刀剣男士に「ほどほどにしなさい」と窘められ、これにはさすがのも反省した。以降いたずらをすることはなくなって、結局富田江の逆鱗の在処は分からず終いだった。  が「可愛い服を通販で買ったけど着る機会がない」とぼやいていると、富田江はそうするのが当然のように外出に誘った。最初から誘われ待ちのつもりだったは、満足げに頷く。翌日、仕事を午前のうちに片付けて、審神者と富田江は現世の街へと出かけた。  目的地は、以前から興味があった喫茶店だ。駅に面した交差点は人通りが多く、油断するとすぐにはぐれてしまいそうだ。改札を出てすぐにその光景を目にしたは、今からこの中に飛び込まねばならぬことを思ってめまいがした。 「人が多いね。こっちだよ」  人の流れに飲まれる前に、富田江はに手を差し出した。彼女は躊躇なくそれを握り、に導かれながらその少し後ろを歩くと、見事に人波が割れていく。  その場にいる誰もが、富田江の歩みを邪魔するまいと道を譲っているかのように見えた。彼ほどの国宝顔の王子様になると人ごみに揉まれることもないのかと、は衝撃を受けた。  誰にもぶつかることなく人混みを抜け、閑散とした通りに入る。富田江は「ここまでくればはぐれる心配はなさそうだ」と、振り返っての様子を窺った。 「富田って人混み歩くの上手いね」 「こういった場に出向く機会はなかなかないのだけれど、君の役に立てたのならよかった」 「だって、私一人で歩いてたらいっつも人にぶつかるもん。富田みたいに大きくないから、埋もれちゃって」  の言葉に、富田江は目を細めた。長いまつ毛の影が深くなって、刹那、高貴な顔立ちには冷たさが浮かぶ。ここにはない何かを疎むかのように、眉根が微かに寄せられていた。  彼が一体何にその表情を向けたのか、審神者にはまるでわからなかった。しかしそれは、見間違いだったと思わせる程の僅かな間に微笑みへと変わる。審神者が感じた違和感は、「それで、店の方向は?」と訊ねられたことで霧散した。  審神者はスマホを片手に地図を見つつ、もう片方の手を富田江に預けたまま、喫茶店へと向かった。  店に到着すると、運良く座席に空きがあったため、そのまま店内へと案内される。机を隔ててソファと椅子が向かい合った席に通され、審神者は躊躇いなくソファに座った。品の良い内装を眺めるのもそこそこに、審神者はメニュー表を真剣なまなざしで睨んだ。 「このお店ね、ミルフィーユが名物なの」 「みるふぃーゆ……それは、どういうお菓子なのかな」 「えっと……こう、クリームと生地が交互になってて」  審神者はメニュー表から視線を外さぬまま、身振り手振りをつけながら、富田江にミルフィーユの説明をした。それと、いかにこの店のミルフィーユが美味いと噂されているか、も忘れずに加えて。  せっかく来たのだから定番のものをまずは頂きたいところだが、期間限定品は次に来た時にはきっとお目にかかれない——そんな深刻な悩みが、顔にまで出ていたらしい。富田江はコロコロ表情の変わる審神者の顔を眺め、花が綻ぶような笑みを零した。 「そんなに[[rb:良 > よ]]い菓子なら、悩んでしまうのも無理はないね」 「うっ……ごめん富田、もうちょっとだけ悩ませて」 「君が迷っているのはこれとこれ?」 「そう……」  富田江の長い指が、審神者が幾度も視線を行き来させた写真を指差した。店員は何度か、こちらに視線をやっている。早く決めなければと思うほどに、甲乙付け難くなっていた。 「では私はこちらにしよう。気が変わったら取り換えても構わないから」 「えっ、でも……いいの?」 「君が選びきれないほどのものなら、私も興味があるよ」  ふたつのうち、富田江は定番品の写真を指さした。審神者は眉を下げ、彼の顔を見る。 「ありがとう」  遠慮や謝罪より先に出た謝礼の言葉を聞いて、富田江は満足そうに笑った。  注文したミルフィーユとドリンク二人分はすぐに届いて、ふたりはミルフィーユを分け合いながら談笑に興じた。  富田江は審神者に現世での過ごし方を訊ね、審神者は時間遡行軍の時の字も知らぬ能天気な学生だった頃の、取るに足らない思い出を語って聞かせた。  楽しかったこと、好きだった場所、仲が良かった友達のこと、苦労したこと、今でも忘れられない悔しい思い出——どんな言葉も、富田江の前ではするすると溢れ出た。  富田江は審神者の話に相槌を打ちながら、時折どこか別の場所を見ているような眼差しを見せた。それは店へ入る前、わずか数秒だけ見せた、彼らしくない顔つきによく似ている。本丸では見せることのない、間違いなく負の感情による表情の変化だった。  話しているうち、審神者ははたと気が付いた。富田江が胸を痛めているのは、彼女にとってはなんら特別なことでもない、日常にありふれた現世特有の世知辛い出来事についてだろう、と。  安寧に詰め込まれたストレスのクッションで窮屈な社会、平凡な若い女ひとりは、都合のいい憂さ晴らしの先となり得る。そういうものだと諦めた審神者と違って、富田江はそれを許せないようだった。  戦争の第一線とはいえ、本丸の空気は清浄で、刀剣男士らは審神者の誠実さを受けて善良な人柄に傾いている。露悪的な態度を取る者はおらず、どんな相手にも——たとえ異なる志しを持ち、剣を交える相手であろうとまずは耳を傾けようとする彼には、矮小ながら卑怯な悪意が理解できなかったのかもしれない。  審神者が自虐的に軽い口調で語った不幸に、富田江は笑ってくれなかった。それだけで、審神者はいかに彼がやさしい人物であるかを痛感する。彼女の興味本位のくだらない悪戯は何もかも許すくせ、理念も何もなく彼女を害するだけの存在は、たとえ過去のものであろうと看過できぬようだ。  そんな思考を傍に置きながら言葉を交わしていると、気づけば皿の上は空になっていた。時を惜しむようにゆっくりと減っていくカップの中身が無くなり、店の外に待ちの客が現れたのを見計らって、ふたりは会計をして店を出た。 「もし、こういった機会がまたあるなら、次も私を連れていってほしい」  帰路、富田江はそんなことを口にした。滅多にない彼からの要求を、審神者は即座に「もちろん。また行こう」と受け入れる。  現世での話をして、彼に要らぬ心配をかけてしまったかもしれないと、審神者は少しだけ後悔をした。けれど彼のことだから、きっと自分の知らないところで傷付く審神者を思う方が、余程苦しいと思うに違いない。  富田江から日々与えられるやさしさは、審神者にそんな思い上がりをさせるに十分なものだった。

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