Sink

曖昧

 審神者に就任する前の講習会で、「刀剣男士は人間に恋をしますか?」という質問をした者がいた。答弁者の答えは「刀剣男士は人間を愛しているから、そういうこともあるかもしれない」という曖昧なものだ。ないとは言い切れないが、全ての個体が人を人のように愛するとは言い難いのだろう。実際に審神者になり、本丸で暮らすようになってからは身をもってそれを感じている。
 たとえば、私は学生時代ずっと同じメーカーの同じ消しゴムを使っていた。他のものと比べて特別使いやすいわけではなかったけれど、無くしたり使い切ったりするたび、店頭で手を伸ばすのがそれだった。
 愛着とでもいうのか、消しゴムのような消耗品にもそのような感情は生まれる。だからきっと審神者が刀剣男士を愛するのと同じように、刀剣男士もまた自分を長く使っている者、として審神者を愛するんだろうな、なんて、漠然とした考えを持っていた。

 富田江という刀は、私が審神者になってから比較的遅くにこの本丸に顕現した刀だ。だが波長が合うというのか、私は彼を気に入って傍に置いた。
 癖の強い者が多い刀剣男士の中では温厚な性格であったし、聡明で伶俐だ。嫌なことも言ってこなくって、一緒にいて過ごしやすかった。
 それと、幼い頃に何度も繰り返し読んでいた絵本の王子様に、似ていた気がするのだ。十数年も前の記憶だから曖昧なことだけれど、彼の名乗った『江の刀の王子様』という肩書きが、懐かしい記憶を想起させたのかもしれなかった。
 富田江は私の話を聞きたがってくれるので、二人のコミュニケーションは主に私が話し、富田江が聞くというものだった。
 ただ耳を傾けるだけでなく、相槌の間合いも最適で、上手く私が話したいだろうと思われる方向に話を誘導する。気がつけば私は言うつもりのなかった詳細な話までを打ち明けていて、なるほどこれが交渉術かと、気付いた当時は感心したものである。
 そういう訳なので、私と富田江の関係は過ごした時の長さの割に深いものであったと思う。けれど名前をつけられるようなものではなく、はじまりの一振りのように特別な役割を持っているわけでもない。百数振りと並べてしまえば、ただ話す機会の多い一振りというだけだった。

 久々に数日間の帰郷の機会を手に入れた私は、疎遠になっていた知人らへと連絡を入れた。
 都合が付いた友人たちと会う算段を付けていると、連絡したグループチャットにいたある人物から個別に連絡が入った。数年前、私がまだひよっこ社会人だった頃の先輩に当たる男である。
 一時はかなり親しくしていたこともあって、あのまま関係が続けばどうこうなっていたのかもしれない。けれど、その前に私は審神者となり現世を離れてしまった。グループチャット内の知人複数名での飲み会の方にはどうしても都合がつかないが、なんとか二人で会えないだろうか、とのことである。
 私は、考えた末にそれを了承した。主な要件さえ終わってしまえば時間の自由は利く。何より、彼にはわずかに未練があった。
 審神者になってからは新たな出会いがめっきり減り、色恋の気配は遠ざかる一方だ。このまま審神者として一生を終えることになるならば、半端でちゅうぶらりんのままの関係性になんらかの終止符を打っておかねば、いざという時に後悔するかもしれない、と思ったのだった。

 手伝いを申し出てくれた富田江と共に荷造りをしながら、私は彼のことを話した。帰郷中は何をするのと尋ねられたから、ついでで漏らしただけである。
「昔好きだった人に会うんだ」と言えば、富田江は意外にも作業の手を止めた。「君にもそんな人がいたんだね」と言った彼の心は見透せない。一度たりとも、富田江の心を見抜けたことなどなかったけれど。
 ただどうしてか、そのことを気に留めてくれたことを嬉しく思う自分がいたのは確かだった。

 先輩との予定は、本丸へと帰る日の一日前の夜に立てられていた。
 万が一、何かあった時は一泊できるような段取りである。そんな予定の組み方をしている時点で自分が何を期待しているかは明白で、それでも希望は抱かぬようにと自分自身に言い聞かせていた。審神者になってから何年経ったと思っているのか、彼だってもういい人を見つけて結婚しているかもしれない。
 そんな想像に反して、待ち合わせ時間の少し前に現れた彼の左手は留守だった。
 二人がけで横並びに座るタイプの半個室は狭くて、どんなに詰めても動くたびに体の一部が触れ合ってしまう。店を選んだのは彼で、その事を妙に客観視している自分がいた。私だって、そのつもりで来たのに。
 本丸に軟禁状態の私に、出世して仕事を生き甲斐にしているものプライベートは疎かでと自虐混じりに語る彼の話は眩しかった。
 容姿のことに触れられて、変わってないなと言われたことがひどく息苦しい。表情や声色から褒め言葉のつもりで言ったのだろうことは伺えたけれど、自分はもうこの時代を生きていない人間なんだと痛感させられた。
 店を出る時間になって、彼は当然のように二軒目を打診する。ここに来るまでの私は、きっとこの場で頷くつもりでいた。
 私は態とらしく腕時計に目をやった。知ってる時間が知ってる通りに示されているだけで、何の意味も持たない。ただ、同時に指に飾られたファッションリングが目についた。
 本丸を出る前——荷造りの最中のこと。持って行く服全てにアクセサリーを合わせないといけないから悩む、と雑談混じりにこぼした私に、富田江が選んだものだった。
 アクセサリートレイから美しい指先がその輪っかを掬い上げて、「これはどうかな」と嵌めてくれた瞬間が蘇る。特別なことなんて何もなかったはずなのに、その時私の心はひどく高揚していた。
 それをなぜ、今思い出すのか。自分で自分がよくわからなかった。

 気がつけば、二軒目は断っていた。それどころかホテルへと戻って、荷物を引き上げて本丸へと向かっている。そこそこお酒も飲んで、疲れているはずなのに。自分が何をしているのか、もはやわかっていなかった。
 本丸へ戻った時には日付が変わっていた。帰りは明日だと——時間だけで言えば、もう今日だけれど——伝えていたから、出迎えがあるはずもない。
 静かな本丸に物音を立てないようにしながら施錠し、靴を脱ぐ。鞄が重い。もう寝るだけなら荷物をここに置いて、さっさと部屋に戻ってしまおうか——なんて考えていた時だった。
「おかえり。早かったね。帰りは明日だと思っていたよ」
「と……みた」
 ぺたぺたと裸足の足音がしたと思ったら、そこには富田江がいた。
 寝巻きの浴衣に羽織を肩にかけている。彼と同室の稲葉江は生真面目だから、同じ生活リズムで過ごす富田江も消灯時間には部屋に戻っているのが常だった。だからこんな時間に会うことになるとは思わず、僅かに面食らう。
「……なんか早く帰りたくなって。ごめん、荷物部屋に運んでもらってもいいかな」
「ああ。……少し酔っているね。まっすぐ歩ける? 手を貸そうか」
「私は大丈夫。それ結構重いよ。お土産も入ってるから」
 富田江は私が両腕で抱えた鞄を片手で持って、私に手を差し伸べた。ここに来るまでは一人で歩いていたはずなのに、そうされると寄りかかりたくなってしまって、結局私は背を富田江に支えられている。
 部屋に着いて、富田江が照明をつける。ベッドに傾れ込みたかったけれど、そうしたらもう起き上がれそうになかったので、私は床に腰を下ろした。
「荷物はここに置いておくよ。今水を取ってくるから、少しだけ起きていて。他に必要なものは?」
「大丈夫。ありがとうね」
 富田江が厨から持ってきてくれた冷たい水を飲むと、少しだけ酔いが覚めた気がした。
 彼は私の隣、けれど触れ合うことのない距離に座って、私の様子を伺っている。彼は私がじっと見つめていることに気付くと、「何かな」と小首を傾げた。その動きに合わせて、さらりと長い金髪が流れた。
「この時間に起きてるの珍しいなって……」
「そうだね。……少し、寝付けなくて」
「悩み事?」
「悩み——というよりは、考え事かな」
 富田江の言葉が、妙にらしくなく聞こえた。平素、彼が何かに思いを馳せている顔をしている時に尋ねても、その中身をはぐらかされてばかりだからだ。
 酔った勢いも手伝って、私は答えが返ってこないつもりで「何考えてたの」と尋ねた。富田江はじっと黙って、私の顔を見ていた。
「君が今何をしているかなって」
「……先輩と飲みに行くって言ってたけど?」
「うん。その事がすごく気になっていたよ」
「…………」
 顔が熱くなって、私は机に置いたグラスに再び手を伸ばした。
 もう半分ほどしかなかった中の水をすぐ飲み干してしまって、手持ち無沙汰になる。それを見た富田江が「足りないなら水差しを持ってくるよ」と腰を上げた。
 私は咄嗟に浴衣の裾を掴んで、厨へと向かおうとする富田江を引き止める。
「あのね、私も富田のこと考えてた」 


WaveBox
感想頂けると嬉しいです。