Sink

一片に手が届く

 
 風に揺れる桜の花は、まさに満開と呼ぶに相応しい。本丸で過ごす幾度目かの春、審神者は就任初日を懐古した。
 彼女が審神者になったのは数年前のこの季節だ。自らの本丸を与えられ、はじまりの一振りと共に見て回る中、桜の花に彩られた縁側からの景色に目を奪われた。元来花を愛でるほど情緒豊かな人物ではなかった彼女だが、この桜の木だけは取り分け美しく目に映った。この先何年続くか分からぬ戦に身を投じる不安を安らげてくれたこの花は、彼女の審神者人生の象徴でもある。
 富田江という刀が顕現したのも、奇しくも同じ、桜が満開になるこの時期だった。
 一年前は時間遡行軍との戦争に手を貸してくれる刀剣男士の内の一振りに過ぎなかった彼は、今や彼女にとってなくてはならない存在となっている。刀剣男士相手にこのような感情を抱くことへの葛藤を乗り越え、ふたりは今や想いが通じた仲だ。
 審神者は庭に舞い散る花弁に、彼がその身を得た瞬間を重ねた。この先のことなど分からぬ身、けれどこれまでと同様に歳を重ねていくならば、この花を見上げるたび、審神者としての時間だけでなく彼と共に過ごした一瞬一瞬に思いを馳せることになるのだろうと思った。
「ここにいたんだね」
「富田」
 庭の桜の木を見上げる彼女に、富田江が声をかけた。春の柔らかな陽射しを浴び、光を受けた髪が宝石のように輝いている。背に流した長い髪と共に、春風に彼の外套が揺れた。白い装束はより眩しく、審神者は目を細める。
「満開だね。花の元に人は集う——ここに来て、この花を愛でる人々の心がわかった気がするよ」
 一年前、その琥珀色の双眸は何の感慨もなく樹木のひとつとしてこの木を見上げていたはずだ。長いまつ毛に飾られた瞼の柔らかさに、審神者は胸が締め付けられた。
 彼女にとっては数年間の内の一片なれど、この富田江にとってはこの一年がすべてだ。審神者は彼の心の移ろいと共に、時の重みを感じた。
 ふと、散った花冠かかんが富田江の髪を彩った。
 木から落ちたばかりなのだろう、五つの花弁がきれいに揃ったそれは、偶然にも耳にかけた毛流れに沿って引っ掛かったこともあり、天然の髪飾りに見えた。思いがけず可憐な姿になった富田江を見上げ、審神者の頬が緩む。
「富田、ちょっと」
「うん?」
 審神者が手で彼に屈むように示すと、富田江はそれに従った。長身の彼が背を丸めても、背伸びをしなければ審神者の腕は頭に届かない。地面を蹴って身を伸ばした審神者の指先が、彼の頭から春を攫った。
「これついてた。かわいくなってたよ」
「風で飛ばされてしまったんだね。ありがとう」
 審神者ががくを摘んで富田江に花冠を手渡そうとしたところ、ひと際強い風が吹く。花冠は風に舞い上がって、ふわりとどこかへ飛んで行ってしまった。ふたりの視線は空を舞う花をしばらく追っていたが、風が落ち着くと共に顔を見合わせた。
「……どっかいっちゃった」
「風が強くなってきたね。中へ戻ろうか」
「うん」
 審神者が先を歩き、ふたりは縁側へ向かって歩いた。ふと振り返った審神者は、富田江の足が止まっていることに気がつく。彼は木々を見上げていた。「富田?」と声をかけると、彼はハッとして、ややあってから彼女の元へと歩いてきた。
「どうしたの、なんかあった?」
「この花が美しいことを教えてくれたのは君だったことを思い出して」
「ん? そうだっけ……そうかも」
 富田江の詩的な言葉がピンと来ず、審神者は首を傾げた。確かに彼がこの本丸にやってきたその日も丁度桜が満開であり、浮かれた彼女が「うちの桜、すごく綺麗なんだよ。見て」と障子を開け広げたことを覚えている。
 だが、それほどまでに心揺さぶられるような思い出だったかと訊ねられると否だ。身も蓋もない話、当時の富田江はただ人々から美しいと呼ばれる桜を目にした、その程度の捉え方をしているようであった。
「私はこの一年で、この花の美しさを愛でる心だけでなく、美しいものを見て誰かに伝えたいと思う心を君から教わったんだ」
 審神者は富田江の言葉に、ぱちりぱちりと瞬きをした。
 彼の心は見透かせない。一年が経って、数々の言葉を交わし時を重ね、どれほど距離を縮めても、富田江の本心らしいものを掴む手応えを彼女は知らなかった。
 けれど今、その一片に確かに指が掛かった心地がした。心の内側を語らぬ彼が、僅かにその想いを露わにしている。その事実をひたりと噛み締めて、審神者は心を掴まれた心地でいた。
「他にもあるよ、綺麗なもの。全部富田に教えてあげる」
「そう。では私も、必ず君に知らせよう」
 願わくば一年後、再びこの木を見上げその美しさを伝え合えることを願って。


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