この本丸の審神者であると富田江は、不思議な星の巡り合わせとでも言うのか、彼がその身を得てすぐ、まるでそれが正しいかのように相思相愛の仲となった。 この本丸発足以降初めての少し遅いの春を、刀剣男士は柄を握りながら眺めていたが、富田江が見た目通りの紳士な王子様であることが明らかになってからは、その視線の鋭さも幾分か和らいだように思う。そんな訳で、先の見えない時間遡行軍との戦いの中、武器と恋し慕い合うという歪な関係ではあったけれど、二人の関係は末長く幸せであれ、と温かく見守られていた。 そんな二人の関係に亀裂が入ったのは、富田江が顕現して一年が経とうという早春の頃だ。 富田江の出陣が無くの都合が許す夜は、ふたりはの寝室で眠っていた。も富田江も良識的な人物であったために本丸の風紀が乱れるということはなく、稲葉江が笹貫に「一人の寝床はどう?」なんて揶揄されて疎ましがっていた以外は何ら問題もなかった。 そんな最中、が突然「明日から寝室には来なくていい」と言い出したのである。富田江も富田江で「わかったよ」と言って特に理由を追及せず、以来富田江は稲葉江とふたりで使う私室で眠っている。これに異議を唱えたのは張本人である富田江ではなく、江の刀たちであった。 「富さん、主になんかしちまったのか?」 「特に気分を損ねた覚えはないけれど」 「富田せんぱいが人にそんな思いをさせるなんて考えられません。主に何かあったとしか……」 江の八振りは篭手切江と豊前江の部屋に集まって、腕を組んで頭を捻っていた。個性豊かで各々が異なる人の身の楽しみ方を心得た彼らだが、こういう時の結束力は他の刀派には劣らない。皆真剣になって、富田江との恋路の行末を案じていた。 最初は富田江との関係に何かあったのではという線を探っていた彼らだが、ここのところ本丸内を歩いている姿もあまり見かけない。それどころか短刀が「最近主様と遊べなくて退屈です」なんて言い合っている姿も見られたことから、富田江だけでなく他の刀も遠ざけているようだった。 「そういえば、主って去年もこの時期に体調を崩してなかった?」 「そうだっけ?」 ふと思い出したように言ったのが桑名江、その顔を覗き込んだのが村雲江だ。桑名江は「確か、去年植え付け準備をしてた頃に主が辛そうにくしゃみをしているのを見かけたよ」と続ける。 「頭はご病気なんでしょうか」 「ならば他の刀が黙っているはずがないだろう」 「確かに。風邪をひいてしまった時はいつも歌仙が看病しているようだけれど、その様子もないね」 江の刀たちは再びうーんと唸った。話し合っているうちに夕飯時になり、本丸中に知らせて回っていた今剣が部屋に顔を出し「ゆうげのじかんですよ」と言う。それを聞くと途端に空腹感が襲ってきたのか、八振りはゾロゾロと部屋を出て食堂へと向かった。 深夜、皆が寝静まった頃に富田江は目を覚ました。 人の身を得てすぐの頃は眠りが浅く、よく意識が覚醒してから夜が明けるのを待っていた。確か、一緒に寝ようと誘われたのはそれが理由ではなかったか。富田江は約一年前のことを思い出す。並んで横になると大抵彼女が先に眠りに就いてしまったが、すやすやとした安らかな寝息は富田江の眠気を誘い、彼女の隣ではよく眠れた。 と共に枕を並べる関係となる以前、眠れないときはどうすればいいかと尋ねると、人の身としては先輩である篭手切江は「眠れなくなった時は温かい飲み物を飲んだり他に起きている人と話したりすると良いですよ」と助言をした。同室の稲葉江はぐっすりと静かに眠っている。明日に出陣を控えている彼を起こすわけにはいかないので、富田江はひっそりと部屋を抜け出した。 温かい飲み物とは何を飲めばいいんだろう。足音を殺して厨へ向かいながら、富田江は思案する。や見目の幼い加賀っ子が眠れないと溢した日には、温めた牛乳や現世の叡智であるところの粉末スープなどを作って飲ませてやる彼だが、こと自分のこととなるとそういった発想に思い至らない。一旦熱湯でも沸かしてみるか、なんて考えていた。 厨に着くと、予想外に灯りがついていた。ズボラな刀が多い一方で几帳面な刀も同じだけ多いこの本丸では、照明を消し忘れることは珍しい。自分と同じく眠れない刀でもいるのだろうか。ならば話し相手になってもらえるかもしれない、と富田江は歩速を速めた。 「おや、君も起きていたんだね」 小さな後ろ姿を見間違えるはずなどない。厨にいたのはであった。富田江は無意識に声に喜色を滲ませた。 の耳にその声は届いたはずだが、彼女はびくりと肩を震わせて彼の方を振り向かない。何かあったのだろうかと、富田江はに近寄って顔を覗き込んだ。 「どうかしたの」 「わ゛っ、とみ゛た、ま゛って」 上げられたの顔は涙で濡れていた。それどころか、顔中が体液まみれである。富田江は驚き、は慌てて顔を覆った。「見ないで」とくぐもった声は手に遮られているからだけではないらしい。は顔を片手で覆ったまま、何かを探すように手を彷徨わせた。 「何か探しているの?」 「ティッシュ、ティッシュ取ってください゛」 「これでいいかな」 富田江は冷蔵庫の扉にマグネットで取り付けられたティッシュケースを外して彼女に差し出してやる。彼女はティッシュを三枚ほど引き抜いて、顔中の体液を拭った。 「ごめん、見苦しいところを……」 「気にしないで」 喉がまだ苦しそうな彼女を見かねて、富田江は冷えた水をコップに注いでに差し出す。彼女は礼を言って、ごくごくと一気にそれを飲み干した。 「とても苦しそうだったけれど、体調が悪いの?」 「体調と言いますか、体質と言いますか」 は人の身一年生の富田江に、花粉症の怖ろしさを語って聞かせた。 時空の間にある本丸は自由に四季を設定できるが、は現代の暦に合わせ季節の移ろいを楽しんでいる。それがゆえに、本丸にいても花粉の猛威からは逃れられなかった。今年は特に季節の催しに夢中になるあまり薬の申請が遅れてしまい、まだ症状を抑える薬が彼女の手元にないという。故に彼女は部屋に籠もりきり、症状がひどくなる朝晩の顔を恋人に見せまいと寝床を分けたいと申し出たわけだった。 「君がつらいなら景趣を変えたっていいのに」 「毎日気温測って野菜の植え付けができるようになるのを待ってる桑名の前でそんなこと言えないよ。それに、みんなお花見とかも楽しみにしてるし。私も薬さえあれば春って結構好きだし……」 話しているとまた鼻水が垂れてきたらしく、は富田江の手元からティッシュをシュッと取ってズッとかんだ。なるほど、これが四六時中続くとなるとさぞ辛かろうと、症状のない富田江でも想像できる。 「今は大丈夫だけど、朝起きたら目やにでまつ毛がくっついて目が開かない時もあって、こすっちゃうから腫れるし、富田にこんな顔見せたくないし、ずっと鼻かんでるからうるさいし、ぶっちゃけ一人の時はずっと鼻にティッシュ詰めてるし、ごみ箱は男子中学生みたいになってるし……」 花粉症の辛さを嘆いてか粘膜に触れた花粉を洗い流そうとする生理的な反応か、の瞳から涙が零れる。富田江はそれを背中をさすってやりながらティッシュを差し出すことしか出来ない。それがひどくもどかしかった。 彼女の望みならどんなことにも応える覚悟のある富田江だったが、さすがの彼も自然を前にすると無力であった。ここら一体のスギやらヒノキやらをすべて切り倒すわけにもいかず、現実的に富田江に出来るのは、薬の支給を認可する担当者へ交渉し早急な対応を働きかけることくらいだろうか。 「そういえば、ずび、富田は何でこんな時間に?」 「目が覚めてしまってね。篭手切に温かいものを飲むといいと教えてもらったから湯を沸かそうと思ってきたんだ」 「ええ、そうだったの。ごめんね、汚いもの見せちゃって」 「君が気に病むことはないよ」 ここのところ君と会えていなかったことが気がかりで眠れなかった、なんて本心を言えば、困らせてしまうだけだろう。そう判断した富田江は言葉を飲み込んで「君がつらい思いをしているときに一人にしなくて良かった」と額を寄せた。 はその言葉に固まって、手にしていたティッシュを握りつぶす。おや、と富田江がその顔を窺えば、真っ赤にのぼせ上っていた。 「……どうかした?」 「と、富田のそういう感じ久々に聞いたから、照れてしまい、耐性が」 「はは、それは困るね」 「困るの?」 「思うように気持ちを伝えられないのは寂しいものだ、と君と離れて知ったから。……今の君には口付けをしても苦しい思いをさせてしまうだろう」 「へ、へへへ……」 久々に恋人とふたりきりになりときめきの許容量を超えたは、不気味な笑い声をあげるしかなくなって、富田江に撫でられるがままであった。久々の深夜の逢瀬は離れがたいものであったが、これ以上長引いては翌日に差し障ると、ほどなくして互いの部屋へと戻った。 いつもは同じ時間に目を覚ます富田江が起床するなり身支度を済ませていたのを見て、稲葉江は驚いた。「おはよう、稲葉」と笑う彼の表情は晴れやかだ。片割れが感情を面持ちに滲ませるのは珍しいことであったが、稲葉江は別段その[[rb:理由 > わけ]]を尋ねたりしない。この男がこんな腑抜けた顔を見せるのは、主に関することに決まっていたからだった。 その日の昼下がり、久しく本丸で顔を見なかったの姿を稲葉江は見かけた。共に歩いていた富田江に「今日やっと薬が届いたの!」とマスク越しにもわかる笑顔を見せている。やはり病であったのか、と彼女の異変の理由を理解すると共に、鏡合わせに自身と同じ黒子の並ぶ顔が締まりなく緩んでいるのを見て、稲葉江は人知れずため息をついた。春、桜のつぼみが膨らみ始めていた頃であった。