恋の手触り
厳しい寒さも和らぎ、春の訪れを感じさせる日。審神者は開き始めた蕾を見ながら、一年前を思い出す。刀剣男士・富田江の顕現の瞬間だ。
審神者業が板についてきた頃のこと。まさか自分が刀剣男士と恋人同士になるとは彼女自身も想像していなかったが、ふたりは何かに導かれるように自然とその関係に収まった。
努力家で生真面目な彼女に訪れた春を、彼女に仕える百数振りは歓迎した。富田江もまた主君の恋人であるという立ち位置にあぐらをかくことなく、生来持つ人の良さからふたりの関係は好意的に受け入れられている。
戦の渦中、主君であろうとも若い娘だ。恋の花が開く喜びも知らぬまま散っていくのはあまりに忍びないと、長い年月を見てきた彼らは思ったのだった。
本丸では数種の野菜や果物が栽培されており、四季折々実ったそれらを楽しむことができる。桑名江が顕現して以降は特に加速的に開墾が進み、完全自給自足とは言わないまでも本丸の家計を助ける程度には農業が盛んだった。
その日はおやつの時間に、収穫されたばかりのいちごが振る舞われた。十分実が大きくて甘いものの、桑名江としてはまだまだ改善点があるようで、何かを考え込みながらノートに書き出している。種類の違ういちごをいくつか育てているようで、もうしばらくはおやつの時間にいちごを食べる機会が増えそうだと審神者は思った。
「美味しかったぁ」
審神者が自分の皿に取り分けられたいちごを食べ終わり満足そうにしていると、不意に隣から口元に手が伸びた。
「えっ?」
「私はもう十分楽しんだから。君に」
唇にいちごが差し出されている。富田江の皿のいちごはまだ半分ほど残っていた。対面に座っていた乱藤四郎が「きゃあ♡」と声をあげ、包丁藤四郎が「ひゅーひゅー!」と囃し立てた。
「い、いいよ。富田の分だし、ちゃんと食べて」
「私は君の美味しそうな顔を見られたらそれで満足だよ」
人前ということもあり一度は辞したが、富田江は引く様子がない。おずおずといちごに一口齧り付くと、自分の手で食べたものよりもずっと甘い気がした。
仮にも家族同然の刀の前でこんなことをするのはどうなのだ、と思いながら彼女が周囲を見渡すと、刀剣男士らはにやにやと微笑ましげに審神者を見ている。それが恥ずかしくて堪らず、審神者は富田江の手から食べかけのいちごを奪い取ってぱくっと口に放り込んだ。
「おや、取られてしまった」
「お、お腹いっぱいになった! 富田が恥ずかしいことするから!」
「ふふ、ごめんね」
審神者はいちごよりも甘酸っぱい空気に耐えかねて席を立つ。部屋を出てすぐ、富田江を冷やかす声がわっと沸いたのが聞こえた。
私室に戻り、審神者はベッドの上にゴロンと横になった。丸めた布団を抱きしめて、ばたばたと足を動かして悶絶する。
好きすぎるのだ、富田江のことが。どこを取っても。容姿は当然のこと、声も態度も仕草も。一挙一動が彼女に好かれるためにあると思えてならなかった。そうでなくては困るほどに、審神者は富田江に惚れ込んでいる。
ふと、部屋の外から彼女を呼ぶ声がする。富田江だ。脱兎のごとく逃げ出した彼女を追ってきてくれたらしい。
まだ熱い顔のまま彼と対面するのは気が進まないが、部屋の前で待たせるのは忍びない。審神者は扉を開いて、彼を招き入れた。その手には、いちごが入った皿がある。
「な、なに。もうお腹いっぱいって言った……」
「うん。私が君と食べたくて」
「…………………」
富田江は審神者が照れ隠しで意地を張っていることを見抜いているのだ。本当は美味しいいちごをもっと食べたかったし、富田江とも一緒にいたかった。
彼は常日頃、こうして審神者の隠した心を見透かして彼女の気持ちに容易く応えてしまう。こんなことばかりされているから、審神者はどんどん好きな気持ちが募って、体も心も埋もれてしまいそうだった。
「口を開けて」
ローテーブルの前、クッションの上に腰を下ろし、先ほどと同じように富田江にいちごを差し出される。審神者は今度は素直に口を開いた。ひとつ、ふたつと餌付けされているうちに恥ずかしくなって、審神者は皿からひとついちごを手に取る。
「富田も食べて」
「私に?」
富田江は審神者の指につままれたいちごを一口でぱくりと食べてしまった。柔らかい唇が一瞬指に触れ、審神者は手を引っ込めそうになってしまう。
俯いてさらりと降りた金髪につい目が奪われた。何をしていたって、この男はどこもかしこも美しい。伏せられたまつ毛の長さも、薄い瞼も、すっと通った鼻筋も。肌は白くてきめ細やかで、欠点らしいものは一つも見当たらない。
完成された芸術品のような彼が手ずからいちごを食すというのは、言葉にしがたい背徳感があった。審神者は、何かいけないことに手を染めている気になってしまう。
「甘いね」
「でしょ。桑名にお礼言わなきゃ……ん、んむ……っ」
ふと審神者の頬に富田江の手が伸びたと思うと、顎を救い上げられ一瞬のうちに口付けられた。
触れた舌の上にはいちごが残っている。けれどこの甘さは、果物由来のものではない。よく口の立つこの男の舌先に翻弄されながら、審神者は彼のシャツを掴んだ。
酸欠か甘い口付けに酔わされたか、頭がくらくらする。後頭部を抱き込まれ唇を離すこともままならず、審神者はただ甘美に溺れた。
唇を解放されるやいなや、審神者は皿に一つ残っていたいちごを口の中に放り込む。これ以上甘ったるい空気はごめんだ、と弛緩させようとしたための行動だったが、いちごの甘さが先ほどの口付けを想起させ、結局審神者の顔は赤いままだった。そんな彼女の様子を見て、富田江はどこか満足げに微笑んでいる。
「もう、なんでこんな、……どきどきさせることばっかりするの」
「私がしたいだけだよ」
「うそつき……」
「本当のことなのに。……強いて言えば、私がこうすると君が幸せそうにするから、かな」
富田江は知っていた。審神者が油断すると彼のことで頭がいっぱいになってしまう程に、彼を好きで好きで堪らないこと。一挙一動に翻弄されていること。それが実はちっともいやではないこと。羞恥を感じると同時に大事にされている気がして、これ以上なく心が満たされること。
もはや彼女の心を隠し通すことなど不可能だった。審神者は顔を覆った手の隙間から彼の様子を見やる。ちらりと合った視線は楽し気だった。
常時穏やかなれど、あまり感情を窺わせない彼にとっては少し珍しい顔つきだ。審神者もまた彼と同じように、富田江が幸せそうな顔をしているところを見るのが好きだった。
最初こそ自身を顧みないほどに周囲の望みに応えようとする彼を危うく思っていたものの、今ではこれで彼自身が満たされるならそれでいいか、と望み応えるようなこの関係にも折り合いをつけている。自分の幸せが彼の幸せ、だなんて尊大なことを口には出して言えないけれど、富田江に大事に愛されるうち、彼女はそんな自覚が芽生えていた。
「…………もう一回してほしい」
「ん、何を?」
「もう!」
「ははっ、ごめんね。……目を閉じて」
求めたものを与えられる幸福は、いつだって彼女の心を満たした。今度は触れるだけの優しい口付けが降ってくる。
ちゅ、ちゅと互いに触れ合わせ合ううち、部屋の外から審神者を探す声が聞こえた。ふたりは唇を離し顔を見合わせ、照れくさそうに笑う。
「呼ばれちゃった」
「私ばかりが君を独占するわけにはいかないね。行っておいで。皿は片づけておくよ」
「ありがとう」
審神者と富田江はふたりして部屋を出た。
好いた相手に思われること、それを周りに認められること。これらは得難い幸せであり当たり前でないのだと、戦火の渦中にいる彼女は知っている。薄氷のように儚いこの時を、いつまでも噛みしめていたいと思った。
審神者はその日、険しい顔で帰還したばかりの第一部隊を出迎えた。
人員に欠けはない。負傷は軽傷と中傷がそれぞれ一振りずつ、馬も無事。任務の難易度を鑑みれば、最小限に近い被害だ。
けれど、部隊長の乱藤四郎はこの世の終わりのような青い顔をしていた。空色の瞳は動揺で揺れている。審神者は彼の気を奮い立たせようと、まだ血で汚れた手をぎゅっと強く握った。
「あるじさん、ボク……」
「乱、よく無事で帰還しました。先に手入れの準備をするから、鳩で知らせてくれたこと、あとで詳しく聞いてもいい?」
「うん……」
負傷者は篭手切江と富田江の二振り。審神者は手伝い札を使って式神に手入れを任せ、乱藤四郎の待つ執務室へと向かった。
部屋の中には既に管狐が控えていた。異変を察知した審神者がすぐに呼びつけたのだ。審神者は座布団に腰を下ろし、乱藤四郎に話を促す。
「乱、ごめんね。お待たせ。それで……何があったか聞いてもいいかな?」
乱藤四郎は、浮かない顔のまま頷いた。
——彼を隊長として編成された部隊が向かったのは、深夜の街中並びに屋内の戦場だった。
建物内の狭さを考え、外から近付く敵を追い払う役目を富田江が担い、その隙に乱藤四郎や篭手切江を中心とした短刀・脇差たちが敵を殲滅するという手筈だ。見事策がはまり、屋内の敵を全て仕留め終えた後のこと。事は起きた。
富田江と合流しようと屋根の外に出た乱藤四郎目掛けて、何かが放たれたのである。死角を突いた奇襲に乱藤四郎が気付くより先に、富田江の体が動いていた。
富田江は乱藤四郎を庇い、その攻撃を受けた。膝を突く富田江に乱藤四郎はすぐに駆け寄ったが、どうにも様子がおかしい。
負傷は外の敵を払ったときに受けたものだけ。任務の最中も、不思議な点はなかった。にも拘らず、会話が嚙み合わない。自分が戦場にいることも、いまいち理解しきれていない様子だ。
後に合流した篭手切江と言葉を交わすうちに、富田江の身に何が起きたかが判明した。富田江は——本丸へ顕現して以降の記憶をすべて失っている。歴史修正主義者との戦いやなぜ人の身を与えられるに至ったかなど、彼らが顕現する時に得る知識は揃っていたものの、本丸で過ごした一年弱の記憶がすっかり消え失せてしまっていた。
「おそらく、富田江が被ったのは記憶凍結剤でしょう」
「記憶凍結剤……?」
管狐は事前に得た情報をもとに、調査を進めていたらしい。乱藤四郎が話し終えると同時に口を開いた。
「ここのところ時間遡行軍が妙薬を使うというケースが散見されています。そのうちの一つですね。その名の通り、顕現して以降の刀剣男士の記憶を封印してしまうというものです。刀剣男士の練度は人の身を得て以降の経験に依存しますから、それを丸っとなくしてしまう——という恐ろしい薬です」
「…………じゃ、じゃあ富田の記憶は」
「ご安心ください。時の政府も何の対策もしていないわけではありませんから。記憶凍結剤に関しては解毒薬が開発されておりまして、状態を確認してすぐに発注済みです」
審神者は管狐の言葉に、安堵のあまり崩れ落ちそうになった。けれど、未だ暗い顔の乱藤四郎の前。主としての威厳を崩すわけにいかないと、姿勢を保つ。
「あるじさん、ごめんね。ボクのせいで……」
乱藤四郎が強い自責の念に駆られているのは目に見て明らかだ。彼は本丸の中でも、特に審神者の恋路を強く応援してくれていた。
他の兄弟と違った容姿に魂が引かれたか、少女のような性質を持っている。故に男所帯のこの本丸で、彼は数少ない審神者の理解者だった。
「奇襲に気付けなかったのは仕方ない。私も敵がそんな飛び道具を使ってくるなんて知らなかったし、そこの落ち度は私にもある。練度が一番高くて場を仕切ってた乱を敵が狙ったのも当然だし、隊長が倒れて部隊が総崩れになることを考えると富田が盾になるという判断は正しかったと思う」
「でも、」
「解毒薬もあるみたいだし、心配いらないよ。それに、乱は私と富田の関係を気にかけてくれてるけど……私にとっては乱のことも、富田と比べられないくらい大事。むしろ乱が隊長だったからこうして無事富田はここに帰ってこれたと思ってる。……だから自分を責めないで」
乱藤四郎が頷く。痛ましい顔つきに審神者はいますぐ彼を抱きしめたくなってしまったが、可憐といえど彼も刀剣男士だ。プライドを傷つけることになるだろうと、伸ばしかけた手を引っ込めた。
それと同時に、部屋を訪ねる者があった。篭手切江だ。手入れを終え、審神者が今回の出陣について話をしていると耳に入れ、やって来たらしい。
「主、富田せんぱいの件ですが……」
「大体乱に聞いたよ。記憶がないんだって。篭手切の見立ても同じ?」
「相違ありません」
「……そっか」
審神者は続けて、記憶凍結剤の話と解毒薬の話をした。対処法があると知るや否や、篭手切江は長く息を吐き、安堵した様子で目を潤ませる。審神者の前であることを思い出し、眼鏡をはずし目元を拭ってから、しゃっきりと姿勢を整えた。
「富田せんぱいには状況を説明済みです。今は稲葉せんぱいについて貰っています。特に混乱している様子もありませんでした」
「そっか。ありがとうね、助かる。正直、私からどう説明していいかわからなかったから……」
審神者はつい、手元に視線を落とした。
不安だった。記憶を失った恋人が、どのような眼差しを自分に送るのか。想像するだけで、臓器を縛られたような苦しさを感じる。
篭手切江が彼女を案じる声色で「お会いになりますか」と尋ねた。
「……逃げ回ってても仕方ない。こういうのは早いうちに済ませた方がいいよね」
「あるじさん、大丈夫……?」
「平気。新しい刀剣男士を迎えたとでも思うことにするから。ごめん、席外すね」
審神者は努めて明るく振る舞いそう言って、執務室を出た。
乱藤四郎に伝えた言葉に偽りはない。けれど、確かに虚勢はあった。
恋人が記憶を失うことへの言い知れぬ恐怖がべったりとこびりついて離れない。今からでもいいから彼女を驚かせるためのタチの悪い嘘だと言って欲しかった。
今回は運良く解毒薬があったものの、それとて本当に効くのか分からない。時の政府側が力をつけるのと同じ速度で、時間遡行軍も進化し続けているのだ。記憶が戻るという保証はどこにもなかった。
手入れ部屋に近付くと、稲葉江と富田江の話し声が聞こえてきた。稲葉江がこうも口数多く話しているのは珍しく、つい審神者は障子の前で聞き入る。
するとすぐに気配を悟られ、稲葉江が「入らぬのか」と声をかけた。
「ごめんね、話し中に邪魔しちゃ悪いかなって」
「我は相手をさせられていただけだ。出るぞ」
「うん、ありがとう」
審神者と入れ違いに稲葉江が部屋を出る。
下半身を布団に入れたまま座った富田江は、琥珀の瞳で審神者を見つめた。まるで知らない他人のようなそれに、審神者は指先が切なく痛む。それを悟られまいと平静を装い、笑顔を取り繕った。
「えーっと、篭手切と稲葉からここのことはもう聞きましたか」
「うん。君が私を呼んだんだね」
「そう……です。刀剣男士とか時間遡行軍のこととかは、もう説明するまでもないよね。あなたは一応、ここに来て一年弱が経ってるんですけど、今は一時的にその記憶が失われているみたいで」
「その事も説明を受けたよ。面倒をかけて申し訳ない」
「いえ、大丈夫です。対処法はあるみたいで、記憶は封印されているだけで本当に無くなったわけじゃないから、解毒薬を飲めば元に戻るって。それまでちょっと、不自由だと思うんですけど、辛抱してください」
「わかったよ」
審神者はその先の言葉を迷って沈黙した。
これまで、富田江と話していて何を言えばいいか分からなくなったことなど一度もなかった。彼は常に、審神者が話したがっていることを上手く促して聞いてくれた。どこまでも彼に甘えていたのだと自覚し、恋人が恋しくなる。
目の前にいるのは本人で、姿形も全く同じにもかかわらず、それが彼だとは思えない。不思議な感覚だった。審神者はまだ相見えたことがなかったが、よその本丸の富田江に会ったらこんな感じなのだろうか、と想像した。
「……思ったより落ち着いてますね」
「無いものには触れられないから。私としては、何の戸惑いもないよ」
「そう、ですよね」
「君たちを困らせてしまっているのが心苦しいかな。ごめんね」
「いえ……」
富田江には、審神者との関係——恋人同士であったことを打ち明けていない。この様子だと、篭手切江や稲葉江からもそれは伝わっていないのだろう。
審神者はそれに安堵した。一方的に好意を押し付けて、何も知らない彼に拒絶されるだなんて耐えられない。それならば、一年前と同じく最初からをやり直した方がマシだと思った。
「じゃあ、私はこれで。一旦解毒薬が手に入って記憶が戻るまではお休みという形になるので、稲葉あたりからいろいろ教えてもらってください」
「わかったよ」
「失礼します」
富田江は審神者を引き止めない。かつての彼ならば、別れ際寂しげな彼女の手を取って「もう少しここにいてくれないかな」と囁いていたはずだ。それがないのが、彼女の孤独を粒立てた。
富田江が記憶を失っても、恙なく本丸の日々は進んだ。進んでしまった。新たに顕現した刀を迎えることに本丸の面々はもう慣れきっており、1年前と同じ対応をするのみだ。置き去りにされているのは、審神者の心だけだった。
富田江と顔を合わせると、どうしても恋人だった頃の彼の影を追ってしまう。審神者はそれが苦しくて、彼を避けるようになった。目を合わせず、姿を見れば行き先を変える。露骨な態度は本人にも伝わっているだろう。
けれど、そんなことも気に留めてはいられなかった。それほどまでに審神者の心は引き裂かれそうな苦しみに苛まれている。
部隊に編成することがない以上、任務に関わる会話を交わす事もなく、生活については他の刀剣男士に手を借りればこと足りる。
審神者と富田江の接点は、いとも容易く途絶えてしまった。
その日、審神者は蔵にいた。大所帯のこの本丸には用途に分けて幾つか蔵があり、彼女が訪れたのはそのうちの一番小さなものだ。ほとんど物置のようなサイズで、主に使用頻度の少ない小さな道具や工具が収納されている。
お気に入りのキーホルダーの丸カンがいつの間にか開き、飾りが取れてしまったのだ。数少ない現世から持ってきたもののうちの一つで、長く使ううちにプリントが擦れたり角が欠けてしまっている。それに愛着を持っていた彼女は、わざわざ修理するためのペンチを探していた。
刀剣男士に尋ねれば、手先の器用な者が修繕してくれただろう。しかしこればかりは何となく自分で直したくて、ひとりで道具を探し回っていた。
「ここにいたんだね」
「っ……誰?」
蔵の入り口から声をかけられる。薄暗い中からは逆光でその姿が窺えない。舞った細かなチリが、その人物を遮っていた。
「私だよ、富田江」
「あっ……と、みた」
審神者の心臓がばくんと大きく鼓動する。気不味い思いと避け回っている後ろめたさから、だくだくと冷や汗をかいた。
富田江は審神者に近付こうと蔵の中へと進んだ。扉を抑えていた手を離すと重い音を立ててそれが閉じ、外と断絶された蔵は真っ暗になる。
富田江が口を開いたのを遮って、審神者は「あ!」と大声を上げた。
「どうしたの」
「……こ、ここの蔵、立て付けが悪くて内側から開かないの。だからドアストッパーつけとかなきゃいけないんだけど……」
暗闇の中、富田江の姿は見えない。審神者は今度は別の意味で体温が下がるのを感じた。
この蔵は使用頻度もそう高くないことから優先順位が低く、欠陥の修理は見送られていた。本丸全員が気にかけて扉がひとりでに閉じないようにしておけば、何ら問題はない。けれど、この富田江はそれすらも忘れ去っていた。
厳重な作りのそれは刀剣男士といえど一人で開けることは困難で、閉じ込められてしまった以上、審神者がいないことに気付いた誰かが探しにきてくれるのを待つ他ない。埃っぽい密室に閉じ込められたこと、避け続けた富田江と二人きりにされたこと、ふたつの意味で審神者は絶望的な気持ちになった。
「ごめんね、君を閉じ込めてしまった」
「いや、これは言わなかった私が悪いから。……とりあえず、誰かが探しに来てくれるのを待ちましょう。晩御飯の時間近いし、すぐ気づいてくれると思……います」
審神者がその場に腰を下ろそうとしたところで、富田江が「待って」と呼び止めた。審神者の瞳は待てど暮らせど闇に慣れることはなく、一面黒色の視界では富田江の居場所すら掴めない。しかし、彼には審神者の姿が見えているらしい。
言われるがまま立ち尽くしていると、すぐ近くで「少し触れるよ」と富田江の声がする。審神者が返答するより先に、肩に軽く手が添えられた。
「足元、物が多くて危ないから。ここなら座っても問題ないよ」
審神者が尻を付けた先は、蔵の冷たい床ではなかった。手触りからして布だろうか。しばらく触れていると、それが富田江が羽織っていたジャージだと分かった。
「え、これ富田のジャージ?」
「うん。このまま座っては体が冷えてしまうから」
「そんな気を使ってもらわなくても……」
いくら臣下のものといえど、人の羽織を尻の下に敷くのは気が引けた。しかし春先の日光の届かない蔵の中、これからどんどん温度が下がっていくのは間違いなく、今は良くとも長時間座っていては体を冷やしてしまう。
「君を閉じ込めた上に風邪を引かせたとなっては、本丸のみんなに顔向けができないよ。私の面目を保つためだと思って、ね」
ダメ押しにそう言われてしまえば、審神者は反論出来なかった。
この蔵が開いたとき、審神者が富田江とふたりきりで閉じ込められていたことが明らかになれば、まず刀剣男士らに多大なる心配をかけることだろう。その上体調を崩しては、主思いの刀たちは気が気でないはずだと思った。
彼らの、そして富田江の気持ちを汲み、審神者は彼の気遣いを受けいれることにした。
蔵の中はとても静かだった。沈黙は重く、富田江の僅かな息遣いを傍に感じる。審神者は、わざと彼の居場所を悟らせるためにやっているのだろうな、と思った。
記憶はなくとも、富田江という刀の本質は何も変わらない。彼は元来親切で、主たる審神者をよく思いやる刀だった。
違うのはそこに、特別な感情が乗っているか否かだけ。それが何よりも審神者にとっては苦しい。
好きだった。富田江が好き。その気持ちだけは、たとえ彼の記憶が消え相手からの好意が失せようと変わらない。距離を置いても他人行儀な態度で突き放しても、想いは消えてくれなかった。
今だってそうだ。審神者が富田江の気遣いを辞すのを分かっていて、まるで自分がそうしないと困るような口ぶりで退路を塞ぐ。彼ばかりが審神者を視界で捉えていては不平等で気分が悪かろうと思いやって、富田江は居場所を気取らせる。審神者が何も話したがらないから、彼は言葉を求めない。
全てに富田江という男の心が乗っかっているのだとわかって、彼を好きでたまらない審神者は胸が苦しくなった。彼女は抱えた膝の中に顔を埋め、じわりと涙を滲ませる。肌寒さを訴えて鳥肌が立った体の中、そこだけが暖かい。
管狐が取り寄せている解毒薬が届くまで、後三日。
少なくともそれまでの間、この苦しみを味わわなければならない。否、もしかすれば薬が効かないかもしれない。そうなれば富田江はもう、あの暖かな視線で審神者を見ることは二度とないかもしれない。精神的に追い込まれた今の彼女は、楽観的に構えてはいられなかった。
嫌な空想が頭を支配して、審神者はつい鼻を啜った。この暗闇ですら審神者の姿を捉えられる彼のことだから、彼女が泣いていることには既に気付いているだろう。けれど、いかにもな音を立ててしまったからにはもう誤魔化せない。
「寒い?」
「……大丈夫」
震えた声を出せば、涙は明らかなものとなった。
富田江が姿勢を変えたのか、衣擦れの音がする。審神者は膝の間に顔を埋めてしまったので、ここが暗がりでなくともその姿を見ることは出来なかった。
一分一秒が永遠にすら感じるこの時間。静謐が彼女の心を突く。助けが来る気配は、まだない。
「こんな時に聞くことではないかもしれないけれど、ひとついいかな」
「……なんですか?」
「記憶を失う前の私は、君にとってどんな刀だった?」
静寂を破るように問いかけた富田江の言葉に、審神者は驚駭する。答えを返せぬまま数秒の間が空いて、その居心地の悪さに耐えかねて彼女は「えっと」とつぶやいた。
今の富田江に返せる答えを、審神者は持っていない。恋人である彼のことを思えば、それこそ何時間だって語り明かせた。けれど、そのどれもが今の彼に向けられるべき言葉ではない。
考え込んだ末、審神者は当り障りなく「優しい刀でしたよ。今の富田と同じで」と答えた。
「そう。嫌われていたわけではないんだね」
「……嫌いじゃ、ないです」
嫌いなものか。嫌えたらどれだけ楽だったか。そうしたら、今もこんな思いをせずにすむというのに。審神者は、胸の内で叫んだ。
人の心に寄り添うのが得意な刀だ。全てを具に理解せずとも、彼女が複雑な胸中であることは感じ取っているに違いない。この絡まった糸のような心を察しとってくれるなら、どうかもう二度と近付いてくれるなと思った。踏み込んでくれるなと思った。
そしてそれと裏腹に、離れるのが恐ろしい。彼を突き放し、二度と触れ合うことがなくなった先、自分は耐えられるのだろうか。あの優しい視線が二度と向けられない日々に、慣れてしまえるのだろうか。
幾ら頭を悩ませても状況は転じることなく、今出来るのはただ薬が到着するのを待つことだけ。そして今は、外からの救助を頼りにする他ない。
「……こんなことを言っては君を困らせてしまうかもしれないけれど」
富田江が穏やかに、言葉を紡ぐ。審神者は黙り込んでそれを聞いていた。
「私を見るたびに君が浮かない顔をするのがずっと気がかりだったんだ」
「それは……すみません。嫌な思いをさせてしまって」
「私のことは気にしなくていいんだ」
外からカラスの鳴き声が聞こえた。外はもう、日が落ち始めているのだろうか。真っ暗な中では時間の経過すらわからない。傍にいるであろう富田江の存在と声だけが、彼女の頼りだ。
「君の表情を曇らせる原因が私だということが、少し苦しかった」
「…………」
「……やはり困らせてしまったね」
顔を見ずとも、審神者は富田江がどんな表情をしているのか手に取るように分かった。
美しい眉を歪ませて、寂しそうに笑っているのだろう。彼の表情をこれほど鮮明に思い描けるほどに熱烈な恋をしているというのに、それがままならない。
彼は審神者を困らせたと言うけれど、真に彼を困らせているのは自分だと彼女は思った。審神者は、渦巻く感情を持て余しているに過ぎない。ただ、自分との温度差を感じて傷つくことを恐れているだけ。臆病なあまり彼に踏み込めず、何も知らない富田江の心までも傷付けている。
その後しばらく、ふたりは言葉を交わさなかった。後にも先にも、これほど無言のまま富田江とふたりきりになるのはこれきりだろうな、と彼女は思う。
数分にも数時間にも感じられる時が経過して、寒さに身慄いし始めた頃。外からふたりを呼ぶ声が聞こえた。
「主さーん! 富田ー! どこだー!?」
「誰かが探しに来てくれたみたいだね」
富田江が声を張り上げると、すぐに気が付いてくれたらしい。蔵の扉が地面を擦る鈍い音を立てて開く。数時間ぶりに見た外の景色は、すっかり日も暮れて夜一色だった。
蔵を開いたのは愛染国俊と明石国行だ。明石国行が持った懐中電灯が蔵を照らす。あまりの眩さに、審神者はつい目を細めた。
「もー、主はん、富田はん、えらい探しましたわぁ。こんなとこ閉じ込められてるやなんて……災難やなあ」
「主さん、大丈夫か?」
「わ、私は大丈夫。ごめん、暗くて足元よく見えなくて……」
「愛染、この子に手を貸してやってくれるかな」
「おう!」
審神者は愛染国俊に手を取られながら蔵を出た。しばらく座り込んでいたせいで、体の節々が痛む。明石国行が「これ、主はんのこと見つけた報酬として明日の畑当番免除なりまへんやろか」とぼやくのを聞き流し、月明り照らす夜道をゆっくりと歩いた。
本丸の母屋へと戻り無事を知らせると、審神者の胸には涙目の乱藤四郎が飛びついてきた。
彼女がいなくなったと分かってからというもの、本丸総出で探し回っていたらしい。富田江の姿も見当たらず、その上彼は記憶喪失だ。
これは一大事と騒然とした本丸を律しまとめてくれたのが乱藤四郎であった。混乱状態の刀剣男士たちに彼が的確な指示を与えることにより、こうして捜索が進んだという。
審神者の顔を見るなり安心したように見た目相応の幼さに戻る乱藤四郎を見て、審神者は胸が暖かくなった。
蔵の一件があって以降、審神者は富田江を避け続けることをやめた。会えば挨拶をするし、目だって逸らさない。かつてと同じとは言わないまでも、顕現当初程度には態度は軟化した。
何の罪もない富田江を傷つけていると知ったことに加えて、理由はもう一つ。この先、もう記憶が戻らなかった場合、このまま避け続けるわけにはいかないという判断だ。
強制的なふたりきりの時間を経て、審神者は向き合わねばならぬという覚悟を固めていた。怪我の功名と言うべきか、今では彼の顔を真っ直ぐ視界に入れたとて、以前ほどの臓腑を焼くような苦しみはない。
万が一このまま富田江の記憶が戻らなかったとして、それでも本丸での暮らしは続く。一年二年と過ぎた先、いずれこの苦しみも解けて消えていくはずと願って、彼女は努めて平静に振る舞うようにしていた。
富田江が記憶を失ってからきっちり一週間後、本丸に解毒薬が届いた。
審神者や管狐が固唾を飲んで見守る中、富田江は差し出された怪しげな薬瓶の中身を一気に飲み干す。期待に満ちた視線を向けられながら、彼は困ったように「今のところ変化はないね」と答えた。
「そっか……」
「別の例でも記憶が戻るまで多少時間がかかったそうです」
「多少ってどのくらい?」
「短くて一時間、長くて一ヶ月でしょうか」
「一ヶ月か……」
「今のところ全てのケースで解毒薬によって記憶が戻ったと聞いています。気長に待ちましょう」
声を沈ませた審神者を励ますように、管狐が明るい調子で言う。そんな様子に彼女は表情を緩め、「そうだね。富田、何か変化があったら教えて」と富田江に声をかけた。
「わかったよ。すぐに君に報告しよう」
審神者と富田江の間には、もう以前ほどのぎこちなさは感じられなかった。
ふたりの様子を見守っていた乱藤四郎と篭手切江は顔を見合わせる。審神者と富田江の失踪事件以降、審神者と富田江、ふたりの間の空気が緩和したのは見るに明らかだ。
ふたりの間に何があったのか、彼らは語らない。もともと恋人同士である彼らのプライベートに踏み込むことも躊躇われ、乱藤四郎と篭手切江は間近でこのふたりの行く末を手に汗握りながら見守っていた。
「どう思う?」
「仲直り……というか、元からけんかしていたわけじゃないけど……なんか、変な感じだよね」
「主が富田せんぱいのことを避けなくなったのはいいとしても、……なんというのかな」
二振りは声を潜めて囁き合う。篭手切江は眼鏡を押し上げると、「主が諦めてしまったようにも見える」と呟いた。レンズ越しの視線の先、ふたりの男女の影は、未だ重なることがない。
篭手切江の言葉は的を射ていた。審神者が彼と向き合うことを恐れなくなった根底には、確かに諦観がある。
例えもう二度と富田江が恋慕の目で彼女を見ずとも、刀剣男士として、本丸の一員としての共同生活は続くのだ。戦の終息の気配が見えない以上、それは何年続くか分からない。
長い目で見たとき、早いうちに諦めてしまった方が傷は浅い。色々と考え込んだ末、審神者はそんな結論を出した。
終わりのある恋など、何ら珍しいものではない。今回が記憶喪失という奇特な形であったというだけで、それがなくともふたりの間にいつか終焉が訪れるのは確かだった。
今は熱烈な想いを抱く彼女ですら、それが永遠とは断言できない。富田江が心移りをしないとも限らず、ただそのタイミングが今だったと割り切ってしまうほかなかった。
富田江が解毒剤を飲んでから二週間が経った。
最初の数日は毎日様子を尋ねていた審神者だったが、今はそれをすることもない。彼がどうこうできるものではないのにプレッシャーを与えては、却って負担になるだろうと思ってのことだ。
今や記憶のない新たな富田江とのコミュニケーションにはすっかり慣れ、何事もない風に接することが出来る。胸の痛みは依然として完全に消え去りはしないものの、それでもかつてのように目を見るだけで泣き出してしまいそうなほどの虚無感は遠ざかっていた。
朝、審神者はあくびを噛み殺しながら食堂へ向かった。
厨当番から朝食を受け取りパクパクと食べていると、稲葉江と富田江が並んでやってくる。この二人は記憶がなくとも仲良しだな、と審神者がぼんやりその様子を眺めていると、富田江は躊躇いなく彼女の隣の席を陣取った。
「おはよう。眠そうな顔だね」
「おはよ。昨日なかなか寝付けなくて、ちょっと夜更かししちゃって」
「そう。それなら、今夜は私が寝かしつけに行こうか」
「んー、お願いしよっか……えっ!?」
驚いたのは審神者だけではなかった。審神者の対面に座った稲葉江の冷奴が、醤油に沈んでいる。審神者がぽろっと箸から取り落とした焼き鮭が皿に落ちた。
「えっ、今なんて」
「私が寝かしつけに行こうか、と聞いたのだけど」
何か変なことを言ったかな、と富田江は首を傾げる。まるで、当然のように。まるで——彼女の恋人であるかのように。
審神者と稲葉江は顔を見合わせた。審神者はアイコンタクトで、「記憶が戻ったの、知ってた?」と尋ねる。稲葉江の顔は険しいままだが、その様は否定を表していた。
「稲葉、私のこと殴ってみてくれない? もしかしたら夢かも」
「冗談が過ぎる。我を殺したいと見えるが」
「どうしたの、二人して。稲葉、お前も変な顔だ」
「貴様に言われる筋合いはない」
「二人とも顔も国宝だから落ち着いてよ」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた——騒いでいたのは主に審神者だが——稲葉江と審神者を見兼ねて、「どうかしましたか」と朝食の配膳をしていた篭手切江が顔を出した。審神者は油の足りないブリキのおもちゃのような重い動きで「こ、篭手切、いま富田が」と彼の方を向く。察しのいい彼は審神者の言わんとしていることをその歪な動きだけで理解して、目を丸くした。
「富田せんぱい、先日のれっすんで松井さんと桑名さんが喧嘩した理由、覚えてますか?」
「腕の角度が違ったんだったかな。体格が違うと合わせるのも難しいね」
「最後に私と共に編成された部隊の隊長は?」
「乱だったと記憶しているよ」
「主が蔵に閉じ込められた時のことは?」
「……それは、いつ? 心当たりがないね」
篭手切江と富田江がそんな問答を幾つか重ねた後、篭手切江は審神者の方を振り返る。
「戻ってますね。記憶。記憶凍結剤の効果が効いていたころのことは覚えていないみたいです」
審神者はしばらく、ぽかんと呆けたままでいた。
いざ記憶が戻りましたと言われてもいまいち実感が沸かず、どう反応すればよいのか分かりかねている。飛び跳ねて喜びたい思いもありながら、今の彼があまりにも記憶喪失の件について無自覚的だからだろうか。踊り狂うように喜び回るのも奇妙だと思えた。
その結果彼女が選んだのは逃避だ。富田江から目をそらし、「こんのすけ呼んでくる」と食べかけの朝食を置いて食堂を飛び出した。
自分の心を守るため、要らぬ期待をすまいと半ば恋人のことを諦めていた彼女は、今更どう接していいかわからなかった。
こんのすけと共に富田江の状態を確認し、特に異常がないことが判明すると、彼らは一旦日常へ戻った。
記憶を取り戻したとはいえ一時的なものの可能性もある。しばらくは様子を見ることになり、富田江の出陣は先送りとされた。
審神者はといえば、未だ半信半疑のままだった。富田江の態度が記憶があるうちもないうちもさほど変わらないことが理由の一つだろう。
唯一の違いと言えば、恋人にしかしないような甘ったるい言葉選びだ。審神者が無意識に憧れた少女漫画の世界の恋人のような振る舞いを、彼女の恋人であるこの本丸の富田江は身につけていた。
約三週間、恋人と他人の距離感で接していたのだ。今からすぐに元に戻せと言うのも難しい話である。
けれど富田江の瞳には、突然審神者がそっけなくなったように映っているようだ。三週間分の記憶が丸っとないまま、目を覚ましたらこの態度の違いだ。戸惑う様子の彼をみて、これではまるで逆の立場に立ったようだと審神者は思った。
夜半、ベッドに入ろうとした審神者の部屋を富田江が訪ねた。
今朝の約束を果たそうとしているのだろう。以前——恋人だった頃は、寝付けない夜に富田江が話し相手になってくれることは珍しくなかった。不思議と彼と他愛無い話をしていると、睡魔を妨げる言い知れない不安が消え失せて、ぐっすりと眠れるのだ。眠れないとぼやく彼女の元へ富田江が訪れるのは、これまでのふたりの関係からすれば何ら不思議ではないことだった。
「上がってもいいかな」
「……うん」
審神者は拭えぬ違和感を押し隠し、富田江を部屋へ招いた。
「篭手切から詳しいことを聞いたよ。心配をかけたね」
「ううん、大丈夫。戻って良かった」
ベッドにふたり並んで腰掛けても、審神者は彼の顔が見られなかった。
以前はなかった彼女の緊張を察してか、普段は肩が触れ合う距離で座っていた富田江との間には拳一つ分の隙間が開けられている。それでも、他人としてはずっと近い距離だ。
審神者にとってはそれがもどかしくもあり、救いを求める最後の砦のようにも思える。まだ少し、彼と向き合うことが恐ろしかった。
「記憶を無くしていた間の私はどうだった?」
「……それ、似たようなこと聞かれた。あんまり変わんなかったよ、ずっと優しかった」
審神者が足をベッドに上げて膝を抱える。それが不安な時の癖だと、富田江はよく知っている。
彼の手が浮いて、審神者の肩に伸びた。指先が触れた瞬間、審神者がぴくりと驚いて肩を震わせる。審神者はハッとして、富田江の方へ顔を向けた。
同じ顔をしている。蔵の中で想像した、寂しげな顔と。切なげなそれは、未だ審神者の頭にこびりついて離れない。
「ごめん、……正直ね、まだ混乱してるの。富田からしたら急に私がそっけなくなったって感じるかもしれないけど……私も、急に富田が私の恋人じゃなくなって、やっと慣れたところだったの」
「そうか……。寂しい思いをさせてしまったんだね」
審神者の心の水面を、その言葉が打ったようだった。雫が落ちて波紋が広がるように、彼女の心に何か熱いものが押し寄せる。どうしてか泣きたくなって、審神者は下唇を強く噛んだ。
「……うん、寂しかった」
するりと口を出たその言葉に、彼女は一拍置いて驚いた。
どんな不安や隠したい負の感情も、不思議と彼の前では滑り出る。彼の相手の心を寛がせる包容力は勿論のこと、それほどまでの信頼をかつての彼には置いていた。
そしてそれがいままろび出たということは、今の富田江は審神者が心を許した恋人であることの証左に他ならない。今やっとようやく、彼が帰ってきてくれたのだと心も頭も受け入れることができた。
審神者はおずおずと富田江の体に手を伸ばす。
「寂しかった……」
「うん、ごめんね」
「記憶を無くして、私のこと何も知らない富田のこともずっと好きだったの。私だけがずっと富田を好きみたいで、それがすごく寂しくて……心細かった」
富田江が審神者の体を抱き止める。今度は、彼女は驚かなかった。
在るべき場所にあるように、審神者の体が富田江の腕の中に収まる。俯いた彼の髪が顔にかかって、くすぐったい。けれどそれすらも、幸せだと感じた。
身を震わすような際限なく思えるほどのこの幸福は永久には続かないことを、ふたりは理解している。それでも今だけは、この甘さに酔いしれていたかった。
——時は、富田江がまだ記憶を失っていた頃に遡る。
「以前の私は随分彼女に嫌われていたんだね」
桑名江の指導を受けながら草むしりをする富田江が、稲葉江に言った。稲葉江は手を止め、片割れへと視線をやる。富田江の瞳はどこからか顔を出した虫の動きを追っていた。
「何故そう思う」
「私を見ると、あの子は辛そうな顔をするんだ。以前何かひどいことをしてしまったのかな」
しているのは今だろう、と思いながらも稲葉江は口を閉ざした。
このふたりの件について、彼は悉く関与を避けている。面倒五割、他人が介入すべきではないという考え五割だ。
こと他者との交流に於いて、富田江を上回る者を稲葉江は知らない。ならば自分が案じるべきことなど一つもないと、そう思っていた。
けれど今ばかりは、そうはいかないようだ。記憶を失った富田江を視界に入れることすら今の彼女には耐え難いようで、あれほど仲睦まじく熱烈であったふたりが今は目も合わさない。
彼女は「心配しないで」と言って聞かないが、刀たちはこれを放っておけるほど薄情ではない。審神者という少女はひどく刀たらしで、この本丸に彼女の笑顔を願わぬ者はいないのだ。それは態度に出さないまでも、稲葉江も例外ではなかった。
「嫌われていると思うなら関与しなければ良い」
「冷たいことを言うね」
「応えることは嫌いじゃない、と言ったのは貴様だ。望まぬ者に応えてどうする」
稲葉江の回答に、富田江は不服そうだ。稲葉江としては、なぜ自分が無自覚に片割れの恋愛相談を受けねばならんのだ、とこちらの方が不満だと言いたいところだった。
「……そうだね。では、人の身のせんぱいであるお前に聞くよ」
「何を」
富田江が顔を上げる。
春先の快晴、暦の平均値よりずっと上回った気温が、彼をそうさせたのかもしれない。富田江の頬には、らしくなく朱が見えた。
「望まれずとも応えたくなるこの心を、なんと呼べばよいのかな」
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