幸福
幸福な死
赤黒く染まった空には、ガラスの器が割れたような亀裂が入っていた。それこそが、本丸という場所が時空の間に浮かぶ箱庭だということを示している。少し前までは、現実と変わらぬ暖かな春の日差しが降り注いでいたはずだ。季節の花が咲き乱れる陽気な景色からは打って変わって、今の本丸は地獄と呼んで遜色なかった。
壁や柱のみならず床にまで広がった血飛沫が、彼女の足取りを鈍らせる。怒号と悲鳴、そして咆哮。肉を裂き、骨を割る音。聴覚を震わす全てが悲劇を物語り、悪夢のような光景は途切れることがない。
どれだけ疑おうと今この惨状は現実だ。悲劇から逃げ出すことは出来ないと、その凄惨さを直視させられるように彼女の全身に痛みが走った。
休むことなく逃げ回ったことによる疲労と無理な手入れを繰り返したことによる霊力不足によって、身体が鉛のように重い。一息つく間も与えられず、彼女は必死に縺れそうになりながら必死に足を動かしていた。出口のない箱庭で、もはや何から逃れようとしているのかもわからない。けれど足を止めた瞬間終わるのだということだけは理解できた。
真っ二つに折れて地面に打ち捨てられた刀剣が何——〝誰〟だったのか。冷静さを欠いた彼女にはそれすら分からず、罪悪感から吐き気を催す。臓物や肉片はもはや見慣れている。彼らを癒すことが出来ないというグロテスクな事実が、審神者の精神を蝕んだ。刀剣男士は、身寄りのない彼女が唯一得た家族だ。家族だったはずのそれが、今や無惨にただの鋼の塊と化していた。
どこもかしこも血に塗れた屋内で、最後に逃げ込んだのは彼女の部屋だった。
彼女——審神者の部屋には簡易結界がある。彼女はここまで身を守ってくれていた富田江に指示されるまま、震える手でそれを発動させた。
こんな状況であろうとも、富田江の声は冷静だ。彼も目の前で仲間を失っている。取り乱してもおかしくないはずだが、彼女をこれ以上動揺させまいと平静を装っていた。
結界もその場凌ぎに過ぎない。きっと敵はすぐに彼女の居場所を嗅ぎつけ、襲撃してくるだろう。時間は稼げても、結末は変わらない。救助はもはや望めなかった。
時間遡行軍の手にかかった審神者がどうなるのかは、想像に難くない。ただ、殺される方がマシだと思えるような悲惨な最期が待っているのは間違いなかった。
時の政府の情報を吐かせるための拷問、敵戦力となる時間遡行軍の強制励起、——最悪の場合、霊力の苗床としてその体は使われる。時間遡行軍が武者の姿をしているから、特に女の身体は都合がいいだろう。
審神者は自分の末路を想像し、震えが止まらなかった。未だ時の政府とは連絡は通じず、襲撃を受けているのがこの本丸だけなのか、それともサーバー全土に渡る大規模な攻撃なのかすら把握出来ていない。ただ分かるのは、自分の命がそう長くないことだけだ。
富田江と審神者、ふたりきりの部屋は場違いに静まり返っていた。刀たちからの贈り物が随所に見られるこの部屋には、本丸での数年間の思い出が詰まっている。外の惨劇と打って変わって、敵に踏み荒らされていないここだけが日常のままだった。それが輪をかけて虚しさを掻き立てる。
「君はここにいて。私は外の様子を見てくるよ」
「……なに、言ってるの」
畳の上に力なくへたり込んだ審神者に富田江が傅いて視線を合わせた。彼女を安心させようと綺麗な笑みを浮かべた富田江の言葉が信じられず、審神者は彼の外套を掴む。
真っ白だったそれは、もはや誰のものかわからぬ血で赤黒く汚れていた。声や態度には見せないが、相当な傷を負っている。到底戦場に出せるような状態ではなかった。
「今更行ってどうするの、富田も死んじゃうよ」
「それでも、……私は刀剣だからね。君を守るために戦うのが使命だ」
「私をまた、一人にするの」
「……」
審神者の悲痛な嘆きに富田江が言葉に詰まった。彼女が孤独に最も怯えていることを、彼は知っている。
幾度も交わした語らいで、富田江の言葉と態度に安らいだ彼女は、もうこれ以上話すことがないほどに自身を打ち明けていた。ひとりは怖い。恐ろしい。本丸はみんながいるから怖くない。子供染みた口調で話した彼女に、「じゃあ君を一人にしないよう、私がずっとそばにいるよ」と声をかけてくれたのが彼だ。今ここで傍に着いてくれているのも、その約束を守るためだった。
こんな時でも彼は「すぐに助けが来るから」だなんて楽観的観測を口にしない。それが、ひどく彼らしいと審神者は思った。
彼女にはわかるのだ。自らが下ろした魂がどんどん消滅していくこと。今外で戦ってくれている彼らが、どれだけ生き残っているのか。後どれほどで敵はここを探し当てるのか。富田江がこの部屋を出たが最後、自分はどうなるのか。
彼らが命懸けで自分を守るためにその刃を振るってくれていることは重々理解している。だからこんなことは絶対に、絶対に口にしてはいけないはずだ。それでも審神者は、黙って富田江を送り出せなかった。
酷いエゴイズムだという自覚があった。情けない主君だと、詰ってくれても構わないと思った。卑怯なことをしていると分かっていて、どうしても、最後まで審神者のことを思い、尽くし、応え続けてくれた彼の手を離せない。
「私を、ここで殺してよ」
「……それは」
「もう一人になるのは嫌……。富田まで失って、来ない助けを待ち続けるなんて、そんなのここで死んだ方がずっといい、いやなの……」
ひとりはいや、と審神者は譫言のように繰り返す。流れた涙がぼたぼたと畳に染みを作った。
また外で一つ、命が潰える音がする。敵の足音はすぐそこまで迫っていた。終焉が近いことを、審神者も富田江も感じ取っている。
富田江は自身に縋る彼女の手を振りほどけないでいた。彼女に寄り添い続けた富田江は、その孤独の苦しみを知っている。それが彼女にとってどれほど耐え難いことであったかも。
刀剣として、家臣として。その命を守るためになりふり構っている場合ではないのは分かっている。だが、この場所にひとり彼女を置いていくことを思うと胸が痛んだ。
いつだって富田江の胸の内は明確な答えを持たない。ただ心地良いままに寄り添っていた先がここだっただけだ。そうして今、彼女の傍にいる。
「これが、私の最期の望みなの。……応えて、富田江」
ずるい言い方をしていると分かっていて、審神者はそう口にした。今代の所有者である彼女が命じれば、刀剣は逆らえない。倫理に反することであろうと、彼の意志にそぐわないことであろうとも。
富田江はいついかなる時も、審神者の願いに応え続けた。武功だけでなく、日常の些細なわがままですら彼はすべて叶えてくれた。そんな彼がこう乞われて、固辞できるはずがない。酷い主だ。こんな時まで、彼の気質を利用して。
「私を殺して」
審神者はぐったりと項垂れ、畳にへたり込んでいた。
静かな部屋に、彼女の荒い息だけが響く。審神者は顔が上げられず、富田江の様子を窺うことが出来なかった。愚鈍で仕えるに値しない小娘だと、軽蔑されているのかもしれない。ここまで尽くさせておきながら、情けのない主だと。失望されたっていい。主としての敬意を損なってでも、人としての孤独から逃れたい。
けれど最後には、きっと応えてくれるはず。そんな厚い信頼が彼にはあった。
「——それが、君の望みなら」
富田江が鯉口を切る。
そこからの彼女の記憶は、酷く断片的だ。燃えるような痛みが走ったかと思えば、身体がぐったりと重くなった。力が抜けて、指一本動かせそうにない。視界が白く染まって、靄がかっている。けれど、もう二度とこんな苦しみを味わずに済むのだと思うとひどく安堵した。
審神者の意識が混濁する。傷の熱さとは別に温もりを感じて、富田江が自分を支えて抱きかかえてくれているのが分かった。
顔に何か、熱いものが滴ってくる。自分の血か、もしくは。生ぬるい感覚を拭いたいのに、腕が上がらない。垂れ下がるように額に触れたのは、彼の髪だろうか。鈍い感覚の中、それだけは異様に鋭敏に感じとれた。最期に、自分の望みに応えてくれた彼の顔を一眼見ようと、審神者は重い瞼を抉じ開ける。
「………み、た」
——眩しい。
審神者は光そのものを、この瞬間目にした気がした。
いつか見上げた夜空によく似ている。流星が来るからと、本丸中で夜更かしをしたことがあったっけ。審神者としての人生はつらく悲しいことも少なくはなかったのに、思い出すのは賑やかで楽しい思い出ばかりだった。走馬灯の中では、皆が笑顔だった。
意識が遠のいていく。終わりだ。けれど、恐ろしくはない。すぐそばに感じる彼の魂の気配が、孤独ではないと教えてくれる。
今度は自分も、誰かと共に逝ける。——それがただ、彼女は嬉しかった。
幸福な関係
時は二〇××年、あの時あの場所で命潰えた〝彼女〟の記憶を持って、女は今この場所に存在していた。
勤め人の行き交うオフィス街、足取りは誰もが忙しない。そんな中で、ふたりは立ち止まり、お互いを見つめる。彼女と相対するは、あの日彼女の望みに応え、孤独から救い出してくれた張本人——の記憶を持つ男。
審神者と富田江だったふたりは、歴史を守るために戦った二二〇五年から見て過去——もしくは別の時空であるこの時代に、奇跡的な再会を果たしていた。
確かめるまでもなく、目が合った瞬間気が付いたのだ。話しかけることに、躊躇いなどなかった。お互いを認識し合ってすぐに、彼女が幾度となく夢物語と馬鹿にされてきたその記憶を、彼とは共有することができた。
ひとりその記憶を有し誰にも理解されないままこの年まで生きてきた彼女と一点違ったのは、富田江だった彼のそばには稲葉江だった男がいたことだ。物言わぬ鋼の頃からの強い縁はそう簡単に途切れないのだと感服すると共に、審神者はもしや自分と富田江にもそれがあったから今ここで再会を果たせたのかもしれない。そうであればいいのに、なんて思った。
あの頃と違うのは、今の富田江は〝刀剣・富田江の付喪神〟ではなくただの人間の男だということ、そして審神者は物の心を励起する力を持たない普通の女だということだ。
加えて、今の彼女には愛すべき家族がいた。奇しくもあの頃、早くに失った家族構成と同じ、両親と年の離れた妹である。審神者が暖かい過程で育ち今も家族が存命だと知ると、富田江は特別嬉しそうな笑顔を見せた。あの頃、孤独への泣き言を幾度も聞いてくれた彼は、今代でもそのことを気にかけてくれていた。
歴史修正主義者との戦争がどのような結末を迎えたのか、ふたりは知らない。知らないことこそが、今の平穏の証にも思えた。今となっては精巧な夢だったと思える程に、戦火の気配は遠い。
その後、審神者と富田江は同じ時間の記憶を持つ者同士として、自然に距離を縮めた。この時のふたりは少しだけ年齢差のある男女でしかなかったが、ふたりの気安さはあの頃と変わらぬままだ。
偶然にもそれぞれの職場が近かったこともあり、ふたりは度々食事に出掛けた。元は他人同士、互いに会う意思を持って約束を取り付け合わねばなかなか言葉を交わす機会はない。けれどかつての主とかつての重臣を懐かしむ気持ちは同じだったようで、彼らは互いに同じ頻度で誘いの声を掛け合った。
最初こそ本丸での思い出を語り合うことがほとんどだったが、次第に会話の内容は今世の世間話に変わっていく。元来彼が持つ包容力に加えて、人生の先輩として豊かな経験を持つ富田江は、社会人として未熟な審神者のいい相談相手となった。
ふたりが会うときの店選びは富田江に委ねられていた。最初こそ審神者は毎度負担をかけることに罪悪感を抱いていたものの、一度下手な店に当たって失敗して以来、富田江に甘えている。「仕事柄、食事に行くことも多いから。下見に付き合って貰っているようなものだよ」なんて、彼女に気を遣わせないような一言も欠かさない。
店のバリエーションは最初こそ会席に使われるような格式ばった店が選ばれていたものの、空気に気圧され料理を碌に味わえていない彼女の様子を見かねてか、以降は審神者のような若い女性が入りやすい雰囲気の店へ入ることが多くなった。料理のジャンルは多岐に渡るが、どの店も雰囲気、料理共に彼女の好みを抑えられており、特に気に入った店をメモしては審神者は友人や家族を連れて再訪している。
審神者は彼をデキる大人の男だなあ、と尊敬すると共に、半端なくモテそうだな、と思った。主と刀だった頃には想像もしなかったことである。
刀の彼らには、主という絶対的な存在がいた。他所の本丸では外に恋人を作る刀剣男士もいたと聞くが、審神者の知る限りでは、彼女の本丸ではそのようなことはなかったと記憶している。特に富田江は寂しがりやな彼女を気遣ってか時間が出来ては話し相手になってくれていたため、そんな素振りを見せなかった。
けれど今の富田江は誰かに仕えるわけでもないただの一人の男だ。誰かを想い、交際することもあるだろう。
それとなく探りを入れたところ、今現在は恋人がいる様子はない。恋人がいる身で自分と会っていては相手も気が悪かろうと訊ねたことだが、彼の返事を聞いて審神者は内心安堵した。こんな見た目も中身も完璧な彼を、世の中の女性が放っておくはずがない。
「そうだ、君に渡したいものがあるんだ」
「えっ、なに?」
幾度目かの彼とのディナーの席だ。食後のデザートに舌鼓を打っていた審神者は、富田江の言葉にスプーンを口に運ぶ手を止めた。
富田江は小さな紙袋を取り出し、テーブルを挟んで彼女に差し出す。印字されたロゴに見覚えはなかったが、なめらかな手触りの紙袋は高級感があって、デパートに入っているコスメブランドのショッパーみたいだ、という印象を彼女は抱いた。
「開けてもいい?」
「もちろん。気に入ってもらえるといいのだけれど」
富田江の言葉に甘え審神者はそっと紙袋を開く。商品保護の薄い包装紙に包まれたそれは、ティディベアのバッグチャームだった。
顔の正面、耳と手足の一部に柄が入った淡い白を中心としたデザインで、つぶらな瞳がなんとも愛くるしい。全体的には可愛らしい印象だが、細部の作りが丁寧で高級感があるからか、大人の女性が付けていても違和感のない仕上がりである。
一目見て、審神者は心臓を射抜かれたようなときめきを感じた。ころんとしたシルエットも彼女好みだ。金具や布の色が『富田江』の戦装束を思わせることと、舌だけでなく小物の趣味嗜好までも富田江に把握されていることが、少しばかり照れ臭かった。
「かっ、かわいい! かわいすぎる!」
「先日名刺入れを新調した時に見かけてね、きっと君に似合うと思ったんだ」
「ほ、ほんとにいいの……? 私、誕生日でも何でもないんだけど」
「君のために贈ったのだから、受け取ってもらえないと困ってしまうよ」
「嬉しい……、ありがとう!」
審神者はもう一度ティディベアの顔を見てから紙袋に丁寧にそれを仕舞った。嬉しくて締まりのない笑みを浮かべていると、富田江が微笑まし気にくすりと笑う。
「デザートの邪魔をしてごめんね。アイスが溶けてしまいそうだ」
「あっ、ほんとだ! 早く食べなきゃ」
とろりと半分液体になったアイスを審神者は慌てて口に運ぶ。突然のプレゼントへの高揚感と舌を楽しませる上品な甘さで、審神者の胸は幸せでいっぱいになった。
素敵な贈り物といつもいいお店を紹介してもらっているお礼に、とその日の会計を持とうとした彼女は、店を出る前に既に会計が済まされていたことに驚いた。
本丸にいた頃からそうだが、彼は審神者の前で一分の隙も見せない。その姿は、今でも忠実に『江の刀の王子様』の肩書きを守っているように見えた。もう主従の仲ではないのだから気を遣う必要もないのにと言っても、彼は「君に応えるのが癖になってしまったみたいだ」なんて冗談めかして言う。
口で何を言っても富田江に勝てるはずのない審神者は、いつもこうして甘やかされてしまう。良くないと思ってはいても、彼の纏う柔和な空気に充てられては流されていた。
その日も、ふたりは食事の約束をしていた。前回——彼からの予想外の贈り物を受け取った日から、三週間の時が経っている。
今回は富田江が選んだ店がふたりの職場の中間地点である駅傍のビルにあったため、審神者はビルの前で富田江を待っていた。季節は冬、夜になるとさらに気温が下がり、冷たい空気が肌を刺すようだ。仕事が早く終わった審神者が先に着いていると連絡していたからか、富田江は珍しく急いだ様子で待ち合わせ場所へやってきた。
彼の容姿は人込みでも視線を引く。長身なだけでなく、腰の位置が高いためすらりと伸びた長い脚に衆目は釘付けとなった。その上、美しい金髪と線が細くもありながら男らしさを残した顔立ちはまさに王子様と称するに相応しい。モデルや俳優と並んでも遜色ない姿をしているから、人通りの多い駅前でも彼を見つけるのはあまりに容易だった。
「寒い中待たせてごめんね。中で待っていてくれてもよかったのに」
彼女の鼻が赤いのを見て、富田江が申し訳なさそうに眉尻を下げる。これ以上冷えてしまってはいけないから、と急かされて、ふたりはビルの中へ入った。
彼女は手袋を外しアウターのポケットに突っ込むと、徐に富田江の素肌のままの手に触れた。彼は突然手を握られたことにも驚かず、ただ不思議そうに「どうしたの?」と見下ろす。その手の感覚に審神者はさっと顔色を悪くして、はるか上の涼し気な顔を睨み上げた。
「手、すごい冷たい! 氷みたいになってるじゃん!」
彼の凍り付いた指先を温めるように審神者が指を握ると、富田江は「なんだ、そんなことか」と言いたげな顔で「私はいいんだ」と言う。刀剣男士だった頃から続く悪癖で、彼は周囲に気を配りすぎるあまり自分のことがすぐ疎かになる。自分が深手を負っていても、軽傷の刀の手入れを優先させるような刃物だった。
「走ってきたから寒くはないんだ。本当だよ」
「それ冷えすぎて感覚失くなってるだけだって!」
審神者が何とか温めようと彼の手を擦ったり揉んだりしていると、ふと一つの記憶が浮かび上がってくる。それはまだふたりが刀と主だった頃の、遠い思い出だった。
富田江が顕現してまだ間もない頃のことだ。審神者が近侍を連れて買い物に出かけたところ、通り雨に降られた。雨足は激しくなる一方で、彼女が近侍とふたり「しばらく帰れそうにないね」なんて話していた時に、富田江が傘を持って迎えに来てくれたのである。
空を覆う雨雲の厚さにこれはしばらく帰れないかと覚悟していた審神者と近侍は、予想外の迎えを喜んだ。しかし、傘を手渡す際に触れた彼の指先の冷たさと赤く悴んでいることに気が付くと、そうは言ってられなくなってしまった。
審神者と近侍は慌てて本丸へ帰ると、有無を言わさず彼を浴場へ連れて行った。自主的なれっすんの後、汗を流しに来た篭手切江が脱衣所に入ろうとするところだったので、審神者はそれを呼び止めて事の経緯を伝える。篭手切江は刀剣男士の先輩として、せんぱいと呼んで慕う彼に懇々と説教をした。
攻撃を受けて外傷を負う以外に、暑すぎたり寒すぎたりすると体に不調をきたすこと。今回のように、極度に体温が下がると細胞が破壊される可能性もあること。
「手入れで治るとはいえ、主に頂いた体はなるべく大事にしてください」と言えば、富田江は心得たと頷いたが、それでもそんな性分は簡単には変えられない。彼は結局最後まで、自分の傷や疲労を顧みず他ばかりを優先させようとするものだから、加賀っこたちや江の仲間に気を揉ませていた。
「なんか昔もそんなことあったよね」
「懐かしいね。あの時も篭手切にこってり叱られたんだった」
「覚えてるならちゃんとしてよ」
「ははっ、面目ない」
富田江の表情はかつての仲間を思い出し懐かしむ様子はあれど、反省の色は見えない。生まれ変わってもこれなのだからこの性分は生涯変わらないだろうな、と審神者は確信し、ふと目に付いた壁に取り付けられた、ビルのフロアマップに視線をやった。
「お店の予約までまだ時間あったよね?」
「あと三十分程余裕があるけれど……どこか寄りたい場所でもあるの?」
「富田の手袋買いに行くの!」
彼女は富田江の手を掴んだまま、ずんずんとエスカレーターへ向かっていった。このビルの低層階には雑貨屋やアパレル用品店がいくつか入っていたはずだ。富田江は「気にしなくてもいいのに」と言ったが審神者は聞く耳を持たなかった。
「そうだ、忘れるとこだった。私富田に言いたいことがあったの」
「何だろう、聞かせてくれる?」
雑貨屋までの道すがら、審神者がふと口を開く。遡ること一週間前、それは休日、彼女が友人と出かけた際に起きた出来事だった。
学生時代に知り合った友人であるが、彼女は医者一族出身のいわゆるお嬢様だ。美容やおしゃれにも熱心で流行に鋭く、審神者の耳に入ってくるトレンド情報の出所は九割彼女と言っても過言ではない。
審神者は早速、彼女との遊びに先日富田江に貰ったバッグチャームを付けて出かけた。すると友人が驚いた様子で「それ、どうしたの?」とバッグチャームを指さして訊ねた。おしゃれな彼女は審神者が新しい服やアイテムを身に着けていく度に「それ初めて見たけど新しく買ったの? いいね」と褒めてくれたが、その時の表情や声色はそれとはちょっと違っていた。あるべきでないものを見たような、驚愕と困惑が浮かんでいる。
「この間貰ったの。かわいいでしょ」
「かわいい、けど……。っていうか……先に一つ聞いてもいい?」
「ん? 何?」
「あんた、彼氏いないよね。誕生日でもないよね」
「うん。っていうか聞かなくても知ってるでしょ」
「じゃあ話変わってくるわ。それ、誰に貰ったの? 男?」
友人の顔は真剣みを帯びていた。審神者はそんな風に問われる訳が分からず、「と、友達? 一応男の人だけど……」と質問に疑問形で返す。
正直なところ、富田江を友達と呼んでいいのか、彼女にはわからなかった。友人とは何でも打ち明け合える気の置けない関係だが、彼女は現実主義者である。前世で部下だった男から、なんて言った日には即座に病院へ連れていかれるか、友人の縁を切られるに決まっていた。
「本当に友達? 金銭のやり取りはないよね? 肉体関係は?」
「も、もう! 何なの、ないよそんなの。時々ご飯行って……その、年上の人だからご馳走してもらうことはあるけど」
「ふーん……?」
「変な人じゃないって、ずっと昔からの知り合いなの。家族みたいなものだから」
「……うーん、じゃあ大丈夫かな。ただの奇特な富裕層、ってことでいいんだよね?」
「た、たぶん?」
家族という言葉を出してようやく引き下がった友人に、審神者は罪悪感を覚えた。前からの知り合いであることも刀剣たちが当時身寄りのなかった彼女にとって家族のような存在だったのも嘘ではない。
けれど、現在の富田江だった男はその記憶を持って生まれただけで、また別の人生を歩んできている。彼と富田江を切り離すなら、彼女はこの関係をどう形容すべきか、答えを持たなかった。
どうしてここまで根掘り葉掘り訊ねるのか、審神者は訳が分からない。彼女が「これ私が持ってるの変かな」と訊ねると、友人は「変じゃないけど」と前置きをして教えてくれた。
審神者が受け取ったバッグチャームは、某ハイブランドの象徴的な柄を取り入れたもので、知る人が見れば一目でわかるという。縫合が綺麗で高級感があると感じたのは当然で、審神者は教えてもらったブランド名で検索し、驚きのあまりスマホを取り落としそうになった。コンマが平気で三つ並んだバッグが売られている。審神者がその日富田江にお礼のメッセージを送るために撮った紙袋とバッグチャームの写真を見せれば、友人は「やっぱりそうじゃん」と言った。
「脅すわけじゃないけど、ぽんとプレゼントであげるにはいい値段するから。その様子じゃ知らなかったんでしょ」
「う、うん」
確かに富田江は「名刺入れの新調ついでに」というようなことを言っていた。彼も立派な大人の男、それに身の回りのものや羽振りの良さを見るに、それなりの所得を得ているということは想像が出来た。
そんな彼が半端な品を選ぶはずもなく、となればそれが売っている店のランクも彼女が親しみを覚える価格帯であるはずもない。ちょっと考えればすぐに気が付くようなことを指摘されるまで気付かなかった審神者は、己の無知を恥じた。
それにしたって——それにしたってだ。元主といえど、何もない日のプレゼントに「偶然見つけて似合いそうだと思ったから」と気楽に贈るものの額ではなさすぎる。富田江のことなので、本当に審神者が気に入ると思って選んだのだろう。ただ、贈り物の選択基準から金額という大事な要素が抜け落ちていただけで。審神者は納得すると共に、あの男のことが今になって恐ろしくなった。
「ちゃんとお礼したほうがいいかもね。こんな言い方しちゃったけど、あんたに似合ってるしその人センスいいよ」
友人の言葉は審神者のためを思ってだろう。気心が知れた仲でなければ、とても指摘できないようなことだ。彼女に教えてもらわなければ、審神者は気軽なプレゼントとしてそれを受け取って、気付かないままでいたかもしれない。
審神者は友人に感謝の念を抱きながらも、複雑な思いを捨てきれないでいた。
富田江に搔い摘んで経緯を話し高価な贈り物への礼を改めて述べると、彼はぴんと来ていない様子だった。審神者が申し訳なく思っていることも、あまり感覚として理解できていないようだ。
食事をご馳走した時のように「気にしなくてもいいのに」とは言うが、審神者からすれば桁が違うのである。元より加賀百万石の前田家の宝物だ。審神者のような一般庶民の考えなど、遠く理解が及ばないらしい。
そもそもの話、この関係性すらも改めて考えてみれば奇妙なものだ。本丸という幽世にいた頃は、人の形を持った付喪神、なんて作り話めいた現実がすぐそばにあったため、彼らの態度に対する疑問を抱くことなどなかった。
彼らは忠義に厚く、私生活でもよく尽くしてくれた。それぞれの形で、持ち主である彼女を愛し、人間のために戦ってくれていた。
今この時代に再会した富田江もそれは変わらない。審神者にも何度か恋人がいた時期はあったが、その誰よりも富田江は彼女に寄り添い、その言葉に耳を傾けてくれた。今後誰かと付き合うことになったとして、きっと物足りなく感じてしまうだろうという程に。
主と刀だった頃の関係をなかったことにしたいとは思わない。それでも今、彼は富田江としてではなく、ひとりの男として生きている。かつての関係性に囚われず、対等な関係として接したいと審神者は思った。
審神者は雑貨屋で白い手袋を買い、有料のラッピングを付けて富田江に贈った。どこにでも売っているような、彼の私物の中では安物中の安物だ。それでも富田江は宝物のようにそれを受け取って「ありがとう、大事に使わせていただくよ」と礼を言った。
食事を終えて、今日ばかりは譲れないと強めに何度も「今日は私が払うので」と審神者が言えば、富田江は根負けしたように伝票を彼女に任せた。これまで彼がやってきてくれたことを考えると比較にはならないが、やっとほんの少しでも恩を返せたと思うと肩の荷が下りる。
少しばかり酒が入ってご機嫌な彼女の隣を、富田江は贈られたばかりの手袋をして歩いた。
「あっ、雪!」
「本当だ。道理で寒いわけだね」
ビルを出ると、夜空に白い雪がちらついていた。この辺りでは雪は滅多に見られない。審神者ははらはらと落ちてくる粉雪を見上げ子供のようにはしゃいだ。
「ねえ富田、ちょっとだけお散歩付き合ってくれない?」
「君が望むなら。……あぁ、寄り道をするなら、少しいいかな」
「ん? 何?」
富田江が足を向けたのはすぐそばにあった飲み物の自動販売機だ。審神者は彼と自動販売機を、どちらの方が大きいんだろうと見比べていた。
「ミルクティーでいいかな」
「えっ、うん……あっ!」
反射的に返事をしたのもつかの間、審神者はまた彼にお金を使わせてしまったと慌てた。富田江は高い背を屈めて、下の排出口から350㎖のミルクティーのペットボトルを取り出す。審神者の手にそれが渡ると、ミルクティがカイロのように手袋越しの冷えた指先を温めた。
「またしてもらっちゃった……」
「君に体を冷やしてほしくないだけだよ」
「それは私もなの。ちょっと待って、富田、なにがいい? 飲みたいやつある?」
審神者はペットボトルを脇に挟み、財布から小銭を取り出して自動販売機へと入れた。富田江は苦笑して「それじゃあ、君のおすすめを頂こうかな」と言う。審神者は迷わずコーンポタージュのボタンを押して、排出口から転がり出たその缶を富田江に手渡した。
「暖かいね。ありがとう」
「どういたしまして」
それからふたりは、並木道を歩き出す。冬の間は街灯に電飾が催されているため、夜道は普段より明るい。
元よりおしゃべりな審神者と聞き上手な富田江の会話は、途絶えることなく続いた。彼女が話すのは取り留めのないことばかりだったが、富田江はそのどれもに興味を示し話を巧みに掘り下げ、相手が語りたいこと、そうでないこと問わず言葉を引き出した。今では彼女の近況に誰よりも、家族以上に詳しいといえるだろう。
審神者は指先を温めるためにしばらく握ったままにしていたペットボトルのキャップに手をかけた。すると、未開封品特有の堅い引っ掛かりがなく、するするとキャップが回る。少しぬるくなって飲みやすくなったそれを喉に流し込むと、内側から体が温まっていった。
「ねぇ、これって富田が開けてくれたんだよね?」
「あぁ、私だけれど」
「……そういうの、どこで覚えてくるの?」
非力な彼女がキャップを開けるのに苦労しなくて済むひと工夫が、富田江によってそれが彼女の手に渡る前になされている。審神者はその事に驚いていた。
彼女の質問に富田江はフッと笑って「どこだろうね?」とはぐらかす。自分のことを聞かれるとのらりくらりと躱すのはいつものことなので、審神者も特に追及はしない。代わりに、審神者はずっと気になっていたことを問いかけた。
「富田ってさ、すっごいモテる……?」
「どうだろう、学生の頃は稲葉の方が人気があったけれど」
「えっ!?」
審神者は失礼にも道端で大声を上げた。富田江ほど住まいが近くない為頻繁には会っていないが、何度か三人で食事をしたことがある。その時に抱いた稲葉江だった男の印象としては、富田江と同じくあの頃と何も変わらないものだった。
無骨で頑固で口数が少なく、目指す先が天下ではなくなった以外は審神者の知る彼のままだ。立派な体躯と整った顔、そして渋い声。一見取っ付き難そうに見えるが律儀で義理堅く実は結構優しいところのある彼が女性に好意を持たれることに疑問はないが、それでも女性人気で富田江を上回るとは思えない。
「稲葉ってモテるんだ…………」
「ああ。特に部員や後輩から人気があったよ」
「ん? 部員?」
審神者は富田江の言葉に猛烈な違和感を覚えた。確か、ふたりは高校時代男くさい剣道部の部長副部長として、全国大会へ部を導いたのではなかったか。そしてよく考えてみれば、ふたりは中高一貫の男子校に通っていたのではなかったか。
審神者の想像の中で、稲葉江を取り囲む女子高生がむさ苦しい男子高校生に、黄色い悲鳴が雄叫びに変わる。審神者はつい声を上げて笑った。
「っく、あははっ、確かにモテそう!」
確かにあれは男が憧れるタイプの男だな、と稲葉江という人物を思い出し腑に落ちた。
富田江は付け加えるように「バレンタインデーは稲葉の靴箱からチョコレートが溢れていてね。あいつは甘いものが苦手だから食べられないし、かといって差出人も無記名だったから突き返せなくて困っていたよ」とエピソードを語る。甘ったるい香りを放つチョコレートの山を前に顔を顰める稲葉江の姿が、彼女にも容易に想像できた。
審神者は富田江から稲葉江に話題をずらされたことに気が付かないまま、ご機嫌にけらけら笑っていた。
稲葉江の学生時代の話から飛躍して、修学旅行の話から遊園地の話へと話題が移った。審神者は思い出したように「そういえばね」とポケットからスマホを取り出す。
「遊園地のウィンターシーズン限定のカチューシャがすごくかわいいんだよね」
「へえ、どんなものかな」
「これ、見て見て、かわいくない?」
審神者はスマホの画面に保存していたそのカチューシャの写真を表示させた。遊園地のマスコットキャラクターの頭部デザインを意識したフォルムに、冬らしい白い意匠が施されている。あしらわれた小さなリボンが可愛らしく、いかにも彼女が好みそうなデザインだと富田江は思った。
話し始めて楽しくなった彼女の言葉は止まらず、「グッズとポップコーンバケットもかわいくてね」と指で画面をスワイプしては夢中になって様々な画像を富田江に見せる。人通りが少ないとはいえ街中だ。富田江は彼女が何かにぶつからないようそれとなく気を配りながら話を聞いた。
「限定のぬいぐるみバッジもあってね、すごくかわいいの」
「確かに君が好きそうだ。一緒に行こうか」
「えっ?」
審神者が顔を上げる。富田江は取り立てて特別なことでもないという風にそう口にした。しかし審神者は面食らって、彼への返答を失う。
こういった遊園地に男女二人きりで行くというのは、夫婦や恋人同士、もしくはそれに準ずる関係の相手でなくてはならないというのが彼女の中の常識だ。関係性によっては例外も存在するだろうが、同じことを富田江以外の男に言われたとすれば、彼女はきっと「この人は自分に気があるのかな」と思っただろう。
それにぜひと返事をするのは、こちらも貴方に異性として興味があります、という意思表示となる。一般的価値観に照らし合わせるとそう読み解けるが、相手は富田江だ。審神者はそれに倣ってよいものか、逡巡した。否、きっとそういった甘い意味合いもなく申し出ているに違いない。
そう思うと審神者は咽頭がぐっと締まるような心地がした。特別な縁があるだけで、この男に恋人紛いの真似をさせていいのだろうか。こうして縛り付けることが一人の人間としての彼の足かせになっていないだろうか。
考え込んだ末、審神者は首を横に振った。
「い、いかないよ」
審神者の明確な拒絶に富田江が面食らう。瞠目は直ぐにいつも通りの微笑へと変わり、彼女の言葉の続きを待った。
「富田とは、行かない」
「ごめんね、出過ぎたことを言ったかな」
咄嗟に彼のプライドまでもを傷つけるような直接的な拒絶をしてしまったことに、審神者は胸が痛んだ。けれど、彼女もここで引き下がるわけにはいかない。彼の厚意に甘えるばかりでは、この関係は変えられない。
「……えっとね、行きたくないわけじゃないの。富田と行ったら多分……すごく楽しいよ。でもダメだよ。今後富田に彼女が出来た時さ、恋人じゃない人と二人で遊園地行ったって知ったら、その子落ち込むと思う。私だったら落ち込む……」
「そうか。私のことを気にかけてくれたんだね。わかったよ」
富田江の声色は怖いほどに普段通りだ。申し出を辞されても、ショックを受けていないどころかそれを審神者の気遣いとして受け取るような言い回しをして、彼女に後ろめたい思いをさせないようにしている。その態度がまるで、彼にとっては些事であったのだと感じて、審神者は突き放しておきながら傲慢にも心が引き裂かれそうだったと思った。
丁度駅に到着して、話はそこで終いになり、ふたりは別れた。いつもはあまりの居心地の良さに別れを惜しむところを、今ばかりは一秒でも早く彼と離れてしまいたかった。
富田江はこんなことで彼女を嫌ったりはしないだろう。審神者はそう分かっていて、だからこそ苦しい。立場が変わっても、変わらないものがある。それが愛おしいと思っていたはずが、どうにももどかしい。この感情に名前を付けることを、まだ彼女は躊躇っていた。
いつもならどちらともなく連絡を取り合っていたふたりだったが、不運にもお互い多忙が続いていた。審神者は連日残業続きで、家と職場を往復するだけの日々だ。家事もほとんど手つかずで、食事もすべてコンビニやインスタント食品で済ませてしまっているせいか、どうも気が滅入っている。
働いている内はいいものの、職場を出てタスクから放り出されるとふと富田江のことが頭を過り、気が重くなった。最後に会ってから、かれこれもう一か月が経とうとしている。
日常で何かが起こるたびに、審神者は富田江にこのことを話そうと考えてしまう癖がついている。それほどに彼の存在が自身の中で大きくなっていたのだと気付き、心が沈んだ。
彼の気性に甘えて、いつまでも都合よく扱ってしまう身勝手さが許せない。疲労も相まって、自己嫌悪が募った。
——富田に会いたい。
そう思っても言えないことがもどかしかった。これまでならば躊躇いなく口に出していただろう。それを躊躇するようになったのは、いつからだったか。なぜだったか。
審神者は思考して、思い至る。自分が彼に何かを望むに相応しい立場ではないと気が付いてしまったからだ。主でも持ち主でもない以上、弁えなくてはならないと自らに枷を課していた。しかしそれは、裏を返せば彼女がその立場を求めているというのが明らかであった。
残業を終えてオフィスを出ると、冷たい風が容赦なく審神者の頬を打った。似たようなオフィスビルが立ち並んでおり、窓の光もこの時間になるとまばらだ。疲れ切った彼女はぼーっとしながら歩き慣れた道を行き、意識のないままに駅のホームに立っていた。
電車に乗り込むと、乗客は彼女と同じく仕事に疲れ切った勤め人ばかりだ。暖房がよく効いた車内で椅子に座って揺られていると、眠気に襲われる。このままでは寝落ちてしまい、終点まで乗り過ごしかねない。
ここのところ休日出勤が続いていたが、明日は正真正銘、久しぶりの何の用事もない休日だ。思う存分惰眠を貪りたいところだが、生憎と家事が溜まっている。欲を言えば消耗品の買い出しにも出たいし、久々に出来立てのきちんとした食事を取りたい。
その為には、こんなところで寝落ちて出鼻をくじかれるわけにはいかないのだ。審神者は睡魔を追い払うべく、一日中目を通せなかったスマホを手に取った。
山のようなメールやSNSの通知をスワイプで消していると、着信履歴が目に入る。相手は、富田江だ。その瞬間、審神者はどくりと心臓が高鳴って、先ほどまで自身を包んでいた煙のような眠気が霧散していくのを感じた。
時間は夕方、普段の審神者が退勤した頃を見計らったのだろうか。今すぐかけ直したいところだが、生憎とこの先三十分は電車に乗り続けることになる。審神者はメッセージアプリを開き、富田江の名前をタップした。
審神者はしばらく文字を入力したり消したりを繰り返し、迷った末に『ごめんね、忙しくて電話気付かなかった。何か用事?』と送信した。一か月も連絡を取り合っていなかったうえに、着信を無視した形になってしまって、審神者は気が気でなかった。嫌われていると思わせてしまったかもしれない。油断すれば彼のことが頭を過ってしまうくらい、こちらは彼のことで頭がいっぱいだったというのに。
不安を抱きながらも、彼からの着信を喜んでもいる。返事が返ってくるまでの数分間、審神者はそわそわとスマホを抱きしめ続けた。
——翌日。
窓の外を照らす橙の光に目を細めながら、審神者は「久々に夕日を見た気がする」と思った。
まだまだ日は短く、朝出勤して夜退勤するまでデスクワーク業の彼女は外の景色を目にすることがない。季節は真冬であれど、日が出ている内はまだ暖かいのだと知った。
富田江からは、すぐにメッセージの返信があった。丁寧な労いと彼女の身体を気遣う言葉。それから、都合が良ければ合いたいと。彼らしい文体で、それらが綴られていた。
以前は仕事終わりに約束をすることが多かったが、最近の審神者のスケジュールではそれは叶わない。ダメもとで明日は休みだけど、と伝えれば、とんとん拍子に話が進み、気が付けば会う約束を取り付けていた。
審神者は必死になって午前中に家事を終え、買い出しも済ませ、こうして待ち合わせ場所へと出向いている。ここのところは出社前に最低限見苦しくない程度に装いを整えるばかりだったから、きちんと服を選んでメイクとヘアセットをするのも久しいことのように感じた。
待ち合わせ場所に着くと、富田江が壁に背を付けて彼女を待っているのが目に入った。ロングコートから覗く手は、審神者が送った手袋に包まれている。使ってくれていることに安堵しながら、審神者は小走りで彼の元へ駆け寄った。
「ごめんお待た、せ……」
「私も今着いたところだから。ごめんね、急に呼び出して」
「と、とみた。そ、その……顔……」
「ああ、これ?」
審神者は開いた口が塞がらない。見上げた富田江の顔立ちは以前と変わらぬ彫刻のような美しいものであったが、その頬は湿布で覆われていた。
彼女が審神者だった頃、刀剣男士同士の諍いは稀ながら起きていた。かつての主の思想を色濃く継いだ彼らは、主同士が敵対関係にあった者とは相容れないとは言わないまでも、意見の相違は避けられない。言い争いが殴り合いに発展することも往々にしてあった。
そんな中で、彼は主に争いを諫める役回りを担っていた。どんな険悪な二人でも、富田江の交渉術にかかればあっという間に和解が成立する。
そんなわけなので、富田江自身が誰かと言い争ったり喧嘩したりする姿を見たことがなかった。彼が、誰かに殴られるだなんて。一体彼の身に何が起きたのか、審神者は気がかりでならなかった。
「気にしないで。見た目ほど酷くはないんだ」
「さすがに無理があるでしょ、それは。一体誰にやられたの?」
答えるまで一歩も引きません、と審神者が睨めば、富田江は観念したように口を割った。
「ちょっと色々あって、稲葉にね。喝を入れてもらったんだ」
「稲葉!?」
予想外の相手に、審神者は大きな声を上げる。富田江は「骨にも異常はないから、本当に心配はいらないよ。上手く殴ってくれたから」と続けた。
彼女が気になっていたのはそういうことではなかったが、何はともあれ相手が稲葉江なら審神者が口出しする隙はない。刀だった頃も今世も、ふたりの絆は何よりも深いことを知っている。審神者のあずかり知らぬところで、男同士の熱いやり取りがあったのだろう——と、想像するしかなかった。一先ず何か揉め事や事故、事件に巻き込まれたわけではなさそうだとほっと胸を撫で下ろす。
「稲葉ならまぁ……うん。いや、良くないけどね、喧嘩は。気を付けてね、今は手入れして元通りとはいかないんだから」
「わかったよ。ごめんね、見苦しい姿で」
「見苦しくはないけど……びっくりした」
これ以上心配の言葉を重ねても気遣わせるだけだろうと判断した審神者は、以降彼の傷について言及することを避けた。
「忙しいと言っていたけれど、最近食事はきちんと取れているの?」
「えっと……あはは。実はあんまり。忙しくて……」
審神者を気遣うような富田江の視線から逃れるように、彼女は顔を背けた。
ここ数日ろくな食事を取っていないからか、久々に履いたお気に入りのスカートは以前履いた時よりもウエストにゆとりがあった。体重計に乗る暇もなく自覚はなかったが、やはり目に見てわかる程度にはやつれているらしい。彼の心配を跳ねのけるように、「その分今日美味しいもの食べたいな」と審神者は努めて明るい声で言った。
ふたりが待ち合わせたのは、審神者の住まいからほど近い湾岸地域の街だった。遊戯施設やショッピングモールが立ち並び、家族連れやカップルで賑わっている。
「少し歩きながら話せるかな」
そう言った富田江に連れられたのは、海沿いの遊歩道だ。沈む直前のひと際眩しい夕日が、水平線に浮かんで水面を輝かせている。はしゃぐ子供の声に交じって、海鳥の鳴き声が聞こえた。
「わぁ、綺麗……! こんなところあるの知らなかった」
「この辺りにはあまり来たことがないの?」
「うん。色々あるのは知ってたけど、近いと逆に来る機会なくて。水族館とかもあるんだよね? 行ってみ……あっ」
勢い任せに口をついた言葉に、審神者は口を閉ざした。彼女の意図を汲んだ富田江が困ったように微笑む。先日、同じような流れで富田江の誘いを断って、気まずい思いをしたばかりだ。
「ご、ごめん。無神経だった」
「気にしていないよ。……その事でも、話がしたかったから」
富田江に促され、審神者はすぐそばのベンチに腰を下ろした。
そのことで、とは遊園地の件に他ならないだろう。審神者は何を言われるのかと、内心冷や汗をかいた。
富田江の唇から、彼女を傷つける言葉が出てくるはずがない。あり得ないことだと分かっていても、あの日抱いた罪悪感は、審神者の背にべったりと張り付いて剥がれなかった。
「稲葉に君のことを聞かれて少し話したんだ。そうしたら、貴様が悪い——ってこっぴどく怒られたよ」
「えっ」
まず、富田江が自身の話をしていることがあまりに衝撃で審神者は大きな声を上げた。気心の知れた稲葉江とはいえ、彼が胸の内を明かすとは思えない。本丸にいた頃の彼らのコミュニケーションは、手合わせや茶道など、言葉を要さず心を通わせるものばかりだった。
富田江は苦笑して、言葉を続ける。
「この姿になって再会しても——私はどこか、君を他人だとは思えなかった。思いたくなかったのかな。君もあまり変わらなかったから、そう思っていたらしい。今の君には家族がいて、友達もいて、……これまでは恋人もいただろう。わかっていたはずなんだけどね」
富田江の言葉は自嘲染みていた。少しずつ日が落ちて、辺りが暗くなる。いつしか子供の声が聞こえなくなって、等間隔に立てられた街灯が富田江の痛々しい頬を照らしていた。海の向こうには、また別の港町が輝いて見えた。
「稲葉になんて言われたの?」
「干渉しすぎだ、もう他人なのだから弁えろ——ってね」
「わ、私は富田にいろいろして貰って、嫌じゃなかったよ。申し訳なく思う時はあったけど、嬉しかった」
「私が君の望みに応えることを許してくれていたことは、ちゃんとわかっているよ。だから君に甘えすぎてしまっていたんだ」
肺の内側に煤が張り付いたように息苦しい。審神者は、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
——そうじゃないのに。言いたいことはたくさんあるのに、そのどれもがうまくまとまらない。何を言っても、彼には伝わらない気がした。
「富田、私は……」
「だから今日、はっきりさせにきたんだ」
刀だった頃から数えても、富田江に言葉を遮られたのは初めてだった。審神者の心臓が嫌に脈打つ。
このまま線を引いて、もう二度と会わないと言われてしまったらどうしよう。審神者は無意識に下唇を噛む。視界が潤んで揺れて、海の向こうや街灯の光がちらちらと眩しかった。目を細めれば涙がこぼれてしまう気がして、それもできない。
嫌だと口に出そうにも、その権利は彼女にないのだ。今のふたりは主従ではなく、他人なのだから。心はこんなに傍にあるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、立場ひとつが変わっただけでこんなにも遠い。その線の超え方を、彼女は知っている。
「君の、——願いに応える立場が欲しい。君の刀でなくなった今も、私を君のそばに置いて欲しい。その許しを貰えないかな」
水面に静かな波紋を立たせるような声色だった。どこまでも澄んだそれは、彼女の鼓膜を震わせ、心に入り込む。何か言おうとして動いた唇が、はくはくと震えているようだった。
「返事は急がないから、考えて欲しい。君の気持ちが決まったら、聞かせてくれるかな」
心地よく優しいその微笑みが、今は少しだけ切なさを帯びている。立ち上がろうとする富田江の腕を、咄嗟に審神者が掴んだ。
彼も驚いた表情を見せたが、それ以上に審神者自身が自らの行動に驚いている。無意識に、このまま話を切り上げたくはないと思って出た行動だった。
「わ、たしも……」
何を言うべきか、審神者は迷った。富田江のように気の回る言葉は出てこない。伝えたい気持ちは山のようにあるのに、どう言えば伝わるのかわからない。否、言葉だけでは、きっと。
審神者は掴んだ腕を引くようにして、彼に飛びついた。一瞬上体の姿勢を崩した富田江だったが、すぐにベンチの座面に手を突き、体勢を立て直す。勢い余って彼女が倒れてしまわないよう背を支え、抱き止めた。
「ごめん、なんて言えばいいかわかんない。でも……富田は教えてくれたよね。言葉でも、言葉以外でも私から伝わるものがあるって。……これで、伝わる?」
審神者がぎゅっと背中に腕を回し、厚い身体を強く抱きしめる。富田江の胸に顔を埋めると、肌触りのいいニットが彼女の頬に押し付けられた。その奥から、彼自身の香りが薫る。その温もりに包まれて、目の奥がつんと切なくなった。
富田江の表情は窺えない。けれど、少しだけ——ほんの少しだけ、感じる鼓動が忙しないと感じた。
「私も、富田と他人のままなの、嫌だなって思ってた」
「……それが、君の答え?」
審神者は頷く。日が落ちて人通りはまばらとはいえ屋外だ。この時間なら特に、浮かれたカップルがイチャついていると見られてしまうだろう。
それが恥ずかしくて、審神者はそろりと富田江から身を離した。二人の間に生まれた隙間に冷たい風が通って、火照った頬を冷ます。赤くなった顔は、暖色の街灯が隠してくれるはずだと信じた。
再び隣に腰を下ろした富田江の表情は、一見普段と変わらないように見えた。告白をしたのはあちらだというのに自分ばかりが動揺していることが悔しくて、審神者は口を一文字に結ぶ。
そんな彼女の気持ちを読み取ったのか、富田江はくすりと笑い、飛びついたせいで乱れた彼女の髪を撫でた。審神者を見つめる金色の瞳は、何よりも雄弁に彼の気持ちを語っていた。
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