刻んで溶かして
「あるじさんは富田さんに本命ちょこ渡すの?」
「えっ?」
ぐしゃりと審神者の手元で書類がひしゃげる。文机で書き物をする彼女の隣で頬杖をつく乱藤四郎は近侍ではなく、ただの茶々入れだ。審神者がその手で初めて顕現させた愛くるしい懐刀は、こうして時折時間を持て余しては彼女の元へ遊びにやってきていた。
審神者の隣に座る近侍のへし切長谷部が、態とらしく咳払いをして審神者の意識を仕事に戻らせる。締切間近の書類が溜まっており、日替わりの当番表の順番を変えてまで彼に補佐を頼んでいるのだ。主命を何よりの褒美とする彼はそれを負担に思うどころかはらりと心に歓喜の花びらを舞わせたが、これで締切を破っては面目が立たない。
早くあるじさんと話したいな、という顔を隠さず頬杖の上で丸くて可愛らしい頭を揺らす乱藤四郎に後ろ髪を引かれながら、なんとか審神者は書類を仕上げへし切長谷部に漏れがないかの確認をさせる。彼は「確認致しました。これは俺から管狐へ回しておきます」と渡された書類を手元で揃え、席を外した。
「えーと、なんだっけ? チョコ?」
「そう。あるじさん、昔言ってたよね! 好きな人に渡す時は本命ちょこって」
「あー……言ったっけね」
この本丸始まりの一振りである歌仙兼定は暦の行事を重んじる性質で、彼の先導で本丸では発足当時から行事ごとをしっかりと行なっていた。それは今も続き、先日も節分の日に豆を撒いて恵方巻を食ったばかりだ。
思い返すのは本丸で迎えた初めての二月のこと。糖衣に包まれた甘い豆を年齢分食べていた審神者が「バレンタインもやるの?」と尋ねたところ、一際興味を示したのがこの乱藤四郎だ。
刀剣が武器としてではなく宝物として扱われる近代の日本文化であるところのバレンタインデーに彼らは疎かった。お世話になった人や好きな人にチョコレートを渡して気持ちを伝える日なんだよと教えると、「いい風習じゃないか」と歌仙兼定もお気に召したらしい。それ以降本丸のカレンダーにはバレンタインデーが刻まれることとなった。
今更お菓子会社のマーケティング由来で本来はもっと別の意味がある日なんだよと訂正する気力も、正しく説明するほどの知識も審神者は持ち合わせていない。短刀たちがお菓子がもらえる日と認識して喜んでいるのを見てまあいいか、とその後数年間に渡って律儀にチョコレートを用意し続けたのである。
しかし、本丸の規模が大きくなると対応が難しくなってくる。お菓子作りというのはなかなか工程が多く、料理以上に精密さが求められる。丸一日かけて百に及ぶほどの数のチョコレートを仕上げるのは、素人の審神者には骨が折れた。
行事ごと無くしてしまうことも考えたが、その年に来たばかりの刀剣男士らが古株からバレンタインデーの話を聞き楽しみにしていたこともあって、今年から中止ですと言うのは憚られた。料理上手な刀に手伝って貰う案も上がったものの、彼らが欲しいのは希少な『審神者の手作りチョコレート』である。
議論を重ねた結果、量を用意しやすく、且つ茶色いものならいいのではないか、という結論に至った。そして現在、この本丸では二月十四日の夕餉に審神者特製のカレーが振舞われることとなっている。
甘いものを好まぬ刀剣男士にも評判が良く、カレーのバレンタインデーは今年で三年目だ。これまではスタンダードなカレーを辛さごとに鍋を分けて作っていたが、今年は変わり種もアリではないか——なんて考えていた矢先のことだ。乱藤四郎に本命チョコの話を持ち出されたのは。
昨年顕現したばかりの富田江と、審神者は恋仲であった。童話の中から飛び出してきた王子様のような気品ある容姿にまず惹かれたのは間違いないが、誰もが口を開きたくなる圧倒的な包容力と、そのうえで自己のことは全く開示しない彼のミステリアスな部分に少しずつ心を動かされ、気が付けば夢中になっていた。
審神者が願いを持てば言わずとも察し取り叶えてくれる男である。きっと本人にその意思がなくとも、彼女の気持ちが知れれば相応のものを返すだろうことは、容易に想像がついた。
そのため、審神者は芽生えた恋心を胸に仕舞い、その感情が息絶えるのをただ待っていた。富田江の前では、命じずとも気持ちを明らかにするだけで職権乱用と同義である。所有者であるという付喪神に対しての圧倒的権力を振りかざし、心を奪うような真似を審神者は絶対にしたくはなかった。
けれどどういうわけか、——いつの間にか事が運んで、今こうして本丸公認の恋人同士として結ばれている。
富田江は聡い男で、審神者はこう言うのは何だが感情が顔に出やすい性質だ。口に出さずとも好意がだだ漏れになっていたのではと危惧した審神者は、こんな関係に転がってすぐに、彼の知己の間柄である稲葉江に相談した。
見るからに恋愛相談には向かない男である。予想通り稲葉江はまともに取り合わず、ただため息を吐くばかりだ。
けれどただ一言、「あれがそうしたいというならば、そうさせてやれ」とだけ彼は残した。口数が少ない男だが、律儀でその言葉は虚飾を嫌う。彼がそんな風に言うならば、この転がるような運命に身を委ねても罰は当たらないのだろうと審神者は思った。
審神者は富田江が根を上げるまでは、ごっこ遊び紛いの恋に付き合ってもらうことにした。そしてそのまま、今では半年の月日が流れていた。
「でもみんなにはチョコレート用意しないのにひとりだけって、他の刀が気を悪くしないかな」
「富田江さんがあるじさんの特別なのはみんな知ってるでしょ? そんなの今更じゃない?」
「それもそうか……でもなぁ」
「なになにっ!? お菓子の話!?」
少し開いた障子から顔を覗かせたのは包丁藤四郎だ。彼はキラキラした目で審神者の部屋へと入ってきて、乱藤四郎の隣に腰を下ろした。
「違うよ、恋の話!」
「へー。じゃあ人妻の話か!」
「結婚してないんだけど……」
どちらにせよ興味あるぞ! という表情で包丁藤四郎は審神者に熱視線を送る。
かつては可愛らしくお菓子を要求してくるだけだった彼だが、富田江との仲が知れてからは「主はいつ人妻になるんだ?」「俺、富田江はいい奴だと思う! だってお菓子くれるから!」と恋人との関係進展まで望まれている。付き合ってはいるものの本当に彼が私のことを好きかはよくわかりません、なんてこんな幼なげな刀に言うこともできず、審神者はその度に包丁藤四郎をあしらっていた。
「本命チョコなぁ……富田ってそういうの気にしなさそうじゃない? 何かあげてもお礼は言うけど感想とか言われたことないし」
「こういうのは気持ちが大事なのっ! あるじさんは富田江さんのことだーいすきなんでしょ?」
「そうだぞ! 夫婦円満の秘訣はこういう細かい愛情表現を忘れないこと……って書いてた!」
「どこ情報?」
「おなごちゃんねる!」
「………………」
審神者は一期一振に粟田口の短刀に支給された端末のフィルタリングを強化させようと心に決め、閉口した。
本命チョコを手作りなんて何年振りだろうか。記憶を遡ってみたが、小学生の頃、クラスで一番足の速かった林くんにチョコレートを溶かして固めてデコレーションしたものを贈ったのが最後だ。林君は誰に対しても裏表のないさわやかな少年で、クラスの女子の憧れの的であった。あのまま成長していたら、今頃豊前江のような男前に育っていることだろう。
懐かしい記憶に思いを馳せた彼女は、短刀二振りが部屋を出た後に電子端末で「クッキー レシピ 簡単」と検索した。
審神者は早速、厨番長の燭台切光忠にバレンタインデー当日深夜の厨房使用許可を取り、小豆長光に去年導入された最新型オーブンの使い方を訊ねた。長船の色男たちは理由を知るとそれぞれ色っぽい声と優しい微笑で承諾し、自分一人で作りたいという彼女の意図を汲んで助言をしてくれた。
寝ずの番以外が寝静まった時間帯、彼女は厨房に立ち、タブレット端末でレシピに長船二振りの助言を書き加えたものを見ながら調理に臨んだ。
数度試作を繰り返すうち、厨房には甘い香りが充満する。そんな中、何とか空が白む前に見た目・味共に満足がいく仕上がりのクッキーを完成させることが出来た。予め用意しておいたプレゼントボックスに出来のいいものを詰めてリボンをかけると、それらしい見た目になる。
短刀二人にそそのかされて数年ぶりに挑んだお菓子作りだったが、やってみるとなかなか楽しいものだ。審神者は心の中で二振りに感謝を述べ、後片付けをした後に出来上がったクッキーを部屋へと持ち帰った。
「用意している材料の量を聞いた時に言うか迷ったんだけどね。……これでは昔とあまり変わらないんじゃないかな」
「い、いやこれは失敗作をみんなに好意で消費してもらっているだけであって……」
「まぁまぁ。こどもたちのえがおがみられてよかったじゃないか。わたしもきみおてせいのおかしをくちにできてうれしいよ」
結局、審神者が本命チョコを完成させる過程で生まれた試作品たちは短刀たちのおやつとして振舞われた。
この後カレー作りが控えている審神者に、燭台切光忠が苦笑する。彼女の負担を案じてくれているのだろう。あくまでクッキーは見た目や多少の焦げを気にしない方はどうぞという体であるので、審神者としてはこれを贈り物とするのは憚られた。
試作品の一部を燭台切光忠と小豆長光に試食して貰いお墨付きを頂いたことで、審神者はほっと胸を撫でおろす。
富田江が編制された遠征部隊は、夕飯前に帰還する予定だ。普段の彼を思えば特別なリアクションは望めないことは承知の上だが、それでも手渡す時を想像し、審神者は胸が高揚した。
「それじゃ、僕たちはそろそろ厨へ行こうか」
「うっ、これからが本番だ……」
「野菜を切るのは僕も手伝うから。頑張ろうね」
審神者は燭台切光忠に促され腰を上げる。部屋を出る前、口いっぱいにクッキーを頬張った短刀たちに礼を言われて、審神者は心が温かくなるのを感じた。
本丸バレンタインカレーの大なべは三種用意されている。激辛・中辛・甘口の三種だ。早い者勝ちではあるものの味が選べて、審神者がルーをよそってくれる、という仕組みであった。審神者は懐かしの給食当番になった気持ちで、順番に刀剣男士の選んだカレーを白米の乗った皿によそっていく。中辛鍋の中身が半分を切ったあたりで、富田江の順番が回ってきた。
「富田、遠征お疲れ様。カレーどれにする?」
「今日は君が腕を振るってくれたそうだね。君はどれを食べるのかな」
「私?」
審神者は三つの鍋の中身を見比べる。今のところ嵩の減りが遅いのは甘口だろうか。辛いものを甘くするのは難しいが、その逆は比較的容易なため、人気のある中辛の次に多く作られている。審神者は最後に残ったものを食べるつもりだったので、「甘口かなあ」と答えた。
「では私もそれを頂こうかな」
「わかった、甘口ね」
審神者は他の鍋に比べてやや明るい色のルーを富田江の皿に流し込んだ。
礼を言って受け取ろうとする彼に耳打ちするように、審神者は小さな声で「あのね、あとで部屋に来て欲しいんだけど」と囁く。富田江は彼女の様子からそれはこの本丸の主としての命でなく恋人としてのお願い事だと察して、少しだけ甘い声で「湯浴みのあとでいいかな、伺うよ」と返した。
甘口カレーの隠し味である蜂蜜よりも甘い声色に、審神者の頬がぽっと色づく。富田江の後に順番待ちをしていた稲葉江の眉間に濃い皺が出来ているのを見て、審神者は何も聞かず「激辛ね」とやや赤みの強いルーを彼の皿によそった。
一夜明け、二月十五日の朝だ。
審神者は富田江の腕の中で目を覚ます。本命チョコの件に加えてここ数日富田江が遠征のため本丸を留守にしていたこともあり、昨夜ふたりは殊更甘い時間を過ごした。
掛け布団の隙間から冷えた外気が流れ込み、審神者は思わず心地よい温もりに身を寄せる。肌が触れ合った部分から、体だけでなく心まで暖まるようだ。彼女の身動ぎで目を覚ましたのか元から起きていたのか、富田江が長い睫毛の隙間から彼女を見つめ「寒い?」と少し掠れた声で尋ねた。
「ちょっとだけ」
「こちらへおいで」
富田江に抱き寄せられ、審神者の身は彼の腕の中にすっぽりと納まった。
二組の布団をくっつけて並べているが、敷布団はほとんど一枚しか使われていない。掛け布団と毛布も二枚ずつ用意されていて、けれど油断すると富田江はすべてで審神者を包んでしまうので、彼女は富田江の肩や足がはみ出していないか冬場は特に気にかけていた。
「富田、足出てるよ」
「私はいいんだ。君を抱きしめていると暖かいからね」
富田江の言葉に審神者は何も返せなくなって、照れ隠しをするように布団の中に深く潜り直す。すると、ぴたりと冷たい彼の足が彼女のつま先に触れた。罪の証拠を掴んだかのような顔つきで審神者は「やっぱり足冷えてるじゃん」と彼の胸元から顔を上げて睨む。富田江の脛は長い間布団の外に出ていたのか、氷のように冷え切っていた。
「はは、ばれてしまった」
「ばれてしまった、じゃないよ。足曲げて」
「こうかな」
「きゃっ」
富田江の冷えた足が審神者に絡められて、彼女は小さく悲鳴を上げた。
恋人となってしばらく経ってから、彼女が戯れを求めていると知ると、富田江はこういう悪戯をするようになった。審神者の心は素直に浮ついて、喉がきゅっと苦しくなる。
たとえ富田江が審神者に呼吸を合わせて恋人らしく接してくれているだけだと分かっていても、速まる鼓動を制御することが出来なかった。富田江の心が彼女のように震えることはなくとも、応えたいと思ってくれている内は彼に甘えていたい。
審神者は熱い胸にチクリと刺す痛みをなかったことにして、絡まった足を自らの足の甲で擦る。彼の素足に審神者の体温がうつっていくように、胸の内で燃え上がるような恋の熱が少しでも彼に伝わればいいのに。そんな風に念じながら。
幾度も試作を重ねた末に出来上がった見目のいい本命チョコの手応えは概ね審神者の想像通りであった。
手渡せば「私が頂いてもいいのかな。ありがとう」と彼は微笑み、後日感想を聞けば「色々な味が入っていて私のことを考えてくれたんだと伝わったよ」と一人で完食した旨を伝えてくれた。
本命チョコについては簡単に説明したものの、江のみんなで食べようと言い出すのではないかと危惧していたため、ひとまずすべて富田江の胃に収まったと知れただけでも十分だ。おまけに篭手切江辺りから教わったのか、「一月後に三倍のお礼をするのが習わしだそうだね。楽しみにしていて」と言われたのだから、これ以上を求めるのは強欲が過ぎるだろう。
審神者が自室で次の任務に関する資料を捲っていると、来客があった。篭手切江だ。
新しい衣装を制作したいとのことで、彼の手には費用申請書があった。審神者からの了承を得た後、勘定番長に回されることになっている。もうすぐ審神者の就任祝いの宴が開かれるため、それに備えてくれているのだろう。
審神者が承認印を押すと、篭手切江はそれを受け取り、満面の笑みを浮かべる。これから制作に取り掛かる衣装のことで頭がいっぱいなのだろう。篭手切江の笑顔に釣られて審神者が頬を緩めると、篭手切江は思い出したように口を開いた。
「そういえば、富田せんぱいすごく喜んでいましたね」
「えっ、富田? なんかいいことあったの?」
「何を言っているんですか! 本命ちょこ、ですよ!」
バレンタインデーからは既に一週間の時が流れ、審神者の中ではもう既に達成感を噛みしめ終えていた。確かに礼を言われはしたが、いまさら蒸し返すほどの大層なリアクションではなかったと記憶している。
審神者以上に他人の機微に鋭く、聡い篭手切江だ。そして彼は人のいい刀だが、過剰なおべっかを使ったりはしない。彼女が違和感を感じながら「篭手切から見て喜んでるように見えたなら、よかった」と曖昧に返すと、彼はとっても意外そうにメガネの奥の瞳を丸くした。
「その顔、あまり信じてないですね」
「だって富田だよ? 飛び跳ねて喜ぶとか、そういうわけでもないし。まぁ元々自己満足みたいなものだったから気にしてないんだけど……」
篭手切江は少しの逡巡の後、審神者に顔を寄せた。審神者もそれに倣い篭手切江の言葉に耳を澄ませると、彼は声量を抑えてこんなことを囁いた。
——本命チョコを贈った翌日、つまり二月十五日の昼頃。富田江は篭手切江の部屋を訪ねた。彼が所有している電子端末を貸してほしいのだという。
この本丸では電子端末を、武功の褒美として希望者に貸与していた。富田江は顕現してまだ日が浅く、特に必要としていなかったため、自分のものを所持していない。篭手切江が情報収集やれっすんでそれを使いこなしているのを知っていたので、富田江は彼に助力を求めに来たわけだった。
何か調べ物でもしたいのかと思った篭手切江が富田江を部屋に招き入れ理由を訊ねると、富田江が取りだしたのが審神者から贈られたというクッキーの入った箱だったという。現代文化に詳しい篭手切江は、一目見てすぐにこれが所謂本命チョコであると理解した。
——あの子が手ずから作ってくれたそうだよ。日持ちしないからすぐに食べてくれと言われたのだけど、胃に収めてしまうのも勿体なくて。かといって腐らせてしまうのも忍びないからね、せめて写真を撮って残しておきたいんだ。
表情こそ普段とそう変わりないが、声には喜色が滲んでいる。彼らしくもなく感情を露にした富田江の言葉に感動した篭手切江は、いてもたってもいられず押し入れから大業な一眼レフカメラを持ち出してきた。
元々はめんばあのあー写やぶろまいどの撮影用に購入したものだが、まさかこんなところで出番がやってくるとは。光のよく入る窓際に箱を置くと、篭手切江は至る角度から写真を撮り、現像ソフトで整え、ぷりんたーを持っている刀剣男士に頼んで印刷してもらった。今ではクッキーが入っていた箱の中にその写真が収まっているという。
「富田せんぱいからお願いをされたのが初めてだったので……よほど主からの贈り物が嬉しかったんでしょうね」
話を聞き終えた審神者は頬のみならず耳まで真っ赤に紅潮していた。篭手切江の言葉から愛おしい彼の姿を想像して、胸がギュッと締め付けられる。目の前にいない彼に、今すぐ飛びつきたくて堪らなかった。
審神者は自室を出ると、稲葉江と富田江二振りの部屋へ向かった。今日はどちらも当番に当たっていないはずなので、運が良ければどちらかはいるだろうという見立てだ。稲葉江しかいなければ、居場所を尋ねれば知っているはずである。
彼らの部屋に近づくにつれ、聞き覚えのある声が審神者の耳に入ってくる。どうやら二人とも部屋に滞在しているようだ。
審神者が部屋の中へ声をかけようとすると、こんな会話が聞こえてきた。
「いつまでそれを眺めているつもりだ」
「いいだろう。稲葉にはやらないよ」
「いらん。我は貴様のその締まりのない顔が見苦しいと言いたいんだ」
「酷いことを言うね。おや、客人だ」
審神者が口を開くより先に、障子が一人でに開く。開けたのは稲葉江だ。彼は苦虫を噛み潰したような顔で審神者を見下ろした。
二振りの会話に聞き耳を立てていた彼女は、居心地悪そうな顔で「こんにちは、富田いる?」とその場にそぐわないフランクな声色で言う。
「我は出る。しばらく戻らんが部屋は汚すな」
「なっ……散らかしたりしないよ! お邪魔しまーす……」
稲葉江は何か言いたげな顔のまま審神者を部屋へ招き入れると、入れ違いに出て行った。富田江は開いていた箱を閉じて、「どうしたの」と恋人の顔つきで審神者を出迎える。
「えーっとね、篭手切に写真のこと聞いたんだ」
「そう。……なんだか照れ臭いね」
「あっ、聞かれたの嫌だった?」
「そういうわけではないよ。ただ……少し心がくすぐったい、かな。おいで」
富田江が手招きするままに、審神者は彼の元へと近づく。富田江は正座していた膝を開いて、その間に審神者を招き入れ座らせた。
背後から彼女の腹に腕を回すと、審神者の背中からは富田江の体温が伝わってくる。彼女がこうされるのを好きだと富田江は知っていて、ふたりきりの時はよくこの姿勢を取った。
「あのね、こんな風に言うのは失礼かもしれないけど……あんまり喜んでくれてないと思ってたから、写真撮って残そうとしてくれたって篭手切から聞いて、嬉しかったの」
「そんな風に思わせてしまっていたのか。……ごめんね」
審神者が首を横に振る。富田江に強く抱きしめられているせいで髪が僅かに乱れ、彼の腕の上に毛束が広がった。
「本当はただの自己満足のつもりだったの。でも、喜んでくれてるって知ったら嬉しくて……会いたくなっちゃった」
審神者は自身を抱きしめる腕に手を重ねた。広く厚い胸板に体重を預けると、抱きしめる力が強くなる。目を閉じて彼の体温を感じ取ろうとすると、背後から頬を摺り寄せられる感覚があった。
背中越しに伝わる鼓動は、審神者のものよりもずっとゆったりとしている。偏にそれはこうされている時、いつも審神者の心臓は早鐘の如く打ち鳴らされているからだったが、それは彼とて同じこと。触れ合っていないときの鼓動の速度を、審神者は知る由もない。
審神者はふと、彼は自分が思うよりずっと心の内側に自分を居座らせてくれているのではないか、なんてことを考えた。
富田江は誰にでも分け隔てなく穏やかに接し、相手の言葉に耳を傾け呼吸を合わせようとする。それは敵にまで及び、だからこそ審神者は彼を理解しがたい存在だと思っていた。
けれど——彼の深い懐の底が知れずとも、自ら胸の内を語ろうとせずとも、確かに向けられた彼の温もりと優しさを否定する理由にはならないのではないか。こうして愛おしげに身を寄せてくれる彼の気持ちを蔑ろにするのは、心を偽るよりずっと酷いことではないかと思った。
審神者は理由なく目頭が熱くなって、彼の方へ顔を寄せた。審神者の気持ちに応えるように、富田江が口付ける。呼吸を合わせるとはこういうことかと、審神者は富田江と愛し合うようになってから知った。自分が求めただけ、求めた体温を分け与えられる心地よさは筆舌に尽くしがたい。
何度も唇を触れ合わせている内にそれはどんどん深くなって、気が付けば審神者の呼吸は荒いものとなっていた。
富田江の表情は依然として涼し気なものだが、その眼差しには視線の先の恋人を愛おしむような色が滲む。富田江の指先が、涙の滲んだ審神者の目尻を撫でた。
彼は瞼を細め、少し惜しそうに眉を顰めた。それから「……稲葉に部屋を汚すなと言われていたんだった」と独り言のように呟く。
頭に疑問符を浮かべた彼女の髪を大切そうに撫でて、耳元で「続きは夜に」と甘い声色で囁いた。
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