Sink

底なし

 恋人ができてから、審神者は電子端末を肌身離さず持つようになった。
 風呂上がりになかなか乾かさずにいた髪を丁寧に手入れするようになって、短く切り揃えただけだった爪に色が乗るようになった。変化したのは見た目や生活習慣だけでなく、任務にもより熱心に取り組むようになり、元々不出来だったとはいわないがこれまで以上の戦果を挙げている。
 最初こそ、彼女が束ねる刀剣男士たちは審神者の春の訪れによる変化を喜ばしく思っていた。
 風向きが変わったのは秋のことである。
 交際相手である男審神者の元から帰った審神者のメイクがひどく崩れていた。マスカラが下瞼に移り、ラメが頬にまで落ちている。加州清光が施したメイクがこうなったからには、大雨に打たれたか滝行でも行ったか、そうでなければ彼女が涙を流したに違いなかった。
 刀剣男士たちは鼻と目尻の赤い審神者に何があったと問い詰めた。しかし彼女は頑なに口を割らない。
 その時こそ「まあ男女のことだから一度や二度の諍いくらいあるだろう」と見逃されたが、それが三度、四度続けば彼らも黙って見過ごせなかった。
 審神者に恋愛感情を抱いてこそいないが、命に変えても守るべき今代の主である。加えて彼らは男で、審神者は若い娘だ。めそめそと泣き腫らしている姿を見ると、とにかく居心地が悪かった。
 一部の喧嘩っ早い刀は、審神者を繰り返し傷付ける恋人の本丸へと殴り込もうとした。
 うちの主をこれだけ傷つけておいて詫びの一つも入れないなんて許せないとあわや抜刀の大騒ぎだ。温厚な刀らでなんとか物理的交渉を含めた説得をしてその場は抑えたが、彼らとて審神者に対する恋人の振る舞いを許したわけではない。
 審神者を想う刀たちは繰り返し繰り返しその恋人との関係を解消しろと言葉を尽くして頼み込んだが、審神者は頑なにそれを拒絶した。どんなに傷付けられても泣かされても自分勝手に振る舞われても、好きだから離れたくないというのである。
 依存と執着を愛に誤解しているだけだったが、それでも審神者にとっては恋だった。
 いずれ、審神者は刀らに恋人の話をしなくなった。
 彼らの前では涙を見せず、逢瀬の帰りもしらっと平静を装っている。審神者の矜持を傷つけたくなかった刀たちは、その強がりを見守ることにした。
 そんな最中、唯一審神者が恋人の話を聞かせたのが富田江だ。
 彼は本丸中が審神者に強く反対する中で、たった一人「それが君の幸せなんだね」と彼女の気持ちを尊重していた。他人の話に耳を傾け、相手の意思を慮る。そんな生き方が板についていた。
 審神者は富田江と二人きりになるチャンスを伺っては、恋人との惚気を雑談がわりに聞かせた。
 富田江はそれに意見するでもなく、ただ相槌を打つばかりだ。審神者はそれが心地よくて、他人に聞かせるまでもない些細なことや己の内に止めるべき心の動きまでを無意識に富田江に語っていた。
 変化があったのは、雪が降り続くある日のことだった。
 縁側、真っ白に染まった本丸の庭を眺めながら、体の末端を赤くした審神者が座っていた。とても日向ぼっこ日和とは思えない、刺すような寒さが厳しい日だ。
 富田江が思わず審神者に声をかけると、凍りつきそうなほどにそのまつ毛が濡れていた。
「辛そうな顔をしているね、何かあったのかな。よければ私に聞かせて欲しい」
 富田江が薄ら開いた扉から身体を忍び込ませるように、審神者の心の内側へと侵入する。審神者が頷いたのを見て、富田江は氷のように冷えた縁側に腰を下ろした。
 審神者が語ったのは、恋人への負の感情だった。
 性に奔放な彼とそれを理解できず受け入れられない自分。どこからどう聞いたって不貞を働く恋人に罪があるというのに、審神者はまるで自らが大罪人であるかのように苛まれていた。
 依存状態によって視野狭窄に陥り、客観的視点を失っている。傷ましい有様だった。
 それにだって、富田江は変わらず審神者の言葉に静かに耳を貸した。言い訳や建前のような自責が、いつしか子供のような辿々しい口調で苦しみの吐露に変化する。
 ——つらい、くるしい、もうやめたい。
 嗚咽混じりの言葉を、富田江は彼女の背を摩りながら聞いていた。降り頻る雪のように、ただ静かに。
 審神者が一通り気持ちを吐き出し切ると、急にすっと酔いからさめたような顔つきで富田江を見上げた。
「ごめんね、こんな話ばっかり聞かせて。富田にはいっつも甘えて喋りすぎちゃうね」
「君の話を聞くことが私の役目だから」
「……富田は、私に別れろって一度も言ったことがないね」
 審神者が赤い目をかじかんだ指先で擦る。冷え切ってしまったせいで上手く関節が曲がらないらしい。富田江はその手を取って、温めるように自らの手で包んだ。
「君がその男といることを幸せだと思って選んでいるなら、私から言うべきことはないよ」
「……幸せ?」
「そう。私は君の幸せを願っているから。……違うかな?」
 ——しあわせ。
 初めて言葉を知った幼子のような口振で、審神者はそう復唱した。
 表情の抜け落ちた顔は、広がる雪原よりも真白だ。審神者は何かにハッと気がついたような様子で、富田江の瞳を見つめる。
 黄金の双眼は宝石のように美しく、それでいて全てを見通す鋭さがあった。長い睫毛がそれを穏やかに飾り立て、まさに王子様と称される気品を作り上げている。
「幸せ……じゃ、ないかも」
 審神者はそうぽつりと呟くと、富田江の指先をそっと握り直した。穏やかだが心の底を窺わせない微笑みが、彼女をただ見守っている。
「それは、いけないことだね」
「富田、ごめん。私、ちょっと用事ができた」
 審神者は丁寧に富田江の手を解くと、何かに突き動かされるように自室へと走った。
 富田江はその背中を、彼女が角を曲がって見えなくなるまで見送る。その表情は、依然として微笑みが貫かれていた。


 一週間後、審神者と富田江はとある河川敷にいた。
 審神者がわざわざ一振りを選んで出掛ける珍しいことだったので本丸の刀たちは騒然としたが、それはさておき。
 富田江と審神者はここらで一番大きな川沿いを歩きながら、他愛のない話をする。彼女の体を気遣って大量に体にまとわりついた防寒具の数が、彼女を想う刀たちの気持ちを表していた。
「富田って投石得意?」
「ほどほどに」
「じゃあ、これ投げて。なるべく遠くに」
 審神者がポケットから取り出したのは小さな石のついたピンキーリングだった。
「君が望むなら」
 富田江はそれを一目見て、全てを理解する。いつかに審神者の恋人だった男が贈ったものだ。
 彼は頑なに、薬指にはまるような指輪を贈らなかった。審神者はそれを、彼からの心のこもった贈り物を喜べない自分への自責に包んで富田江に語って聞かせたのだ。
 いわくつきのそれを、彼はらしくなく大きな身振りでなるべく遠く、流れの早いところを目掛けて放り投げた。
「……ありがとう、富田」
 審神者の瞳には水の膜が張っている。彼女は頭を振ってそれを払い、取ってつけたような笑顔で富田江を見上げた。
「行こ! 甘いもの食べたい気分! あのね、行ってみたいカフェがあるの。限定のパフェがあってね、結構おっきいんだ。一人だと晩御飯入らなくなって歌仙に怒られちゃうから、一緒に食べようよ」
 必要以上に饒舌な審神者は、今すぐここから離れたいと言わんばかりに足を跳ねさせた。
 富田江は駆け出した彼女から一瞬視線を外して、指輪の沈んだ川を一瞥する。人知れず笑みを浮かべて,それから先を急ぐ彼女の後を追った。


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