Sink

隣人は甘すぎる

「稲葉、買い物付き合ってくれない?」
「……なぜ我が」
「えっ、そんな嫌な顔しないでよ。暇なんでしょ」
 稲葉江が眉間に皺を寄せたのはただの癖であり、なぜ自分をと問うたのは荷物持ちが面倒だったからではない。双璧の片割れである富田江が審神者といい仲なので、そちらが適任だと思ったからだった。
 しかし口数の少ない彼はわざわざそれを説明することもなく、審神者は「面倒だろうが主命なんだから付き合え」という姿勢を崩さなかったため、二人の間に生じた誤解は解かれることなく、彼らは街へ出た。
「富田は非番のはずだが」
「非番だからだよ。休みの日に仕事の買い物付き合わせるの悪いでしょ」
「あれはお前が呼べばいつでも来るだろう」
「だから呼べないんだって。富田は私の恋人だけど、稲葉も私の刀でしょ。文句言わないでよ」
 文句のつもりではないのだが、と思いながら稲葉江は押し黙った。
 今代の主と自身の片割れが恋仲というのは、彼にとって煩わしい事だ。勝手に仲良くしているうちはいいが、面倒ごとが起こった時に巻き込まれるのが避けられない。稲葉江は渋々頷いて、彼女の後ろをついていった。
 審神者は新しく来た刀のためのお守りやその他日用品を買うつもりらしく、いくつか店を回った。
 稲葉江の予想を裏切って、彼女は寄り道せず淡々と必要なものを買いそろえていく。てっきり若い娘らしくあっちへふらふらこっちへふらふらと買いもしないものを眺めることに時間を費やすのだと思っていたので、内心拍子抜けだ。
 しかしまぁ、確かに富田江が顕現するまではこのような女だったかもしれない、と稲葉江は思い直す。
 本来、職務に際しては彼が目を見張るほどに実直な女だった。門外漢であることを恥じず、戦の采配に長けた刀に教えを乞うては学習する。考え方が柔軟で物事をすぐ吸収するから、指導のし甲斐がある。
 そう感じているのは稲葉江だけではないのだろう。だからこそ、曲者揃いの刀剣たちをここまで束ねられているのだ。
 ——と、いうのが富田江が顕現するまでの、稲葉江から見た審神者の印象だった。
 稲葉江自身、冗談でも人懐っこく気さくな性格とはいえない。彼女との会話は、任務に関することがほとんどだった。だから審神者にとっては本来の人間性をさらけ出しただけのつもりなのかもしれないが、稲葉江にとっては彼女の印象を百八十度覆される衝撃だった。
 審神者は、一目見て富田江を甚く気に入ったらしかった。
 容姿に見合った物腰柔らかな態度と、篭手切江の案である『江の刀の王子様』というフレーズが彼女の心を射止めたようだ。審神者の態度を見てもそれは明らかだったので、「主が新しい刀にお熱らしい」というのはあっという間に本丸中に広がった。
 当然、双璧の片割れである稲葉江はそんな二人を間近で目の当たりにすることになる。
 将でありながら戦術においては教え子であった彼女が片割れに対し黄色い声を上げている姿を見るのは、正直なところ複雑な心境だった。けれど、公私混同することなく兵としては平等に扱い、権力を行使したりすることもない。彼女を娘のように寵愛する古株刀の「今まで年頃の娘らしいことをさせてあげられなかったんだから」という後押しによって、審神者のそういった振る舞いは肯定的に捉えられていた。
 審神者が一方的に熱視線を富田江に送り、彼の一挙一動に「カッコよすぎる」「王子様みたい」とキャーキャー腑抜けた声を上げているうちはまだよかった。「稲葉って同担拒否じゃない?」と謂れのないレッテルを張られ意味不明な質問をされていたのも、今思えばかわいいものだ。
 それがどうしてこうなったのか。問題は富田江が彼女の気持ちに応え恋仲となってからだった。
 乱藤四郎は「あるじさんの熱烈ラブコールが富田江さんに届いたんだね!」なんて言っていたが、稲葉江からすればそれは全くの見当違いだ。
 いくら彼が刀剣男士として、主の願いに応えることを自身の役割として認めその魂を人の身に宿したとはいえ、そう易々と絆されるような玉ではない。二人がそういう関係に至ったからには、間違いなく富田江の意志が介在しているはずだと稲葉江は考えた。
 審神者のあの態度だって、富田江の意にそぐわないものであればそれとなく言いくるめて本人すら気付かないうちにあしらうことだって出来たはずだ。そんな男がそれどころか想いを通わせたということは——これ以上は野暮である。
 これに気付いている刀がほかにいるかは知らないが、稲葉江はそれを口に出したことはない。面倒なことになるのが目に見えていたので。

 買い物を終え、稲葉江の腕には結構な量の荷物がぶら下がっていた。買い忘れがないか、審神者が買い物メモを照合している間、稲葉江は周囲を見渡した。
 ふと、見慣れた姿が目に付く。同じ本丸の富田江だ。凝視すると、店先で店員らしい女性と話し込んでいるのだとわかった。盛り上がっているのか、双方その表情は明るい。
「稲葉、どうかした?」
「……何も。不足はなかったか」
「うん。何見てたの?」
「気にかけるほどのことではない。用が済んだなら帰るぞ」
 たかが店員とはいえ、恋人がよその女と談笑しているのを見て楽しい気分になりはしないだろう。稲葉江なりに気遣って話を逸らしたつもりだったが、審神者の好奇心がそれを上回った。彼の制止も聞かず、彼女は稲葉江の視線の先を探す。
「あれ! とみ……た?」
 恋人を見つけて弾んだ声が、一語ごとに沈んでいく。だから言わんこっちゃない、と言わんばかりに稲葉江はため息を吐いた。
 富田江と店員はこちらの視線に気付かないまま、談笑を続けている。商品が入っているであろうショッパーを手渡す指先が触れ合っているように見えた。
 寂しげに眉尻を下げる審神者を見ていられず、稲葉江は何か一言声をかけようとした。しかし、そんな気の利いたことが言えるほど彼は器用ではない。
 しばらく沈黙が続いて、見つけてしまったからにはと「合流するか?」と彼は尋ねたが、審神者は首を横に振った。行きは饒舌だった唇が、帰りはほとんどずっと閉ざされていた。


 本丸へと帰ったあと、審神者は「ちょっと体調悪いかも」と言い出して自室に引っ込んで、夕飯の席にも出てこなかった。
 最初こそ落ち込んでいるところをそっとしておいて欲しいがための方便かと思っていたが、どうやら本当に体調を崩しているらしい。これが一日、二日と続けばさすがの稲葉江も気がかりだ。富田江も恋人の身を案じ、審神者の看病をしている前田藤四郎を度々捕まえては彼女の容態を訊ねていた。
 ひとつ例外を許せばきりがないため、審神者の負担を考えて見舞いは一律禁止されている。恋人といえどそれは叶わず、ゆえに看病係伝いでしか審神者の状況を伺い知ることができない。それを富田江はもどかしく思っているようだった。

 稲葉江と富田江が手合わせのあと湯浴みに向かおうとしていると、ちょうど桶を持った前田藤四郎に鉢合わせた。審神者の体を清めるための準備をしているようだった。
 富田江が聞くより先に、前田藤四郎は「主君なら今朝は熱が下がって朝食も完食されましたよ」と言う。それを聞いて富田江はほっと表情を緩ませた。
 口数の少ない稲葉江と本心を多く語らない富田江が理解し合うには、話すより刃を交わすのが最も手っ取り早い。先ほどの手合わせでも、ごく僅かに富田江の太刀筋に乱れが見えた。
 稲葉江が思っている以上に——否、もしかすれば当人も気づいていないほどに、彼はあの娘に執着しているのかもしれない。
「ただの風邪と言っていたけれど、こんなに長引くものかな。あの子は体が弱いの?」
「病弱ではないですが、心労が体調に出やすい方ではありますね。ここのところは穏やかに過ごされていると思っていたのですが……稲葉さんは何かご存じありませんか?」
「……なぜ我に問う」
 突然話を振られて困惑する稲葉江に、前田藤四郎はさも当然と言わんばかりに言い放った。
「主君が寝込まれる前に一緒に外出されてましたよね。何か変わったところはありませんでしたか?」
 その言葉に、富田江の視線が稲葉江に突き刺さった。
 初耳だけど、と言わんばかりに見つめられ、稲葉江は返事に窮する。心当たりがあるとすれば富田江と例の店員の件だが、そういうことは言わぬが花だ。彼女の名誉のためにも明かすべきではない。
 はぐらかすにも嘘をつくにも、相手が悪すぎた。富田江がその気になれば、いくら口の堅い稲葉江だろうと望む言葉を引き出すことができるだろう。常々「本気になれ富田」と言っている稲葉だが、彼が本気になってほしいのは斬り合いであって舌戦ではない。
 散々迷った末に、稲葉江は「我が言えることはない」と黙秘を貫いた。嘘ではない。知っているとも知らないとも答えないだけ。稲葉江の意図を察したのか、富田江はそれ以上食い下がることもなく、話はそれで終いになった。
「あの子の元へ行くところだろう? 長々と引き留めて悪かったね」
「いえ、失礼します」
 前田藤四郎は深々と礼をして、去っていく。穏やかな笑顔で富田江はそれを見送った後、「お前とあの子がそんなに親しいとは知らなかったよ」と釘を刺すような調子で言った。稲葉江は「だから言ったのだ」と審神者とのやりとりを思い出す。こんな面倒になるなら、やはり買い物になどついて行くべきではなかったと後悔した。
「主の護衛も任務の一環だ。貴様こそ、そんな狭量な男だったとはな」
 苛立ちを隠さずそう返すと、言い返されると思っていなかったのか、一拍、富田江は面食らうような表情を見せた。しかし、それはすぐに普段のゆとりある微笑へと変わる。
「そうだね。私自身も驚いているけれど」
「……否定しない、か」
「そりゃ、惚れてるんだから。嫉妬くらいするよ。お前相手でもね」
 富田江は稲葉江にすら、滅多なことでは本心を語らない。自らの考えを明かさず、人の言葉に耳を傾ける癖がついていた。
「……そんなにいいのか、あの娘が」
 そんな彼が珍しく心の内を吐露したものだから、稲葉江はらしくなくそれを追及した。富田江はやわらかく目を細め、「際限なく応えたくなるくらいには」と、目の前にいない彼女を愛おしむような表情を見せる。その顔つきは、言葉以上に雄弁に恋人への愛を語っていた。
「我に惚気るな」
「ははっ」
 富田江は稲葉江の渋い顔を見て、声を立てて笑った。
 廊下を冷たい風が吹き抜ける。富田江が身震いし、稲葉江も寒気に表情を強張らせた。
 人間ほどやわではないとはいえ、このまま汗にまみれた肌を冷たい空気に晒し続けていては風邪を引きかねないと、二人は顔を見合わせる。
「……湯浴みへ行くか」
「そうだね。あの子が治った後、私たちが倒れていたのでは話にならないから」
 彼らはそろって足早に浴場へと向かい、湯船に浸かって体を温めた。


 二日ほどして、審神者は復帰を果たした。
 熱が下がった後も、咳が長引いていたらしい。前田藤四郎曰く、看病するよりも「もう平気だから」と言って聞かない主君を寝かしつけることの方が苦労した、とのことだった。
 富田江の件で心を病んだのでは、という稲葉江の見立ては外れていた。審神者の間で喉風邪が流行っているらしく、数日前の演練相手がひどくせき込んでいたからそれを貰ったのだろうという。その程度で精神を病んでいては将など務まるものか、と内心厳しい目で見ていた稲葉江は、それを聞いてやや安堵した。
 ここのところ消化にいい食事ばかり続いていた彼女のために、食卓には彼女の好物ばかりが並んでいる。「もちろん、しょくごのでざーともよういしているからね」と小豆長光に言われ、少し痩せた審神者は目をキラキラと輝かせていた。
 審神者は彼女に懐いた刀たちに囲まれ、相手をするあまり箸を進められずにいた。5日余り部屋に篭りきりで顔を合わせていなかったから、寂しいのはお互い様だったようだ。このままでは料理が冷めてしまうと、見かねたこの本丸始まりの一振りが群がる刀たちを散らせる。そんな様子を、稲葉江の隣で富田江が見つめていた。
「……いいのか」
「ん? あぁ、夜に時間を貰う約束をしているから」
 富田江は「お前がそんなことを気にするんだね」と揶揄うように笑ったのを見て、余計な気を回さなければよかった、と稲葉江は思った。
 味噌汁を啜ると、馴染みのない舌触りがある。お椀の中を見ると、野菜が飾り切りされていた。審神者を喜ばせるためのひと手間が稲葉江のお椀に紛れ込んだのだろう。ただでさえ多忙な厨当番にこんなことをさせるなんて、つくづく刀たらしな娘だと思った。

 その翌日の晩、稲葉江が自室でひとり行燈の灯りをたよりに本を読んでいると、審神者が騒がしく部屋を訪ねた。
「稲葉! 稲葉稲葉稲葉」
「喧しい。聞こえている」
 同室の富田江は今朝から遠征に出ていて不在だ。一体何の用だと思いながら襖を開けると、見下ろした審神者の髪はしっとりと濡れている。風呂上がりにろくに乾かさないままここへやってきたらしい。
「髪を乾かせ。また風邪を引いても知らんぞ」
「うんあとでね。それよりさぁこれ見てよ」
 稲葉江の小言をさらりと流し、審神者はベルベット生地のアクセサリーケースを取り出した。「じゃじゃーん」という効果音付きでその中から現れたのはゴールドのブローチだ。翼の意匠が施されたそれは、光沢や細工の繊細さからして、一目で高価なものだとわかる。
 全てを察した稲葉江はため息を飲み込んで「……富田か」と答えた。
「そう! よくわかったね」
 よくわかったも何も、これで察せないほどの愚鈍はこの本丸にはいないだろう、と稲葉江は思った。
 呆れた彼をよそに、審神者はそれに構わず「だいぶ前にテレビでね、カップルの彼氏が彼女にサプライズプレゼントする企画やってて、それ見ていいな〜って言ったのを覚えててくれたの。前に稲葉と買い物行った日あったでしょ? あの時に買ってくれてたんだって!」と一方的に捲し立てる。はなからそんなことだろうと思っていたので、特に驚きはなかった。恋人を思って話をしていたなら、街で見かけたあの表情にも納得がいく。
 それよりも、このいかにもなデザインはどうなのだ、と稲葉江は眉間に皺を寄せた。
 加賀百万石の前田家に伝来する富田江が選んだのだから当然品は良いものだが、見る者が見ればすぐに牽制だと気がつくだろう。
 審神者はそんなことを知ってか知らずか、呑気にただ恋人からの贈り物というだけで大喜びしていた。
「話はそれだけか」
「えっ、うん」
「…………」
 稲葉江の冷めた反応が気に召さなかったのか、審神者はブローチをアクセサリーケースに仕舞い、それを大事に寝巻きのポケットへと戻した。
 髪から滴った雫が首筋を流れ、寝巻きの布にシミを作っている。幼稚で情緒のかけらもないが、誤った気を起こす者がいないとも限らない。稲葉江は「なぜ我がこんなことを言わねばならんのだ」と思いながら、鋭い口調で「こんな時間に男の部屋に来るな」と非難した。
「だって昼間は溜まってた仕事で忙しかったんだもん」
「明日で良かっただろう」
「早く言いたくて。それに、男の部屋って。稲葉だよ?」
「それでもだ」
 審神者は納得がいかないらしく、不思議そうに首を傾げていた。
 稲葉江はなんとなく、この瞬間富田江の気持ちを察した。富田江以外眼中にない様子だが、それゆえかあまりにも脇が甘い。そして、無自覚の刀たらしだ。
「富田はそういうの気にしないと思うけど」
「……どうだかな」
「え? なんて……わっ」
 稲葉江は審神者の返事も聞かず、襖を閉めて彼女を締め出した。これ以上巻き込まれては敵わない。左右から惚気を聞かされるだけでも耐え難いのだ。
 続きを読もうと稲葉江は本に手を伸ばす。しかし、まだ部屋の外に人影を感じて、彼は観念したようにもう一度襖を開いた。
「送るから部屋へ戻れ。髪を乾かして寝ろ」
 稲葉江の言葉に、審神者は屈託なく笑う。この本丸の刀は例外なく彼女に甘すぎる、と稲葉江は指で眉間を押した。


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