わたしの通う高校の最寄駅には南口と西口があって、高校へは西口から出るのが最短ルートだ。だけど私はここ最近、毎朝南口から出て遠回りをして学校へ向かっていた。 そんな物好きは、わたしの他にもいた。同じ制服を着た女子生徒は南口を出ると、同じ扉に吸い込まれていく。そこは、地域の住民に親しまれるパン屋さんだった。 今朝も私はいつもより一本早い電車に乗って、南口を出た。 店に入ってトングとトレイを手に取り、その日の気分でパンを選んでトレイに乗せる。そしてチラリとレジを見遣り、パンに悩むふりをして会計列が途切れるのを待った。タイミングを見計らってレジへ向かい、トレイをカウンターに置く。 「いらっしゃいませ」 レジに立つ青年の、不思議な色をした瞳と視線が交わる。パン屋らしからぬ微笑みに狂わされた女の人は少なくないだろう。気恥ずかしさから、つい下を向いてしまった。 トレイの上のパンは彼の手により次々とお店のロゴの入った袋に収まっていく。彼の視線がレジに向いている間に、チラリとその顔を盗み見た。 形のいい眉と長いまつ毛、すらりと通った鼻筋。造形は立体的なのに、驚くほど顔が小さい。美人と称するには男性的な魅力がありながら、どこか艶やかで端正な顔立ちだった。 「二点で380円です」 おまけに、薄く色っぽい唇から紡がれる声まで蠱惑的ときた。 彼に見惚れていたわたしはその声でハッと我に返り、鞄から財布を取り出した。いつもはアプリ決済で買い物をすることが多いけれど、この店でだけは現金を使う。その方が、長くレジの前にいられるからだ。 会計を済ませ、おつりとレシートを受け取り、それらを財布に仕舞った。彼からパンの入った袋を受け取る。緊張の一瞬だ。ほんの僅かに手が触れただけで、わたしの心臓は大きく跳ねた。 「ありがとうございましたー。今日も頑張ってね」 「は、はい! ありがとうございますっ」 ゆるい笑顔に見送られ、わたしはお店を出た。心に花が咲いたような心地で、足元がなんだかふわふわする。このひとときのおかげで、憂鬱な授業がある日もなんとか乗り越えられそうだ。 入れ違いに、同じ制服を着た女の子が店に入っていく。彼女の目当てもきっと、彼なのだろう。少し緊張した面持ちを見れば、すぐにわかった。 パン屋のパンダさん——彼は、そんなあだ名で親しまれていた。 ——南口のパン屋に、とんでもないイケメンが働いている。 その噂は、瞬く間に校内に広まった。話題が大きくなるごとに、生徒たちは好奇心から店へ足を運び、そして彼は生徒を次々と虜にした。 襟足で緩く結んだ髪、気の抜けた笑顔、アンニュイなオーラ。そして何より、海のような不思議な色の瞳。爽やかな朝には似つかわしい色気と常人離れした美貌は、一度見たら忘れられない。 『パンダさん』とは、彼がパン屋の制服の胸ポケットにパンダのマスコットがついたボールペンを指していることからついたあだ名だ。ファンシーなパンダと彼の色気はミスマッチで、それが不思議とより可愛く見えてしまう。勇気ある生徒が名前や連絡先を聞き出そうとしたが、毎度躱されてしまうので、いつしかこの名が定着した。 「はぁ……今日もほんっとにかっこよかった。頑張ってね、だって」 「へーよかったじゃん」 「パンダさんに会うために学校に来てるようなもんだもん。はー、癒し……」 「ふぅん」 パンを食べ切ってしまうことが勿体なくて、ゆっくりと食べ進めるわたしの向かいで、友人は興味なさそうにお弁当をつついている。 毎日一緒に昼食をとる友人は、これほど話題になっているにもかかわらず、パンダさんに一切興味を示さなかった。何度か「一緒に見に来てよ、すごくかっこいいから」と誘ったことはあるが、「お弁当あるから」と断られてばかりだ。 彼女のお弁当は毎朝お兄さんが作っているらしく、いつも彩り豊かでとても美味しそうだ。そのお兄さんもとてもカッコいいので、顔の綺麗な男の人には見慣れているから、興味がないのかもしれない。 「お願い! 一度でいいから一緒に見に来てよ」 「ええ……早く家出ないといけないじゃん。お弁当あるし、いいよ」 「朝電話して起こすし、なんならわたしがパン奢る! お昼じゃなくても、おやつでもいいじゃん」 「うーん……そこまで見て欲しいの?」 「さぁちゃんと共有したいの! このカッコよさを! ときめきを!」 あの顔を見ずに人生を終えるなんて損だよ、と力説すると、友人は「そんなに?」と笑う。わたしがあまりにしつこく食い下がるものだからさすがに哀れになってきたのか、友人は諦めのため息をつくと、「わかった」と了承した。 「ほんとっ?」 「そこまで言うなら、一回だけだよ」 「やったぁ」 浮かれたわたしは、勢いで大きく口を開けて、大事に食べていたカレーパンに齧り付いた。友人は苦笑し、売り物のような出来の卵焼きを口に運ぶ。 「本当に綺麗な顔してるんだよ、この卵焼きより綺麗!」 「それは……相当だね」 半分に切り分けられた卵焼きのうち、片方がわたしの前に差し出される。口を開くとほんのり甘く優しい味わいの卵焼きが転がり込んできた。 翌朝、わたしは友人にモーニングコールをしてなんとか早起きをしてもらい、南口で待った。 友人は眠そうに目を擦り、あくびを噛み殺している。浮かれたわたしは友人の手を引いて、パン屋へと向かった。 店の前からガラス越しに店内の様子を窺うと、パンダさんはいつも通りレジに立っている。少しだけ早い時間に来たおかげで、店内は空いていた。 「さぁちゃん、あの人! レジの! 見える?」 「見える……けど、顔はよく見えないな」 「中入ろっ、はやく!」 友人の腕を掴んだまま、わたしは店内へと入った。 ドアの上に取り付けられたベルが鳴る。パンダさんは私たちの方を見て——驚いた様子で口をぽかんと開けていた。 「……?」 目があった気がして会釈すると、パンダさんもぎこちなく会釈を返した。 友達を連れてきたのが良くなかったんだろうか。騒がしくすると思われた? それとも、好奇心でジロジロ見られるの嫌だったかな——と、パンダさんの反応からネガティブな想像をしてしまう。迷惑にならないよう、わたしは声音を落として友人に話しかけた。 「ね、かっこいいでしょ」 「うん、確かに綺麗な顔してるわ。さっきこっち見てたけど、顔覚えられてるの?」 「多分……」 友人はどちらかというとパンダさんよりもパンに興味があるらしい。ずらっと並んだ棚を見て、目を輝かせていた。料理上手なお兄さんがいるせいか外食や買い食いの習慣がなく、あまりパン屋さんに来たことがないそうだ。 このパン屋オリジナルの見慣れないパンを指さしては、「これなに?」とわたしに訊ねる。わたしはパンダさんに「ただ美味しいパンを教えたかったんですよ」という体を装って、友人にパンを勧めていった。 「えー、いっぱい種類あるね。全部美味しそう……。自分で買おうかな」 「お弁当あるんじゃないの?」 「今日朝食べてないんだ。おすすめどれ?」 「あっ、それなら……あっちのパンダのパンとか」 わたしは店の中央にある棚の、売れ筋コーナーを指差した。 パンダのパンとは、その名の通りパンダの顔を模した形のパンだ。味はただの美味しいチョコパンだが、チョコレートを練り込んだ生地でパンダの白黒を表現したかわいい見た目をしている。 わたしが初めてパンダさんと買い物以外のやりとりをしたのは、このパンダのパンを買った時だった。 当時は『新商品』というポップに惹かれて手に取ったのだが、パンダさんはこのパンを袋に詰めながら「このパン、かわいいでしょ。オレがデザイン決めたんだよね」と教えてくれた。パンの見た目はもちろんだけれど、何よりそれをこっそり教えてくれたパンダさんが可愛くて、忘れられない思い出である。 店の中でそんな話をするのは憚られ、「かわいいし、美味しいよ」とだけ伝えて薦めると、友人は言われるがままパンダのパンをトレイに置いた。 店に数人お客さんが入ってきたので、私たちはパンを乗せたトレイを手にレジへ向かった。 わたしが先に会計をして、友人が後ろに並ぶ。友人の目が気になって、いつもよりも緊張してしまった。 会計の後、パンを詰めた袋を手渡す時、パンダさんは声をひそめてわたしに訊ねた。 「後ろ、友達?」 「は、はい。あの、ここのパン美味しいから、食べて欲しいって誘ったんです」 「はは、そっか。宣伝してくれてありがと」 パンダさんの様子に変わりはない。店に入った瞬間の視線は気のせいだったみたいだ。友人連れで来たことに対し特に悪く思われていないことがわかり、わたしはほっと胸を撫で下ろした。 レジの列から離れ、邪魔にならない位置で友人を待つ。パンダさんと友人のやりとりを見ていたが、会話は会計のための必要最低限のものだけだった。 しかし、パンダさんの表情にはなにか違和感があった。少しだけ眉を下げているが、負の感情を抱いているようには見えない。 ただ、何か探ろうとしているような、それを躊躇するような——例えるならば、遠い記憶の知人を確かめているみたいな。 会計を済ませ、袋を持った友人がわたしの元へやってくる。店を出る前に駅前の時計をちらりと見ると、学校へ向かうのにちょうど良い時間だった。 「パンダさんと何か喋った?」 「なにも? 普通に会計してもらっただけだけど」 「そうだよね……」 「そっちこそ、なんか話してたよね」 「うん。友達に宣伝してくれてありがとうって言われちゃった」 友人はパンダさんの態度に特になにも感じていないようだ。 あの違和感は、わたしの気のせいだろうか? 引っかかってはいるものの、確かめる勇気もない。考えても仕方がないので、わたしはその思考を頭の隅に追いやった。 友人と店に行って、一週間が経った。 友人はパンの味をお気に召したらしく、後日、放課後にひとりで店に寄ったそうだ。パンダさんは朝しか働いていないようで、店内に姿は見えなかったという。もし夕方も働いているなら、無理して朝から店に通う必要がないのだが、彼に会うには早起きを続ける必要がありそうだ。 また一緒にパン屋さんに行こうよと誘ったが、友人の目当てはパンダさんではなくパンのため、「放課後ならいいけど」と言われてしまった。パンも美味しいけれど、わたしはやっぱりパンダさんの顔が見たいのに。 そしてそんな彼と、わたしは偶然の出会いを果たした。 「えっ!?」 「お、偶然」 「ぱ、パンダさん!」 「パンダさん?」 場所はなんと、わたしの家の近くだった。ある休日、アイスでも買いに行こうと立ち寄ったコンビニでのことだ。冷凍ケースを覗き込むわたしの横に、ぬっと腕が伸びた。何気なくその先を視線で辿ると、何度も見惚れた顔があって、思わず声を上げてしまった。 彼も私に気づいてくれたので、不審者扱いをされることはなかった。が、わたしはうっかり彼のあだ名を口にしてしまった。 当然ながら『パンダさん』というあだ名は、うちの生徒の間だけで広まっているものだ。自分の預かり知らないところで勝手にあだ名をつけられ噂にされていたら、いい気はしないだろう。 どうやって誤魔化そうかと狼狽えていると、彼は着ていたTシャツの袖を掴み、「パンダならここにいるよ」と見せた。そこには、ボールペンのマスコットと同じ顔のパンダのワッペンがついていた。 「パンダさん……それ、オレのあだ名?」 「は、はひ、すみません。勝手に……」 「はは、いいって、怒ってないよ。そんな可愛い呼ばれ方をしてたとはね」 パンダさんはふにゃりと笑う。勝手なあだ名をつけられていたのに、本当に気にしていないようだ。 わたしはそのとき、彼の髪に一筋、草色が走っていることに気がついた。いつもは帽子に隠れていたのだろう。よく見ると、左耳にはピアスが揺れている。今の彼はプライベートなのだ、と実感した。 彼の手元にある買い物カゴを盗み見ると、お酒が何本か入っていた。大人の人だ、と思った。 「こ、このへんにお住まいなんですか?」 「お、聞いちゃう?」 「ごっ、ごめんなさい!」 「ジョーダン。友達が近くに住んでるんだ。これから宅飲み」 個人情報を詮索するようなことを言ったのに、パンダさんは嫌な顔一つ見せなかった。さっきから動揺して、失言ばかりしてしまう。ずらっと並んだアイスに目をやるも、選ぶ余裕はなかった。それどころか予想外の出会いに胸がいっぱいで、なにも喉を通らないかもしれない。 「また店に来てよ。友達も一緒に」 「あっ、はい!」 パンダさんは冷凍ケースから、アイスを手に取った。冷凍の果物がいっぱい乗っている練乳味の氷菓だ。 わたしの目の前に置かれていたため、自然と距離が近くなる。その瞬間、ふわりといい香りが鼻腔を掠めた。 香水だろうか。あまり詳しくないけれど、色気があるのに海みたいな爽やかさもある。パンダさんにぴったりの香りだと思った。パン屋さんで働く時は決してつけないであろうそれを知れたことに、高揚感が湧き上がる。 「あの、さぁちゃ……友達も、美味しいって言ってました。この間、放課後買いに行ったって」 「友達、さぁちゃん……っていうんだ?」 「はい。内輪ノリでついたあだ名だから、名前は関係ないんですけど」 「……そっか」 パンダさんは何かに考えを巡らせるように視線を浮かせ、「放課後ね」と呟いた。 「アイス溶けちゃうな。じゃ、またね」 「はっ、はい!」 パンダさんはアイスとお酒の入ったカゴを手に、レジへ向かった。 その背中を眺めていたかったけれど、これ以上不審なことをして嫌われたくはない。わたしはなんとなく店を一周してから、パンダさんが買っていた氷菓を手に取る。 会計の後、彼が近くにいないことを確認してから店を出て、早足で家へと向かった。