朝凪

現パロ

 簡潔に誘いのメッセージを送れば、珍しくすぐに返事が返ってきた。私は目元を拭って鏡を覗き込み、まあこんなもんかと乱れた髪を整えて、貴重品だけを小さなハンドバッグに突っ込んで家を出る。  指定した場所には既に彼——笹貫がいた。目安で伝えた時間はもっと後だったし、彼はいつも約束の時間ちょうどに現れる。珍しいことは続くものだなと思った。  そして笹貫もまた同じく、見慣れないものを前にして目を丸くしている。大方、私からの連絡に対し、どういう風の吹き回しかと茶化すつもりだったはずが拍子抜け、といったところか。  本心を透かさぬ笑みを貼り付けた彼が、案外分かりやすい男だと気付いたのは二年ほど前。それほど長く、私たちの交友関係は続いている。  驚かれるようなひどい顔をしている自覚はあった。メッセージでは、どうして誘ったかを伝えていなかったし。  何か聞きたそうな笹貫を流し、馴染みの店の暖簾をくぐる。笹貫は黙ってその後ろをついてきた。  店員に一番奥にある2名掛けの席を示され、手狭な店内でカニ歩きをしながら席に着く。注文をとりにきた店員にメニューも見ず「芋ロックでふたつ」と言ったところで、笹貫はまた目を丸くした。  普段飲むのはカクテルかサワーばかりなので、強い酒の勝手がわからない。自分の身近な酒豪といえば目の前の男なので、それをなぞっただけだ。  ついでにいくつかつまみを注文して、店員が席を離れたあと、彼はこちらに顔を寄せた。 「で、何があったって?」  細められた瞳の形は見慣れたもので、温度の低そうな表情には重みがない。しかし薄っぺらい笑顔の隙間からは、困惑と心配が顔を覗かせていた。 「浮気を……されてました」 「そ、れ、は……………………」  いつもはぺらぺらとくだらない冗談を垂れ流す口が、言葉を失う。沈黙の間に店員が割り込んできて、注文の品を置いていった。  ぎこちない乾杯の後、どう踏み込むべきか迷う笹貫の手を引くように、私は自分から言葉を続けた。視線をあちこちへ彷徨わせ、動揺を露わにする笹貫を前に、今日は次々と珍しいものが見られる日だなと思った。  恋人——だった男とは、先日三年目の記念日を迎えたところだ。なんとなく将来を仄めかす言葉をかけられ安心しきっていたところ、なんと留守の間に私の家に女を連れ込んでいたことが発覚した。  彼は社宅に住んでいるため、私の家の方が都合がいいと考えたのだろう。それにしたって、とんでもないリスクを背負った綱渡りであるし、女の方も見るからに男一人暮らしとは思えない家に連れ込まれて何も思わなかったのだろうか。どちらもとんでもない大馬鹿だが、そんなふたりの関係に一年も気付かなかった私が一番の大馬鹿者である。  問い詰められた彼は形ばかりの謝罪こそ口にすれど、その後の私たちの関係について言及することはなかった。つまりは、そこまでして三年かけて築き上げた後にぶち壊した関係を修復する気はなかった、ということだ。  その場を収めるために謝罪の言葉を鳴らす人形になった彼を追い出して、ひとしきり泣いた後、私はスマホに手を伸ばした。そうして急な呼び出しに応じたのが、笹貫だった。  ここで誤解しないでいただきたいのだが、笹貫と私の間には一切後ろめたいことはない。あの大馬鹿者たちと違って、どちらかの家に泊まりに行ったりだとか、出張と偽って熱海旅行に行ったりだとか、夢の国でお揃いのカチューシャを被ってSNSの親しい人限定公開でツーショットを乗せたりだとか、そういうことはしていないのだ。  そもそも、出会いは笹貫の方がずっと先である。  当時大学生だった笹貫は、とんでもなく入れ込んでいた女に捨てられ傷心、自暴自棄になっていた。そんな場に偶然居合わせたただの顔見知りである私が、面倒の塊みたいになった彼を朝まで介抱してやったところから私たちの縁は始まっている。  普通に出会っていれば言葉を交わすことすらなさそうな人種の彼は、だからこそどうにもなるまいという安心感があって、ここまで飲み友達としての関係が続いていた。  そもそも、喫煙者だし。言いたくないが顔は綺麗で、いかにも女を扱い慣れていそうな雰囲気を纏っている。遊び相手に困ったことはないだろうし、彼氏持ちの女友達に手を出すほど飢えてもいなさそうだ。  私は危ない綱渡りも、身元のわからない相手との夜遊びも、気持ちを確かめるのに躊躇するような曖昧な関係も御免だった。  経緯を聞き終えた笹貫は、如何ともし難い顔をしていた。空になった私のグラスを見てメニューに目をやり、追加の注文をする。いつもみたいに冗談まじりに笑い飛ばして欲しかったのに、こんな時だけ優しかった。いつかの私が根気強く面倒を見てやったことを、覚えているのかもしれない。  飲み慣れない芋焼酎を流し込むと、酒の風味で鼻腔と喉が熱くなった。  頭に浮かんだ言葉を精査せず、愚痴を連ねること一時間。聴き苦しいほどに口汚く彼と浮気相手を罵ると、笹貫はそれに乗っかって笑った。それがこれ以上なく心地よくて、グラスを傾ける手も罵詈雑言を吐き出す口も止まらなかった。  いつの間にか私のそばにあるグラスは、ロックグラスではなくなっていた。背の高いグラスには冷えた水が入っていて、水滴で机が濡れている。   いい奴だなと頭の端で思ったり、いつかの私もこんな事をこいつにしてやったっけと思い出したり。この空間の居心地の良さに身を委ねている間に、憎き二人組は私の頭から出ていった。  店の閉店時間が近づいた頃、自分が泣いてるのか笑っているのか分からなくなった。すると本心が口から出て、気がつけば——知らない天井を見上げていた。  どういうこと?  ——と、吐き出そうとしたひとりごとは、音にならなかった。喉が酷く枯れている。頭が重い。遠い記憶を思い返すに、妥当な状況だった。  体を起こすと、真っ暗なワンルームにベランダから光が差し込んでいる。その光の奥に人影が見えて、骨ばった背中から笹貫だと分かった。  私は元々着ていた私服ではなく、恐らくは笹貫の私物らしいTシャツを着ていた。様々な表情のパンダがタイルみたいに並んでいる。センスはさておき、立っても太ももの辺りまでは隠れそうだったので、これでいいやとベッドを降りた。  ベランダを覗くと、足音に気づいた笹貫がこちらを振り返る。その奥には、水平線が広がっていた。 「お、起きた?」 「タバコ吸ってんのかと思った……」 「結構前に辞めたんだなぁ、これが」 「えっ、うそ」 「ホント」  タバコの匂いが苦手な私は、彼と親しくなって早々に「私の前で吸うのはやめて」と頼んだ。以来彼は律儀にそれを守り、煙を吐く姿を見ていない。  しかし辞めたとまでは聞かされていなかった。確か二年くらい前には、どこぞの店にお気に入りのライターを忘れたとかで騒いでいたし。  部屋を振り返ると、確かに独特の匂いはない。ローテーブルにも棚にも、それに関する物は一つも見当たらなかった。 「いつ?」 「この家に越してくる前かなぁ」 「一年半くらい前か……なんで? 女に言われた?」 「はは、まあ女は女……かな?」 「そんな女いるなら私連れ込んじゃダメじゃん」 「本気で言ってる?」 「ええ?」  頭を突いて古い記憶を掘り返す。笹貫との会話は基本酒を伴っているため、どれもこれもが曖昧だ。  確かに、一年半くらい前に引っ越した話は聞いた。前の部屋は繁華街から歩けたが、今度は海の近くだから女を連れ込みにくくなっちゃったね、なんて茶化したような覚えがある。  つまり諸々を繋ぎ合わせれば——手近な女を連れ込む必要がなくなったから引っ越して、その時期にタバコを辞めたってことになる。  だったらやはり、ここに来たのはまずいとしか思えない。そうでないなら、つまり、 「波が来るのをずっと待ってたんだ」 「はぁ」  腑に落ちない私に、笹貫は履いていたサンダルの右足を寄越した。  ベランダに出てこいという意味らしい。私はそれを履いて、右足だけでコンクリートの床を蹴って、笹貫の元へと寄った。  よろめいたところで肩を支えられ、そのまま抱き寄せられる。すごくいい匂いがして、思わず彼から目を逸らした先には、朝の白い空と静かな海が一面に広がっていた。 「もしかして私って、めっちゃ察しが悪い?」 「やっと気付いた?」 「まあ、自分の家で浮気されて気付かないくらいだしな……」 「コメントしにくいなぁ」  オレの足踏んでいいよ、と言われたので笹貫が履いているスリッパの上から彼の足を踏んで身体を支えた。部屋で聞きなれないアラームが鳴っている。 「今日仕事?」 「昼からね」 「そうなんだ、ごめん。帰るよ」 「あの家に帰りたくないんじゃなかった?」  片足を上げて部屋に戻ろうとしても、私の肩を抱いた腕がそれを許さなかった。  昨夜の私がそう言ったのか、と視線で訊ねれば、笹貫は頷く。すると湯気が広がるようにぶわっと昨夜の記憶が呼び起こされて、私は居た堪れない気持ちになった。  笹貫がいつから私にそういった感情を向けていたのかはわからない。けれどいくらなんでもこれだけ長いこと一緒にいて微塵もそれを感じさせなかったのだから、彼は私に伝える気がなかったのだろう。少なくとも、恋人がいるうちは。  一線を越えた原因は、間違いなく私にあった。互いに、そこそこ場数を踏んできたいい歳の大人である。彼氏と別れたばかりの女が泥酔して「家に帰りたくない」と泣いているのを見て、言外の意味を見出すななんて無茶は言えない。 「仕事、今日終わるの早いから。待っててよ」  肩に添えられた手の、人差し指がとんとんとリズムを刻んで上下する。薄っぺらい笑みは、ほとんど意味を成していない。帰らないでと瞳で縋られ、不覚にも可愛いと思ってしまった。 「……家でお風呂入りたいから、一旦帰る。それからまた来るんじゃだめ?」 「…………」  笹貫の手が僅かに緩む。駄々をこねる子供みたいに口を曲げていたから、片足だけで背伸びをして彼の頭を撫でた。 「ホント?」 「ちゃんと来るって」 「鍵渡しとく」 「わっ」  脇の間に手が差し込まれたかと思うと、私の体は宙に浮いた。大股一歩分のベランダ幅分の空中移動の間に、スリッパを脱ぎ捨てる。私を室内へと下ろすと、笹貫もスリッパを脱ぎ捨てて部屋に入った。  戸は開け放たれたまま。彼はケトルとか酒瓶とかが置いてある棚の一番上の引き出しから鍵を取り出し、私に手渡した。 「ありがとう。なくしちゃいそう、どこに入れとこうかな……」 「キーケースは?」  不安になった私が財布のコイン用ポケットにでも仕舞っておこうかとハンドバッグを漁っていると、笹貫がそう言った。  私が愛用しているキーケースには、フックが後ふたつほど余っている。 「あるけど……」  財布の代わりにキーケースをハンドバッグから取り出すと、笹貫はそれに手際よく自宅の合鍵を取り付けた。フックは小さい上にそこそこ硬いというのに、器用な男である。 「ありがとう」 「どういたしましてー」  くれるの? と聞くのは野暮な気がして、お礼だけ伝える。キーケースを見る彼の顔があまりに嬉しそうだったので、私はこの部屋が好きになってしまった。

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