Sink

やり直しではすまされない

 の手から滑り落ちたにんじんは、寸でのところで堀川国広が手にしていた皿にすくわれ、廃棄を免れた。
 何が起きたか分からず呆然としたと向かい合うのは、同じく呆けた顔の五月雨江である。事を起こした張本人であるくせに、まるで自分の意思とは無関係に起きた事柄であるかのように、ぽかんと濡れた唇を薄ら開いて、彼女をじっと見下ろしていた。
 最初に動いたのは厨番長兼のはじまりの一振りである歌仙兼定だ。彼は包丁をまな板に置くと、五月雨江の首根っこを掴んで、彼を厨からポイっと外へ投げ捨てた。はというと、堀川国広に「主さん、大丈夫ですか?」と目の前で手をヒラヒラ振られても無反応だ。
 怒り狂って顔を真っ赤にした歌仙兼定は、わなわなと全身を震わせたのち、本丸中に轟く大声で「接吻はもう少し風情のある場所でしたらどうだ!」と怒鳴った。建物だけでなく庭の木々が震えるような大声に、一瞬辺りがしんと静まり返る。その静寂を破ったのは、堀川国広の「歌仙さん、そこじゃないと思います」という突っ込みだった。

 と五月雨江が恋仲であるというのは、本丸周知の事実だった。
 最初こそ主従を飛び越えた恋愛関係に不安を抱いていた彼女だが、兎にも角にも五月雨江というおとこは心臓が強かった。非難を受ける前にその関係を知れ渡らせ、今では刀剣男士らに「主が幸せならオッケーです」と受け入れさせている。どこが忍びかと問いたくなるようなとんでもない力技だ。しかし、当時のは五月雨江と想いが通じた喜びで盲目的であったので、それに対し疑問を抱くことはなかった。
 公にされた関係ながら、ふたりの進度はゆったりとしたものだった。手は繋いだ。抱擁もした。接吻は——厨での一件がはじめてだった。
 季語と歌を愛する彼は歌仙兼定が言うところの雅が分かる者だったはずだが、一体何を間違えたのか。風情のかけらもない夕食の支度の最中に、人前で口付けに及んでしまったのである。
 その衝撃からはぽーっとしてしまって、夕飯の後、心ここに在らずのまま部屋に引っ込んだ。五月雨江は、歌仙兼定をはじめとしたの保護者を自称する古参の刀からの数時間にも及ぶ説教を終え、ようやく解放されたばかりだった。
 向かった先はの部屋がある離れだ。彼女の部屋からは庭が一望でき、季語がたくさんあるこの景色を彼女と共に愛でるのが五月雨江は好きだった。
 彼の構想では、初めての接吻もこのような美しい景色を前に甘美な空気の中で行うはずであった。それがどうしてこうなったのか。やはり人の身とは儘ならぬものですね、と五月雨江は初めてへの恋慕を自覚した時の、落雷を受けたかのような衝撃を懐かしんだ。
「頭、五月雨江です」
「さみだれ……?」
 襖越しのの声は、いつもより頼りなく聞こえた。
 説教を受けるうちに夜も更けて、日頃なら彼女は床に入っている時間である。事件直後でありながら、この時間にの部屋を訪ねられたのは、五月雨江に忍びの術が備わっていたからだ。つまりは本来ならば見咎められるような行為であった。
 は警戒することなく、襖を開けて五月雨江を自室へと招き入れた。
 予想通り部屋には布団が敷かれて、彼女は寝衣姿である。初めて目の当たりにした無防備な姿に、五月雨江は内心「急ぎすぎたかもしれない」と思って、けれどそれを微塵も顔には出さなかった。
「夜分遅くに申し訳ありません。先程のことをお詫び申し上げたく」
 先程の、で合点がいったらしいは、露骨に視線を泳がせた。
 こくりと頷いて、手近にあったクッションを拾い上げてそこに座るよう五月雨江に促す。彼女は布団の上に腰を下ろした。
 五月雨江はの寝衣から出た膝から目線を逸らし、とろんと眠たげな彼女の顔に目をやった。
「お詫びって……別に、怒ってないよ」
「しかし、場面を誤りました。それも、頭の了承を得る前に」
「まあ、ちょっとびっくりはしたけど……」
 照れ隠しに布団の端を折ったり握ったりしながら、は顔を赤らめた。
「申し訳ありませんでした」
「頭下げないでよ。……ほんとに、嫌じゃなかった」
 顔を見る限り、嫌ではなかったとは五月雨江の謝罪を退けるための方便ではなく本心であるらしい。しかし今の五月雨江には、その表情すら目に毒だった。
 寝床の上、月の光も届かぬ密室だ。事を起こすにおあつらえ向きな状況は、五月雨江を焚き付けるためのものとしか思えなかった。
 純情な彼女にその気がないことは重々承知の上だったが、その無防備さがかえって五月雨江の欲を掻き立てる。耐え忍ぶのは得手としているはずが、先程大失態を犯したばかりだ。もはや己のことも信用ならなかった。
「近いうちに、やり直しをさせてください」
「やり直しって……。うん、分かった」
 色恋沙汰に不似合いな律儀さに、は顔を綻ばせる。五月雨江の真面目な物言いが、愉快に聞こえたらしかった。
 これ以上の長居は己の首を絞めるだけでなく、他の男士に勘付かれかねない。五月雨江は会話が途切れた間合いに、腰を上げた。するとは、それを引き止めた。
「五月雨、一つ聞いてもいい?」
「なんでしょう」
「その……なんで急に、……キス、口吸い? したの?」
 はわざわざ五月雨江に伝わる言葉に言い換えて、彼に問いかけた。
 上目遣いには何かの期待が滲み、五月雨江は言葉に迷うふりをして目を逸らす。「そうですね」と一拍置いた相槌は、己の理性をかき集めるためのものだった。
「頭が、愛らしかったので。思わず」
 まごう事なき真実だった。
 厨当番に当たっていた五月雨江と一緒に、は夕飯の支度を手伝っていた。こういうことは珍しくなく、は五月雨江が居らずとも厨で手伝いをすることが多くあった。ただ想い人がいたから少しだけ浮かれていたというのは、客観的に見ても否定できないだろう。
 は豚汁に入れるためのにんじんを花の形に飾り切りにして、五月雨江に見せびらかした。それが、とても可愛いと思ったのだ。歪な形のにんじんではなく、そんな小細工をして嬉しそうに見せてくるところが。そう思った瞬間、体が動いていた。
「五月雨」
 問いに答えた五月雨江の浴衣の裾を、が掴んだ。襖へ向いた足はそれ以上進むことはない。は五月雨江から顔を背けて、けれど彼をここから出す気はなさそうだった。
「頭」
「……やり直し、今してもいいよ」
 五月雨江の視線が、そう呟いた唇に縫い止められる。足先は、もう襖の方を向いていなかった。


WaveBox
感想頂けると嬉しいです。