Sink

本当に帰るんですか

 一次会、二次会までは他にも友達がいて、賑やかな飲み会だった。お開きになった後、同じ駅を使う五月雨と一緒に繁華街を歩いていたら、「もう少し付き合っていただけませんか」と言われて、なんとなくまだ飲み足りない気持ちだった私は軽い気持ちで了承したのだった。
 五月雨は同じ大学の——元は友達の友達だ。どういうわけか縁が重なって話す機会が増え、今では気の置けない仲である。私のことを〝かしら〟と妙なあだ名で呼ぶことを始め、綺麗なつらが勿体無いくらいの変な男だった。
 私にはなぜか懐いているようで、こうして誘われることも稀ではなかった。その様子が自分だけに懐いた犬みたいに見えて、正直なところ嫌な気はしない。
 若い男女。意識したっておかしくない距離感だ。けれど彼の一癖ある気質が異性としての警戒心を解きほぐして、今や友達以上恋人未満、と呼んでも差し支えない関係性だった。

 日付が変わってもしばらくやっている安居酒屋は、五月雨の耽美な容姿にあまりに不釣り合いだった。
 もっとこう上品な割烹やらが似合いそうな顔立ちだが、この男は意外にもメガハイボールを注文するし、チンチロがあったら率先して挑むタイプである。あんまり運がないようで、目が揃っているところは見たことがないけれど。
 酒豪を自称してはいないが白い頬が酒で上気しているところは見たことがないので、おそらく相当強いのだろう。私も大概だけれど、顔には出るのでなんだか負けた気がしてしまう。その上、私がそろそろまずいかもなと思った頃に何も訊ねず店員を呼んでお冷を持たせたりするので、人のことをよく見ているなあと思う。
 何かが違っていれば互いに異性として見定めたのかもしれないけれど、私たちの関係はそんな領域を通り越しているように思えた。
 今更五月雨と手を繋いたり、キスをしたりとか、そんな——と想像して、意外にも気持ち悪くなかったことに驚く。この綺麗な顔と向き合うことへの緊張感は多少あるが、嫌悪感は微塵も湧かず、むしろこの男は惚れた相手にどんな顔を見せるのだろう、と興味を抱く始末だった。今更そんなことを考えたところで、出会いからやり直さねばあり得ない話だが。
 机の上に置いたスマホの画面を見ると終電が十分後に迫っていた。居酒屋は駅のすぐそばなので、今店を出れば余裕で終電に間に合うだろう。
「五月雨、私もう終電だから出るね」
「そうですか。ではホームまで送ります」
 五月雨と私の家は同じ路線のこの駅を挟んで反対にあって、五月雨の終電は私よりも遅かった。
 しれっと会計を済まされ、時間に追われる今バタバタと金を渡すのもなんなので、金額だけスマホにメモして後日精算しよう、と頭に刻み込む。店の段差の前で手を取られ、さっきの妙な想像のせいで心臓がどくりと脈打った。
 今更この男に欲情しても、どうにもならないのに。だって、私のこと頭って呼ぶし。なんなの、頭って。
 そんなに酔っていないのに手は繋いだままで、私たちは駅までのごちゃごちゃした汚い道を歩いた。振り解く理由もなかったし、五月雨はそれ以上に離すまいとがっちり手を掴んでいた。
 改札をくぐる時だけ離れて、また当たり前みたいに五月雨は私の手を捉える。今度は恋人みたいに指を絡められて、流石に真意を問うようにじっと睨んでみたけれど、彼はなんら不思議なことはしていないとでも言いたげにこてんと首を傾げた。いたずらの痕跡を前にすっとぼける子犬みたいだった。
 酒が回ったせいで重い足を持ち上げてホームへの階段を上がると、丁度電車が到着している。ドアが開いて慌てて乗り込もうとしたけれど、五月雨は手を離さなかった。
「本当に帰るんですか?」
「えっ?」
 発車を知らせるベルが鳴る。確かこの路線は、駅ごとに発車音が違うのだ。この曲そういえばなんだっけ、とか考えてるうちに、ホームの端にいた私は車掌さんに怒られて、ドアが閉まった。これに乗らないと、私は家に帰れないのに。
 本日の運転は終了しました、の文字が電光掲示板に光る。
 五月雨は今ようやく初めて気付いたような顔でそれを見上げ、「今のが最終だったようですね」と言った。店で終電が来ると言ったのに。だから店を出たはずなのに。まるで話がわかっていない素振りだ。
「いや、どうすんのよ」
「申し訳ありません。名残惜しくて」
「は、はぁ?」
 貧乏学生だから、タクシー代は惜しかった。レンタル自転車とかキックボードとか、この辺で借りれたんだっけ。なんとかして帰る方法を探さなきゃと思うのに、意識が繋がれた手から離れない。
「私の家ならまだ間に合うようですが、どうしますか」
「………………」
 今更、どうにもならないと思っていた。私のこと頭って呼ぶし。犬みたいだし。ちょっと変だし。男として意識したことは、——たぶん、ない。
 だから、何があったって事は起きないはずだ。私の言うことは忠犬みたいに聞いてくれるから、きっと変なことをしないでって言ったらそうするし。——言わなかったら、どうなるかわからないけれど。
 下心とか、期待とか、自分に対しての信じられない気持ちとか、そんな感情がぐちゃぐちゃに入り混じって、私は気が付けば頷いていた。
 帰りの電車は人が多くって席に座れず、しばらく開かないらしいドアにもたれかかっていた。別の駅で私たちと同じような酔っ払いが乗ってきて、車内が狭くなる。それとなく肩を抱き寄せられた体温が全く嫌ではなくて、何かが始まる気配を感じていた。


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