こいびとは天井裏からやってくる
壁掛けカレンダーの×の数が、審神者に残された時間が短いことを告げる。ペンを走らせる音だけが響く静謐な執務室、そこには審神者とへし切長谷部がいた。
審神者という職にはある程度階級分けがされており、それは霊力や能力によって評価が付けられる。前者は持って生まれた才能による差が大きいが、後者は多少なりとも努力で埋められる幅があった。
階級の高い審神者には高難易度の任務が割り当てられ、報酬や待遇もそれに即したものとなる。配給される資材の数も桁違いで、上級審神者には下級審神者には許されぬ様々な特権が与えられた。
彼女は持って生まれた霊力こそ人並みであるが、高い向上心を持ってその職務を全うしていた。上があるならば目指すなら当然、という風に、高みを目指し着々と努力を重ねてきた。
階級を押し上げるための試験は、初級こそ審神者としての経験を積むうちに身についていくような簡単な問題ばかりだが、上級ともなればそれ以上の知識を求められる。審神者は去年、その試験に数点及ばず落第した。その悔しさは一年経っても色褪せることなく、今こうして努力の糧となっている。今度こそ合格と、闘志の炎を燃やしていた。
試験が来週に迫り、日常的な業務をこなす傍ら審神者は毎日机に向かった。
サボらぬようにとへし切長谷部に見張りを申しつけ、彼女の集中力が切れる度に叱咤激励させている。生真面目で忠誠心の高い彼は求められるままに鬼教官を演じ、審神者に追い込みをかけていた。
話は変わって、彼女には恋刀がいた。
五月雨江である。犬の愛嬌と忍びの狡猾を兼ね備えた彼は、その端正な容姿と土に染み入る雨雫のような色っぽい声を武器に彼女を骨抜きにし、見事その立場を手に入れた。
これまでであれば毎夜のように彼女の部屋に通っていた彼だが、試験が迫ったある日、『五月雨江接近禁止令』のお触れが出された。五月雨江が恋しいばかりに勉強に身が入らないものだから、試験日までお預けとなったわけである。
それにより、審神者のやる気に火はついた。が、五月雨江にとってはたまったものではない。
何故恋刀である自分が部屋を閉め出され、へし切長谷部が毎日毎日厳しい叱責を——これに関しては、本人も不本意であったが——浴びせることは許されるのか。毛頭理解できない。そんな表情を微塵も隠さず不満を露わにした声色で、五月雨江は「承知しました」と接近禁止令を了承した。
審神者の勘は「これはまずいことになるぞ」と警鐘を鳴らした。お利口な彼は聞き分けがいいが、そういう時ほど内に企みを抱く。「私を置いて教本と睦み合っていた分の埋め合わせはしていただけるんですよね?」と色気たっぷりの声で囁いて、何を要求されるかわかったものではない。そんな様子が目に浮かんだ。
しかし、今向き合うべきは試験だ。審神者は五月雨江から注がれる梅雨の空のようなじっとりとした眼差しを見て見ぬふりをしていた。
「……何か騒がしいですね」
「ん?」
机に向かっていた審神者は、へし切長谷部が漏らした一言に顔を上げた。耳を澄ませる彼の表情は険しい。彼は「失礼します」と断って、障子の外へ出た。
一分も経たず戻った彼は、中間管理職の顔をして「主、申し訳ありません。少しだけ席を外してもよろしいでしょうか?」とお伺いを立てた。
「いいけど、どうしたの?」
「主の耳に入れるまでもない些細な揉め事です。すぐに片付けて参ります。時間も頃合いですし、少し休んでいてください」
「う、うん。わかった。お願い」
失礼します、と恭しく頭を下げて部屋を出たへし切長谷部は、障子を閉めるなりその機動を以て全力で廊下を駆けながら「お前たち!」と怒号を発した。審神者はその様子を苦笑混じりに眺める。仕事でも生活面でも、彼女はへし切長谷部に頼りきりになっている自覚があった。
この試験が終わったら休暇をとらせてあげよう——そんなことを考えながら、伸びをして凝り固まった背をほぐした。
ふと、音もなく何かが現れた。
障子は閉じたまま、しかし確かに何かがいる。審神者は伸びの姿勢のまま、ひたりと身体を強張らせた。怪異の類か、もしや敵襲か。一瞬のうちの警戒を、その声が解く。
「頭、私です」
「さ、さみ」
「静かに。時間がありません」
そこに現れたのは五月雨江だった。
天井に視線をやると、天板の一部が剥がれている。忍びのような隠密行動と軽やかな身のこなしを得意とする彼は、あそこから現れたのだろう。「あれいつ開けられるようにしたんだろ」と考える彼女の頬を、五月雨江の手が包んだ。
まともに顔を合わせるのは何日振りだろうか。ミステリアスな紫水晶の瞳は揺れ、寂しげに恋人を請う色をしている。審神者はその美しさに目を奪われた。吸い込まれるように深い、突然の恋刀の来訪に驚いた自身の情けない顔が映るその水面から逃れられない。
「んッ……!」
性急に五月雨江は口付けた。その熱さを求めるように繰り返し角度を変えて塞がれ、漏れる息ごと飲み込まれる。下唇を吸われ、驚いた拍子に隙をついて唇を割り、舌が忍び込んできた。
ざらざらとした粘膜が擦り合わされ、審神者はくらりと眩暈がした。五月雨江は彼女の弱点を知り尽くした舌先で、彼女の求めるものを与える。枯れて乾いた土に水を注ぐように、深くに埋められていた欲望が掘り起こされていった。
じわりじわりと上がる体温が、審神者の肌をじっとりと湿らせた。縋るように五月雨江の背に腕を回せば、彼はそれに応えて彼女の腰を抱く。
上顎を撫でられると反射的に腰が跳ね、耐えきれずに逃れようとした所をまた逃さないと言わんばかりに捕らえられる。波のような快楽に押し流され、その先を知る審神者はもどかしさを覚え始めた。
「……引き時か」
「っ、ん……」
五月雨江は突然彼女の唇を解放すると、障子を睨んだ。五月雨江との口付けに熱中するあまり耳に入っていなかったが、外が何やら騒がしい。
「頭、私はこれで。失礼します。またいずれ」
「えっ?」
五月雨江は唾液で濡れた審神者の口元を自分の袖で拭うと、あっという間に姿を消した。天井の穴すら後も形もなくなっている。残されたのは半端に熱を帯びた女一人だった。
一瞬の出来事に混乱した彼女がぽつんと静かな部屋で座っていると、ややあってへし切長谷部が帰ってくる。気苦労を額に滲ませた彼は、審神者と目が合うなりぴっと背筋を正した。
「主、申し訳ありません。続きに戻りましょう。……主、どうかしましたか?」
「えっ?」
呆けた審神者の顔を訝しんで、へし切長谷部が尋ねる。審神者ははっとして、無意識に唇に当てていた手を誤魔化すように手を振った。
「な、なんでもない。ちょっとぼーっとしてた……かな?」
「そうですか。顔が赤いようでしたので、もしや具合が悪いのではと」
「うっ、ううん。大丈夫。続き、やろうか」
審神者は自らを鼓舞するように明るい調子で返事を返した。ペンを握り直し問題集を睨んだが、その熱はなかなか引いてくれなかった。
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