この任に就く前のは、どこにでもいる至って普通の成人女性であった。今は百数振りの刀の付喪神と暮らしているから胸を張って普通とは言えなくなったものの、感覚は変わらず現世に戻りさえすれば再び人並みに戻れる——と、信じている。 しかし、そんな彼女にはひとつ、人には言えない秘密があった。フェチというのか誤用であるところの性癖というのか——しかし彼女はそれを罪だと認識している。は、恋人が別の女性と性交することに興奮する性質であった。 きっかけは明確である。学生時代、相当に惚れ込んでいた恋人が親友に寝取られたのだ。 同棲していた狭いワンルーム、正常位でまぐわっていた親友の腰の下にあったのは当時が毎晩寝ていた枕である。 アルバイトから帰宅するなりそんな光景を目にしたあの日以降、ありとあらゆる面で彼女の生活は変わった。心の傷は時が癒したが、それでも消えないものはある。それが、この歪んだフェチズムであった。 彼の次の交際相手は誠実な男だった。真剣にを愛し、尽くしてくれる。非の打ち所がない素晴らしい恋人だ。 けれど、はどこか物足りない思いをしていた。そんな最中、職場の付き合いで行った飲み会で彼が泥酔して帰ったのである。介抱しようと支えたときに香ったのは女性ものの香水の香り、そして襟元には化粧品としか思えない汚れが付着していた。 翌朝、恋人は羽目を外して飲みすぎたことを深く詫び、その場にいた女性に強く迫られたものの断固として拒否したと頭を深く下げた。不貞はなかったと必死に主張する彼を見下ろしながら彼女が感じたのは、確かに落胆である。その瞬間、自分はおかしな性質であると自覚した。 ほどなくして別の理由でその男とは別れ、彼女は審神者となり本丸へと移り住んだ。時間遡行軍との戦が長引くうちに五月雨江という刀がに懸想しはじめ、気付けば交際関係となっていた。 もともと金に眩んでこの職に就いた彼女だ。今更高潔な思想など持ち合わせておらず、「私のことそんな好きならいいよ」と、そんな具合で五月雨江の告白を了承した。 五月雨江はよく懐いた忠犬のような男で、の言うことを聞きたがった。隙あらば傍に張り付いて、名前を呼べばどこにいても十秒足らずで駆けてくる。これほどまでに情熱的に追われる恋をしたことがなかった彼女は最初は戸惑いこそしたものの、今ではすっかり絆されていた。 そんな彼にのその罪を打ち明けることとなった経緯は曖昧で、ただ言い訳をすれば酒に酔っていた。三回回ってワンと鳴けと言えば言葉通りにしてみせる彼がどこまで言うことを聞いてくれるのか、ふとは試してみたくなったのである。 私のことがそんなに好きなら別の女を抱いてきて、と言った彼の顔はどうだっただろうか。深酒で朧げな記憶の中、その顔は欠けている。ただ彼は確かに言ったのだ。「頭が望むのであれば」と。 酒の席の世迷言だと流されたかと思いきや、五月雨江は後日、「花街へ行く許可をいただけませんか」と外出許可証を手に申し出た。 驚きのあまり筆を取り落とすに「あの夜の言葉が冗談だったとおっしゃるなら、やめておきます」と五月雨江は言う。まるで自分が他の女を抱くことが些事であるかのようだ。は内心滝のような汗をかきながら、「本当にしてくれるんだ」と答えた。 その声が震えていたのが喜びか動揺か、もはや彼女にも判別がつかない。は何とかその書類に判を押した。もう後戻りは出来ないと、背筋が冷たくなる。 自分の恋人が、五月雨江が、別の女を抱く姿を想像した。平素従順な彼が、閨では少しばかり強欲になる。彼の下で別の女が鳴くのだと思うと、呼吸が浅くなった。 あんなに願ったことだというのに、後悔しているとでもいうのだろうか。今からでもやっぱりやめて、と言えば、五月雨江は書類を破棄して抱きしめてくれるだろう。 分かっている。言え、言え! ——まともに戻るならば今しかないと思うのに、の喉は張り付いたように何の音も震わせない。 そうこうしているうちに、五月雨江は執務室を出てしまった。 その夜、は一睡もできずに過ごした。五月雨江が今自分以外の女を抱いているということを考えているうちに空が白んでいく。 外は雨が降っていて、薄暗かった。まだ早朝と呼べる時間帯、が部屋を出ると本丸に戻ったばかりの五月雨江と鉢合わせた。 彼女の心臓がどきりと跳ねる。を刺し貫くような五月雨江の視線は彼女に考えを一切悟らせず、不気味に見えた。 大枚叩いて買ってやった着物に乱れは見えないが、わずかに知らぬ香りがする。本当に行ってきたんだ、と思って、は足元から崩れ落ちそうになった。 「頭、おはようございます」 「……おはよう」 はつい俯いた。板張りの廊下だけが映った視界に五月雨江の足が入り込む。強い香りが鼻をついた。すぐそばに彼がいる。 五月雨江は彼女の耳元に唇を寄せると、「これで満足ですか」と囁いた。 「…………その、どう……だった」 「どう、とは?」 五月雨江の声色からは表情を読み取れなかった。浅ましく罪深い欲望が満たされたことへの興奮からか、好いた男が自分だけのものではなくなったという絶望からか、視界が歪む。雨の音が、嫌にうるさい。 「他の女の人……。私と比べて」 遠く忘れ去ったと思っていた親友の裸体と、シャツについたピンク色が脳裏に蘇る。五月雨江の返事を聞くのが堪らなく恐ろしいと感じる。どうして私はこんなことを聞いているのだろうと、自分で自分が不思議で仕方がなかった。 けれど塞がりかけた瘡蓋を捲るようなその問いかけを、どうしても取り下げられない。五月雨江への罪悪感が、彼女の内側を熱らせた。 「……頭と比べて、ですか。なんとも思いませんでした」 「は……」 「私には頭以外の鞘は有り得ません。ご期待に添えないようでしたら申し訳ありませんが、私はこれ以外の答えを持ちません」 はその場に膝をつきそうになった。身体を五月雨江が支えて、立たせる。知らない女の香りを纏う恋人に抱き寄せられるというのは倒錯的で、絶望的で、彼女にとっては堪らない興奮だった。 「頭の願いをお利口に叶えた私に、褒美は頂けるんですよね」 「え、あ……」 「頭」 耳元で注ぎ込まれた声が脳の内側でぐわんぐわんと回って、頭の中が全て撹拌されているような錯覚をする。油の足りない錆びた機械みたいな動きで顔を上げると、その瞳には彼女ひとりが映り込んでいた。自分がどんな[[rb:酷 > むご]]いことを言いつけたのか理解して、彼女は自己嫌悪に陥る。 それから、自分がどうしてこんな[[rb:性 > さが]]を持ったのかを理解した。選ばれたかったのだ。他の女を知った上で、自分以上はいないと意志を示されたかった。五月雨江は以外の女を知らない。今慕うのは、主人である彼女ひとりだ。そんな彼が他を知った上で自分を選んだ時こそ、心から満たされると——あの日、裏切られ心に深く刻まれた傷が癒されると、そんな風に錯覚していた。そんなこと、あるはずがないのに。 「ご、ごめんなさい……」 「なぜ謝るのですか。褒めの言葉以外は聞きたくありません」 「う……」 様々な感情が渦巻いた末、脳と心のキャパシティを超えてしまった彼女は、そこでふっと意識を手放した。 五月雨江は彼女を抱え、未だ静かな本丸の中を歩き、彼女の寝室へと運び込んだ。村雲江と共有している彼の私室へと戻ると、ちょうど村雲江が目を覚ましたところだ。朝日を背に障子を開けた五月雨江に、村雲江は眠気まなこを擦る。 「雨さん、おかえり」 「雲さん、おはようございます」 「……あれ、昨日だったよね、主の無茶ぶりに答えにいったの」 「そうですよ」 寝間着姿の村雲江は布団から這い出ると、五月雨江に顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らした。五月雨江の纏う強い香に一瞬眉を顰め、それから彼は不思議そうに首を傾げる。 「主以外の肌のにおいがしないけど」 「はい。店にはいきましたが、どうにも興が乗らず」 五月雨江は彼女に話した通り、花街へと向かった。 は誰を抱いてもよさそうであったのでそこらで行き会った女を口説き落としても良かったが、以外を恋い慕うなどあり得ない彼にとっては面倒ごとの種に過ぎない。ならば金で解決できる店が良かろうと判断して向かったわけだ。 五月雨江についた女は男が好みそうな豊満な体をしていた。柔らかい肉を当てて、店の女はそういう流れに持ち込もうとしたが、五月雨江はどうも食指が動かない。 任務で抱けと言われたら構わずこなせたが、頭には好いた女がちらついた。その女の惨い要求で、彼は今ここにいるというのに。 興が乗らぬ五月雨江は女と世間話をして過ごした。この仕事が長い彼女は五月雨江が訳ありの客なのだとすぐに察して、以降は行為に持ち込もうとはしなかった。結局、五月雨江から彼女に触れることはなく、買った時間は過ぎていった。 まとわりついた香りを消して帰らなかったのは、彼にとってのちょっとした反発心のつもりだった。飼い主への甘噛みのような、自分が愛されていると明確に確信した上での戯れだ。よその女を抱いてこいと言われ心を殺して行動したのだ。このくらいしたってバチは当たるまい、との考えである。 五月雨江は心底に惚れ込んでいた。罪深い悪癖に愛着すら感じるほどに。 意識を取り戻した彼女に今度は何と言おうか、この一芸の褒美に何を強請ろうか。考えているだけで楽しくて仕方がなかった。