密やかなる季語
審神者の生まれ育った時代では、二月十四日、バレンタインデーに親愛や日々の感謝を込めて主に女性がチョコレートを贈る風習があった。それが二二〇五年にはどういう経緯か、ちよこを集めたものが強者であると伝わっているらしい。起源を辿れば全く別の意味を持った日であるが、それでも彼女にとって二月十四日はチョコレートの日である。
そんなわけで、彼女の本丸では正月にお節料理を食べたり節分の日に恵方巻きを食べるのと同じように、その日はチョコレートを食べると決まっていた。
最初の数年こそ審神者手作りのチョコ菓子が振舞われていたが、今や本丸が擁する刀剣男士の数は百を超える。全員分を作っていては腱鞘炎は免れず仕事に差し障りがあるため、現在は料理や菓子作りに精通した刀が刻んで溶かしたチョコを家庭用チョコファウンテンの機械で流し、審神者が手ずからチョコレートの滝に潜らせたチョコフォンデュを手渡すことでバレンタインの体を成していた。
いつもと違う特別なおやつを喜ぶ者、イベントごとだと無邪気にはしゃぐ者、特に甘いものには興味がないが、貰えるなら貰っておくかという姿勢の者、刀剣男士の反応はそれぞれだ。『主ガチ勢』と揶揄される一部の刀はいくつか用意された具材のうちどれが最も表面積が多いかを検証し、少しでも多く審神者からのチョコ——主に燭台切光忠や小豆長光がプロのパティシエさながらの手つきで刻んだものだが——を受け取ろうとしたりと画策しているが、まあ楽しみ方は人それぞれである。
審神者にとっては形式だけでも自分に馴染みのある文化を残せる日、そして、改めて日々身を粉にして戦ってくれている刀剣男士達への感謝を伝えられる日でもあった。
二月上旬、バレンタインデーには少し早いこの日に、審神者は現代へとやってきていた。
本命の用事を済ませたが、本丸に帰る予定の時刻まではまだ余裕がある。せっかくならと近場の百貨店に立ち寄ると、彼女の予想通りそこでは全国どころか世界各地から集められたチョコレートの祭典が開かれていた。
その日の護衛は五月雨江。季語と本丸行事としての『バレンタインデー』は知っていたが、彼女の時代のそれを目の当たりにするのは初めてのことである。催事場フロアに着いた途端人口密度がグッと上がったのを見ると、「頭の時代ではこれだけの方がちよこに熱中しているのですか」と驚いた様子であった。
「平日の夕方だからね。休みの日はもっとすごいよ」
「これ以上に沢山の人が。ばれんたいんでー……は、それだけの方を魅了しているのですね」
この季語が愛されていることを知ってか、催事場エリアの人混みに気圧されてか、五月雨江の表情は高揚している。審神者は五月雨江を振り返り「はぐれないでね。もし迷子になったら二度と会えないと思って」と念押しした。五月雨江は「たとえ嵐に巻き込まれようとも、この目は頭を見失いません。必ずや、全てから頭をお守りいたします」と力強く頷く。
——それから三十分後、審神者はぐったりと催事場エリアを少し離れた傍で壁にもたれ込んでいた。
長らく本丸で暮らしているせいか、人混みへの耐性がかなり下がっていたらしい。気になる商品を見かけても、人混みに流されてショーケースを見ることすらままならない。はぐれかける度に何度も五月雨江に腕を掴まれるので、最終的には恋人同士のようにガッチリと腕を組み合うことになっていた。
刀剣男士だからか忍びとしての身のこなし故か、五月雨江は人混みを物ともせず、誰にもぶつかることなくすいすいと目的地へと抜けていく。彼の助力あってなんとか幾つかの戦利品を入手することができたが、人混みを抜けた頃には疲労困憊で今にも倒れそうな状態だった。
「し、死ぬかと思った。バレンタイン舐めてたわ。ありがとうね、五月雨」
「頭のお役に立てたならば光栄です。もう本丸へ戻られますか?」
「あー……どうしようかな」
審神者がちらりと視線をやったのは包装されたチョコレートが売られるショーケースカウンターとは違う別の売り場である。ガラスの壁に囲まれた調理台では、パフェやソフトクリーム、ジェラートドリンクなどがその場で作られ販売されていた。
バレンタインデーのチョコレートといえば贈り物としての側面がやはり強いが、イベントに託けて自分用に高級チョコを買うのもお楽しみの一つである。審神者の手元にあるものも自分用チョコレートだが、やはりチョコレートメーカーの叡智が詰まったその場でしか食べられないアイスクリームやパフェなんかも捨てがたいわけで。
「どうかなさいましたか」
「ううーん……」
五月雨江は審神者が何かに悩んでいると知ると、眉尻を下げて彼女の様子を伺った。先ほどまで目を回していた審神者の体調を案じている。しかしそれは杞憂であり、彼女の頭を占めているのは「今ここでチョコアイスを買うかどうか」である。
そもそも本丸でチョコレートファウンテンの形式を取ってまでバレンタインを継続しているのは、「今年からチョコレートは厳しいかも」と伝えた時の短刀たちの悲しげな表情を見て胸が痛んだこともあるが、『刀剣男士を特別扱いしない』という信念の元だった。
勿論顕現時期や役割、それぞれの得意分野や彼らの在り方によって、審神者が向き合う姿勢は異なっている。けれど、贈り物——それも彼女の時代では特別な意味を持つ日のそれで差をつけることが、憚られたのだった。
チョコレートファウンテンであれば、一部の刀の剛腕の力を借りることになるものの審神者が手首を痛めることなくこのイベントを継続でき、加えて刀剣男士同士で差が生まれることはない。
ここで自分一人がチョコレートアイスに在り付くのは気が引けるし、かといって五月雨江にも買ってやればまた別の意味が生まれてしまうのでは? という懸念があった。とはいえ遠征のお供でご褒美代わりに食事やお茶をすることはよくあること。バレンタインという行事を抜きにすれば、なんら問題はないはずだが。
彼女の体調不良を危惧していた五月雨江だったが、ふと審神者の視線がちらちらと一箇所を彷徨っていることに気がついた。おしゃれな筆記体で記された横文字を彼は読むことができなかったが、どうやら視線の先の売り場の氷菓が気になっているのだと察し取る。
聡く、そして卑怯を躊躇わない五月雨江は審神者にそっと顔を寄せると、「頭」と妙に色っぽく密やかな声で囁いた。
「うわっ! びっくりした、なに?」
「バレンタインとはとても賑やかな季語ですね」
「ああ、うん。そうだね。……もしかして疲れた? ごめん、付き合わせて」
「ええ。……少し、甘いものが欲しくなりました」
審神者がハッと顔を上げる。五月雨江は強かで武功を立てては褒美を要求してくるような男であったが、それにしたってその声色は妙だった。まるで悪魔の囁きだ。その声は、明らかに審神者に何かを促していた。
「あ、えーと、チョコレート欲しい……とか?」
「いえ、このようなところで私一人が抜け駆けするわけには参りません。篭手さんにも、本丸の決まりと伺っています。ですがそこの——ちょこあいす、というのが気になります」
——どうか、護衛の褒美に頂けませんか。
ふたりの視線が絡み合う。数秒の後に、彼らは瞳だけで確かめ合っていた。
絶対本丸では口外しないこと。五月雨江は頷かずとも、強い信念を持ってそれに同意する。
審神者は長く息を吐き、やたらと視線を鋭くした後、誰に見られているわけでもないのにコソコソと販売待機列の後ろに並んだ。
ガラスの壁に貼られたメニューを眺め、「チョコとキャラメルとイチゴとピスタチオあるけど、どうする」と五月雨江に小声で尋ねる。五月雨江は「ぴすたちお、が気になります」と答えたので、審神者はヤクの売人と同じ顔つきでレジのお姉さんに「キャラメルとピスタチオひとつずつ、カードで」と伝えた。
こうして審神者と五月雨江は季語の気配を腹の中へ押し込んで、甘いもので疲労を回復したのちに何食わぬ顔で本丸へと帰っていった。やけに機嫌がいい五月雨江に村雲江が「雨さん、なんかいいことあった?」と訊ねたが、彼は唇の前で指を立てて「ないしょ、です」と言うばかりであったという。
- WaveBox
- 感想頂けると嬉しいです。