結婚準備は
彼女が恋人と住まう自宅へ帰宅すると、見慣れない雑誌がリビングのローテーブルの上に乱雑に置かれていた。自分はともかく恋人は綺麗好きな人間で、身の回りは常に整頓されている。そんな彼が雑誌を放置するとも思わず、つい彼女はそれを手に取った。
裏表紙を上にして置かれていたそれはいわゆる結婚前のカップルに向けた準備雑誌で、プロポーズの理想アンケートから式場選びのポイントのまとめなど人生のステップアップを控える二人へのアドバイスがこれでもかと掲載されている。
もちろん、彼女も存在自体はよく知っているし、書店で見かけたこともある。けれど身近な場所で手に取れる状態にあるのは初めてのことだったので、彼女は興味本位でページをパラパラとめくった。
「帰りました」
「あ、おかえり」
外出していた恋人が帰宅する。天気予報は一日曇りだったはずだが、にわか雨でも降ったのだろうか。彼の髪や肩はうっすらと濡れていた。
彼女がタオルを持って玄関へと向かうと、恋人は当たり前のように頭を下げた。拭いてくれ、と言外でせがんでいる。彼女が仕方なしに頭にタオルをかけてワシワシと大型犬にするように拭いてやると、彼は幸せそうに目を細めた。
「折り畳み傘持ってなかったの?」
「この程度なら問題ないかと思ったので」
「最近寒いんだから風邪引くよ」
水も滴るいい男という言葉があるが、まさに恋人の姿はそれだった。雨という文字が名前につくだけあって、それがよく似合う。
水滴の滴る髪は重みを増し、顔に張り付くように垂れ下がっている。その隙間から見えるミステリアスな瞳がひどく蠱惑的だった。
「そうだ、机の上にあった雑誌って五月雨の?」
何気なく彼女が投げた問い掛けに五月雨はぴくりと顔を上げる。少し間を置いてから、彼は「そうです」と肯定し、尋ねてもいないのに「犬の手帳がついてくるので」と答えた。
確かに雑誌の表紙には、有名な犬のキャラクターの手帳が付録としてつけられていると書かれていた。しかし別段、彼がそのキャラクターのグッズを特別好んで集めていたという覚えはない。
彼女は言い訳じみたその言葉を深く追求することなく、「そうなんだ」と返した。
「来月はキッチンタイマーだそうです」
「えっ? あ、そう……?」
だからなんなんだ、と思いながら、彼女はある程度水気を吸ったタオルを彼の頭から取り去った。キッチンタイマーならこの家にはすでに現役のものが冷蔵庫に張り付いている。
五月雨はそれ以上、その雑誌について何かを言ってはこなかった。
夕飯の支度をするために机の上を片付けようと彼女が雑誌を手にしたとき、五月雨の視線がそれを追った。ふたりはしばし見つめ合い、沈黙する。
ふと、彼女は何かで聞いた言説を思い出す。結婚適齢期の女性が、恋人の家にこの手の雑誌を置くことで相手に将来を意識させプロポーズさせる策がある、というものだ。いつ耳にしたのか定かではないが、なるほど奥ゆかしい女性もいたものだな、と感心したのを彼女は覚えていた。
——まさか今、この恋人も同じ意図を持ってこの雑誌をここに置いているのでは?
彼女はそんな可能性に思い至った。
「五月雨さ、結婚したいの?」
「!」
恋人の表情の変化に、彼女はお気に入りのおもちゃを飼い主が持ち出してきた時の犬を想起した。
顔のパーツがあまり大きく変化する顔付きではないが、感情豊かな男である。あまりにもわかりやすい反応に、彼女は心のうちで笑う。
五月雨はすぐにきりりと普段の涼しげな表情へと切り替えた。
「それは求婚と捉えてもよろしいのですか」
「あっ、したいんだ」
この男からの熱烈なアプローチで始まった関係ではあるが、彼女も今では居心地の良さを感じている。過ごした時間やお互いの年齢を考えても、意識してもおかしくない話だ。むしろ自分が鈍すぎたのかもな、とさえ彼女は思った。
「五月雨ってそういう形にこだわるタイプじゃないと思ってた」
是とも非とも言わず、彼女は五月雨の真意を探る。彼女こそ必要に迫られなければ結婚なんてすることがないと思っていたので、その意図を知ろうとしていた。
そもそも五月雨という男に出会い、執着とも呼べるほどの愛情を向けられ、周りを固めた後に絶妙な塩梅で迫られなければこんな形に収まることもなかっただろう。
五月雨は彼女の側に傅いて、その手を取った。指輪の一つもはまっていない飾り気のない手を彼は自身の頬に当て、愛しむように擦り寄せる。
「私は法的にも、あなたのものになりたいのです」
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