姉のそばにいる知らない男
従姉の結婚式は、盛大で華やかなものだった。長年勤めていた仕事を辞めて帰郷した従姉は、幼馴染と再会し意気投合、そして結ばれるに至ったらしい。晩婚ながら二人は満たされた表情で、誰よりも幸せそうに見えた。
私は友人代表のスピーチを聞き流しながら、二つ隣の席に座る人物を盗み見る。知らない男が、親戚面をして座っていた。
面識がないわけではない。ただ、彼がどういう人物なのか、掴みかねていた。知っているのは秘密の多い仕事をしている姉の部下であるということと、綺麗な顔に見合った五月雨という雅な名前だけだ。
彼を招待したのは従姉であるらしい。従姉は以前、姉と同じ仕事をしていた。体力に限界を感じ円満に辞めたそうだが、その時の縁でもあるのだろうか。だったら仕事仲間の輪に入れるべきだろうに、なぜか五月雨さんはまるで姉の配偶者であるかのようにぴったりと彼女にくっついて回っている。
正直なところ、私は五月雨さんが苦手だ。彼は何度か姉の帰省に付き添って、私たちの家へとやってきたことがあった。私以外の家族はその美しい容姿と、口数少なくも丁寧な態度が気に入ったらしい。五月雨さんが来ると知ると母は腕に寄りをかけて料理を振舞ったし、この式に来ると知った時も大層楽しみにしていた。私だけが、家族に割り込んだ異物のように彼を気味悪く思っていた。
五月雨さんはスタンドマイクの前に立つ人物を見ているふりをしながら、隣にいる姉を凝視していた。姉はそれに気付かず、時折頷きながらスピーチに耳を傾けている。五月雨さんの視線は、到底部下が上司に送るものとは思えなかった。
実は二人は恋人同士で、私に内緒で入籍の予定を両親にだけ伝えているのではないか。そう疑って姉に彼との仲を探ったこともあったが、姉は私の質問に大笑いして「五月雨と? ないない。大事な部下だけど、そういうんじゃないから」と言った。この年でなかなか見ないくらいの素直さが取り柄の彼女だ。嘘をついているようには見えなかった。であれば、五月雨さんの一方通行なのかもしれない。
——彼は今、どんな気持ちでそこに座っているのだろう。どんな気持ちで、姉を見つめているのだろう。
お色直しの最中に用を済ませてお手洗いを出ると、五月雨さんが壁に沿って立っていた。ホテルの廊下はふかふかの絨毯が音を吸ってとても静かだが、それを差し引いても彼の気配は希薄だった。
まさか、姉がトイレに行っているのを待っているのだろうか。部下ってそこまでするものだろうか。彼にとって姉はそうすべき立場の人なんだろうか。
私の疑問に答えが返ってくることがないということをわかっていて、私は目が合ってしまったので五月雨さんに会釈をする。彼も礼儀正しそうに頭を下げた。
「……お姉ちゃん、待ってるんですか」
「はい。中で会いませんでしたか」
「会ってないです」
「そうですか」
二人きりになるのも直接会話するのも、これが初めてだった。
さっさと披露宴の会場に戻ればいいのに、なんとなく姉と彼を二人にするのが嫌で、私も姉を待つことにした。紫陽花の映る水たまりのような瞳からは、感情が伺い知れない。もしかしたら彼は何も考えていなくって、私一人が気まずい思いをしている気さえした。
「お姉ちゃんは、……その、姉は仕事場でどんな人ですか」
「とても立派な方です。私たちひとりひとりをとても大事に扱ってくれています」
姉のことを思い出しているのか、五月雨さんはわずかに彼は表情を柔らかくした。私たち、というからには五月雨さんのような部下がほかにも何人かいるのだろう。私が思っているよりずっと、姉は重要な仕事をしているのかもしれない。
「五月雨さんは、姉のことが好きなんですね」
「はい。この身尽きるまでお仕えする覚悟です」
揺さぶりをかけたつもりだったが、五月雨さんはそれには動じなかった。ただ、彼の忠誠心は本物であるらしい。私は己の考えの浅はかさを恥じた。
きっと姉と五月雨さんは私のような一般人が想像もできないような重大な仕事を請け負っているのだろう。その中で五月雨さんは姉の働きに慕うに足る何かを見出し、尽くしている。二人の間にはそんな信頼関係と絆が築き上げられているのだろうと思った。
姉が今の仕事に就いて初めて帰省したとき、人が変わったかのように穏やかで驚いたのを思い出す。一緒に暮らしていた頃は、些細なことで言い合っては揉めてばかりだったのに。姉は家族の身を案じ多額の仕送りをしてくれて、そのおかげで私も苦労なく進学できたのだ。
かつてくだらない姉妹喧嘩ばかりをしていた姉とは、今はもう違うのかもしれない。私はほんの少しの寂しさを覚えながらも、そんな姉を誇らしく思った。
「あれ、なんで二人が?」
お手洗いから出てきた姉は、私と五月雨さんが話しているのを見て意外そうに目を丸くした。
「トイレから出たら五月雨さんがお姉ちゃんのこと待ってたから、ちょっと話してた」
「ストッキングひっかけたから履き替えてたの。時間かかるから先戻っててって言ったよね」
姉はそう言って五月雨さんを睨むように見上げた。彼はちっとも悪いと思っていない顔をして「申し訳ありません。道を忘れてしまいました」と謝罪を口にする。
「絶対嘘じゃん。はぁ、まあいいけど。……二人でなんの話してたの?」
「お姉ちゃんって仕事場でどんな人ですかって聞いてた」
「えっ!? ……変なこと言ってないよね?」
「まさか。めっちゃ褒めてたよ」
「ほんとに?」
気恥ずかしそうに疑いの視線を向ける姉は、私のよく知る姉そのものだった。私が五月雨さんに「ですよね」と同意を求めると、彼は唇で穏やかな弧を描きながら頷く。
私と姉が並んで歩く後ろを、五月雨さんが付いてくる。ひたりと張り付くような視線を、不気味だと思うことはもうなかった。
披露宴会場の席へ戻ると、別の親戚卓にいた叔父が私たちに声をかけた。五十代だが独身で、正直私はあまり彼のことが得意ではない。中年男性の悪いところを全部詰めたみたいな人柄で、披露宴もまだ中盤だというのにへべれけだ。
赤い顔と酒臭い吐息に私が反射的に眉を顰めたのを見かねて、姉が私と叔父の間に遮るようにして立った。
「いやぁ、あの子が結婚するとはな。まさかこの歳で。このままずっと独身だと思っとったわ」
「いい縁っていつ結ばれるかわからないものですね」
「とかいうて、お前もいつまで独り身でいる気なんだ? もういい歳だろ」
「いやぁ、仕事が忙しいもので」
自分のことを棚に上げたデリカシーのない質問を姉はのらりくらりとかわす。申し訳ないと思いながらも姉の陰に隠れていると、ふと背筋に寒気が走った。
思わず振り向くと、こちらの様子を伺うように五月雨さんが立っている。親戚同士の会話だからさすがに遠慮したのだろうか、少しだけ距離を置いているが、その視線はまっすぐ私たちに注がれていた。
「お、おねえちゃん」
「ん? どうした?」
私はつい、姉のショールを引っ張った。叔父が何か話し続けていたが、全く耳に入ってこない。
わざわざ話に割って入るような真似をした私を姉は不思議そうに見下ろして、私の視線の先を辿る。その瞬間顔を強張らせ、貼り付けていた愛想笑いを引きつらせた。まだ話し足りなそうな叔父との会話を雑に切り上げると、姉は私の腕を引いて五月雨さんの元へと駆け寄った。
「頭、お話はよろしいんですか」
「いやどの口が言ってんの」
「何の話でしょう。私は頭の言いつけの通り、誰にも迷惑をかけないよう大人しく『待て』をしていましたよ」
五月雨さんは不満そうな態度を隠そうともせず、褒められることはあっても叱られる謂れはない、と言わんばかりに声を平坦にしている。ちらりと私を一瞥して、すぐに姉へと視線を戻した。私はその一秒にも足らない時間で脅された気持ちになって、姉のショールをぎゅっと掴んだ。
彼を上司思いで従順なただのいい部下だと定めるには、まだ早かったのかもしれない。やはり私はこの男を知らなすぎる。
姉にぐちぐちと文句を言われながらもどこか嬉しそうな五月雨さんが、飼い主に構ってもらって尻尾を振る犬みたいに見えた。
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