Sink

ホールケーキ、2台で6000円

「頭、まだ働いていたのですか」
「えっ、帰ってもらっていいかな」
 五月雨というこの男は、理由あって私をかしらと呼ぶ。それはさておき、いったい何をしにきたのか。
 12月24日、クリスマスイブだ。マーケティングに踊らされキラキラと輝くイルミネーションの中、カップルや家族が楽しげに行き交う街の傍ら私はケーキを売っていた。
 バイト先のパン屋さんは日頃ケーキなんか売っていないくせに、こんな日だけわざわざショーケースを店頭に出してケーキを売り捌く。そしてその売り子をするのが、華の大学生ながら恋人ナシの私だった。
 ペラペラの安っぽいサンタ服の下にしこたまカイロと裏起毛インナーを仕込んでいるが、顔や手などの肌が露出した部分は風に晒され氷みたいに冷え切っている。このまま壊死したら労災が降りるんだろうか? SNSに多少オーバーに脚色して書いて炎上させてやろうか? などと店長への殺意を燃料に体を温めながら必死に労働に励んでいたところ、煽っているとしか思えない挨拶を述べて現れたのがこの男だった。
 暖かそうなラベンダーのマフラーに毛玉ひとつない上品なコートを着込んでいる。「何をしにきたの?」と恨みったらしく睨みながら問いかければ「ケーキを買いに」と抜かした。
「い、今から?」
「はい」
 時間は9時を回ったところだ。5時頃から売り始めて、最初は飛ぶように売れたケーキも次第に落ち着いてきて、今はここ三十分ほど誰も立ち寄っていない。
 それもそのはず、一人で食べれるサイズのケーキは全て売り切れて、残っているのはホールのケーキ2台だ。小さいケーキが残っていれば残業終わりのOLさんなんかが覗きにきてくれたかもしれないが、今からホールケーキを買おうなんて奇特な人間がいるはずもない。そもそもホールケーキを買うような人間は、恐らく今頃暖かい屋内でディナーの後にホールケーキを囲んでいるはずだ。
 が、ここにそんな奇特な人間が一人。
「もうホールケーキしかないんだけど」
「構いません。ふたつともお願いします」
「はぁ!? 嘘でしょ!?」
 しゃんしゃん耳障りなクリスマスソングが響く店の前で私は大声を上げた。五月雨はいつ通り表情を崩さずこくりと頷く。恐ろしいまでのポーカーフェイスだ。
「え、ほ、ほんとに言ってる?」
「はい」
「まじかぁ」
 五月雨は正直言って、あまり友達が多いタイプではない。狭く深く交友を持つ人間だ。その狭いうちの一人が私で、故に五月雨の友人は大体を把握していた。そんな私だからこそ、この男が急にホールケーキを2台買う異常さをより理解した。
 しかし、これは私にとって一種の助け舟でもある。店は22時で閉店予定だが、今日はケーキを売り切ったら帰っていいとのお達しが出ていた。つまり、五月雨がケーキを買い占めてくれた時点で私の仕事はおしまいというわけだ。
 失礼なことを言いながら登場した彼へのささやかな抵抗心からその事情を隠し、私は崩さないようケーキを箱に詰めた。会計を済ませ、丁寧に紙袋を手渡す。
「では頭の仕事はこれで終わりというわけですね」
「えっ、いや、そうだけど」
 言っていなかったはずの事情を見透かされ、私は目を丸くした。五月雨は「待っているので、帰り支度をしてきてください」と言う。こいつ、私と帰るつもりなのか?
 きょとんとしていると、まるで支度をしに中へ戻ろうとしない私がおかしいかのような顔で首を傾げた。自身を愛してやまないはずの飼い主が仕事に夢中で遊んでくれないことを本気で不思議がる犬みたいな顔である。
 私はただの友人で、そもそも一緒に帰る約束なんぞしていない。が、まあしかし買ってくれた恩義もあるしと私は特に言い返さずバックヤードへと戻った。
「おっ、ケーキ完売? おつかれ!」
「お疲れ様です。帰っていいんでしたよね?」
「おーおー、帰りな! ってか、彼氏いないんじゃなかったっけ? あれって彼氏じゃないの〜?」
 店長がニヤニヤと笑みを浮かべながら中年男性特有のデリカシーのない質問を投げかける。詮索されるのが面倒だった私はそれを無視して、「おつかれさまです」と言って店を出た。
 五月雨は店の前で鼻を赤くして待っていた。私が出てくると、ほんの少しだけ頬を緩めた。
「てかそのケーキどうするの。食べきれないでしょ」
「豊前さんのところへ持っていこうかと。今クリスマスパーティをしているんです」
「えっ? 五月雨は?」
「抜けてきました」
 両手にケーキをぶら下げた五月雨は当たり前みたいにそんなことを言った。小学生のクリスマス会じゃあるまいし、9時に抜けるやつがいるだろうか? なんならこれからが本番じゃないのか?  ホールケーキ2台買いといい、ホント意味不明な奴だな、と私は改めて思い知らされた。
 共通の友人のひとりである豊前の家は店のすぐそばで、五月雨はマンションのエントランスで「ここで待っていてください」と私を置いて行った。
 共通の友人なのだから別に私も行ってもいいんじゃないか? と思ったが、他のメンバーを知らされていない。ここで女を連れ込むと面倒なことになるのかもな、と勝手に男の友情を想像して、五分ほど彼の帰りを待った。
 いや、なんで待っているんだ? 別にここからそれぞれ帰るだけだし……と思った頃、手に持った紙袋をひとつ減らした五月雨が帰ってきて「行きましょう」と言う。
「行くってどこに」
「私の家へです」
「え、なんで」
「プレゼントを用意していますよ」
「そんなのに釣られるガキだと思われてる……?」
 不幸にも、豊前の家から私の家の間には五月雨の家がある。みんな交通の便を求めて似たようなとこに部屋を借りた弊害だった。どこかで走って撒かなければと思ったが、この男は忍者みたいに足が速いので逃げようとした瞬間に捕まえられるのが目に見えている。
「そもそも、約束してないよね」
「しましたよ」
「嘘!?」
「先週、クリスマスイブの予定を聞いたらバイトだと言うので、その後はどうですかと聞きました」
「そう……だったっけ?」
「はい」
 まるで記憶になかったが、それもそのはず。確か先週は課題の提出期限に追われてそれどころではなかったのだ。バイトのシフトも入っていたから、イライラしてクリスマスという言葉を耳にしただけで会話をシャットアウトしてしまったのだろうと我がことながら他人のように想像した。
「え、いや、ごめん覚えてない。本当に?」
「はい、本当に」
「……本当に?」
 そんな押し問答を繰り返していると、俄かに五月雨が不機嫌になってくる。わずかな変化だが、じっとりと睨みつけるような視線に変わっていた。
 よく分からないが、彼の中ではバイトを終えた後の私とクリスマスの約束をしていることになっていて、だから早く帰れるようにケーキを買い占めてまで迎えにきてくれたのだろう。
 ここまでされれば心当たりがなくとも忘れていたことに罪悪感を覚え始めた。しかも、プレゼントを用意しているという。さすがにここで「それはお前の思い込みだから帰る」とは言い難い。豊前のところの楽しいクリスマスパーティーを抜けて来てくれたというのに。
「そのケーキはどうするの」
「頭と食べるつもりでした」
 口調は変わらずとも、その声はどこか沈んでいる。私が約束を忘れていたのがそんなにショックだったのだろうか。叱られて部屋の隅に隠れた子犬みたいな顔をしているので、私は居た堪れなくなってしまった。
「わかった。じゃあプレゼント貰ってケーキ食べるだけなら」
「本当ですか」
「それだけだからね」
 妙なことになっても困るから、0時を回る前に帰るつもりで私はそう宣言した。
 五月雨はうっとりと微笑んでいる。一緒にケーキを食べると言っただけでこんな顔をするのだ。この美しい容貌の男は。絆されたって仕方ないでしょ、と私は誰に言うでもなく心の中で言い訳をした。
 しかし、この男の家に上がったが最後、ケーキを食べるだけで済むはずがない。一夜明けてクリスマス当日、私は全てこの男の手のひらで踊らされていたことを知った。


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