Sink

髪と神と刃

 かつて、これほどまでに重苦しい尋問を受けたことがあっただろうか。審神者は不慣れな正座に限界を感じていた。しかしこの空気の中「足崩していい?」などと聞く勇気もなく、もう少し耐えてくれ私の足! と念じながら太腿の上の拳を強く握るばかりであった。
 向かいに座るのは忍べる犬系俳人刀剣男士、五月雨江だ。彼の表情は険しく、その視線は射殺さんばかりに審神者を貫いていた。
「頭、今一度お訊ねいたします。このなまくらで、頭はなにをなさっていたんですか」
 相対する五月雨江と審神者の間、畳の上に置かれているのは工作バサミだった。事務用品を主に取り扱う通販サイトで購入したなんの変哲もない文房具である。
 持ち手はライムグリーンのプラスチックで、そのチープな鮮やかさが少しばかり目に眩しい。今も本体が重要文化財として美術館に大切に所蔵されている彼が税抜400円のそれをなまくら呼ばわりするのは当然だった。
「その、すみません。最近ちょっと、忙しくて、その、前髪をですね、自分で」
「そうですね。確かに政府からの特別任務が続き多忙で業務も滞留していると松井さんも仰っていました。……頭、念の為確認致しますが、言い訳はそちらでよろしいですか」
「……………いえ、その……忙しさを理由にするのは、よくなかったです。すみません」
 なぜこんなにも家臣に詰められなくてはならないのだろうか。時の政府からの支給品を受け取り損ねた時だって、これほどまでに叱られることはなかった。判断を誤り行軍を進めようとした私を止めた時も、彼はもう少し冷静だったはずだ。それがなぜ、こんな。
 審神者は、足の痺れから逃れるようにここに至るまでの経緯を思い出した。

 五月雨江との会話の通り、ここ最近の本丸は多忙を極めていた。出陣出陣、それから出陣。資源が間に合わなくなるので合間に部隊を遠征に出し、刀剣男士からの報告をもとに戦況を判断し指揮を取る。
 それが今日ようやく落ち着いて、束の間の休息を取ることが出来た。ここしばらくは任務に集中するあまり、身の回りのことまで手が及んでいなかった。部屋は散らかり放題で身なりも最低限見苦しくない程度に保つ程度。
 また忙しさがぶり返せば今度こそ人としてダメになってしまう気がする。今こそ身の回りも自分自身も綺麗にするべき時だ、と審神者は大掃除を決行した。
 動き回ったせいか汗をかいたためシャワーを浴び、いつも以上に丁寧に髪や肌を手入れする。鏡を見ながら髪を乾かしていた時に、そういえば随分髪が伸びたなと気がついた。
 ここのところは前髪が目にかかるのが疎ましく、ヘアアクセでおでこを出すヘアスタイルにしている。この機に今切ってしまおうと、審神者が手を伸ばしたのが例の工作バサミだった。
 鏡の前でハサミの持ち手の輪に指を通し、前髪を引っ張りながら髪を切ろうとしたところで——審神者は誰かに羽交い締めにされた。
 驚くあまり手を動かしてしまったのでは、と案じたが、工作バサミはすでに審神者の手を離れている。まさか敵襲かと慌てて背後を振り向くと、そこには見知った忠犬の顔があった。
「頭、今何を?」
「前髪を……切ろうとしてたんだけど」
「このなまくらで、ですか」
 髪は美容室できちんと切ってもらったほうがいい。わかる。わかるけど、今はその余裕がない。じゃあ前髪を少し整えるくらい自分でしたっていい。いいはずだ。彼女の中の常識では、そういうことになっている。
 しかし、彼女を今代の主と慕う刃物そのものである彼らにとっては、それはとんでもない愚行であるらしかった。
 五月雨江は彼女を解放すると、「ハサミ返してよ」という審神者の言葉につんとそっぽを向き、それどころか冷たい口調で「頭、こちらにお座り下さい」と言った。これではどちらが主人か分からない。
 そんな不遜な態度を五月雨江が取るのは非常に珍しいことだったので、審神者は恐ろしくなっておずおずそれに従った。その結果、例の尋問が始まったわけである。

 人の身体を断つために生み出された彼らは、その行為に強い意味を見出している。それはこれまで一度も武器として振るわれたことのない美術品であろうとも、何千人と人を斬り倒し血を啜った曰くつきのものであろうとも、妖や幽霊の類を切った伝説の刀であろうとも、刀剣男士の有する共通認識だ。
 そんな彼らにとって、たかが髪の毛一本とはいえ主君の体の一部を切ることには大きな意味があった。もちろん適材適所、日本刀で前髪を切るなんて現実的な話ではない。であるならば、そのために生まれた道具にそうさせるべきだ。
 ぽっと出のよく分からないビカビカ下品な色の柄をした奴の刃が彼女に触れるのを、五月雨江は——ここにいない本丸の全ての刀剣も含めて、彼らは誰一人として許せなかった。
 幸いにも五月雨江が彼女の部屋にひっそり忍んでいたおかげで——これに関しては審神者からも言いたいことがあったが——こうして未遂に終わったが、もしも切れ味の悪い工作バサミで疎な前髪になった彼女を本丸の刀たちが見たらどうなっていただろうか。
 特に、本丸の始まりの一振りである歌仙が目にしたら絶叫と共に泡を吹いて倒れていたかもしれない。間違いなくそのなまくらは、二度と物を切らことが出来なくされていただろう。
 物の付喪神である彼らが同じ刃物にこのような扱いをするのは相当なことで、それだけ審神者が犯そうとした過ちは重大であった。
「あの、本当にすみませんでした。ちゃんと美容室行きます」
「二度と、しませんね」
「はい……」
 審神者は内心、次は絶対風呂の中とか見つからんとこで切ろ、と思っていたが、その浅はかな考えは五月雨江にはお見通しであった。
 彼は意味ありげに工作バサミを手に取り、刃の部分を握って持つ。そうして審神者に視線を合わせる。
「頭、二言はありませんね。あなたは今、神の前で約束をしています。その意味を重々お考えください」
「……………………ハイ、もう絶対に、工作バサミで自分で前髪を、切りません」
 これ本当に破ったら髪の毛どころじゃ済まないやつだ、と審神者は思った。彼女の返事で満足したのか、五月雨江は「わかっていただければよいのです」と表情と口調を弛緩させる。
 やっと許された、と審神者は限界を迎えかけていた膝下を自身の体重から解放してやった。足の裏を揉むと、わずかに痺れてなんともいえない感覚がじんじんと伝わる。
 自身の足を労ることに夢中になっている審神者に、五月雨江はさもいい提案がありますと言わんばかりの口調で言い放った。
「頭、髪が伸びるのが煩わしいなら、私にはそれを止める手段がありますよ」


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