かつて犬だった男
えらく顔の綺麗な人だな、と思ってはいたのだ。車窓に月夜を映す快速列車は、くたびれた大人を乗せて走っていく。私と彼は、そのうちの一人でしかなかった。
すし詰めとまではいかないまでも他人と躊躇う程度に距離を詰めることを強要される乗車率の車内で、私とその男は同じドアに背を預けて立っていた。電車を降りるまでの三十分間、興味のないパズルゲームに興じて時間を潰す。「この先、列車が揺れますので——」と聞き流したアナウンスの通り車体が大きく揺れ、私はバランスを崩し隣の男へと肩をぶつけた。
すみません、と会釈をした瞬間、頭の中で何かが弾けた。。知らない記憶が流れ込んできたかと思うと、それはあっという間に私の中に定着し、最初からそこにあったかのように居座った。
「……頭?」
声色は、あの時と変わっていなかった。かつて五月雨江と呼んだ彼が、目の前にいる。戦装束ではなく綺麗なジャケットセットアップに身を包んだ成人男性だ。耳に犬の意匠もなければ尻尾もぶら下がっていない。けれど、私には彼がもう『同じ電車に乗り合わせただけの綺麗な顔の男の人』ではなく、『かつて共に戦った刀の神様』にしか見えなかった。
「五月雨江……?」
その名を耳にし、彼——五月雨江だった男は顔を綻ばせた。つぼみが開くような柔らかな笑みに、私は一瞬見とれる。涼やかな目元は彼の名残を残し、間違いなく彼なのだと確信せざるを得なかった。
「まさかまた頭に会えるとは思っていませんでした」
「私も、っていうかその時の記憶、今思い出した」
おそらく、肩が触れ合ったあの瞬間だ。体の接触と同時に魂が共鳴するかのようにその記憶は呼び覚まされた。すべての詳細をはっきりとは思い出せはしないが、その記憶は疑いようの無い程に確かなものだった。
次の駅に停車するまでの数分間、私たちはぽつりぽつりとお互いのことを話し合った。長く疎ましいと思っていた待ち時間が、途端に色付き始め物足りないとすら感じる。次の駅の到着アナウンスが流れた頃、五月雨江だった男は意を決したように口を開いた。
「頭、私は次の駅で雲さんとルームシェアをしているのです」
「えっ、そうなんだ。もうちょっと話したかったけど……」
「ええ。頭さえよろしければ、うちへいらっしゃいませんか」
唐突な誘いだった。前世——と呼ぶべきかはわからないが、過去の知人であるとはいえ、一応は初対面の異性である。普段なら絶対に断っていただろうが、それとはわけが違っていた。なにより、再会の喜びでテンションが上がった私は、同じ時間の記憶を持つ彼と話したくて仕方がなかったのだ。同じく共に戦っていた村雲江も一緒に暮らしているというなら、かつての主としては彼のことも気にかかった。
「五月雨がいいなら、お邪魔しようかな」
悩んだ末に、私はその誘いに乗ることにした。
普段からよく行くというスーパーで五月雨江の買い出しに付き合ってから、彼らの住むマンションへと足を踏み入れた。2LDKで駅近、まだつくりも新しいと見える。私は素直に、いい家に住んでるなあと思った。
玄関の靴箱にはそれぞれ趣味の違う二人分の靴が並んでいる。スリッパやマグカップも一対ずつ置かれている。ルームシェアをしているというのは本当なのだろう。そこかしこから、五月雨江と村雲江の気配を感じることに私はなんだか嬉しくなった。彼らが間違いなく、今この時代に生きているのだ。
五月雨江はスーパーで買ったもの——村雲江が気に入っているらしいプリンなどを冷蔵庫に仕舞って、食事の用意を始めた。
「五月雨って料理するの?」
「ええ、多少は。頭にもいつか召し上がっていただきたいです」
「いいね、食べたい」
いつか、があるのか。今の私たちには。さりげなく手伝いを辞されたので、私はリビングでソファに座って待つことにした。家具はそれぞれ好きなものを選んだのだろうか、どこかちぐはぐな印象を受ける。それすら今を生きる彼らの息遣いを感じて愛おしかった。
酒を酌み交わすうちに話が弾み、あっという間に時が過ぎていった。私の好みで買ったチューハイはすでに飲み切り、五月雨江の家にあった酒瓶にまで手を付けている。飲みすぎているという自覚はあったが、あまりにも楽しかったのだ。気が付いた時には夜も更け、そういえばと私はグラスを机に置きながら部屋を見渡した。
「村雲って何の仕事してるの? 帰り遅いんだね」
二人が一緒に暮らしているというのは聞いていた話や部屋の様子を見ていると間違いないようだが、この時間になってもまだ帰ってこられないような仕事をしているのだろうか。それならそれで前の主としては彼の体が心配だけれど、と話題替えがてらに口に出す。そんな、軽い質問のつもりだった。
「雲さんは今日は帰りませんよ」
「えっ?」
「篭手切さんのところに泊まりで遊びに行くそうです」
「へ、へー……?」
篭手切江だった男とも連絡を取り合っている、というのはこの数時間ですでに知らされたことだったが、問題はそこではない。てっきり村雲江にも会えるのだと思って招かれた私は、予想外の言葉に硬直した。
五月雨江とはかつて、同じ屋根の下、数年共に暮らしていた。しかしそれは他の刀剣男士も同じ話であって、だから村雲江もいるという彼の自宅へ何のためらいもなく招かれるままにやってきたのだ。しかしそれが男女二人きり、ルームシェア相手は帰ってこないとなると話が変わってくる。
「あの、五月雨……?」
「はい、頭」
「近くない?」
「そうでしょうか?」
隣り合って座っていたソファには、まだ適切な間隔が開けられていたはずだ。それが今、彼の膝が私の太ももにくっつけられている。
五月雨江の方を見ると思ったよりずっと近い距離に顔があって、振り向いたことを後悔した。近い、狭い、——熱い。
ちっちっち、と秒針が時を刻む音だけが部屋に響く。五月雨江はまっすぐに、私を見据えていた。私が言外に咎めたことを、まったく意に介さない。あの頃と同じくどこかマイペースな口調だったが、今はそれが意図したものだと感じ取れた。
彼の瞳に写る自分の顔は、ひどく間抜けなものだった。そして気付く。瞳の色もあの頃と同じなのだと。
「さみ」
「頭、私は同じ失態を二度犯したくないのです」
五月雨江の手が私の頬に添えられた。〝過去〟ここまで近づいたことがあっただろうか? それほどの距離で、彼は熱い視線を送る。
長いまつげに彩られた怜悧な目元は眩暈がするほどに美しい。均一に真っ白な肌はこれだけ近寄ってもアラが見えず、女としてはうらやましい限りだ。人に堕ちても、この男は人間離れした美しさを携えているのだと思った。
「最初からそのつもりで呼んだの?」
「勿論です」
急激に酔いが回ってきたのか、この男の色香にあてられたのか。くらくらして促されるがままに上半身をソファに委ねた。こちらを見下ろす五月雨江はよく知った男のようでいて、まるで知らない表情をしている。否、もしかしたら——かつての私が、知らないふりをし続けていただけなのかもしれない。
「……卑怯者」
「頭はそれが誉め言葉だと、よくご存じでしょう」
従順な犬だった彼と同じ声をして、五月雨江は私の唇にかみついた。
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