番犬の求婚

 本丸の母屋の影、人の気配のない場所で、男がライターで煙草に火を付ける。先に灯ったはずの赤色が一瞬のうちに消え失せた。買ったばかりなのに湿気ていたのかと男は苛立ちながら、もう一度ヤスリに指をかける――が、今度はその右手にライターがない。つい今さっきまで持っていたはずのそれを見失うとは到底思えず、男は混乱しながら衣服のポケットをすべて叩いた。  慌てる男の背後に、びったりと背中に張り付くようにして〝彼〟が立っていた。音もなく現れたそれに、男は振り向くことが出来ない。咥えていた煙草がぽとりと地面に落ちた。 「頭は煙草の煙を嫌っています。本丸は禁煙です」 「ッ……!」  錆びた螺子みたいな重い動きで何とか振り返った先には、視線だけで人を射殺さんばかりの殺意を滲ませた表情があった。五月雨江――と、この本丸の女審神者に呼ばれていた男である。彼の手の中には男のライターが握られていた。 「……悪かったな。吸わねえからライター返してくれよ」 「いいえ。頭に貴方の見送りを命じられています。どうぞ門へ」 「………………」  五月雨江は有無を言わせず、男を門へと送り出す。ライターは男の手元に戻ったが、男はもう二度とこれを使おうとは思わなかった。  手入れの行き届いた庭園には季節の花が咲き乱れている。美しいもの好きの刀が多く顕現しているこの本丸では、畑や馬当番とは別に庭当番というものが存在した。この時期は紫陽花が見頃で、は特に雨上がりに露に濡れてきらきら光る花弁を見るのが好きだった。 「頭、客人を見送ってまいりました」 「おかえり、ありがとう。五月雨江」  の元へ戻った五月雨江は膝を付き、恭しく頭を下げた。は彼の頭にそっと手を乗せ、犬猫にするように優しくなでる。五月雨江はその柔らかな手つきを堪能するように、そっと瞼を下ろした。  男は、の父親からの使いだった。国内有数の権力者である父は、娘が審神者になって以降、政府に多額の資金援助をしている。そんな彼からの言伝を管狐ごときに任せるわけにもいかず、わざわざ堅苦しい背広を着た男が本丸に直接赴いたというわけだった。 「お父上はなんと」 「お見合いだって。受けないっていったのになぁ……」  お利巧そうな顔を貫いていた五月雨江の片眉がピクリと跳ねる。はそれに気付かず、父親の過剰干渉を嘆く。男から受け取った封筒にちらりと目をやると、開いた口からは父からのやたら筆圧の強い手紙と、見合い相手の男の写真が覗いている。その扱われ方から、が乗り気でないのも明らかだった。  別に、の婚期や一族の存亡を案じているわけではない。父親として、「俺が死んだあと娘を誰が護るんだ」という不安に駆られいてもたってもいられないだけ――というのが、手紙からは読み取れた。幼少期から続く過保護の延長線のようなものなので、彼女もそう重く捉えてはいなかった。  楽観的なと対照的に、五月雨江の心中は穏やかではない。彼女の手前顔には出さないが、なぜどこの馬とも知れぬ人間ごときに、大事で大事で大事で――特別大切で堪らない頭を嫁がせなければならないのかと、内心怒りに震えていた。  彼女の身を守ることも出来ないような軟弱な、ただ人間に生まれの父と知り合っただけの男が彼女を娶るなど度し難い。許容できるはずもない。本当はあの男が本丸の領地に一歩足を踏み入れた時点で背後から迫り人知れず息の根を止めてやってもよかったが――五月雨江はにお利巧な犬として可愛がられ、愛でられ、頼られ、撫でられるのが好きだったので、それらは妄想に思いとどめた。 「頭、現世に赴かれる際はぜひ私を道連れに」 「五月雨はお散歩が好きだね」 「わん」  は五月雨江の犬っぽい気質を気に入って可愛がっている。〝らしく〟しているとが構ってくれるので、五月雨江はより忠犬よろしく従順に振舞った。見た目で欺くのは忍びの術の初歩の初歩、ならば中身さえ欺くのも、彼にとっては容易いことだった。  見合いは、の父の馴染みの老舗旅館にて行われた。護衛がいては相手方も気が緩まないだろうと、は旅館に入る前に五月雨江に「遠くで見守っててね」と伝える。彼はいい子に頷いて、走り去ってあっという間に姿が見えなくなった。  見合い相手は父の取引先の息子であった。親交が深いようで、当人そっちのけで親同士盛り上がっている。  相手の男は猫背で寡黙で、内気な印象を受けた。をちらちらと眺めては目が合うたびに視線をそらし、親に話題を振られても一言二言答えるだけだ。緊張しているのか口下手なのか人見知りなのか、会話に対して消極的だ。  はどうにか雰囲気を和らげようと一層明るく振舞った。にこにこと愛想笑いを浮かべ、当たり障りのない世間話を投げかけたが、話が弾むどころかが話しかけるたびに彼の顔色はどんどん悪くなっていく。  この仕事を辞める気のないがこの会に出席したのは父親の顔を立てるために外ならず、結婚相手を探すつもりなど毛頭ない。しかし、こうも反応が悪いとどんどん不安になってくる。次第に、「もしかして私って男の人に引かれることばっかり言っちゃってる?」と自信を無くした彼女の表情も沈んでいった。  女子校出身で箱入り娘の彼女は男友達などいたこともなく、話す異性は家族と刀の男神くらいだ。自分が世間とずれていることには、多少自覚があった。  と相手の男の空気は悪いままで、それは部屋にふたりきりにされても変わらなかった。中年男性特有の大きな笑い声が恋しいほどに、気疎い静寂が広がっていた。せっかくの料理も台無しで、美しい庭園もどこか味気なく見える。  男の箸にも棒にもかからぬ態度に苛立ちを覚え始めたは、父や相手の親の目がないのをいいことに、思い切って訊ねた。 「あの、私ってつまんないですかね?」 「は、はぁ……?」  男はその日初めて、人間を見る目で彼女を見た。  はようやく話が出来そうだと思って、間髪を容れず「貴方の態度があんまりにも悪いので」と明け透けに言ってのける。せめて自分の反省点だけでも持ち帰ろうという勤勉さによるものだった。  さっきまでいいとこのお嬢さんを装っていたくせに突如変貌した彼女に、男は驚いた様子で「そんなことはないんですけど」とぼそりと呟いた。  しかしそのあとすぐに、部屋の襖や天井、庭などを忙しなく見やったあと、「いやそういうんじゃなくて」「えっと」「違うんです」とかモゴモゴ呟く。その様があんまりにも落ち着きがなく支離滅裂なので、は失礼にも「やっちゃいけない薬とかやってる方?」と思った。気が触れているか、もしくは喉元に刃物を突きつけられているかでなければこうはならないだろうというひどい有様だった。  まさか結婚はおろか話すらまともにできないとは。もうお手上げだとが諦めてしまい、見合いは最悪の空気のうちにお開きになった。  幸いなことに、見合いが破談になったことを父はそう気にしていないようだ。篭手切江が着付けた振り袖姿のを頭からつま先まで眺めながら「こんな可愛い娘を嫁にやるのは早い気がする」と目頭をハンカチで抑える。多忙な父は愛娘との別れを惜しみながらも次の仕事があるようで、車の手配をしてあるからといって彼女と別れた。  旅館の部屋に一人取り残されたが「五月雨」と呼ぶと、部屋の格子窓からひょっこりと彼が顔を出した。 「やっぱり近くにいた。遠くで見守っててって言ったのに」 「申し訳ありません。頭が心配でつい」  この様子だと、五月雨江は見合いの最中もの傍で守護していたのだろう。あの地獄みたいな空気を見られていたことが恥ずかしくなって、は苦笑した。  約束を破って傍にいたことを咎められるとでも思ったのか、飼い主にいたずらの見つかった犬みたいな顔をしている五月雨江をは手招きする。 「こっちおいで。ここのお庭綺麗なんだよ。五月雨、こういうの好きでしょ」 「はい。とても美しい景色です」  五月雨江は部屋の外壁を回り、のいる縁側へと駆け寄った。  その旅館で一等階級の高い部屋だったので、専用の庭はそこの客のためだけに誂えられていた。青紅葉が作る影のコントラストが芸術的で、五月雨江は素直に感嘆する。小さな池もあるが、縁側からでは中を伺えない。は視線で草履を探したが見当たらず、庭に出ることを諦めた。 「庭に出られたいのですか」 「うん、でも靴なかったや。ここからじゃ池見えないね」 「……失礼します」 「え? きゃっ」  五月雨江はを横抱きにして抱え、庭の飛び石の上を歩いて行った。驚いて目を白黒させる彼女に、五月雨江はわざとらしく「頭、しっかりつかまっていてください。落ちてしまいます」などと言う。落とす気など毛頭なかったが、は言われるがままに五月雨江の首に腕を回して抱き着いた。 「びっくりしたぁ……。先に言ってよね」 「申し訳ありません。頭によく庭を見ていただきたくていてもたってもいられず」  声のトーンをしゅんと下げれば、がもうそれ以上怒れないことを五月雨江は知っている。案の定彼女はそれ以上五月雨江の行動を追及することなく、「池が見たい」と彼をラジコンよろしく操作し始めた。  池の周りの植物や空の色を反射する水鏡の中に、錦鯉がゆったりと泳いでいるのが見える。身を乗り出して池の中を覗き込むを落とさぬよう、五月雨江はよりしっかりと彼女を抱えた。 「鯉ってかわいいなあ。うちでも飼ってみたいかも」 「犬がいるのに、ですか?」 「犬と鯉は違うじゃん」  魚に対抗意識を燃やす五月雨江がかわいく見えて、はにこにこ笑って五月雨江の頭を撫でた。「紅葉の木陰に行きたい」と彼女が言ったので、五月雨はそれに従って移動する。内心、彼女の関心が鯉から逸れたことを喜んでいた。  初夏のきらきらとした日差しが反射して花や水面がより鮮やかに見える。ずっとを抱えている五月雨江を心配して、彼女は「重くない?」と訊ねたが、五月雨江は首を横に振った。 「見合いはどうでしたか」 「え、全然ダメ。相手の人、ほとんど話してくれなかった」  五月雨江の言葉を皮切りに、は見合いのことをつらつらと愚痴り始めた。「顔が好みじゃなかったとしても目すら合わせないのは失礼すぎる」「一応親の前なんだし表面上だけでももっと感じよくできないの」と零す彼女に五月雨江は相槌を打つ。「ていうか、見てたんじゃなかったの?」と訊ねられたのには、「わん」と一声吠えて誤魔化した。 「……もしかして私ってめちゃくちゃモテないのかな」 「頭は美しいですよ」 「そうじゃなくって。男友達とかもいたことないからさ、男の人と何喋ったらいいかわかんないんだよ」  五月雨江の言葉がどこかずれているのはいつものことなので、彼の賛美はにいとも簡単に聞き流された。 「今すぐ結婚したいわけじゃないんだけど、一生相手見つからなかったらどうしよう」  ぽそりと落とすように、はそんなことを嘆く。五月雨江の腕の中にいながらあんまりにも無防備だった。五月雨江を家臣として信頼しきっているのか、男として意識していないのか。自らの置かれている状況を全く理解できていない、そんな彼女の〝人らしい〟愚かさが、五月雨江の目にかわいらしく映った。 「それでは私と結婚してください」 「えぇ? 五月雨江と?」  は彼の言葉をまるで真に受けていなかった。珍しい冗談を言うものだと軽い調子で受け止め、わざとらしく「どうしよっかなあ」と悩む素振りを見せる。 「じゃあ相手が見つからなかったら五月雨に貰ってもらおうかな」  子供の口約束と同じように、はそれを了承した。  その言葉を耳にして、五月雨江は思わず笑みが溢れた。感情が顔に出にくい性質だったので微笑みに留まっているが、内心幸福でたまらなかった。  そんな彼を見上げながら、は呑気に「飼い犬が嬉しそうでよかった」と言わんばかりに笑いかけている。  ——この言葉さえ縁にしてしまえばあとはどうにでもなる。  あとで卑怯だなんだと罵られようと、五月雨江はどうでもよかった。そもそも、忍びである彼にとって卑怯とは褒め言葉である。  が事の重大さに気付くのは、本丸に帰ったのち、五月雨江が「頭と結婚することになりました」と吹聴しているのを知ってからだった。

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