Sink

理非曲直

 春先とは思えぬ夏日。少しでも涼しい風を取り込もうと、縁側に向かう障子は開け放たれている。
 暖かい日差しを浴びながら寝息を立てる審神者の無防備な頬は、日頃の苛烈な戦を遠く感じさせた。くたりと打った寝返りで、その顔が露わになった。
 空色のジャケットが滑り落ち、上下する胸元を明らかにする。いくら気温が高くても体を冷やしてはいけないと、雲生が数十分前にかけたものだ。雲生は童子染みた寝顔に頬を緩ませた後、審神者の身体に手を伸ばし——その手をぴたりと止めた。
 審神者の首筋に、汗が伝っている。日光を反射して存在感を放ったそれは、雲生の背筋をぞくりと粟立たせた。
 しっとりと濡れた首筋から鎖骨は、安らかな姿に不釣り合いで扇情的であった。雲生の秘めた本能を誘うようで、彼は困惑する。
 ——冷静に、冷静に。
 呪文のように自らに言い聞かせる。動きを制御出来ただけ、まだ自分の理性もなまくらではなかったと彼は思った。
 吹き込んだ風が、雲生の綿雲のような髪を揺らした。その冷たさが頬を撫で、彼の嵐のような心を少しだけ落ち着かせる。雲生は深いため息をつき、ジャケットの端を摘んで彼女の身体を覆い隠した。
 ——いけない。この思いは、判断を鈍らせる。
 彼の表情を見咎める者のいない部屋で、雲生は眉根を寄せた。
 瞼を閉じると、彼女の肌が脳裏に蘇る。先程の視界を再生するように、焼きついて離れない。彼はそれをかき消そうと眉間を揉んだ。

 勉強熱心な雲生を見込んで、審神者は彼を近侍に任命した。
 近侍とは彼女の側について補佐する重大な役割である。その責任の重大さと、そしてそれを自分に任せてくれた彼女の期待。ふたつが雲生の肩にのし掛かる。しかし、それは心地よいものだった。
 近侍の仕事は容易ではない。気を回さなければならない点が数多あり、慣れるまではいくつも失態を犯した。
 けれど、審神者はそれを一度も叱責しなかった。自責の念に顔を青くした彼を「みんな一度は通る道だよ」と励まして、二度と取りこぼすまいと過ちとその対策を手帳に書き記す雲生を微笑ましげに眺めていた。
「雲生が頑張ってるの見ると私も頑張らなきゃなって思うの。それが近侍にした理由のひとつかも」
 ある日、審神者が漏らした言葉を雲生は今でも忘れられずにいる。
 己の夢を叶えるため、そして役割を果たすため。努力を重ね、知識を取り入れ、経験を重ねる。それらは、彼にとっては当然のことだ。
 幾ら手強くとも、異国の言葉を学ばなければ空に手は届かない。彼女の元へと降りたのが他の刀よりずっと後だったからといって、それを力及ばぬ言い訳にするのは怠慢だ。
 雲生はそうして精進することが嫌いではなかったし、少しずつ成長の手応えを感じられるこの人の身を気に入っていた。だから、この人の身を与えてくれた彼女には忠信深く付き従おうと、そう決めていた。——はずだった。
 いつからか、彼女を視線で追うのが癖になった。近侍としての役目を明らかに逸脱している。
 食事の時、つい偏った食べ方をしておかずを先に食べ切ってしまうこと。機嫌が悪いと、すぐに毛先を触ってしまう癖。眠くても誰かと話すのが楽しくて、目を擦って寝室に行くことを渋る姿。
 業務には無関係な、人としての審神者を——主ではなくただの女である彼女を、雲生は追いかけている。
 平静を心がけても、予測が得意な仲間にはすぐ見抜かれてしまうはずだ。雲生はいつまでこの想いを隠し通せるのか、恐ろしくて仕方がなかった。
 恐ろしいのは想いが暴かれることだけではない。その先で彼女に失望されることを、彼は最も恐怖している。
 そう思い至った後、雲生は自分を嗤った。己はここまで堕ちたかと。——無意識に自分のことばかり考えて、信じて近侍を任せた刀に裏切られた彼女が傷付くことを見落としている。
 最重要である審神者の心すら視界から排除してしまうような、判断を惑わせる欲が疎ましい。どれほどかき消そうとしても、それは一向に離れる気配を見せないどころか、日増しに膨らむ一方だ。
 持て余した感情が実態になるように、日差しが雲生の背を焼く。彼の影の内側で、審神者は安らかに眠っている。

「——んしょ……、雲生」
 審神者の声に、雲生はハッと顔を上げた。
 気が付けば彼女は目を覚ましていた。「これ、ありがとうね」と羽織っていたジャケットを手渡され、雲生は心ここに在らずのままそれを受け取る。審神者はまだ、眠そうにあくびを噛み殺していた。
「雲生、なんか悩みとかある?」
「悩み——ですか」
「うん。なんかすごい難しい顔してたから。誰かと喧嘩したとか生活でうまくいってないとか……それとも、近侍大変?」
「そのようなことは! ……決して。日々新しい発見と学びがあり、充実しています」
「それならいいんだけど……」
 いつの間にか影が伸びている。どれほどの時間思いに耽っていたのだろうか、と雲生は思った。
 彼女が目を覚ましたことに気付かぬほどだ。これほど周りが見えなくなるようでは、未だ精進が足りない。雲生はそっと俯く。
「なんかあったら言ってね。雲生にはいつも頑張ってもらってるし、私にできることならなんでも言って」
「——それは」
 なんでも、の言葉に雲生の喉が上下した。
 彼はふと、ある想像をする。じっとり濡れた彼女の首筋に、自分の指が這う姿。薄い皮膚の下にある骨の感触を確かめて、空想の中の雲生の手は白い肌の上を泳ぐ。そして——
「寝たらお腹空いてきたな。今から食べたらまずいかな?」
「……夕餉の時間まであと一時間半、間食は避けるべきかと」
「だよねえ」
 困ったように笑う審神者を見下ろして、雲生は顔に微笑みを貼り付けた。彼の思考は審神者の空腹をどう紛らわせるかに切り替わって、薄暗い欲はなりを潜める。
 しかしそれは消え失せたわけではなく、彼の背筋にひたりと張り付いたまま。その重みを、彼は感じ続けていた。


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