Sink

尺度に揺れ

 外交的か内向的かと尋ねられれば外交的と答えるし、真面目か不真面目かと問われれば不真面目と即答する。審神者はそういう気質の娘であった。
 上下を男兄弟に挟まれた彼女は、男所帯の本丸に割合早く馴染んだ。刀剣男士はみな審神者の兄や父のような存在で、時に厳しく彼女を躾けたし、時には共に悪戯に興じる。一般家庭に生まれ育った彼女は付け焼き刃の知識だけを武器に審神者となったが、それでも上手くやっているつもりであった。

 戦術強化訓練を機に本丸へやってきた雲生という刀は、品行方正を絵に描いたような性格の男だった。
 律儀さを感じさせるバリトンボイスに加えて、きりりと険しい面持ちが尚のこと堅苦しい印象を抱かせる。審神者はまず、「いじったらまずそうなひとだ」と思った。ちなみに彼女の中でいじってもいい堅物とは、日光一文字あたりが境である。
 生活指導を担当する教育番長に聞く彼の評判も審神者が抱いた第一印象とそう違わず、真面目で勉強熱心であるという。几帳面だから実務を任せても問題なさそうだ、と松井江が嬉しそうにしているのも耳にした。
 同じ鵜飼派の刀がまだこの本丸にはいないことから、周囲に馴染めるかの懸念もあったが、人当たりのいい彼は教えたがりの短刀を中心に可愛がられているそうだ。背丈の小さい短刀の中に一人にょきっと上背のある彼が生えているのは、はたから見ても微笑ましい光景だった。

「主、書状が届いています」
「わっ、雲生か。珍しい。ありがとうね」
 執務室で仕事に飽きた審神者が床に伸びていると、部屋を訪ねたのは雲生であった。新刃に気の抜けた姿を見せたことに恥じらいながら、審神者は体を起こす。
 近侍は別にいたはずだが、手が埋まっていたか、本丸の生活を学んでいる最中の雲生に気を利かせて譲ったのだろうか。彼が執務室にやってきたのは、顕現初日に案内をした時以来のことであった。
 審神者が雲生から受け取った手紙の中身を確認して顔を上げると、雲生は物珍しそうにあたりを見回していた。執務室はごちゃごちゃとしており物が多い。人の身を得て間もない彼には目新しいのだろう。
「何か気になるものあった?」
「っ! 失礼致しました。不躾な真似を」
「ううん、全然。気になるものあったら好きに見ていいからね」
 執務室の壁付け棚には、刀剣からの贈り物や審神者が趣味で集めたガラクタが並んでいる。掃除当番からは埃をはたくのが大変だから数を減らしてくれと苦情が入っているものの、今のところは減るどころか増える一方だ。
 審神者の言葉に甘えて、雲生は棚に近付いて芸術品を鑑賞するような眼差しで眺めていた。審神者は彼がどんなものに興味を持つか気になって、その視線の先を辿る。雲生はある棚の前で足を止めた。審神者が勝手に『自然コーナー』と呼んでいる、石や押し花、貝殻、見た目のきれいな植物の種子を飾っている棚である。
「こちらの石は何か特別なものなのですか?」
「それはね、秋田と散歩してた時に見つけた石だね。なんか形が猫の顔っぽいから飾ってる」
「猫……確かにこの辺りが猫の耳によく似ていますね」
「でしょ」
 こんな具合で、雲生が興味を引いたものについて尋ねられては審神者が答える時間が続いた。
 空について語る姿を見た時から思っていたことだが、彼は立派な見目と生真面目な性格に反し好奇心旺盛な一面があるらしい。審神者の趣味であるガラクタ集めは、刀剣男士の中でも賛否が分かれる。彼女のコレクションに好意的な反応を示してくれるあたり、思っているよりも彼は接しやすいじん物なのではないだろうか。そんな風に審神者は自分自身の中で、僅かに彼の印象を改めていた。
「あのさ、雲生。よかったら近侍やってみる?」
 だからだろうか。審神者の口から、ついこんな提案が溢れた。
 この本丸の近侍は、特に明確な決まりがあるわけではないものの、ある程度その任に適したじん物が選ばれている。原因は審神者のいい加減なところに他ならない。以前は希望者を定期的に入れ替えていたが、ある刀——本刃ほんにんの名誉のため名前は伏せるが——が近侍を務めた際、期日を忘れ政府からの豪華な報酬を受け取り損ねたことがあったのだ。
 近侍とは彼女の補佐役であり、ただでさえ抜けている彼女をさらに抜けているものがサポートしても何の意味もない。二度とこのような過ちを起こすまいと、そういう経緯で以降はそれなりに上手く務めを果たせる者で近侍を回すことになった。
 近侍当番表に名前がある者は古株が多く、他の仕事にも引く手数多だ。新しい風を取り入れる意味でも古参ばかりに頼るべきではないし、近侍をこなせる者が増えるに越したことはない。雲生にその素質があるならば、ものは試しとさせてみるべきだと審神者は判断した。
「私が……よろしいのでしょうか」
「うん。実務に向いてそうって聞いてるし。一人でもできる人増えたら助かるからね」
「光栄です。近侍の任、謹んで務めさせていただきます」
 雲生が深々と頭を下げる。彼女にとっては何気ない提案だったが、彼は審神者が思う以上に重くその役目を受け止めているらしい。その様子を見ながら、審神者はやはり真面目な人だな、と思った。

 その後、現在の近侍に話を通すと彼も審神者の意見に賛同してくれたため、雲生は翌日から近侍を務めることになった。
 夕飯の席では、その話がすでに広まっていたらしい。雲生は近侍の経験がある刀に囲まれ、方々からアドバイスを受けていた。彼は言われたことを全て手帳に書き留め、丁寧に読み込んでいる。そんな様が初々しかったからか、途中から調子のいい刀たちがその間に割って入って嘘を教え始めたので、教育番長の雷が落ちることとなった。

 初日こそ初めての仕事に戸惑う様子を見せた彼だが、翌日以降の雲生の働きはそれはそれは立派なものだった。
 夕飯の席での助言を活かし、審神者の陥りやすいミスを先回りして補い、休憩を入れようと提案する間合いも的確である。たった一日で仕事をものにした雲生に審神者は驚いた。
 しかし、それもただの向き不向きの問題ではないと知る。彼の手元の手帳には、夥しい量の書き込みがされていた。ありとあらゆる状況での対処法だけでなく、考えうる限りの原因までもが明確に記されている。
 審神者は学生時代の勉強熱心なクラスメイトのノートを思い出した。彼女がもう少し真面目な性分ならば、これを見て「私も頑張ろう」と自身を奮い立たせたのかもしれないが、生憎彼女はそういった健気な気質ではない。主として、従者の働きに感心し褒めるに留まった。

 雲生が近侍になって一週間が過ぎた頃、審神者は執務室から逃走した。
 単純な話である。彼の補佐は完璧であり、審神者がその日こなさなければならない仕事を百パーセント完遂できるよう働きかけるのだ。つまりは、サボる余地を与えない。
 これまでの近侍であれば、やりたくないだの飽きただのと駄々を捏ねてちょっと揉めたりなんかすることで数分間の休憩時間を稼げたが、いくら彼女といえどまだ親交の浅い新刃である彼にそんな態度を取ることは憚られた。予定通りの進捗で進む仕事を見て自身の役目を果たせていると安心している雲生を相手に、サボりたいだなんて口が裂けても言えやしない。
 一応休憩というものも用意されているのだが、決まった時刻に10分間、差し入れの甘味で栄養をチャージしながら彼と話すというものだ。審神者としては、床と平行になりながら電子端末で何の意味もない情報を垂れ流すSNSをダラダラ眺めて小一時間過ごしたいのだが、生真面目な彼には理解を得られそうにない。
 が、故の逃走である。備品がなくなったから倉庫から取ってきてくれと命じれば、雲生は審神者の言葉を疑わず席を外した。その隙をつき、審神者は本丸裏手の庭へと走る。
 途中、陸奥守吉行とぶつかりそうになったが、彼は話のわかる刀であったので「私と会ったことは内密に」と唇の前に指を立てれば「まぁた悪さしちゅうな」とそれ以上を追及せず、指でマルを作って了承してくれた。

「おや、ぬしさま。珍しいですね」
 庭が見える縁側へ倒れ込めば、そこには先客がいた。鶯丸と小狐丸だ。
 非番の彼らは、庭に咲いたばかりの季節の花を眺めながら茶と茶菓子を楽しんでいたようだ。幸い、彼らは審神者を初孫のように甘やかす刀である。彼女は安心して、ふたりに近寄った。
「ちょっと休憩。仕事疲れちゃって」
「ここのところずいぶん真面目に取り組んでいたようだな」
「うーん……。あはは、最近雲生が近侍なんだけど、めっちゃ張り切ってくれててさ」
「なるほど、つまりぬしさまもサボる暇がない、と」
「ご名答。そういうわけだからちょっとだけ匿って!」
「ぬしさまのご命令とあらば仕方ありませんねぇ。ささ、こちらの茶菓子を」
 審神者は小狐丸と鶯丸に貰った茶菓子を食べながら、しばらく庭先でのおしゃべりに興じた。
 昼寝に適した午後の日差しが暖かく、次第に審神者は微睡まどろみ始める。「ぬしさま、仕事は宜しいのですか」「まあ、今日くらいはいいだろう。寝かせておけ」というふたりの会話を耳にしながら、小狐丸の肩に身を預けていた。
「っ、主!」
 心地よい眠気に身を委ねていた審神者の耳を、声がつんざいた。
 彼女が驚きのあまり崩しかけた姿勢を小狐丸がそっと抱き留める。声が聞こえた先には、肩を上下させ慌てた様子の雲生がいた。
「こ、ここにいらっしゃったのですか……」
 雲生は審神者を見つけるやいなや力無く眉を下げ、先ほどの声とは比にならないほどに弱々しく呟いた。審神者は何だか悪いことをした気になって、小狐丸から体を離す。
「う、雲生。ごめんね、えっと」
「……部屋へ戻ったら主がいらっしゃなかったので」
「うん」
「私が、何かしてしまったのかと……」
 白雲のようなまつ毛が伏せられ、隙間から空色の瞳が覗く。芸術品のような顔立ちを曇らせたことに、審神者は罪悪感を抱いた。あのまま休みなく働いていては審神者の気が触れてしまいそうだったから、なんて言えば、彼はきっと自分の行動計画に落ち度があったと解釈して余計に責任を感じてしまうだろう。
「ごめん、ちょっと疲れたからサボってた。そんなに慌てると思わなくて……」
「いえ、……私こそ申し訳ありません。少々取り乱してしまいました」
 走ってきたためか、乱れた髪を雲生は長い指で整えた。審神者は傍に置いていた湯呑と皿を鶯丸へと手渡す。
「もう戻るよ。小狐丸、鶯丸、ありがとうね」
「サボりたくなったらまた来るといい」
「ぬしさま、ご無理はなさらず」
 どこまでも甘いふたりに見送られ、審神者は手を振ってから雲生と共に執務室へ向かった。
 隣を歩く雲生は、まだ落ち着かない様子だ。こういう時、叱られる覚えはあれど落ち込まれたことのない審神者は、雲生を前にどう振る舞うべきか迷った。
 執務室に到着した審神者が壁かけ時計を見ると、部屋を脱走してからは一時間ほどが経過している。雲生はありとあらゆるところを探し回ったようで、押入れが開けっぱなしになっていた。彼女がそちらに視線をやると、ハッとした雲生が襖を閉じ、何事もなかったかのように取り繕う。
 その様子がおかしくて、審神者は小さく笑いを漏らした。どうやら雲生は、彼女のサボリ癖については古参から教わらなかったようである。だからこそ彼女の姿が見えないだけで、ここまで取り乱したというわけだ。
 しばらく気晴らしをしたおかげでやる気を取り戻した審神者が席に着く。雲生は書類の内の一束を彼女に手渡した。
「気を取り直して、こちらの書類から。お願いいたします」
「うん」
 審神者は雲生によって整理された書類に目を通す。記入漏れしやすい箇所には目立つ色の付箋が貼られており、彼の細かな気遣いが窺えた。
 こういうところはかなり助かるんだけど、と思いながら審神者はちらりと彼を盗み見る。彼女の視線に気付いた雲生は、不安げに眉根を寄せた。
「……何か不備でもありましたか?」
「いや、こういうの助かるなって思っただけ」
「そ……うでしたか。お役に立てたなら光栄です」
 審神者の言葉に彼はほっとした様子で表情を緩めた。
 先ほど彼女を探しに来た時も思ったことだが、彼は心配性のきらいがあるらしい。可能な限り対策を立て、予め得られる情報はすべて学び、その上でも自らに落ち度があるのではと憂慮する。毎日を気楽に過ごし、どうとでもなると思って生きている彼女とはまるで正反対だ。
 審神者は、自分とは全く違ったその性質に愛着を感じ始めていた。お利巧で飼い主によく懐いた大型犬を想起させ、どうにも放っておけない。顕現して一か月と少し、さすがに懐かれているとは自惚れでも言えないが、いずれそうなればいいと彼女は親しみを込めてそう思った。

 とはいえ、いくら近侍が真面目で一生懸命でかわいらしい者であろうとも、仕事の集中力の向上にはつながらないのが審神者という人物である。それ以降も、審神者の逃走は相次いだ。というよりは、日を増すごとに審神者はそれを楽しむようになった。
 審神者が抜け出すと、雲生は心配して必ず探しに来てくれるのだ。彼女をよく知る古参であればほとぼりが冷めたと思って戻った彼女に滾々こんこんと説教を浴びせたものだが、雲生は何度逃走しても本丸中を探し回ることをやめなかった。
 それどころか、日に日に見つけるのが早くなるのである。本丸の地理を理解するだけでなく、彼女の逃走パターンも学んでいるのだろう。審神者と雲生のかくれんぼが本丸の名物となる頃には、雲生は彼女の逃走を組み込んで一日のスケジュールを編成するようになった。

 その晩、審神者は一人グラスを傾けていた。縁側、月を眺めながらの一人酒である。月夜を愛でるほどの風情を解する性質でもなかったが、なんとなく風を浴びたくて外に出たのだった。
 お気に入りの果実酒を最初こそきちんと氷やら水やらで割っていたものの、用意したものがなくなれば取りに行くのが面倒になって、そのまま注いで飲んでいる。度数のさほど高いものではないが、ストレートで開け続ければ酔いが回るのも早いもので、審神者はあっという間にへべれけになり縁側に転がった。
 火照った体に冷えた床板が心地よい。このまま寝落ちては風邪を引いて小言を言われるに違いないが、動くのも面倒だった。
 うっかり酒瓶を倒すことだけはしないようにしないと、と最後の理性で瓶の蓋を締めていると、月明りが人影を映す。審神者が緩慢な動きで首を上に向けると、そこにいたのは雲生だ。
 今となっては彼にだらしない姿を見せることへの抵抗感は薄く、酔っ払いには尚のこと些事である。遅かれ早かれ他の刀と同じように慣れるだろうと、審神者は気にせず彼に声をかけた。
「あはは、雲生じゃん。どうしたのお、こんなとこで」
「主こそ、どうして。……おひとりですか?」
「うん。雲生も飲む?」
「いえ、折角ですがお酒は控えています。主も——随分酔っていらっしゃるようですし、もう部屋に戻られては。お体に障ります」
「ううーん、あとでね」
 審神者の体は再び床板に張り付いた。
 雲生がその身を屈め、肩にかけていた半纏を彼女に羽織らせる。雲生の体温の移ったそれが、審神者の体を温めた。
「主、起きてください。部屋へお送りします」
「起きれない……もうここで寝るから」
「いけません」
 女性である審神者の体に触れることを躊躇っているようで、雲生は床から離れようとしない審神者に困り果てている。酔いが回った審神者はそれが愉快に見えて、困った顔の彼に悪戯心が働いた。
「じゃあさ、部屋まで運んでよ。酔っぱらって立てなーい」
「わ、私が、主を?」
「うん、重くてムリ?」
「そのようなことは……! し、しかし……」
 困惑する雲生を前に、審神者は床板に顔をつけたまま密かに笑う。彼女が他の刀に小言を言われても尚仕事中の逃走をやめないのは、彼のこの態度も理由のひとつだった。本人からすれば迷惑極まりないだろうが、きりりとした目鼻立ちの彼が困り果てている姿が彼女には可愛らしく見えて堪らないのだ。
「ロジャー、主を部屋まで運搬します。……失礼致します」
 ややあって雲生も覚悟を固めたようで、深呼吸の後に彼女に手が伸ばされた。彼は壊れ物に触れるような手つきで審神者の体を抱き起す。そのまま横抱きの状態で、雲生は立ち上がった。
 一瞬の不安定な浮遊感に、審神者はつい雲生の胸元を掴む。彼女を抱える過程で僅かに開けた寝間着からは、厚い胸板が覗いていた。太い両腕は決して落とすまいとしっかりと彼女を抱え、歩行しても揺れは最小限に抑えられている。
「う、うんしょう!?」
「主、しっかり捕まっていてください。細心の注意を払いますが、揺れる恐れがあります」
「ちょっ、そうじゃなくて……!」
 彼女からの命令を遂行しようと、その表情は大真面目だ。雲生の足はゆっくりと彼女の部屋へと向かった。
 審神者が驚いたのは、彼の抱え方である。てっきり、他の刀と同じくおんぶか、俵担ぎにされると思っていたのだ。この本丸で彼女の体を運ぶとなれば——それも滅多に起きることではないが——それが当たり前だったから、彼女も当然そうされるものだと思い込んでいた。
 異性にお姫様抱っこなんてされたのは初めてのことであったので、審神者は動揺した。しかし雲生の方は彼女を快適に運ぶことに重きを置いているらしく、審神者の様子に気付かない。

 彼女の部屋に着くと、雲生はベッドの上に審神者を下ろした。少しばかり居心地悪そうな顔をして、「では私は後片付けをして参ります」と部屋を出ようとする彼を引き留める。寝間着の裾を引けば、彼は振り払わなかった。
「今更だけどなんであんなところ通りかかったの?」
 雲生は彼女の方を向き直り、ベッドに座る審神者に視線を合わせようと膝をついた。
「どうにも寝付けず、空を見上げながら散歩をしていました。そうしたら主が床に這い蹲っていたので何事かと」
「這い蹲ってたわけでは……まあ一緒か」
「結果的に主を見つけられたのですから、外へ出たのは良い判断でした」
「あはは、なにそれ」
「部屋にいては気付けないことでしたから」
 酒が入っているせいか、下らないことが審神者には面白かった。従者として大げさに殊勝な発言に、審神者は笑う。雲生にとっては冗談でも何でもなかったようで、彼はお利巧そうな微笑みを崩さなかった。
「じゃあもしかしたら、私が見つけてほしくて雲生のこと眠れなくしたのかもね」
 彼のかわいらしい言葉に応えるつもりで、審神者は他意なくそう口にした。雲生にその気はなかっただろうが、些細な戯れ、または調子のいい冗談だ。
 しかし、雲生はそう捉えなかったらしい。白い肌をわずかに紅潮させ、薄い唇を開いている。
 想定と違うリアクションに、審神者は冗談が通じなかったかと気まずさに汗をかく。雲生の空色の瞳で見つめられると、自らが行った何気ない悪戯が大罪のように思えた。
「えっ、なに?」
「い、いえ! ……それでは私は失礼します。主、良い夢を」
「う、うん。おやすみ……」
 雲生は取り繕うようにそそっかしく部屋を出た。慌てていることが明らかなれど、扉を閉める所作が丁寧なのが彼らしかった。
 審神者は閉じられた扉を見ながら、しばらくの間呆然としていた。どういうわけか、彼の赤い頬が頭から離れない。審神者はそのままベッドに横になり、気がつけば眠りについていた。

「雲生、おはよう。……その顔だとあんまり寝れてないね」
「おはようございます。はい、お恥ずかしながらその後も寝付けず」
 翌朝、再び顔を合わせた雲生の顔には疲れが見えた。些細な変化だが、気付いたのはここのところ毎日近侍として傍にいるからだろうか。
「私が眠れなくしたのかも」なんてことを言った手前、審神者は僅かに罪悪感を覚える。ここのところ休みなく働いてもらっているし、と「眠くてしんどいなら近侍変わってもらおうか?」と彼女は提案したが、雲生は首を横に振った。
「いいえ、それには及びません。十分とは言えませんが全く眠れなかったわけではありませんから。主の補佐をするには問題ありません」
「そう? 眠くなったら言ってね。何なら一緒にお昼寝したっていいから」
「そ……ういうわけには!」
 審神者の提案を、雲生は大きく慌てて声を荒げて拒絶する。彼女は「そんなに嫌か?」と傷付きはしないまでも苦笑を浮かべた。やはりこの手の冗談は彼に言うべきではないようである。尤も、昼寝はいつでも大歓迎なのだが。
「冗談だって。でも雲生が仕事手伝ってくれてるおかげで今締め切りぎりぎりで抱えてるのとかないから、ちょっと休んでも平気だから。ありがとうね」
「それは……光栄です。これからも精進致します」
「うん、じゃあやろっか」
 こうしてまた、今日も予定通りに一日が始まる。段取り通りに進め、その隙を突いて彼女が執務室から逃走するのもまた、日常のひとつだった。

 時間遡行軍による歴史修正は突然で、審神者並びに刀剣男士は固定の休暇を取りづらい環境にある。彼らがしているのは労働ではなく戦争なのだから当然だが、それでも非常時を除き定期的な本丸全体での休暇の設定を推奨されていた。そして今日がその日である。
 大規模侵攻などのイレギュラーを除いて出陣要請が免除されるこの日は本丸総出で行事を開くこともあるが、今日は皆が思い思いに過ごしている。短刀や海にゆかりのある刀剣を中心に大人数が集まって海釣りに出ているようで、本丸はいつもより閑散としていた。休暇といえど体を動かさねば落ち着かぬ者も多く、道場には鍛錬に汗を流すものが集っている。
 審神者はそんな様子を見て回った後、ひっそりと勝手口から抜け出した。
 本丸のすぐそばには小川が流れる小高い丘がある。梅雨の季節には美しい紫陽花が見られる場所だ。それを眺めるためにか、本丸の誰かが設置したベンチに腰を下ろし、審神者はぼうっと小川を眺めた。
 水の音にはリラックス効果があるというのは本当なんだな、と審神者は思った。さらさらと流れる小川の音を聞いていると、時間の流れから解放されたような心地になる。青々と茂る緑が目にやさしい。風が吹くと木々が揺れ、その様子が彼女の心を落ち着かせた。
 日頃百数振りの刀剣男士と過ごしていると、時折こういった静寂が恋しくなる。
 一人酒もそんな思いの発露であったのかもしれない。賑やかな家に生まれ賑やかな本丸で育った彼女は一人の自由よりも人の輪を好んだが、気疲れして何に追われているわけでなくとも逃げ出したくなってしまうことがあった。
 特に今日のようなタスクから解放された日には、殊更虚無感が募った。誘われた海釣りについていけばきっと楽しい日を過ごせたが、心の見えない煤が溜まっていく。誰が悪いわけでもないのに疲労を感じることがまた後ろめたく、能天気を自称する彼女は〝らしくなさ〟にまた心を苛まれることとなった。
 どれほどの時間そうしていただろうか。時計や電子端末を持たず来たものだから、時の経過は太陽の位置でしか伺い知れない。彼女がここへやってきたときは晴れていた空に、少しずつ雲がかかり始めていた。
 日差しが和らいで過ごしやすいものの、少しばかり肌寒さを感じ始める。本丸へ戻った方がいいなと思うもどこかそれが億劫で、彼女の体はベンチに張り付いたままだった。
 人とはわがままなもので、喧騒を疎んで離れたというのに、少し経てば寂しさが押し寄せる。雲が陰って人肌恋しくでもなったのか、審神者はふとそう思った。
 海釣り組はしばらく帰らないだろうが、本丸へと戻れば数振りはゆったりと過ごしているはずだ。彼女に構われて拒む者などいやしない。寂しいならばさっさと帰ってしまえばいいと分かっていて、審神者はそこで無為に時間を過ごした。次第に雲は厚さを重ね、空は曇天となっていた。
「主、ここにいらしたんですか」
「……ん?」
 審神者が空を眺めていると、声が聞こえた。反射的にそちらを見る。雲生だ。腕には傘が二本ぶら下がっている。その様子から、彼が偶然ここへやって来たのではなく審神者を探しに来てくれたことが明らかだった。しかし審神者はわざとらしく、「こんなとこに来てどうしたの」と尋ねた。
「部屋にお姿が見えなかったので、外出しておられるのかと。一雨来そうですから、降られてはいけないと思い探しにきました」
「ほんとだね。雲生、天気予報もできるんだ?」
「多少なら。ですが、空を夢見る仲間に私よりも向いている者がいます」
「へぇ。いつかうちにも来てくれるかな」
 雲生の顔を目にすると、あれほど重かった審神者の腰はいとも簡単に浮いた。ここらの地面は舗装されておらず、傘があっても雨が降れば土で足元が汚れかねない。審神者は雲生と並んで本丸への帰り道を歩きながら、再び空を見上げた。
「本当、今すぐにでも降ってきちゃいそう」
「降り出す前に見つけられて幸いでした」
「雲生ってほんと、私のこと見つけるの早いよね。もしかして探知機とかつけてる?」
「そのようなことは決して……」
「冗談だってば」
 審神者のからかいに慌てる雲生を見て、彼女は本調子を取り戻していた。彼の気真面目さと親切心に救われながら、悪いと分かっていても彼をからかうことと部屋から抜け出すことはやめられそうにないな、と思う。少なくとも雲生が彼女を探しに来てくれるうちは、この悪癖を治せないだろう。
「主」
「ん?」
 雲生の声色が硬さを伴って審神者を呼ぶ。突然改まったような態度を取る彼を不思議に思って見上げた先では、憂いを帯びた空色の双眸が彼女を見据えていた。
「何か、心身に不調や……悩み事はありませんか」
「悩み? なんで?」
「主は判断に迷った時や特にお疲れの時に水場の傍へ赴く傾向がありますので、今日もそうなのかと。私では主のお力になれませんか?」
 差し出がましいようであれば申し訳ありません、と添えながら雲生は彼女を気遣った。
 審神者は驚いて、その場に立ち止まる。日頃からよく見られているとは思っていたものの、まさか不調時の行動傾向まで掴まれていたとは思いもしなかった。
 反応がないことを不快がっていると捉えたのか、雲生の顔色がどんどん悪くなる。審神者はハッとして、大袈裟に手を振ってそれを否定した。
「ごめん、雲生にそんなに見透かされてると思わなくてびっくりしたの。嫌だったとかじゃないよ。……気遣ってくれたの嬉しかった」
「そ、うですか……。であれば、安心致しました」
 審神者の心は言い知れぬ高揚感に包まれていた。それと同時に、「ちょっと私変かもしれない」とも。
 ただのサボり、ただの戯れであったはずの逃走劇にいつしか別の意味が生まれ、こうして探しにきてくれたことを喜ばしく思っている自分がいることに、審神者はもう目を逸らせない。最初こそ身分不相応に感じていたものの、今では慕われ敬われるのには慣れたつもりだった。けれど今、雲生に抱く感情はそれらとは全く違った色をしている。
「うん。悩み……みたいなのもね、雲生が来てくれたから解決した」
「私が……ですか?」
「そう。雲生が」
 これを認めるべきか、気付かなかったふりをするべきか。彼女にはまだ、正しい判断ができない。けれど今この瞬間、彼の厚意を——たとえ忠義であろうとも、気遣ってくれた優しさを喜ばしいと思うことを受け入れたって、ばちは当たらないだろう。
「雲生、早く戻ろ! 降ってきちゃう!」
 傘があるのだからそう急くことはないと分かっていて、審神者は弾むように駆けだした。審神者の言葉に呆けていた雲生は、ややあって彼女を追いかける。やがてそれは子供染みた追いかけっこへと変わって、本丸へと到着するまで続いた。


 近侍の誘いを受けた時こそ純粋な従者としての歓喜に満ちていたはずの胸が、いつしか歪な音を立てることに彼は気付いていた。
 主を補佐する役目を果たすためには、まず自身に欠陥があってはならない。雲生は感じ取った心身の変化を、具に日誌に記録していた。
 人の身を得てからというもの、毎日が新発見の繰り返しであったが、それはどうも他とは違った様子である。心拍数、動悸、高揚感、焦り——それらはすべて、特定の人物に起因する。
 学びと分析を経て、それが恋と名の付くものだと知った雲生は困惑した。けれど、それを表に出すわけにはいかない。信頼して新刃である自分に重要な任務を任せてくれた主を裏切るわけにはいくまいと、雲生はその感情に蓋をした。
 近侍という役割を頂けたのは僥倖であった、と彼は思う。日誌に無意識に書き連ねられた『主』の字を見るたびに抑えきれぬ感情に苛まれたが、彼の強い自制心によってそれは忠義高き従者の振る舞いのように現れていた。
 審神者の一挙一動を視線で追い、表情の変化を気に留めるのは、近侍として彼女を補佐する上で必要な情報収集である。そんな言い訳が出来るから、心の平穏を保つのにも都合が良い。
 審神者は逃走劇に雲生を『付き合わせている』と思っていたようだが、彼にしてみれば全くの逆だ。一日一度、彼女のことだけを考える時間を許される。やっと見つけた時の悪戯っ子のような愛らしい笑顔を見るたびに、雲生は腕の中に閉じ込めたくなる衝動を何度も堪えた。
「雲生、私のこと見つけるの早いね」と言われたときには、さすがに恋慕を見透かされたのではないかと肝が冷えた。他意はないと理解して、取り繕うのにも、次第に慣れていった。

 ひとつ何かを許される度、自分の中で理性が揺らぐのを彼は感じていた。触れることも、プライベートな空間に立ち入る許可を得たことも、探してくれと言わんばかりに日常に逃走劇を組み込まれることも。
 想いを悟られ失望される前に手を引かなくては。判断を見誤ればすべてを失いかねないこの状況で、雲生は未だ手を引けずにいる。
 無邪気に駆ける彼女を追いながら、雲生はひとり焦げ付く思いを噛みしめていた。


WaveBox
感想頂けると嬉しいです。