Sink

空は巡る

     一度目

 私が利用する駅直結の商業施設内にはふたつ同じコーヒーチェーンがあって、駅を出てすぐの店舗はいつも人で混み合っている。けれど、少し歩いたところにある店舗はいつも座席が空いていて、私はその店舗に立ち寄ることが多かった。
 他の客も同じ考えなのか、予定の合間の時間潰しをしている人や、PCやノートを持ち込んで勉強している人が多く見られる。静かに過ごせるこの店を私は気に入ってよく利用していた。
 今や便利な世の中で、レジに並ばなくてもスマホ一つで簡単に注文ができる。私は端の一名掛けの席に座って、テーブルに貼り付けられたコードを読み取り慣れた手付きで注文する。期間限定のコールドドリンクに少しだけトッピングを追加して、注文と決済ボタンを押すと、店員が忙しなく働くレジの方からオーダーを受け付けた軽快な音が響いた。
 五分ほど経って、注文したドリンクが完成したと通知が鳴った。私は貴重品だけを持ってレジに向かい、モバイルオーダー品の受け取り口へと並ぶ。ラベルに私のオーダーコードが記載された商品が置かれたのを確認し腕を伸ばす。すると、それが横から伸びた手に掠め取られた。
「あっ」
 つい出た声に、その人物は気付かない。スーツ姿の男性は、ドリンクを取り違えたことに気付かないまま席へと戻ろうとしていた。それは私のですと言わなくては。けれど体の動かし方を忘れてしまったかのように、私は何もできずその場に立ち尽くしていた。
「失礼ですが、ドリンクを取り違えていませんか?」
 低く、けれど響きのいい男性の声が聞こえたのは、私の頭上からだった。
「ん? ああっ、申し訳ない」
 スーツ姿の男性はラベルを確認し取り違えたことに気付くと、申し訳なさそうにカウンターに飲み物を戻した。私はドリンクを手に取り、お礼を言おうと声の主を振り返る。
 見上げた先には、空色の瞳があった。光をよく透かすまつ毛は、まるで仕立てのいいレースだ。そのあまりの美しさに、私は刹那、言葉を失う。一見して近寄り難く冷たさすら感じさせるそれが、優しく弧を描いていた。
 青空に浮かぶ雲のようなふわふわとした髪と彫刻のような凹凸のはっきりした端正な顔立ちが調和して、凛々しくも高貴に見える。筋肉質で厚みのある体格をしているが、こちらに注がれるまなざしの優しさが印象を和らげ、人の好さを彩っていた。
 この顔立ちと長身ならば、どこにいても人の目を引くだろう。立ち姿は堂々としているが、こちらの様子を窺う彼は威圧感を与えるどころか人好きするように見える。不思議な人だ、と思った。
 彼は振り向いた私を顔をまじまじ見るなり、少しだけ驚いたように目を見開いた。が、すぐにそれを取り繕い表情を和らげると、彼の容姿に見惚れて固まってしまった私の反応を待った。
「す……すみません。ありがとうございました」
「いえ、差し出がましい真似をしてしまったかと思ったのですが、助けになれたなら幸いです」
 ぎこちない私の不躾な視線に怪訝な素振りひとつ見せず、彼はにこりと微笑む。彼は店を出るところであったようで、返却棚にトレイを返すと会釈をして去っていった。
 私はドリンクを手に席へ戻り、どこかふわふわとした気持ちのままストローを啜っていた。
 見ず知らずの私にもこんな親切をしてくれる人だ。その上あの容姿、きっと人気があるのだろうな。初対面の名前も知らない他人を値踏みするような、失礼なことを考えてしまう。
 テーブルに置いていたスマホが震えて、新着メッセージを通知する。差出人は恋人だ。「もうすぐ着く」の言葉に、私はすぐさま「いつものカフェにいるよ」と返した。

     二度目

 そんな出来事から数日。当時はまさか、あの彼と再会を果たすとは思っていなかった。そして、こんな場面だとも。
 彼と再び顔を合わせることとなったのは、ある休日だった。デートの終わりに外食をして、少しお酒を入れて気分が良くなった私たちは、腕を組んで彼が一人暮らしをしているマンションへと帰ってきたところだった。
 恋人がオートロックを開錠するより先に、自動ドアが開く。運良く住民が出てきたところだとそちらに視線を向けると、そこには例の男性がいた。一度見れば、その顔を忘れるはずがない。
 以前よりもラフな服装や身軽な様子から、このマンションの住民だと察せられる。まさか恋人と同じマンションに住んでいるだなんて。世間は狭いものだ。
 気が付いたのは私だけかと思いきや、男性も私を覚えていたようだ。彼は私を見ると驚いた顔をして、またあの美しい微笑みを浮かべる。
「こんにちは。また会いましたね」
 よくもまぁ、私のような没個性的な女を覚えていたものだと思う。私は隣から視線を感じながら、控えめに会釈を返した。
「誰?」
「前にカフェで助けてもらったの。話したでしょ」
「ふーん、男だったんだ」
 先ほどまでは楽しげだった恋人の声色が棘のあるものへと変わる。私は彼のご機嫌を取るように、彼の腕を引いて「早く帰ろう」と促した。
 恩人である男性にこんな冷たい態度を取ることは気が引けたが、ここで恋人の機嫌を損ねたくはない。彼は嫉妬深い男だった。特に、身長をコンプレックスに思っているようで、私があの男性のような体格に恵まれた人と話してたなんて知った日には、きっと怒りの矛先は私に向けられる。
 作り笑いを浮かべ足早にその場を去ろうとする私に、男性は何か言いたげな視線を送る。私は心の中でごめんなさいと叫びながら、恋人の腕を強く握った。

     三度目

 恋人と同じマンションに住んでいるのだから、またいつか会うこともあるだろう。そんな風に予感していた彼との二度目の再会は、思いの外近いうちに訪れた。けれどそれは、私が想像していたのと全く違う形で。
 彼のマンションのエレベーターを一人で降り、俯いたままエントランスへと急いでいると、私の体は何かにぶつかった。弾かれるように姿勢を崩しそうになったところを寸でで堪える。
 そこにいたのが、彼だった。どうやら私がぶつかったのは彼の鍛えられた胸板だったようで、見た目通り体幹のしっかりした彼は私と違ってよろめくことはなかった。
 買い物帰りなのか、飛行機の描かれたエコバッグを持っているのがミスマッチで少し可愛らしい。けれど今の私にそれを微笑ましく思えるほどの余裕はない。
 男性は私の顔を見るなり挨拶をしようとして、私の様子に気づくとサッと顔を蒼褪めさせた。こちらの様子を案じてか、痛まし気に形のいい眉が歪む。
「……何かありましたか」
 早口で一息に問われて、息が詰まる。
「っ……、す、すみませ……っ、私、急いでて……!」
「待ってください」
 これ以上誰かと顔を合わせていたくなかった私は、慌ててその場を離れようとする。けれどそれを、男性の声が制した。
 いけない、と思った時には手遅れだった。俯いて隠すより先に、私の瞳から涙が溢れ、頬を伝い落ちる。男性は急に泣き出した私に驚いて、表情を強張らせた。
「……! どこかぶつかって怪我でも——」
「ちっ、違います! 大丈夫です、大丈夫なので……」
 私が逆の立場でも、こんな状況で大丈夫と言われて放っておけるはずがない。親切な彼ならば尚更だ。大丈夫だというなら笑顔を取り繕わなくてはと思うのに、ぶつかった衝撃で何かたがが外れてしまったように、涙が止まらない。これ以上、こんな情けない姿を人前に晒していたくなかった。
「……っ呼び止めて申し訳ありません。でも、これだけはどうか、持って行ってください」
 顔を覆ってしまったから、もう彼の様子は窺えない。けれど彼の声は、切羽詰まった様子だった。
 チラリと指の間から目を覗かせると、彼が手にしていた白い傘が差し出されている。思わず顔を上げ自動ドアの外を見ると、激しい雨が降っていた。
 なるほど、道理で薄暗いわけだと私は場違いに納得する。どんよりしているのは、私の心の中だけではなかった。
「貴方を濡れたまま、帰したくはありません。返さなくても結構ですから」
「……ありがとうございます」
 受け取ってもらわなくては困る、とでも言いたげな彼の声に気圧されて、私はその傘を受け取った。
 マンションのエントランスを出ると、ざあざあと降り頻る雨の音が喧しい。道路に車が通るたびに、水が跳ねて靴が汚れた。
 ひとりぼっちの帰路、傘が雨からも衆目からも覆い隠してくれたおかげで、私は泣き顔を晒さずに済んだ。そのうえ雨に打たれていたならば、もっと惨めな思いをしていただろう。

 帰宅した私は、一人玄関で脱力する。力なく手から滑り落ちた傘が、かたんと音を立てた。
 彼と遭遇したのは、恋人と大喧嘩をして部屋を飛び出した直後だった。尋常でない様子の私を見て、彼がどこまで状況を把握したかはわからない。けれど、何も知らない赤の他人である彼のささやかな優しさが今になって心に沁みていた。
 恋人とは、この先どれだけ努力しても長くは続かないだろう。そんな予感は、以前からあった。嫉妬深い彼に私が応えきれていなかったのだ。行動を制限される不自由さと理不尽にぶつけられる怒りに、私も限界を迎えていた。
 この喧嘩だって、もう何度も同じことを繰り返している。そのたびに頭を冷やした彼に謝られて、なんだかんだで私は彼を手放せなくて許してしまって、またこじれて。
 けれど今回ばかりは、そうはいかないだろうと思った。
 ふと脳裏に浮かんだのは恋人の顔ではなく、傘を差し出してくれた彼の心配そうな表情だった。心からこちらの身を案じてくれているかのような態度に、胸がギュッと締め付けられる。受け止めきれない感情をぶつけてくる恋人に執着せずとも、世界にはこんな無条件で他人に優しく出来る人がいるのだと知った。
 ただ偶然縁があっただけの見知らぬ女にこんな風に思われて、彼が知れば困惑するだろう。それでも、彼の何気ない親切は確かに私の救いとなっていた。
 恋人のために箱庭に閉じこもるより、もっと美しいものに溢れた外の世界に目を向けた方が幸せだということを、広い青空のような彼が教えてくれた。執着を手放す勇気をくれたのだ。
 そうして一晩が過ぎてから、冷静になっても気持ちが変わらないことを確認した私は、すべてを終わらせようと——また一から始めようと、スマホに手を伸ばした。

     四度目

 二度あることは三度あるとはよく言ったもので、彼との再会を今度は驚かなかった。場所は最初に出会ったカフェだ。別れた恋人と吹っ切れた私は、せっかくの予定のない休日、ひとりで散歩でもしようとお供のドリンクを買い求めにやってきていた。
 テイクアウトなのだから駅から近い店舗で買えばいいのに、わざわざ奥まった場所にあるこのお気に入りの店までやってきたのは、また彼に会えるかもしれないという打算あってこそ。あのマンションに行けばより会える可能性があることはわかっていたが、元恋人の住居でもあるそこには近寄れない。
 そして、目論見通り、彼はそこにいた。一歩間違えればストーカーとも思われかねない行動に罪悪感を感じながらも、これは傘を返すためと心の中で自分に言い訳をする。
 机で本を開いている彼は読書に夢中で、私に気付いていない。本の表紙を盗み見ると、難しそうな資格の教本のようだった。集中するあまり目つきは鋭く、柔和な笑みを浮かべるあの姿とはまるで別人だ。付箋がいくつか飛び出た教本はよく読みこまれているようで、端が折れたり擦れたりした跡がある。彼の真面目で勉強熱心な様子を表していた。
「あ、あの」
 勇気を出して声をかけると、彼は本から顔を上げた。私の姿を見るなり、ぱっと表情を明るくする。それがなんだか大型犬の子犬のように見えて、こんなにかっこいい人なのに可愛い、なんて思ってしまった。そんな風に考えてしまうあたり、私はもう手遅れな程に、名前も知らない彼に惹かれてしまっている。
「こんにちは」
「先日は……ありがとうございました。本当に助かりました」
 お礼を口にしながら、私はいつもこの人に助けられているな、と思った。男性は「気になさらないでください。したいことをしただけですから」と首を横に振る。それからじっと、私の顔を見つめた。澄んだ瞳がこちらを貫いているのが照れくさくて私は咄嗟に顔を背けてしまう。
「な、何か顔についてますか?」
「……笑った顔をやっと見られた、と思ったものですから」
「っ……!」
 彼と再び会えた嬉しさのあまり、気付かないうちにとんでもなく締まりのない顔をしていたらしい。私の顔は羞恥であっという間に熱が集った。
 慌てる私が可笑しかったのか、彼が笑う。その声が存外男らしい響きをしていたから、私の胸はどくんと高鳴った。
「あのっ、傘を返したくて。それから、ちゃんとお礼もしたいです。連絡先教えてくださいって言ったら、迷惑ですか」
「まさか。私もある——貴方と、いつかゆっくり話したいと思っていました」
 スマホを取り出した彼とメッセージアプリの連絡先を交換する。アイコンは澄んだ青空の写真だ。彼のことを何一つ知らないはずなのに、それがとても彼らしいと思った。
「雲生と申します」
「雲生さん」
「はい」
 私が名前を呼ぶと、彼は一等美しい笑みを浮かべた。まるで、ずっとそう呼ばれたかったかのような恍惚とした表情だ。「雲生さん」ともう一度その名前を確かめるように呼ぶと、彼は律儀に「はい、雲生です」と少しくすぐったそうに返す。私は不思議とそれに既視感を覚えて、妙な心地でいた。
 これ以上勉強の邪魔をするまいと、私は彼に次に会う約束だけを取り付けてから、購入したドリンクを片手にその場を去った。
 商業施設を出ると、頭上には一面、晴れ渡った青い空が広がっている。清々しく深い息を吸うと、私は一歩足を踏み出した。


WaveBox
感想頂けると嬉しいです。