答え合わせは済んだ

 は、物静かな兄が腹に残した行動力を全てかき集めて生まれたような、好奇心旺盛な娘だった。人より身体の出来が頑丈な分、大事に至ることこそなかったものの、幼い頃は生傷が絶えず、常に両親に心配をかけていた。  自身、そんな気質に自覚はあった。だからこそ本丸へ移り住み、刀剣男士らを束ねる主という立場になってからは、落ち着いた気でいたのだ。しかし、それは大きな間違いだったと身を以て知ることになる。  三月のまだ肌寒さの残る季節、は川に落ちた。  最初に耳にしたのは紙を捲る音だった。心地よいそれに耳を傾けるうち、の意識は微睡から浮上する。  次に感じたのは右足の鋭い痛みだ。肌に触れる覚えのない布の質感が、ここが自室ではないことを知らせる。重い瞼を開くと、目に入ったのは真っ白な天井と壁、吊るされた点滴、そして男の姿だった。 「……朝尊」 「おや、目が覚めたかね。ああ、起きなくてよろしい。医者を呼んでこよう」  ベッドの隣で見舞い用の椅子に腰かけていたのは、南海太郎朝尊だった。彼は読んでいた本をサイドテーブルに置き、病室を出ていく。彼がひとりで歩き回っているということは、ここは時の政府の息のかかった病院なのだろう。  の記憶は、水流の中で途絶えている。  本丸からほど近い場所にある河原は、絶好の散歩スポットだった。もよく仕事に行き詰っては本丸を抜け出し、川を眺めて疲れを癒していた。  そんな時、水の中にちかちかと光る何かを見たのだ。あれはなんだろう、と思った時には、靴下と靴を脱いで川に足を突っ込んでいた。  近づいてみると、光の正体は何の変哲もない小瓶であった。薬剤が付着しているらしく、変色した部分が光を玉虫色に反射している。それがの目にまばゆく映ったのであろう。  なんだ、ただのごみか——落胆した瞬間、の足は水流に押し流された。  勢い余って後ろに姿勢を崩し、地面に手を付こうとするも、川底は思った以上に深い。驚いた拍子に口に水が入ってきて、そこからはあっという間の出来事だった。苦しさに藻掻くうち気を失い——[[rb:現在 > いま]]に至る。  南海太郎朝尊が連れてきた医師からの説明を受け、様々な検査の後、は退院することになった。  右太腿を縦に割いた大きな切り傷を除けば、ほかに大きな怪我も見受けられない。念のため脳や臓器への影響がないかの検査も受けたものの、そちらも問題無いそうだ。医師曰く、直後の応急処置が幸いしたのだろうと。  本丸へ帰還した後も体を冷やしたせいか一時的な発熱はあったものの、その後は驚異の回復力で復帰を果たした。後は、右足の傷の自然治癒を待つばかりである。  事故の後、何度目かの通院から戻ったは、その足で刀剣男士らが暮らす棟へと向かった。長い廊下の一角、は目当ての人物の札が下がった扉を叩く。 「朝尊、ちょっといいですか」 「君か。一体何の用かね」  開いた扉の隙間から見えた彼の部屋は、雑然と本が積まれていた。今まさに読書の真っ最中であったらしく、座卓の上には読みかけの本がある。  この日、南海太郎朝尊は非番だ。プライベートの時間を取らせるのは偲びない。は話を手身近に済ませようと、口を開いた。 「陸奥守に聞きました。朝尊が私を助けてくれたんだって」 「ああ、そのことか」  今朝、病院に付き添ってくれた陸奥守吉行から聞いた話である。  事故当時、川で溺れたを発見したのは、下流で遊んでいた陸奥守吉行をはじめとした数振りだった。慌てて川から引き揚げると、は多量の水を飲んで気を失っている。その様子を見た陸奥守吉行は、急いで南海太郎朝尊を呼び寄せた。  刀剣博士で知られる彼は、刀剣男士という存在を紐解く過程で人体への理解を深めており、救急救命の心得がある。救急隊が到着するまでの間、彼はに適切な措置を施した。  その結果、無事彼女は後遺症もなく一命を取り留めたというわけだ。事故当日に病院へ彼が付きそうことになったのも、誰よりも明確に彼女の状態を説明できるのが彼だったからだという。 「君の刀剣なのだし、当然のことをしたまでだ。礼には及ばないよ」 「それはそうですけど、私を助けてくれたのは朝尊の知識ですから」 「僕の知識が役立った、というわけか。……ふむ、それは喜ぶべきことだろうね」 「本当にありがとうございました」  が深々と礼をして顔を上げると、彼は口元に手を当てて何かを思案していた。の顔をまじまじと眺めている。何か言いたげな彼の表情を疑問に思ったが首を傾げると、南海太郎朝尊は「いや、なんでも」と首を横に振った。 「今回の件はさすがに肝が冷えた。僕らは君ありきの存在なのだから、もう少し気をつけてもらいたいね」 「は、はい。すみません。気を付けます」 「いいや、説教をしたいわけではなくてね。……無事で何よりだ」  ——ほんの一時、はその表情に見惚れた。  目が細められ、理知的な顔立ちが和らぐ。柔らかな笑みには、安堵が大きく表れていた。  長い髪がさらりと降りて、眼鏡にかかる僅かな動きにすら釘付けになる。初めて顔を合わせたわけでもないのに、肌の白さが気に留まった。  鮮明な視界に、ただ一人彼だけが映っていた。  「怪我の方はどうかね」 「だいぶ良くなりましたよ。足の傷も、ほら」  は傷跡の残る右足を少し上げ、スカートを膝上まで捲り上げて傷跡を露出させた。傷口は完全に塞がり、今や保護の必要もない。赤茶の筋が残ってはいるものの、手入れを怠らなければ目立たなくなるだろうと医者には言われていた。  治りかけた傷跡を見せれば安心してくれるだろうと思っての行動だったが、南海太郎朝尊は晒されたの足からふいと目を逸らした。その仕草を見て、は「さすがに慎みがなかったかな」と自省する。  南海太郎朝尊は、知的好奇心を優先するあまり、状況を選んで多少の常識や倫理を無視してしまえる男だ。——敵とはいえ、死体を罠に用いたりだとか。そんな彼なので、やれ『嫁入り前の娘が足を見せびらかすのははしたないだ』とか、そういう作法や品には頓着がないものだと思っていた。  場に残った気まずさを払うように、スカートを下ろしては苦笑する。少し沈黙を置いた後、もう一度礼を言っては南海太郎朝尊の元を後にした。  南海太郎朝尊とは、特段親しい仲ではなかった。  にとっては数十いる刀剣の一振りに過ぎず、南海太郎朝尊にとっては——人の身を与えたという特異な点を持った、主のひとりといったところだろうか。一個人としての結びつきは、そう強いものではなかったはずである。  しかし、その後二人はこの件に端を発し、距離を縮めることとなる。 [newpage]  あの時見た表情は、彼と別れた後もの心に焼き付いて離れなかった。それどころか、本丸で姿を見るたびに目で追ってしまうようになった。  日を追うごとに彼への関心は薄れるどころか強くなる一方だ。南海太郎朝尊と行動を共にすることの多い肥前忠広には「何ジロジロ見てんだよ」と睨まれてしまう始末である。  は南海太郎朝尊の存在を意識の端へ追いやろうと努めたが、抗えば抗うほどその想いは熱を増し、果てには明確に彼への恋心を自覚せざるを得なくなった。  特定調査で彼を迎えにいき、この本丸の一員となってから、数年の時が経っている。なぜ今になってこんなに彼のことが気にかかるのか、好きになってしまったのか。不思議なくらい、彼に惹かれていた。  南海太郎朝尊が直接的な命の恩人になったとはいえ、元よりこの本丸の刀剣たちには常に命を守られている状態である。恋慕の情はの良心を苛んだ。  良き主でありたい、彼らにはなるべく平等に接したい。そんな思いで、この感情は墓まで持っていくつもりでいた。  そもそも、暇さえあれば本をめくって知識を得ようと執心している彼が、色恋に溺れる余裕などあるとは思えない。彼の興味関心を惹くような魅力は備えておらず、芽吹いた花は誰の目にも留まらぬうちに枯れていく——はずだった。  あの事故から 一か月が経った。  離れの傍にある倉庫には、資材が保管されている。窓がなく、陽の光は入ってこないにもかかわらず隙間風は吹き込んでくるので、春の快晴でもここだけは冷え冷えとしていた。滅多に人の出入りがないことから照明も最低限で、あまり居心地の良い場所とはいえなかった。  自身、鍛刀や手入れの際の資材の用意は近侍に任せているため、この倉庫に足を踏み入れる機会は無に等しい。にもかかわらず今日立ち寄ったのは、彼に用があったからだ。  土か埃か、ざらついた空気が充満する倉庫の一角。南海太郎朝尊は、しゃがみ込んで研究の一環であろう作業をしていた。  集中するあまり、が倉庫は入っても彼は気付く様子がない。は声をかけて良いものか躊躇して、しばらくの間その背中を眺めていた。 「君か。何か用かね」 「わぁっ!?」  様子を伺っていると、南海太郎朝尊は不意にの方を振り返った。突然のことには素っ頓狂な声をあげる。 「気付いてたんですか」 「驚くのは僕のほうだと思うが」 「す、すみません。研究の邪魔になるかなって、声がかけ辛くて」  彼は作業の手を止め、道具を置いて立ち上がった。に近付いて、彼女が手にしていたタブレットを覗き込む。は画面に指で触れ、目的の資料データを呼び出した。 「以前の調査報告書に目を通していたんですが、ちょっと聞きたいことがあって。覚えている限りでいいんですが」 「ふむ、この任務か」  南海太郎朝尊の肉体は、学者気質な魂に傾いたか、筋骨隆々な刀剣男士らと比べて華奢に映った。しかしこうして並び立った時、現代の日本人女性として平均的な体格のは、彼の顔を見上げなくてはならない。元の持ち主よりも刀工の物語を汲んで顕現した、と本人は言っていたものの、高い背丈はやはり後世に伝えられた元の主の体格に[[rb:縁 > よ]]ったものだろうか、とは考えた。  作業の邪魔にならぬよう、アームクリップで捲り上げられた袖の下からは白く、しかし筋肉のついた腕が覗いていた。鍛錬に勤しむよりは書を捲る姿を頻繁に目にする彼だが、その肉体はまさしく刀を振るうためのものである。 「その事なら、隣の部屋で話そう」 「えっ!? ……い、いや、大丈夫ですよ、ここで。そんなに時間も取らせませんから」  彼の肉体に気を取られ、上の空になっていたの心臓がどきりと弾んだ。  反射的に辞したものの、通り過ぎた風が体を冷やして、背筋を寒気が駆け上がる。は身を震わせ、小さなくしゃみを漏らした。 「僕らと違って手入れで元通り、とはいかないだろう。用心しすぎるくらいが十分だと思うがね」 「そうさせて頂きます……」  川に溺れた時の件を忘れたとは言わせない、とでも言いたげな南海太郎朝尊の視線に屈して、は部屋を移動することにした。  倉庫の隣には、小上がりの和室が備えられている。倉庫と同様に使用頻度は低く、誰も来ないのをいいことに、畳の上は南海太郎朝尊の私物で溢れていた。どうやら、ここで研究を行なっているらしい。  部屋には用途の分からない道具や複雑なメモ書きが散乱していた。倉庫と違って過ごしやすい温度に保たれており、冷えていた体が温まっていく。 「そのあたりに座ってくれるかね」  ひとつしかない座布団の上を示され、は遠慮なくその場に腰を下ろした。南海太郎朝尊は畳を埋めていた書物を避け、場所を作っての隣に座る。 「それで、この任務の件だが——」  研究資料で溢れた座卓の隙間に置いたタブレットをふたりで覗き込むと、自然と肩が触れ合いそうな距離になる。は雑念を必死に追い出し、任務の話に集中した。  ふたつみっつ質問をするだけのつもりだったが、南海太郎朝尊の熱の篭った回答を聞くうち、話はどんどん発展していった。  物の心を励起する力を持つ彼女だが、戦に関してはこの命を受ける前に基礎知識を詰め込まれただけの素人だ。そんなの知識量を把握した上で、南海太郎朝尊は彼女が理解できるような答えを返した。そのうえで生まれた新たな疑問にも、思考の足跡を汲み取った解説をしてくれるので、はつい次々と深堀りしたくなってしまった。  解説と質疑が続いて、気付けばその場は授業と化していた。豊富な知識量に加えて頭が切れることはよく知っていたが、なるほど確かにこれは先生と呼びたくなるのも納得だ、とは思った。  時が経つにつれ、元の任務についての話題から大きく逸れ、ふたりの話は敵の動きについての議論に発展していた。  そんなタイミングで、がらりと引き戸が開く。思わず顔を上げるとすぐそばに南海太郎朝尊の顔があって、はぎょっとして体を離した。 「先生ェ! ったく、倉庫にいるっつうから……あ?」 「肥前くんか」  荒々しい声を上げて部屋に顔を出したのは肥前忠広だ。彼はと南海太郎朝尊の姿をじっと眺めて、「んだよ」と気まずそうに眉根を寄せた。  が壁掛け時計を見上げると、この部屋に来てから数十分が経過していた。肥前忠広が来なければ、このままふたりとも話に熱中して時が経つのを忘れていたかもしれない。 「ごめんなさい、朝尊にちょっと任務の件で聞きたいことがあったんです。もうお暇します」 「そーかよ」  が声をかけたせいで倉庫を離れてしまったため、肥前忠広は南海太郎朝尊を探す羽目になったのだろう。罪悪感に駆られ、は座布団から腰を上げた。  怒鳴りながら部屋へ入ってきた割に、声色を聞くに肥前忠広の機嫌はさほど悪くはなさそうだ。は南海太郎朝尊に礼を言って、肥前忠広の立つ扉から部屋を出ようとした。 「あんた」 「はい?」  肥前忠広がを呼び止める。が首を傾げると、肥前忠広はじっと彼女の顔を見ていた。何か、見てはいけないものを見てしまったような罰の悪そうな表情で。 「……なんでもねえよ」  ふいと目をそらし、と入れ違いに彼は部屋の中へ入っていく。ぴしゃんと音を立てて、引き戸が閉められた。  部屋からは引き戸越しにくぐもった話し声が聞こえる。それが妙に気に掛かったが、内容までは聞き取れなかった。    タブレットを抱き、は倉庫から離れた。吹き抜けた風が頬を撫で、火照りに気付かされる。ふと廊下の窓ガラスを見ると、庭の景色を透かして自分の顔が映っていた。 「っ……」  赤く染まった頬とゆるく弧を描いた口元は、誰が見ても明らかなほどに恋する乙女の表情をしていた。まさしく逢引中の女のそれである。  肥前忠広が何を言いかけたのか理解したは、言葉にならない思いを抱えながら、自室へ向かう足を早めた。 [newpage]  あの日——資材倉庫の隣の部屋で南海太郎朝尊の教えを受けて以降、は時々あの部屋を訊ねるようになった。  下心は勿論あるが、理由の半分は純粋な向上心だ。南海太郎朝尊は、学び知識を得ることを楽しんでいる。時に熱が過ぎて脱線することはあるものの、に語って聞かせる口調は弾むようだ。彼の言葉を通じ、新たな知識と出会う楽しみに彼女は気付かされた。学生時代に彼のような教師に出会えていれば、もう少し熱心に勉学に励んだかもしれない、とさえ思うほどだった。  南海太郎朝尊もまた、興味深そうに彼の言葉に耳を傾けるを好意的に捉えているようだ。四度目の来訪時には、小上がりの和室に新しい座布団が用意されていた。明らかにのために新たに購入したのであろう、ふかふかの分厚いものである。  来訪が歓迎されていると知ってしまっては、期待せずにはいられない。決して打ち明けるまいと誓ったはずの恋の炎は、勢いを増すばかりだった。  本丸では梅雨を迎え、ここ一週間は雨が降り続いていた。  蒸し暑い湿気た空気が、の服の内を湿らせる。髪を後ろでひと束ねにし、風通しのいいTシャツに着替えても、鬱陶しいことこの上ない。は首筋に伝う汗を手の甲で拭った。  空は厚い雲に覆われており、不思議と窓の外の景色も色褪せて見える。雨天による憂鬱さが足を引っ張って、一時間ほど机に向かっているのに仕事は少しも進んでいなかった。  このままではいくらやっても変わらないだろう。幸い期日には余裕がある。は諦めて席を立った。  本丸はいつにも増して静まり返っている。遠征で多量な小判が得られる期間であったために、大半の刀剣が出払っていた。  雨が屋根や地面を打つ音を聞きながら、は廊下を歩く。これだけ歩きまわって、誰にも遭遇しないのは珍しかった。  自然と足は、資材倉庫の方へと向いていた。いつもは閉まっている引き戸が開け放たれている。彼は不在だろうか。が室内を覗き込むと、南海太郎朝尊は中で忙しなく動き回っていた。 「朝尊」 「君か。申し訳ないが、今日は授業は出来そうになくてね、日を改めさせて貰いたい」  部屋を見渡すと、畳中を埋めていた書物が半分ほどに減っている。こんなにも片付いたこの部屋を見たのは初めてだった。 「何かあったんですか?」 「急いでこの場所を開けなくてはならなくなってね」  話を聞くと、外に出していた農具などの一部を、梅雨の間だけレジャーシートを敷いてこの部屋に仕舞うことになったらしい。本来空き部屋であるはずのここを私的な理由で独占していることを突かれて、追い出されてしまったようだ。言い出したのは桑名江だろうな、と想像しながら、は苦笑した。 「本はどこに?」 「自室と図書室の一部に避難させているよ」 「大変ですね……。手伝いましょうか」 「いいのかね」 「はい。この部屋には私もお世話になってますし」  物を運ぶのは南海太郎朝尊に任せて、は書物の整理を担当することになった。  一部の本は図書室から持ち出したもので、他に利用者がいないのをいいことにここは置きっぱなしになっていたらしい。が彼の私物と図書館の本を仕分けて、本を持って出ていった南海太郎朝尊が手ぶらで帰ってきたところにまた手渡す。そんな二人三脚の作業を繰り返した。  ふたりきりになっても気まずさを感じなくなったのはいつ頃からだろうか。本を手渡す際、指先が触れる。今ではそれに過剰に反応することも無くなった。近い距離で話すことにも慣れ、心身共に距離は縮まっている。  彼は、どう思っているのだろう。ただの持ち主か、物の心を励起する力を持つ存在としての興味か、それとも——  が考えに耽りながら本を仕分けていると、ぷつんと何かが切れる音がした。顔を上げると、縛っていたはずの髪が広がる。どうやらヘアゴムが切れてしまったようだ。ちょうどそのタイミングで、南海太郎朝尊が部屋に戻ってきた。 「髪紐が切れてしまったのか。待ちなさい、僕のものをあげよう」 「ありがとうございます」  南海太郎朝尊は靴を履いたまま、小上がりに膝をついて棚に手を伸ばした。細々とした道具を入れている引き出しの中から、予備の髪ゴムを取り出し、に手渡す。  その瞬間、彼女の胸の内にむくむくと悪戯心が湧き上がる。は彼に背を向け、髪を後ろへ流しながら、「朝尊が結んでくれませんか」と言った。  背後に立つ彼の様子は伺えない。じっとりとした沈黙の中、は無茶な頼みをしてしまったことを後悔した。「冗談です」と撤回しかけたとき、何かが髪に触れた。  しなやかな指がの髪をまとめ上げる。僅か数秒の出来事が、やけに長く感じられた。指先がうなじを掠め、の肩がぴくりと跳ねる。髪にゴムを通す手が一瞬止まって、その後すぐに縛られた。 「どうだね、これで」 「……ありがとうございます」  人に結んでもらったからか、先ほどよりも高い位置で髪が結い上げられている。南海太郎朝尊の方を振り向くと、珍しく視線が泳いでいた。それもと目が合うと取り繕われ、まるで何もなかったかのように振る舞う。  は今すぐこの男の胸に飛び込んで、人間と同じく揃っているらしい臓器のうち、心臓の音を聞いてやりたいと思った。自分と同じ速さで鼓動していることを、期待して。 「朝尊、変わりましたよね」 「そう見えるかね」  どこまで踏み込むべきか、は迷った。  間違いなく、互いが互いを意識している。自惚れではなく、それは疑いようがなかった。そうでなければ、とんでもない女たらしである。博士だなんて知的なあだ名は返上してもらわなくてはならない。  それに、知略計略のことはさておいて、この男はその実とても素直だ。欲望のままに知識を求め、研究に没頭する。そんな彼が、態度を偽って女を弄ぶなんてくだらぬ真似をするはずがないと思った。から見た南海太郎朝尊の姿は、そんな男の振る舞いでは決して無かった。 「前より、優しくなりました」 「それは……」  南海太郎朝尊は言い淀む。明らかに以前と変わった関係について、彼はどう考えているのだろう。それが気になって、もどかしかった。 「変わったのは、君のほうだろう」 「えっ?」 「片付けはもう結構だ。そろそろ部隊が戻るのではなかったかね」  ぽつりと呟いた言葉は雨音に消えるほど微かなものだった。思わずは聞き返したが、南海太郎朝尊は何事もなかったかのようにを追い返そうとした。  時計を見ると、確かに部隊の帰還予定時刻が迫っている。彼が把握しているのは、肥前忠広がその部隊に組み込まれているからだろう。 「あっ、本当だ……。すみません、じゃあ私はここで」 「助かったよ。ありがとう」 「頑張ってくださいね」 「残りは肥前くんに手伝ってもらうよ」 「帰ってきたばっかりなのに」  部屋を出ると、雨は小雨へと変わっていた。日が傾き始めたためか、窓の外は一層薄暗い。  出迎えの準備のために自室へと急ぐと、南海太郎朝尊が結んでくれた髪が揺れた。日が暮れて、入浴する頃には解かなくてはならない。それが、ただ惜しかった。 [newpage]  梅雨明けはまだ先だというが、その日は束の間の晴天に恵まれた。清々しい青空に自然と心が軽くなる——はずが、どうにも落ち着かない。隣を歩く南海太郎朝尊の存在が、の胸を騒がせていた。  せっかくの晴れの日だ。時間を持て余したは街へ繰り出すことにし、近侍である陸奥守吉行を呼びつけた。すると彼は悪戯を企むような顔をして、わざとらしく何かを思い出したように手を叩く。「わしはちっくと用があるき、代わりを呼んでくるぜよ」と言って部屋を出ていった。  この本丸の長はであり、その近侍以上に優先されるべき用などあるはずがない。ならば何らかの事情があるに違いないと、はその代わりとやらを部屋で待った。  そうして現れたのが、南海太郎朝尊だったというわけだ。  と陸奥守吉行は、この本丸で最も長い付き合いである。場の空気を読むのが得意な彼には、の好意などお見通しだろう。彼にとっては、ちょっとしたお膳立てのつもりなのかもしれない。  南海太郎朝尊は、買出しの護衛として自分が指名されたのだと思っての元へ赴いていた。事情を説明すれば、陸奥守吉行がの恋心を汲んだ意を明かさねばならない。は自分が呼び出したことにして、ふたりで買い物に行くことになったのだった。 「さて、買い出しとは聞いているが……一体何が入り用なのかね」 「大した量じゃないので、荷物の心配はいりませんよ。折角の機会ですし、朝尊も寄りたい店があったら言ってください」  南海太郎朝尊と共に外出したのは今回が初めてだった。部屋に篭っている印象の強い彼を人混みに連れ出すのは気が引けたが、存外彼は楽しげである。様々なものに興味を持っては覗き込み、店先を冷やかして回った。  ——何だかデートみたいだ。  胸の内でそんなことをひっそりと、はそんなことを考える。  人混みでさりげなく庇われ、彼女を守るように立ち回る紳士的な一面に、胸をときめかせた。上背がある彼と離れることがなかったのも、歩幅を合わせてくれているおかげだろう。  気遣ってくれているのは男としてか、ただの護衛としてか。この時ばかりは、理由を深く考えることをやめた。  かつてのは、彼がこのような振る舞いをするだなんて思ってもいなかった。研修熱心なあまり周囲を顧みないような男だと思っていたし、そもそもこういった側面に関心を寄せることなどなかった。  あの日川で溺れていなければ、彼に救われていなければ、今こんな思いで彼を見上げることなどなかったのだろう。因果とは不思議なものだと、は思った。  帰路に着いたのは日が傾き始めた頃だった。夜には再び雨が降る予報である。それまでに帰るつもりで傘を持たず出てきたものの、外出が長引いてしまったために、雲行きが怪しくなっていた。 「ふむ、まずいな。降り出しそうだ」  空を見上げた南海太郎朝尊が言う。ふたりは本丸へと向かう足を早めた。次第にぽつぽつと空から水滴が降り始め、それはあっという間に豪雨へと変わる。  不幸中の幸いか、すぐ近くには雨宿りできる場所があった。屋根の下に小さなベンチが置かれている。南海太郎朝尊は、の腕を引いて急ぎ足でその下へと逃げ込んだ。 「すごい雨ですね」 「少し待って、止まなければ迎えを呼ぼう。西の空を見るに、そう長くは続かないと思うがね」  南海太郎朝尊の指さす方の空を見ると、確かに雲の切れ間が見える。は彼の言葉を信じて、雨が止むのを待つことにした。  はそっとベンチに腰かけた。歩き回って酷使した足がじんわりと痛みを訴える。彼と過ごす時間を楽しむあまり忘れていた疲労が追いかけてきた。  南海太郎朝尊は、立ったまま空を見上げている。と違って、彼には疲れの色は見えない。けれど、いつまで待つかわからない以上、立ちっぱなしでいるのも厳しいだろう。  ベンチは小さなものだが、身を寄せ合えば二人で座れそうだ。は南海太郎朝尊の服の裾を引いた。 「朝尊、座ったらどうです。歩き回って疲れてるんじゃないですか」 「ふむ……。では、お言葉に甘えようか」  ベンチが小さく軋む。の肩には、彼の温度が静かに伝わっていた。  街を歩いていたときは話題が尽きなかったのに、今この時は何を話してよいものか分からなかった。雨に封じ込められて生まれた擬似的な密室、に言葉を躊躇わせる。ただこうして温度で相手の存在を感じられる距離にあるだけで、十分な幸福があった。 「髪、縛ってくればよかった」 「申し訳ないが、今は髪紐の手持ちはないよ」 「そういうつもりじゃないです」  雨で蒸した空気が、の体温を押し上げる。襟口を揺らして空気を服の中に送り込むと、汗ばんだ肌がひやりとした。  勇気を出して彼の肩に体重を預けても、彼は拒まなかった。彼から触れることこそないものの、微細な筋肉の動きでの重みを受け止めようとしてくれているのが分かる。少しの間、ふたりはそうしていた。  隣で南海太郎朝尊が動いた気配がして、はそちらに目をやる。まなざしがかち合って、眼鏡のレンズが濡れていることに気がついた。  彼の長い髪が降りて、目元を遮った。は手を伸ばしそれを払うと、南海太郎朝尊が自分で髪を耳にかける。瞬きをすると、鼻が触れ合う距離にいた。  互いの呼吸が感じられるほどの近さに、は思わず目を閉じる。彼から伝った雨雫が、頬を滑った。 「…………」  しかし、待てど暮らせど唇が触れ合うことはなかった。  肩を押され、ふたりの間に距離が生まれる。が恐る恐る瞼を開くと、南海太郎朝尊は手のひらで口元を覆っていた。 「……嫌でした?」 「まさか。だがね、こういうことはもう少し慎重であるべきだ」  先走ってしまったかもしれない、とは己を恥じた。  言葉で伝え合っていないものの互いの好意は透けていた。が気付いている以上、この頭のいい男が勘付いていないはずがない。ここまで受け入れておいて、一体何を尻込みしているのか、とは思った。 「ひとつ、君のことで気がかりなことがあってね」 「なんですか?」  彼が眼鏡を押し上げる。レンズが反射して、眼差しが見通せなくなった。 「事故の際——救助のためとはいえ、度を過ぎた接触があったことは確かだ」 「…………」 「僕は、刀剣の神気に触れたことで君に影響を及ぼしているのではないかと危惧している」  救助、接触——と言われて、はすぐに思い当たる。彼女もまた、事故の後にその話を伝えられ、意識せざるを得なかったからだ。  水を飲んだの息を吹き返すため、南海太郎朝尊は人工呼吸を行った。人命第一で行ったこととは承知しているものの、そこはうら若き娘だ。不満こそなくとも、いまは恋慕う相手となれば簡単に聞き流せるはずがなかった。  南海太郎朝尊は、人工呼吸によって刀剣男士の神気がに入り込み、彼女の心境に変化を起こしているのでは無いか、と仮説を立てているというのである。 「私の気持ちを疑ってるってことですか」  つまりは、の恋慕を否定する言葉に他ならない。 「疑っているわけではないがね、外的要因に依る可能性がある以上、迂闊なことは避けるべきだとは思わないかい」 「し、失礼にもほどがあります」  は思わず拳を握った。なぜ、惚れた相手にその気持ちごと否定されなくてはならないのか。言葉にならない怒りと悲しさが込み上げる。  確かにこの気持ちの発端を辿ればあの事故に至るだろう。しかしこの恋心をここまで育て上げたのは、その後の過程だ。仮に最初のきっかけが神気に惑わされただけだったとしても、彼との時間を否定されたような気がして、それが苦しかった。 「だったら、そういう朝尊はどうだっていうんです。あなたも私と同じなんじゃないんですか」  から見て、彼の眼差しは明確に恋を孕んでいた。先程の時間で、ほとんど答え合わせは済んでいる。  もしその影響とやらが南海太郎朝尊にまで及んでいたというならば、彼はそれを自覚した上で、に対し好意を隠さぬ態度を取っていたことになる。仮初の恋慕を受け入れるつもりなくあんな行動を取っていたとすれば、それこそ罪深いとは思った。  あんな優しい目を向けられなければ、丁寧にの疑問に答えるような真似をしなければ、彼女の身を気遣うような素振りを見せなければ、この気持ちは押し殺せていたのに。  直前まであの距離で迫られて受け入れようとしていた彼が、に対し何の情も抱いていないとは思えない。は彼を睨んで、問いただそうとした。 「それに関してはもう十分に検証は済んでいるよ」 「検証ってなんです」 「他でもない僕自身のことだからね。……僕の君に対する感情は事故以前からのものだ。対して、君の態度が変わったのは明らかにそのあとだった」  予想外の返答に、はなんと返せばいいのか分からなかった。戸惑いを紛れさせようと、服の裾を手で弄ぶ。どれだけ考えても、の頭は都合のいい答えにしか至らない。 「えっ、朝尊って私のこと前から好きだったんですか」  の問いに南海太郎朝尊が答えなかったのは、これが初めてだった。じわりと広がった沈黙は長引くごとに彼女の答えを強く肯定する。 「その話はあとにしよう」 「今聞きたいです。先延ばしにしようっていうなら、今すぐこの雨の中飛び出しますよ」 「わかった、わかったから落ち着いて話そう」  が自身の体を人質に取ると、南海太郎朝尊は隙も与えず折れた。複雑な面持ちの彼を前にし、の俯いた気持ちは次第に上を向き始める。  思い出したのは、先日の彼の言葉だ。南海太郎朝尊はに対し「変わったのは君の方だろう」と言った。  もし、これまでただが彼の気持ちに気付いていなかっただけだったするならば、その言葉にも納得がいく。そんな彼が事故の後、突然彼に興味を持ち始めたを見れば、あの人工呼吸が原因で影響を与えてしまったと考えるのも無理もないことだと思えた。 「ひとまず、朝尊は前から……私のことが好きだったってことでいいんですよね」 「そうだね、その通りだ」 「じゃあ何で、私の気持ちを否定するんです。私が言うのもなんですが、私のことが好きならそれにつけ込んで手篭めにでもすればいいじゃないですか。あなたにとっては好都合でしょう」 「やれやれ……、本当に、君が言うことではないね」 「…………」  南海太郎朝尊は呆れた様子で乾いた笑いを溢した。もはや想いを明らかにすることには躊躇はないらしい。彼は額に手を添え、考え込むように瞼を閉じた。 「十分検証、精査したつもりだが、この身はまだまだ分からないことが多い。君に何かあってからでは遅いんだ」 「どういうことですか」 「僕が君と——仮に結ばれても、それが君にとっていいように転ぶとは限らない」  刀剣男士という存在について追うからこそ、彼は未知に迂闊に足を踏み出せない。己一振りなら兎も角、恐らく最も影響を受けるのはだ。南海太郎朝尊は、知るが故に未知に臆し、彼女が傷付くことに怯えていた。 「だから、私が心から朝尊のこと好きかどうかわからない以上は受け入れられないって?」 「僕の感情を差し引いても、刀剣として僕は君の身を守るために存在する。それが君を脅かすわけにはいかないだろう」 「だったら、神気とか関係なくなるくらいあなたのことを好きにさせてください」 「!」  レンズの下で刃文を写したような瞳が露わになる。額から手を浮かせた彼は、耳を疑いの顔をまじまじと見た。 「私が本当に心から望むことなら、いいんでしょう。あなたの口ぶりだとそう聞こえます」 「だが——」 「わ、私のファーストキスを奪っておいて、好きにさせておいて、まだ何を言うんですか……」  自分がとんでもないことを言っているのが分かって、の耳が熱を持つ。冷静になって聞けば、馬鹿馬鹿しいとも思えるような言い分だ。けれど彼は、それを真っ向から受け止めた。 「……あれを初回と数えられるのは、少々不本意だね」 「嫌だというなら、別の方で上書きしてきます」 「よしたまえ、冗談でも言うことじゃない」  胸の澱みを露わにした顰め面が崩れ、南海太郎朝尊は苦笑した。  余程、彼はが大事で仕方がないらしい。それをひしひしと感じて、はむず痒かった。照れ臭さに思わず、口元がふにゃりと解ける。それを見つめる彼の眼差しもまた、優しかった。 「では、君の言葉通りにさせてもらうとしようか」 「えっ」  南海太郎朝尊の腕がの背に回る。そのまま抱き寄せられ、の顔は彼の首筋に埋まった。  俯いた彼の髪がの顔に当たって、頭上に吐息を感じる。これほどまでに近付いたのは、初めてだった。  胸を押せば逃れられるだろうが、やさしく肩を掴む手には有無を言わせぬ気配がある。なにより自身が、強く迫られて高揚していた。 「ちょうそ——」  喉から捻りだした声は、動揺で震えていた。  南海太郎朝尊が吐息だけで笑った音がの耳に届く。肩に回った手が下って、背に添えられた。 「この程度で音を上げられては困るのだがね」 「し、心臓に悪いです!」 「ふむ、次からは善処しよう」  ——なんだか、とんでもないことになってしまった気がする。  勢い余って切った啖呵に後悔するも、南海太郎朝尊のほうはもう覚悟を固めてしまったようだ。気が付けば雨は止み、雲の切れ間からは光の柱が下りている。彼の言った通り、ただの通り雨だった。 「さて、雨も止んだようだ。そろそろ帰ろうか」  は、南海太郎朝尊が差し出した手をおずおずと取った。

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