見慣れた寝室に見慣れぬ男、その重い背中を抱き返す。私の肩に乗せられた頭が動いて、擦れた髪がくすぐったかった。 回した腕に力を込めると、相手も私を強く抱きしめた。嗅ぎ慣れない香りは私を憐んでいるようで、胸が締め付けられる。布地越しに心臓の鼓動を感じても、その体温が本物だとしても、決して人ではありはしない。 「もうちょっと、やっとく?」 「ん……」 気遣わしげな声色に、私は身じろぎをする。どこまで、の判断は私に委ねられているが、先を求めるのも躊躇われた。 じゃあ、もう少しだけこのままで——と、口にしようとした瞬間だった。 背中越しに視界に映る襖が、勢いよく開け放たれた。暗がりに見えた人影に意識を奪われ、声を上げるより先に私の体は強く放り投げられる。 畳の上を転がり、腕を壁に打つ。痛みに歪む顔を上げ、体勢を立て直しながら自分が元いた場所に目を向けた。 そこにいたのはふたりの男。一方は抜刀し、もう一方——私を抱きしめていた男は、肩から血を流していた。 「っぶな……折れるかと思った」 「折る気で斬ったのだから当然だ。短慮なやつじゃとは思うちょったが……ここまで愚かとはな」 「な、……」 なみのひら、と形にしたかった唇は、震えるばかりで何の役目も果たさなかった。 殺意に取りつかれた眼差しが私を捉える。しかしその視線は、すぐに血を流した男——笹貫へと移った。 波平行安は刀を握り直し、今度こそと腕を振り上げる。 「やめてっ」 高く掲げられた刀身は、ぴたりと動きを止めた。 鏡に写したようにそっくりな二つの顔が、私に向けられる。腰が抜けてしまい上手く立つことができず、私は這って笹貫の元へと近づいた。 「さ、笹貫、血が」 「平気、かすり傷だ」 傷を確認しようと笹貫の体に触れると、彼は「汚れるよ」と私を引き剥がそうとした。背中から斬りかかられたものの、間一髪のところで上手く躱したらしい。派手に出血しているが、戦に慣れた彼らにとっては致命傷となるほどのものではなかった。 けれど、自分を抱きしめていた相手が目の前で斬りかかられたこと、その相手が波平行安であったことに、私は衝撃と混乱を隠しきれなかった。どうして、という疑問が頭の中で渦を巻く。 ただひとつ確かなことは、波平行安は私のために刃を振るっている——つもりでいる。それならば、私は笹貫を庇わなくてはならない。 「主殿、離れてください。その男は主殿に——」 「どの口が言ってるの」 できる限り、平坦で冷たい声で言い放つ。波平行安は、今も笹貫を狙う刃を下すことはない。私が睨みつけると、揺れた刀がわずかに金属音を立てた。 「あなたが、私を捨てたから。だから笹貫が助けてくれたの」 「捨てた? まさか。私は主殿の刀です。物が持ち主を捨てるなど有り得ません」 捨てたなど大層な言葉を選んだのは、思い通りにいかなかったことへの苛立ちが無意識にむき出しになってしまったからかもしれない。意図は伝わるはずだろうに、頭の硬い男はまるで理解を示そうとしなかった。 ここで退いたら、今度こそ本当に笹貫が折られてしまう。私はそうさせまいという意思表示のために、彼の胴に抱き付いた。ぬるりとした血液が私の服や肌を汚す。どちらかが息を飲んだ音が響き、笹貫が私の肩を抱いた。 波平行安に視線をやると、彼は力なく腕を下ろしている。手から刀が滑り落ちたと同時に、遠くから複数の足音が聞こえた。 [newpage] あなたはいい人いるの、と口紅をぼってり塗った女が言う。戸籍上母親ということになっている彼女に、私は他人行儀な返事をした。 「いやぁ、どうですかね」 想いを寄せる相手はいた。私の自意識過剰でなければ、相手もそれらしい好意を私に抱いてくれている。しかし、それを彼女に詳らかにしてやる必要はない。そう思ってはぐらかしたのだが、それがいけなかった。 よい縁談があるのだけど、と女は言う。その笑みには見覚えがあった。幼少期、ピアノ教室やバレエ教室のパンフレットを差し出してきたときのそれと同じものである。 いい人がいないなら、是非と。まるでこちらに選択権があるような口振りだが、断ったが最後ひどい癇癪を起こすのが目に見えていた。 こうなると知っていれば、嘘でも「恋人がいます」と言ったのに。目先の面倒を避けるあまり、さらに厄介なことになってしまった。 乾いた苦笑の裏、背筋に冷や汗が伝う。この女は、私をピアニストにしたいわけでも、バレリーナにしたいわけでもない。自らの善意を踏みにじられることを何よりも嫌うのだ。 持ち帰って検討します、と問題を先送りにして、私は嵩張る見合い写真を持って本丸へと帰った。 写真と共に荷物を自室に放り投げ、すぐに探したのは想い人——波平行安である。 連帯戦の報酬としてこの本丸に顕現した彼は、先に顕現していた笹貫から聞いたとおり凝り固まった[[rb:刃物 > じんぶつ]]だった。伝統を重んじ、忠義に厚く、志高く美しい。けれど、信念、そして刀としての意識が強すぎるゆえに己の命を顧みない危うさがあって、そんな不器用な一面から目を離せずにいた。ただそれだけのはずが——いつしか心ごとさらわれてしまっていた。 確か今日は、洗濯当番だったはず。無意識に残った記憶を当てに物干し竿の方へと向かうと、彼はシーツを干している最中だった。 手仕事は得意だと言うだけあって、家事の類に慣れるのは早かった。シワひとつなくぴんと張られたそれは、一定の間隔を空けて規則正しく並び、風を受けてはためいている。几帳面な彼の性格を表す光景に、思わず笑みが溢れた。 「波平」 振り返った表情に温もりを感じるようになったのは、いつからだろう。 主従を重んじ、人と物として一線を引いていた彼は、いつしか私に熱の籠った眼差しを向けてくれるようになった。しかしそれは、すぐに取り繕われ忠臣の顔つきになる。そんな生真面目さも、彼の大好きなところのひとつだった。 ——きっと彼も、私と同じ気持ちを向けてくれている。 互いの想いを確かめることはないまま時が過ぎ、関係は長く停滞していた。それでも視線が絡まる数秒を積み重ねるだけの淡い恋が愛おしく、幸せだった。 けれど、状況が変わった今、悠長なことは言っていられない。結ばれることはなくとも共に戦えるだけで十分だったのに、それすら叶わなくなるかもしれないのだ。 どんな理由であれ、母親の〝気遣い〟を突っぱねれば機嫌を損ねることは間違いないが、何かしらの理由を拵えていくに越したことはない。私は波平行安に事情を話し、どうか恋人のふりをしてくれないかと頼み込んだ。この本丸から一振り相手を選ぶなら、想いを寄せる相手が望むのは自然なこと。相手からの好意を期待できる状況ならなおさらだ。事情を知ればきっと、彼も私を手放したくないと思ってくれるはず—— そんな私の考えはあまりに的外れで、とんでもない思い上がりだったのだけど。 「縁談を受けるべきです。刀の嫁なんぞ、幸せになれるはずがない」 ぴしゃりと言い捨てられた言葉は、耳を疑うものだった。 断られたことに理解が及ばず、開いた口が塞がらなかった。彼はなんと言ったのか。縁談を受けるべき? ——私のこと好きなんじゃないの? 喉から出かかった言葉を唾液と共に飲み込む。拳を握ると、爪に皮膚が食い込んだ、そんな痛みすら霞むほどに、胸が苦しい。彼の言葉は、恋人の振りを断るだけでなく私の恋心自体も踏み躙るものだった。 こみ上げる涙を必死に堪え、俯いたまま頷く。「ふりをして欲しいだけで本当に結婚するわけじゃないよ」と笑えたらよかったのにそれすら困難で、私は早口で「わかった」とだけ答えた。 捻り出した声はあまりにか細く、彼の耳に届いたかまでは定かではない。それを確かめるよりにも先に、惨めな自分を彼に晒すのが耐え難く、私は走ってその場を離れた。 背後から「主殿」と呼ばれた気がしたけれど、振り返らずに走り続ける。幸い、本丸の庭は広く、どこまでもどこまでも道は続いていた。 息が切れて足がもつれるまで走り抜けた先、辿り着いたのは本丸の南側、林の中だった。 肩で息をしながら歩速をゆるめ、足元に視線を落とす。前を見ずにふらふらと歩いていると誰かにぶつかって、よろめいた体を抱き止められた。 「おっと危ない……って、主?」 私を完膚なきまでに打ちのめした男と同じ顔、同じ瞳、全く違う表情で、彼は私を見下ろしていた。 「ささぬき……」 「何泣いてんの。もしかしてフラれた?」 慰め代わりの冗談のつもりだったのだろう軽口が、私の胸を鋭く貫く。必死に抑えていた感情が溢れ出し、涙となって溢れた。 「っ……」 「え? 主?」 一度決壊してしまった涙腺は壊れた蛇口のように水を垂れ流し、もはや自分の意思で止めることはできない。縋る先を選ぶ余裕も無くなった私は、動揺に手を浮かせた笹貫の胸に飛び込み、情けない声を上げた。 「うっ、うう、波平に、っ……ふられたっ」 「ちょっ、待って、ホント? ジョーダンのつもりで……」 「ううう……」 笹貫の胸板を憂さ晴らしに力一杯殴ったが、彼はびくともしなかった。戸惑いを帯びた手つきで、笹貫は私の頭を撫でる。拒絶されなかったことに安堵した私は、彼に甘えた。 「あー……一旦海、行く? オレでよければ話聞くけど」 「……ずび、なにそれ」 汚してしまった笹貫のTシャツから顔を上げ、「似合いすぎてるね」と鼻を啜りながら笑う。笹貫は私の失礼な冗談を咎めることなく、彼のお気に入りだという場所へと連れていってくれた。 海は本丸の南側、林を超えた先に広がっている。刀剣男士らに誘われて砂浜で遊んだり釣りをしたことはあったけれど、林は道が険しいため、「主はひとりで行かないように」と始まりの一振りに言いつけられていた。 笹貫が連れてきてくれたのは見覚えのある砂浜ではなく、岩場だった。 岩の上を跳び移り、彼に手を取られながら足元の悪い道を進む。その先には海に迫り出した岩が平べったくなっている場所があって、言われるがままにそこに腰を下ろす。 「わ……!」 「いいっしょ、ここ。今日は波が穏やかだ」 どこまでも続く水平線に目を奪われる。寄せては返す波の音が心地良く、荒れた心を少しだけ癒してくれた。 「そ・れ・で……波平にフラれた、んだっけ?」 「……そう」 経緯を説明するには、まず縁談の話からしなくてはならない。辿々しい私の言葉を急かすことなく、笹貫は耳を傾けた。 母親から持ち出された縁談のこと。断るには、それらしい相手を見繕う必要があること。波平ならきっと、私をどこにもお嫁にやりたくないって思ってくれるはず——そんな期待は裏切られ、それどころか刀の嫁なんぞ、とこの先の希望も打ち砕かれた。傷心のまま走っていたところに、笹貫に出くわした。 そう一通り話すと、笹貫は複雑そうに頭を掻いていた。 「アイツは凝り固まっちゃってるからさ、刀って意識が抜けないんだよ。あんな分かりやすく主のことスキって顔してるくせに」 「っ」 波平行安との関係を、誰かに話したことはない。私自身は分かりやすい自覚があるので、目敏い刀剣男士らに気付かれてしまっているかもしれないとは思っていたけれど、笹貫から見て波平行安もそう見えていただなんて。驚くと同時に、彼からの好意が盲目になった自分の思い込みではないのかもしれないと思えて、少しだけ安堵する。 「アイツなりに、主の幸せを思ってる。それがちょっと……古臭いっていうか、主からしたら信じられないだろうけど、それだけ分かってやって」 「……波平の肩持つんだ」 「イヤ? オレは主の味方」 瞬きをすると瞼に残った涙が溢れ、それを笹貫の指が優しく拭ってくれた。 ごう、と一際強い風が吹き、体が揺れる。海に落ちてしまいそうで怖くて、思わず笹貫の服を掴むと、腰を抱いて支えてくれた。なんというか、こういう仕草がサマになってしまう容姿の男だなと思う。 「主、オレにしとかない?」 「はい?」 「カレシのかわり、ってやつ」 「…………」 責任を感じているのかもしれない、と思った。 ひとり飛び出して波に乗り、その身を単独で得たとはいえ、元は同じ波平の刀である。身内のしでかしたことに、彼なりに詫びようとしてくれているのだろうか。 もしくは、こうやって役に立ってまた捨てられまいとしているのか。それとも——私とこの本丸に、情を感じてくれているのか。 軽薄そうなぬるい笑みは、そのどれとも判別がつかなかった。 笹貫の真意がなんであれ、私にとっては渡りに船だ。この状況で手を差し伸べられては、縋り付かずにはいられない。波平行安への恋心が破れようと、私はまだ知らない男と結婚して本丸を離れる気はないのだ。 「冗談って、言わないよね?」 「ホント。流石にオレとしてもこの状況は見過ごせないよ」 「なら……。よろしくお願いします」 「ん、ヨロシク」 腰を支えていた手が滑って、私の背中をポンポンと叩く。その手つきは恋人というより、妹や馴染みの子供にするような動きだった。 話をしているうちに日が暮れてしまい、海はすっかり夕焼けに染められていた。先に立ち上がった笹貫に手を握られ、行きと同じく岩場を歩く。 先ほどと違ったのは、道が平らになっても彼が手を離そうとしなかったことだった。 装うなら徹底的に。匂いも染み付かせ、完璧に欺く方がいい。そんな彼の提案で、私たちはなるべく一緒に過ごすことになり、早速夕飯を並んで食べることになった。 私と笹貫は、百数振りいる刀剣男士の中で突出して親しい間柄というわけではない。飄々とした笹貫はどこか深入りを拒むような気配があって、これまでは他の刀剣男士と同様に扱っていた。それが突然ぐっと距離を縮めたものだから、当然周囲は驚いていた。 「笹貫といつの間にそんな仲良くなったんだ?」 「えっと……。海で話してたら意気投合して」 嘘が苦手な私は話の核を避け、そう言ってはぐらかそうとした。 それで納得してくれ、と半ば祈るような気持ちでいると、追撃をするように笹貫が「そうそう、オレらなかよし」と肩を組む。ニコッと胡散臭いほどにかわいい笑みを浮かべる彼を治金丸が鋭く睨んだので、私の方が竦み上がってしまった。 波平行安とは、あの後一度も顔を合わせていない。 元々彼との仲も特別深いものではなかったし、笹貫が傍にいるなら尚のこと近付いてくるはずがなかった。思い返してみると、本丸で接する機会のほとんどは、私から彼に近付いていたように思う。 ——もしかして、両思いだと思っていたのは私だけでは? いやでも、笹貫だってそう思ってたわけだし……。 頭に浮かぶ生真面目な顔つきを、頭を振って追い出そうとする。記憶の中の端正な顔立ちにすらときめいてしまうあたり、失恋して尚、懲りない女だと自嘲した。 湯浴みを済ませ、ぺたぺたと廊下を歩く。私の部屋は母屋と渡り廊下で繋がる別棟にあり、刀剣男士らの生活区域とは離れていた。 女である私に気を遣って、彼らはこのあたりに近付かないようにしてくれている。そのため滅多に人に会うことはないのだが、今日は渡り廊下に差し掛かる位置の柱に寄りかかるようにして、誰かが立っていた。 「笹貫? どうしたの、こんな時間に」 「コイビトなんだから、来るのに理由なんていらないだろ?」 「…………」 揺れる波打ち際のように独特のリズムをつけた口調には、意図して装った気安さがあった。わざとらしい口ぶりから、言葉通りの——恋人らしい時間を過ごすために訪ねてきたわけではないのは明らかだ。 彼に何らかの考えがあるのだろうと察した私は、笹貫を部屋に招き入れた。 「上げてくれるんだ」 「コイビト、なんでしょ?」 自分から訪ねてきたはずの笹貫は、「本当にあげてもらえるとは思わなかった」とでも言いたげに目を丸くしていた。 本来、こんな時間に刀剣男士一振りを寝室にあげるだなんて考えられない。私の始まりの一振りは過保護で、一番の重臣でありながら父親のように私を大事にしてくれる。不埒な行いをしていなくたって、見つかってしまえばお説教は避けられないだろう。 部屋の扉を閉めた後、私は部屋に人がいることを誤魔化す程度の簡単な結界を張った。 「それで、何?」 「匂いをつけた方がいい、って言っただろ? 試すなら夜が絶好のチャンスだ」 「さっき聞きそびれたけど匂いって何なの?」 笹貫は首を回し、私に伝わる言葉を探した。 刀剣男士や力に秀でた審神者は、人と物を繋ぐ縁を感じ取ることができるらしい。それは、長く連れ添った始まりの一振りであったり、肉体を交わらせたものであったり。それ以外にも絆を深めた者同士の間には、特有の繋がりが見えるのだと。 そう言われて思い返してみれば、万屋ですれ違う恋仲らしき審神者と刀剣男士の間には、独特の空気が漂っていた。あれが縁ならば、私と笹貫が恋人を偽るにはあまりに希薄である。母がかつて審神者であったことを考えると、見抜かれる可能性は高かった。 「茶番とはいえ、やるなら徹底した方がいいだろ? それに、ウチの連中は全員が腹芸できるってワケじゃない。探り入れられたらおしまいだ」 「ああ……」 母親の行動力と被害妄想の激しさは、一度聞いたら忘れられない程の苛烈なものである。あの人ならやりかねない、というのが正直なところだ。 それよりも、私は笹貫が思っていたよりもずっと真剣にこの件について考えていてくれたことを意外に感じていた。 「だからさっきあんな見せびらかすみたいなことしてたの?」 「そ」 「いいけど、ほどほどにしてね」 「照れてんの?」 「そうじゃなくて、度が過ぎたら怒られそう。笹貫が」 「あー……、そこはまぁ、うまくやるよ」 すでにいくつか心当たりがあったのか、笹貫は苦笑する。私が気付かなかっただけで、刺々しい態度をとっていたのは治金丸だけではなかったのかもしれない。 「私のためにやってくれたことなのに、変な誤解されて斬られる……なんてやめてよね」 「はは、肝に銘じとく」 会話に区切りがついたところで、私は布団の上に腰を下ろす。傍仕えの刀が用意してくれた布団は今日もふかふかだ。布に手を滑らせると、日中シーツに囲まれていた彼の姿を無意識に思い出してしまう。 立ったままの笹貫に視線をやると、彼は「オレも座っていい?」と訊ねた。その律義さがなんだかおかしくて、私は吹き出した。気を緩めるとすぐに開いてしまう心の傷を癒してくれる何気ないやり取りが、今はただありがたい。 「どうぞ。お掛けください」 「んじゃ、お邪魔します」 手で布団をぽんぽんと叩くと思ったよりも近くに彼が腰を下ろしたので、ぎょっとしてしまった。 寄り添いあうように、足が触れ合う距離に彼がいる。確かに日中、岩場にいたときもこの程度の距離だったような気もするが、場所が場所だ。波の音で声がかき消されやすい海辺と個人的な密室ではわけが違う。 それに驚きはしたものの嫌悪感を抱かなかったのは、彼から一切の下心を感じなかったからだろう。 「縁? 匂い? だっけ……それってどうしたらつくもんなの?」 「一番わかりやすいのはスキンシップだけど……これはオレからするのはまずいだろ」 ——すでに十分してると思うけど? 昼間の行動を思い出し、浮かんだ言葉を飲み込む。泣きじゃくっていた時とはいえ、先に抱き着いたのは私だ。 だったらこれ以上減るものでもなし。私は膝立ちで歩いて笹貫と向かい合う位置に移動すると、勢いをつけて彼の懐に飛び込んだ。 「お、大胆」 「茶化さないで」 「悪い悪い」 笹貫の腕が私の体を包むように抱き返す。 肉体的には若い男女が抱き合っているというのに不思議と妙な気になることはなかった。不慣れな距離による気まずさと同時に、不思議な感覚が湧き上がる。安心感とでもいうのか、胸の芯から滲むような心地よさがあった。 「……どう? これ。できてるの?」 「あー、うん。気持ちい」 「はい?」 「ははっ、いや……主の霊力がこう、直にきてんだわ。そりゃ気持ちいいよ」 「変な言い方やめてよ……」 言い回しに語弊はあるが、笹貫も私と同様に心地よく思っているようだ。その事実に、少しだけ私の罪悪感が軽くなる。 好きな人に振られて、慰められて、縁談を退けるために彼を利用して——それだけでなく、私の想像以上に彼は考えを巡らせてくれていた。お情けで求めるには、彼からいろいろなものを貰いすぎている。 意味深で冗談めいた言い回しも、私を気遣ってのものだったりして——と、そんな推察から感謝の意を込めて、背中に回す腕に力を込めた。 ——波平行安が部屋に乗り込んできたのは、そのすぐ後のことだった。 [newpage] 波平行安によって結界が破られ、異変を察知した他の刀剣男士らによって、波平行安は即座に捕縛され、笹貫は手入れ部屋へ担ぎ込まれた。 一番に駆けつけた前田藤四郎は、血の海になった私の寝室を見るなり一秒とかからず波平行安の体を床に叩き付けて拘束し、首筋に刃を突きつけた。始まりの一振りに並んで信頼を置く懐刀だが、その頼もしさを実感するのはもっと別の状況であって欲しかった。 次に駆けつけた始まりの一振りは、即座に状況を理解すると、その後にやってきた他の刀剣男士らが騒ぎ始めて混沌とした場を仕切り、血塗れになった部屋の始末や、波平行安・笹貫それぞれへの対処を刀剣男士らに指示した。 私は前田藤四郎に支えられて別室へと連れられ、こうなってしまった経緯を話すことになった。 まず彼らは、縁談の話の段階でなぜ相談しなかったのかと詰問した。 これまで二振りには、母親をはじめ家族のことで色々と迷惑をかけてきたのだ。これ以上心配をかけたくない気持ちがあったと同時に、自身の恋を進展させる好機だと——それも誤った判断だったわけだが——考えてしまった。ありのまま、素直に吐き出すと、二振りは何か言いたげな顔をしたまま意見を飲み込んでくれた。 刀剣男士の私闘は禁止されている。ましてや、場所は私の寝室だ。複雑な状況であったこと、私の身を案じてのこととはいえ、立派な規律違反である。波平行安の行動は見過ごせないとして、彼の処分は始まりの一振りが決めることとなった。 加えて、笹貫にも何らかの罰則が科されるようである。これには始まりの一振りの私情が大いに含まれているように見えたが、とても口を出せる立場ではない。 私は縮こまって、「ハイ」「ごめんなさい」を繰り返していた。 時が流れ、長きにわたる波平行安の謹慎が解かれた。 約束もしていないのになんだか落ち着かなくて、部屋を出て庭に降りる。少しずつ暑さは落ち着き、乾いた風に四季の移ろいを感じた。 謹慎期間中、波平行安は刀剣男士の居住棟の最奥の部屋に閉じ込められていたのだという。主である私がこうも曖昧なのは、顔を合わせることを許されていなかったからだ。起こした騒動を考えるとあまりにも寛容な処罰だと、刀剣男士らは口を揃えて言った。 けれど、振られて尚彼への気持ちを捨てきれずにいた私は、この日をずっと待ち遠しく思っていた。 「主殿」 恋しい声を耳にし、勢いよく振り返る。きっちりと結われた髪が揺れる様に、目を奪われた。懐かしいと思える程に久しい顔に、目頭が熱くなる。 ——やっぱり、好きだ。 距離を取れば、言葉を交わさずにいれば、顔を見なければ、忘れられるものだと思っていた。 失恋の傷は癒えるどころか、日を追うごとに恋しくなるばかりだった。自責の念に苛まれ苦しんでいるのではないか、この本丸に居辛くなってしまうんじゃないか、そんな心配ばかりをしてしまって、波平行安を忘れることなんて出来なかった。 「波平、……ひさしぶり」 「此度の狼藉、弁解の余地は一切ありません。本丸の規律を乱し、主殿に多大なるご迷惑をお掛けしましたこと、伏してお詫び申し上げます」 「も、もういいって!」 やっと会えたというのに、地面に頭を擦り付けて詫びようとする彼をなんとか立ち上がらせる。私はこんなことを言われたくて、再会を心待ちにしていたわけではないのだ。 納得いっていない様子の彼の名を呼ぶと、深い海の色のひとみがこちらを見据える。それから、そっと視線を外した。 「その……身体は、大丈夫?」 前田藤四郎は極の短刀の中で最も練度が高い。トドメを刺す気はなかったとはいえ、無傷ではいられなかっただろう。 「問題ありません。今日からでも出陣できます」 「それは何よりだけど……」 武器として、刀として誇り高い彼だ。今すぐにでも戦へ出たいというのが本音だろう。私が苦笑すると、波平行安が一歩こちらへと歩み寄った。 「……縁談の話は、どうなったのですか」 「ああ。本丸で大事件が起きてそれどころじゃない……ってことで、流れたよ。流石に役人が事情聴取に来たりしてちょっと大事になったから、あの人も見逃してくれたみたい」 謹慎中はすべての情報が遮断されていたようで、波平行安はその間に起きたことを何も知らなかった。 この騒動がいかにして収められたかをかいつまんで説明すると、彼はどんどん居心地悪そうな顔になっていく。眉間には深い皺が刻まれていた。 「だからまあ、私からすれば結果オーライ……っていうのもなんか違うけど、とりあえず心配しなくて大丈夫。あ、これ以上謝るのもやめてね」 「…………」 また頭を地面につけかねない様子の波平行安を先んじて抑える。複雑な表情の奥に潜む感情が何なのか、私にはわからない。 私にとっては望まぬ縁談が破談になって願ったり叶ったりだが、彼にとっては自分が暴れたせいで主人の縁談を潰してしまったことになる。私への気持ちがどうであったとして、決して手放しに喜べはしないだろう。 「波平はさ、やっぱり私に結婚してほしかった?」 「……私が口を出すべきことではありません」 「前と言ってること違うじゃん」 謹慎中に考えが変わったのか、それほどまでに厳しく絞られたのか。あれだけはっきりと突き放した男が、今度は無関係だと身を引こうとしている。それが許せなくて、はぐらかすな、逃げるなと意思を込めて睨み上げた。 ——私は他でもない、あなたの気持ちが知りたいのに。 強く念じても、言葉にしなければ伝わるはずがない。 けれどさすがに頭の固い彼といえど、その言葉で満足できない私の不満は汲み取ったようだ。しばらく沈黙が続いた後に、彼は観念して口を開いた。 「私の考えは、——あの時と変わっていません。主殿は相応しい方と夫婦になり、幸せになるべきです。ただ、そのことに口を出すのも出過ぎた真似だと、気付いたまでです」 「相応しい方って誰。お見合い相手?」 「私から申し上げることではありません。……少なくともそれは、私のような——たかが刀ではないのは確かです」 「どうせ戦争で死ぬのに、好きな人と一緒にいたいって目の前の幸せを願うことも許されないの?」 語気が強くなってしまったのは無意識だった。 死ぬのに、という言葉を耳にした波平行安は、カッと目を見開いた。反射的に何か言いかけたのだろう、唇が開く。それを飲み込むような息遣いが聞こえて、続けるべき言葉が見つからなかったのだろうと判断した私は、叩きつけるように続けた。 「波平はさ、見知らぬ誰かと結婚することが本当に私の幸せだって思ってる? ……そんなの、勝手に決めないでよ! 私は、私は……」 たとえその場しのぎの偽りだとしても、恋人役は彼以外考えられなかった。 高望みをしたつもりはないけれど、動かなければこの関係ごと壊れてしまうというならと勇気を出して踏み出したのに。彼の気高い信念を尊重して、主従を崩すことはなくとも、ずっと一緒にいられたらいいと——ただ、それだけを考えていたのに。 主殿さえ生き残れば勝利です、と極論を叩きつけられた時のことを思い出す。ただ無惨に死ぬ気はない、そんな覚悟を滲ませていたとはいえ、私はそれが悲しくて仕方なかった。主と刀、人と物——そんな関係である以上仕方のないことであるとはいえ、そんな簡単に割り切って欲しくなかった。 たとえ夢物語だとしても、叶う限り一緒にいたいだなんて—— 「……私一人で舞い上がっちゃって、ホントバカみたいだ」 沸騰した頭がやがて冷え、静かな水面を打つように呟く。 だったら最初から、あんな眼差しを向けないで欲しかった。不意に幸福そうな表情を見せないで欲しかった。 たかが主としか見ていないなら、——どうしてあの夜、あんな事をしたの。 悲しみが込み上げ、息が苦しくなっていく。また泣いてしまいそうになって、今ばかりは、彼にだけは情けない顔を見せたくなくて服の裾を握った。睨んだ土がじわりと滲む。乾いてくれと祈るように、目を見開いていた。 「こっちん気も知らんで、勝手ばっかい言いよって……」 「えっ……?」 波平行安が何かを呟く。暗号めいた国言葉が理解できず、咄嗟に聞き返すも、彼は答えてくれなかった。 「先ほど申し上げた通り、私の考えは変わりません。主殿のことを一兵として真に思うならば、たかが人の身を得たばかりの私と一緒になることなど論外です」 ですが、と。言葉とともに波平行安は一歩足を踏み出す。思わず後退るより先に腕を掴まれ、その強さに驚いた。 「波、」 「今日までずっと、私は自省していました。主殿に仕える者として、そして一人の男として。主殿にあのような顔をさせてしまったことをずっと、悔いていました」 「っ」 失礼します、と彼が小さく呟くと同時に力いっぱい抱き寄せられ、視界が彼で埋まる。体格もほとんど変わらず、視界を掠める髪の色すら同じだというのに、笹貫に抱きしめられた時とは何もかもが違っていた。 感触、匂い、目に映る全てが私を高揚させる。羞恥から今すぐ逃げ出してしまいたいとも思うのに、離れ難くてたまらない。 早鐘を打つ自分の心臓とは別の鼓動が伝わる。私に負けず劣らずの速さを刻むそれに、喉が苦しくなった。 「私は——あの男よりもずっと、愚か者です。主殿があの男とこうしているのを見て、衝動的に身体が動いていました。あの男を折る覚悟すらあったというのに、それよりもずっと大切な……あなたと向き合う覚悟が、出来ていませんでした」 「っ…………」 「身分不相応は承知の上。それでも、誰よりもあなたを、主殿をお慕いしております。どうか私の覚悟を受けとっては頂けませんか」 「……っ、うん」 彼の背中に腕を回す。手の甲に髪が触れ、少しだけくすぐったかった。 すでにどこもかしこもくっ付いているというのに、波平行安は離すまいと更に抱きしめる力を強めた。 彼の額から落ちた髪が、私の頬を撫でる。いま、彼はどんな表情をしているのだろう。苦しいくらい捉えられた腕の中で、私は胸から顔を上げた。 「っ……」 するとそこには、私と目を合わせた瞬間だけ見せるやさしい顔——忠義の顔にすぐに隠されてしまう、恋慕を抱いた男の姿があった。 彼の示す『覚悟』が私が想像するよりずっと苛烈なものだと知るのは、もう少し先の話。 ■ ——お見合いの話が来ちゃってね、断りたいんだけど……。 見合い、という言葉を頭で認識した瞬間に、波平行安は思考が全て弾け飛ぶような衝撃を受けた。 波平行安の今代の主は、審神者なる者だった。 時間遡行軍との戦いに招集され、百数振りを擁する本丸で主として采配を振るう彼女だが、その実態はただのかわいらしい娘である。まともな生き方をしていれば、似合いの男と連れ添い、夫婦になり、子をこさえ、家庭の中で幸せに暮らしていたことだろう。 それが——彼女の選択であるものか、不可抗力でここへやって来たのかまでは知りはしないもののこんなところで男の姿を模った刀の付喪神に囲まれて暮らし、——あまつさえ刀の一振りに懸想をされている。あまりに哀れなことだ。 波平一門の集合体としての刀剣男士。そして、審神者に想いを寄せるひとりの男。それが、この本丸の波平行安だった。 毎晩その身を苛む感情に行き場などないことを、彼は理解していた。主として、想い人として審神者を尊重するならば、たかが刀の付け入る隙などありはしない。長きに渡り人に使われ、その営みを見つめてきた彼だからこそ、その定理を痛いほど知っている。 たとえ彼女が何らかの気の迷いでこちらに気持ちを向けようと、真に審神者のことを思うならば報われようなどとは思うべきではない。 そんな考えから、波平行安は審神者の頼みを突っぱねた。人と結ばれることこそ、彼女の幸福だと心から祈って。——そうであってくれと、縋るように。 しかしその結果、彼女は涙を落とした。 震える肩を見て、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと恐ろしくなった。走り去った彼女を反射的に呼び止めても、何を言えばいいのか見当が付かず、その場に立ち尽くす。 ——泣かせるつもりはなかったとでも言えばいいのか? それは無意味な期待を持たせるだけだ。彼女のことを思うなら、たとえ傷つけることになったとしても今は突き放すべきだ。 外傷を受けたわけでもないのに、刃に貫かれたように胸が痛い。どんなに傷を受けようと、戦場ならば立ち止まらずに前へと進み、敵を殺すことが出来るこの足が、今や一歩も動かない。 彼はひとり、思考に耽った。 考えて考えて考え抜いた末、結論は出なかったが——それでも、主に対し意見を述べたのは、出過ぎた真似だったと自省した。 共に行く未来が夢物語だとしても、彼女を泣かせてしまったことだけは詫びなければと思ったのだった。 その後、謝罪の機会を伺ったが、審神者はどこにも姿を表さなかった。元より彼女は多忙な立場である。ならば夕飯の時にと、波平行安は定められた時間になると同時に食堂へと入り、彼女の姿を探した。 ——審神者は、笹貫とべったりくっ付いて食堂に現れた。 この数時間の間に一体何が起きたのか。 自分と瓜二つの顔をした男が、軽薄そうな手つきで審神者の肩を抱く。自分に向かって頬を染め、目が合うだけで幸せそうにしていた彼女が、あの、短慮で愚かな男に。 そんな光景に絶句し、波平行安は言葉にしようのない憤りを覚えた。途端に食欲は失せ、配膳前の空の盆を夕食当番の元へと返す。あのまま仲睦まじいふたりの姿を目にしていては、狂ってしまいそうだ。 「……ああ、おいはじんきしちょったとか」 たかが物、刀一振りが主に嫉妬など馬鹿馬鹿しい。 窓の外はすでに暗く、幽鬼のような男の顔を映し出していた。 夜が更けて、審神者がひとりになる隙を波平行安は窺った。 夕飯を済ませ湯浴みの後、彼女はひとり自室で過ごしていると聞く。数少ない彼女の個人的な時間だから、部屋にはあまり近付かないようにとも言いつけられていた。規律を破ることは心苦しいが、この隙を逃せばもう二度と彼女とは話せないような気がした。 古株の誰かに見つからないように、足音を殺して廊下を歩く。審神者の部屋に繋がる渡り廊下が目に入り、波平行安はもう一度周囲の様子を伺った。 「っ!」 するとそこには、笹貫を寝室に招き入れる審神者の姿があった。 そこからの記憶は、ひどく断片的だ。 自分が身を引いてまで願った彼女の幸福を、あろうことにもあの男が散らそうとしている。頭に血が上った波平行安は、気がつくと[[rb:刀 > 自身]]を手に、渡り廊下に踏み入った。寝室には邪魔をするなとでも言いたげに、結界が張られている。それにすら神経を逆撫でされ、怒りは勢いを増すばかりだ。 ふたりは睦言に夢中であるのか、結界が解かれたことにも気付かない。部屋に踏み込んだ波平は抱き合う二人を目にし、迷わず抜刀した。波平行安の初太刀を避けられたのは、同じ波平一門である笹貫だからこそだろう。 視界が真っ赤に染まる。返り血か、それとも過ぎた嫉妬により興奮状態に陥っているのか。冷静さを欠いた中で、彼女が目の前の男を庇うようにして抱きついていることが、悲しくて仕方なかった。 部屋の隙間から漏れるわずかな光だけが頼りとなる密室で、厳しい拘束をされながら波平行安は自省を重ねた。静かで冷たく暗い部屋では、どこまでも思考に沈んでいく。 そして彼は思い至る。衝動的にあの男に斬りかかってしまうほどの激情があるというのに、肝心の彼女への気持ちからは目を逸らしてしまっていた。持つべき覚悟を見誤っていた、と。 そして、波平行安は誓った。たとえ己が折れたとしても、彼女を幸せにするのは自分だ——と。