憂いる赤色
刀剣男士の傷は、手入れをすれば後も形も残らず完治する。どれだけ深い切り傷であろうと身体の一部が欠けようと、すっかり元通りになってしまうので、最初こそ恐々と手入れしていた審神者も、今では軽傷程度では動じなくなってしまった。麻痺する感覚が恐ろしいと思う反面、本丸という軍を率いるものとして、少々の怪我程度で狼狽えていては将の役目は務まらないと思うのも本心だ。彼女がこれまで培った常識から外れていくことへの恐怖はあれど、あるべき姿に近づいているのかもしれないと、そんな予感を感じていた。
燃えるような痛みが走った手のひらを見ると、一文字に赤い線が走り、そこからはたらたらと血が流れていた。
ちょっとした趣味の手芸の最中、ハサミで手を切ってしまったのだ。審神者はしばらく、赤色の伝う自身の手のひらを眺めていた。手の淵からこぼれ落ちそうになったところではっとして、視線で血を拭えるものを探す。しかしティッシュ箱の中身は、ズボラが祟って空だった。
無傷の手で扉を押して自室を出て、審神者が目指したのは経理に携わる者のために設えた一室だ。
そこによく居る松井江は、喜びや昂り、怒りから鼻血を流すことがあって、その部屋にならティッシュが置いてあるかもしれないと思ったのだ。普段からきちりとした刀ばかりが揃っているから——だから経理を任せているのだが——審神者のようにうっかり欠けさせるなんてこともないはずである。審神者は急いで、自室からそう遠くない本丸経理部の部屋へ急いだ。
「あっ」
「……貴方か」
経理部の部屋の扉は、審神者がノックする前に開かれた。ジャケットを脱いでブラウス姿の松井江は扉の前にいた審神者を見下ろし、面食らった様子を見せた。しかしその後、朱に染まった審神者の手元を見てサッと顔色を悪くする。
「ッ、血が」
「えっと、ハサミで切っちゃって。ティッシュないかなって」
松井江は眉を顰め、審神者の無傷の手首を掴んで経理部の部屋の隣、給湯室へと連れて行った。
彼は蛇口を捻って指先で水の温度を確かめると、審神者の傷を流水で洗い流す。その後水を止めてから、彼は私物らしきハンカチで傷口を包んで強く握った。
ただの止血だと分かっていて、手を握り合っているような構図に、審神者は緊張を覚えた。
ちらりと伺った松井江の表情は、真剣そのものだ。長いまつ毛の下、ターコイズブルーが心配そうに傷口に注がれている。まるで自分自身が傷つけられたかのように表情を強張らせる様が痛々しく、居た堪れなかった。
審神者は気を紛らわせようと、視線を松井江からハンカチへと移した。よく見るとそれは、レースに淵取られた上品な品だった。
皮膚に当たる布地も柔らかく、滲み出た血をよく吸っている。お嬢様のワンピースのポケットにでも忍ばされていそうなそれが汚れる様子に、審神者は強い罪悪感を覚えた。
身に付けるものにこだわりの強い松井江のことだから、そこらで買える安価な品ではないはずである。しかし一度汚れてしまった以上は遠慮するのも妙な話で、そのために審神者は身動き一つ取れなかった。
「塵紙は繊維が傷口に残るからお勧めしない。まずは傷口を流してから、止血するんだ」
「そ……うなんだ。ごめん、全然知らなくて」
本丸で守られているうちは、怪我をする機会などほとんどなかった。危険な仕事や力仕事は全て刀剣男士が代わってくれるし、料理なども彼らの仕事である。手入れ以外の治療をしたことがないから、審神者は自分の怪我の手当の仕方すら知らなかった。
松井江は「そろそろ止まったかな」と手を離した。ハンカチは抑えたままにするように言われ、今度は経理部の部屋へと連れられる。
経理部にはオフィス用のデスクとチェアが向き合うように置かれ、壁にはキャビネットが並んでいる。まるでオフィスの一室のような内装で、日本家屋然とした本丸の中では浮いていた。
松井江は自分のデスクの椅子を引き、そこに審神者を座らせると、彼自身はその隣の山姥切長義の椅子に腰掛けた。デスクの一番下、大きな引き出しから救急箱を取り出し、手際よく審神者の手当てを進める。
「すごい、用意周到だね」
「書類仕事をしていると紙や刃物で手を切ることがあるんだ。刀なのに戦以外で切られるなんて、おかしな話だとは思うけれど」
「言ってくれたら手入れするのに」
「資材は有限だから、些細な切り傷程度で使うわけにはいかないよ。……これでよし。しばらくはなるべく動かさないようにね」
「ありがとう」
松井江が救急箱を閉じる。審神者の頭には、まだあのレースのハンカチのことが残っていた。
「松井」
「何かな」
「その……ハンカチ、ごめんね。弁償する」
松井江の机に置かれたままのレースのハンカチは、止血のために強く握られたせいでシワができ、白い布地はまだらに赤く汚れている。よく見るとシルバーの糸で刺繍がされていて、そんな細やかな上品さが殊更審神者の胸を抉った。
「気にしないで。貴方の血を拭うことより優先すべきことなんてないよ」
「でも……」
「僕にとっては、ハンカチが汚れることよりも貴方が血を流していることの方が胸が痛い」
松井江の手が審神者の手首を掴んだ。傷に響かぬよう慎重に、けれど悲痛さすら感じる力加減だった。
審神者の肌よりずっと白く、陽の光に当てることすら躊躇うようなその手は、几帳面に碧色の爪紅が塗られている。キャンディースリーブのたっぷりとした布に包まれているせいで、華奢に見えたその手は存外大きく、すらりと指が長かった。現に審神者の手首を容易く掴んで、親指と人差し指の先が触れ合うほどである。
審神者の心臓がどくりと脈打つ。傷口からまた血が噴き出すのではないかと懸念するほどに、触れられた手元に血が巡るのを感じた。
自身の傷をこんなにも案じてくれる彼に抱く感情として、およそ不釣り合い極まりないものである。それを理解していたものの、審神者は内側から湧き出る想いを押し留める術を知らなかった。
傷と同じように塞いでも、きっと溢れるばかりだ。現に今、触れられた手首が熱を持っているのだから。
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