結実

夢主は審神者の妹です

 陽の光で目を覚ますのは数年ぶりのことだった。  眩しさのあまり目が碌に開かない。手探りで己の顔に触れると、毎晩必ず着用しているアイマスクをつけ忘れていたことに気付いた。  襖の隙間から漏れた光の線が畳を縦断している。時計を見なくても、いつもよりずっと早い時間に目を覚ましたことが分かった。  姉の本丸で住み込みバイトを始めて、もう三ヶ月になる。  新卒で入った会社が絵にかいたようなブラック企業だった。社畜とはうまく言ったもので、人間としての尊厳が保たれない劣悪な労働環境は私を破壊した。毎日尋常じゃない量の仕事に追われながらパワハラとセクハラを受け、過労で倒れたことをきっかけに逃げるように辞職した。  実家で無為に時間を過ごし飯を食べ排泄するだけの装置になっていた私を、「暇なんだったら本丸で仕事手伝ってよ」と軽いノリで雇ったのが審神者である姉だ。  審神者という仕事がどういうものなのかよく知らないまま、私は首を縦に振った。日付が変わる前に眠れるならなんだってよかったし、それに三食おやつ付きでお給料は前職の倍以上だ。  まさかお客様は神様ですなどと朝礼で声を張り上げていた私が神様と一緒に働くことになるだなんて思ってもみなかったが、本物の神様はお客様よりずっと親切だった。  彼らは少年のようで、見目麗しい青年のようで、見た目に反して老成してもいた。人に使われるために生まれた〝物〟の付喪神である彼らは、人を愛している。性格は様々あれどそれだけは変わらない。  最初こそ失礼がないようにと彼らに委縮していたものの、神様だしちっぽけな人間のやることだから失礼さえしすぎなければ細かいことは気にしないだろう、という結論に至った今では必要以上に気を遣いすぎることもなくなった。神様側もあちらはあちらで、上裸で鍛錬をしたり廊下で飲んだくれたりとかなり自由に過ごしているし。  最低限見苦しくない程度に身支度を整えて、私は自室を出た。  大所帯の本丸といえど、さすがに早朝は静謐だ。初夏、まだこの時間は気温がしんと冷えている。  息を吸い込むと、体が澄んだ空気でいっぱいになった。神様が暮らしているからだろうか、本丸の朝は一等清々しい。  気分がよかったので、私は本丸の中をぐるっと散歩してみることにした。  私が暮らす離れから母屋に繋がる廊下を越えると、他にも誰か起きているのか、わずかに人の気配を感じる。どこからか鍛錬に励む声や足音が聞こえた。  屋内を一通り歩き回った後、誰かが置きっぱなしにしていた草履を履いて庭に降りた。  桜の木が青い葉っぱをつけている。鯉が池で優雅に泳いでいて、よく手入れされた低木の花壇には夏の花が鮮やかに咲いていた。姉はガーデニングを楽しむような情緒ある人間ではない。おそらく刀剣男士の誰かの趣味だろう。神様たちはとても豊かに暮らしている。  本丸の裏手まで足を運ぶと、畑と厩があった。  小さな川がすぐそばに流れていて、何度来ても姉の持つ本丸の敷地の広大さに驚かされる。以前、案内をしてくれたへし切長谷部さんが「この本丸の豊かさこそが主の武勲の象徴です」と誇らしげに教えてくれたのを思い出した。  遮蔽物のないだだっ広い畑の真ん中で、誰かがしゃがんでいるのが見える。私はしばらく、その人をカカシのように棒立ちで眺めていた。すると相手もこちらに気付き、立ち上がる。大きく手を振られたので、私も控えめに振り返した。  畑にいたのは桑名江さんだった。彼は近くにあったバケツを持ち、こっちに近づいてくる。名前の詩集の入ったキャップに長靴を履き、軍手まで装着している。あまりにも畑が似合いすぎていた。 「おはようございます、桑名さん」 「おはよう。珍しいね、こんな時間から畑に来るなんて。どうしたの?」 「目が覚めちゃって、散歩してたんです。畑、見ててもいいですか?」 「うん、ぜひ見ていってよ」  桑名江さんは突然現れた私に嫌な顔一つせず、畑一帯を案内してくれた。畑には、よく食卓に並ぶ野菜から聞きなれない名前の野菜まで、様々な種類の野菜が栽培されている。私の粗末な感想や些細な質問にも、桑名江さんは笑顔で答えてくれた。 「このあたりのナスは春にみんなで植え付けをしたんだ」 「おお……すごい、ちゃんとナスになってる」 「ナスは収穫が遅れると皮が固くなってしまうからね、気を付けないと」  土から出た葉や色づき始めた実を見ながら「この辺りはそろそろ収穫できそうかな」と嬉しそうに話す桑名江さんの顔は、太陽よりも輝いて見えた。  本当に農業が好きなのだろう。重い前髪で目元は見えないが、それを補って余りあるほどに雄弁に、口元が楽しそうな様子を伝えていた。  一通り畑を回ったあと、桑名江さんは「そろそろ朝食の準備の手伝いに行ったほうがいいかなあ」と母屋のほうを見て言った。ポケットに入れていたスマートフォンで時間を確認すると、確かに朝食の時間が近づいている。思ったよりも長い時間畑を見て回っていたようだ。 「あの、桑名江さん」 「なあに?」 「よかったらまた来てもいいですか」 「もちろん。僕は畑当番じゃなくてもなるべく毎朝見に来るようにしてるから、待ってるよ」    そんな桑名江さんの言葉に甘えて、私はそれ以来、早起きをするたびに畑に顔を出すようになった。  毎朝必ずとはいかなかったけれど、早起きが習慣付くと少しずつ体の調子もよくなってくる。気が付けば不眠症だった頃からの癖でつけていたアイマスクなしでも眠れるようになっていた。 心身が整い周囲に目を向ける余裕を持つと、仕事上の付き合いしかなかった刀剣男士を――物のと変わらぬ彼らの名前を、一人ひとり個人として認識するようになった。前職時代は他人に関心を持つ余裕すらなく、自分のことで手いっぱいだったことを思うと、こんな些細な変化ですら喜ばしく感じる。  農業を愛する桑名江さんのように、料理好きの刀、おしゃれ好きの刀、歌って踊ることに憧れを持つ刀。個人差はあるけれど、神様たちは古い時代に生まれた刀でありながら、現代知識へ強い関心を持っていた。分野は元の主の影響や出自、彼らを形作る物語により様々だけれど、馴染みのない文化や知識を楽しそうに吸収していく姿に私は強く感心した。人の身を得て自分の手足で何かをするのが楽しくて仕方がない様子の彼らが、とてもまぶしく見えた。  朝の畑仕事が習慣となって、桑名江さんとの距離は少しずつ縮んでいた。今では畑以外でも声をかけあうし、くだらない世間話もたくさんする仲だ。  正午を過ぎたころ、私は昼食を取るために食堂へとやってきていた。  この本丸には大きな食堂があり、そこで食事をとることができる。ただその席数を刀剣男士の数が上回っているため、各々が予定に合わせて好きな時間に食べに来るシステムになっていた。  刀剣男士たちは皆大食漢で、昼食の支度が出来てすぐの時間はいつも混雑している。そのため、少し遅れたこの時間は人が疎らだった。私のように混雑を避けてゆっくりと食べたい者や、静寂を愛する者、仕事に追われていた者たちが、ぽつぽつと席に着いていた。  担当の刀剣が作ってくれた食事を器によそっていると、後ろから声を掛けられる。桑名江さんだった。今日は非番らしく、見慣れたジャージを脱いだラフな姿だった。 「桑名さんもいまお昼ですか?」 「うん。そういえば、今日のオクラとナスはうちで採れたものなんだよ」 「え、そうなんですか!」 「形は色々だけど、これも味だよね」  桑名さんは天ぷらが盛られた大皿から野菜を選んで自分の皿に盛っていく。それが結構な山になっているので、私はつい二度見した。 「うん? どうかした?」 「いっぱい食べるんだなぁ……って」 「そりゃ、食べなきゃ力が出ないからね。きみは……それで足りるの?」 「はい」 「もっと食べたほうがいいよぉ」  確かに私の皿の天ぷらの山は、桑名江さんの半分にも満たない。成人女性の食事量としては多くはないがそう少なすぎるとも思わないのだが、桑名江さんから見ればおやつみたいな量なのだろう。前髪に覆われて見えないはずの瞳から期待するような視線を感じた。私はそれに押し負けて、菜箸でナスとオクラの天ぷらをそれぞれ1つずつ追加する。桑名江さんはうんうんと頷きながら、満足げに笑った。  流れで桑名江さんと一緒に昼食をとることになり、彼と並んで席に着く。空調が効いているはずの食堂が妙に暑くて、私は麦茶を一気に飲み干した。 「この間の戦の誉の褒美にとらくたーが欲しいって言ったんだけど、さすがに断られちゃった」 「トラクターっていくらするんですか?」 「最低でも20馬力は欲しいから…200万円くらいかな?」 「にひゃ……!?」 「本当は畑の敷地面積も広げたいんだけど」  桑名江さんが「でもこれ以上にするとさすがに軽とらがないと厳しいよね」とブツブツと呟く。畑のことについて夢中で話す彼が微笑ましくて、私はそれを聞くのが好きだった。  彼との話題はもっぱら畑や野菜のことばかりだ。農業の話に興味を持って聞いてくれるのは、私を含めてもそう多くないらしい。大体が「メシ時に土の話するな」と冷たい反応をされることもしばしばあるそうだ。  確かに、畑当番にあたった刀剣男士が「戦するために呼び出されたのに何で土いじったりしなきゃならないんだ」と漏らしているのを見たことがある。刀の神様といっても、得手不得手好き嫌いははそれぞれのようだ。 「そういえば、来週から遠征任務に行くことになったんだ」 「えっ」  食べ終わった桑名江さんがまだ口にご飯の入った私を眺めながら言った。  期間は二週間、編成は桑名江さんのほかに二振り。桑名江さんと話すようになってから、彼がこんなに本丸を離れるのは初めてのことだった。  私の仕事は姉が不得手としている実務のサポートだ。姉は興味を持ったことには天才的な才能を発揮するが、そうでないこと――期日を守るだとかこつこつやるだとか、そういうのが点でだめだ。なので遠征報告書をまとめたりするのは私の仕事だった。彼らの戦いぶりを情報としては知っていても、実際どのようなことをしているのか目の当たりにしたことはなかった。  数字の羅列や結果報告以外で、どんな危険や苦労があるのかを知らない。切った張ったをやるのが彼らの本分だから、全ての任務を無事に終えられる保証などどこにもない。  浮かない表情をする私を見かねてか、桑名江さんは「今回は調査任務だから、危険はないよ」と言った。よほど心配が顔に現れていたのだろうか。私は恥ずかしくなって、平静を取り繕った。 「それなら……安心しました」 「うん。その間、畑を頼んだよ。みんなすぐ畑当番サボるんだから」 「ちゃんとやってるか、見張ってますね」  桑名江さんは「何も夏に遠征に出さなくてもいいのに」とぼやいた。  遠い時代に行ってしまう彼を見送る言葉として、何が適切なのかはわからない。労ったり励ましたりするには、あまりにも私は彼らの働きを知らなすぎる。  私が言えたのは、弱弱しい「待ってます、無事で帰ってきてください」の一言だけだった。桑名江さんはいつも通り穏やかに微笑んで、「お土産に何か野菜か植物の種を持って帰ってくるよ」と言った。こんな時まで頭の中が農業でいっぱいなのが、彼らしいと思った。 *  桑名江さんが本丸を離れてからも、習慣になった早起きをやめる気にはならなかった。  誰もいない畑に出てもやることがなく、素人判断で荒らすわけにもいかない。その結果、早朝の時間を持て余すようになってしまった。  以前の私なら惰眠を貪っていただろうが、しゃんとした空気の本丸ではなんとなくだらだらする気にはなれない。自分で言うのもなんだが、不器用に真面目な性格だ。この時間を何かに活用しなければ気が済まなかった。  最初のうちは雑務を前倒しで済ませたり部屋の片づけをしていたが、それを済ませるといよいよやることがない。仕事を探すうちに、私は台所に顔を出すようになった。  この本丸の食事は歌仙兼定さんを中心としたお料理部隊が支えている。彼は姉が最初に選んだ一振りで、最初期から活躍していた刀剣男士だ。刀の数が増えるまでは戦闘面でも彼を中心として編成していたようだが、本丸の規模が大きくなった今では戦力拡充のために新人教育や後方支援に回ることが多いそうだ。  歌仙兼定さんに半ば押し掛けるように台所の手伝いを申し出ると、最初こそ遠慮されたものの「せっかくついた早起きの習慣を戻したくないのでお願いしますここで働かせてください」と頭を下げれば受け入れてくれた。本丸はとにかく人数が多い上に皆大食いだ。手はいくらあっても足りないようだった。  朝食の準備を手伝うようになって数日。仕上がった書類を提出しに来た私に、姉は険しい顔で声をかけた。 「歌仙があんたのこと心配してたよ」 「心配? なんで?」 「なんか無理してないかって」 「無理? 何が?」  何のことかわからず、私は首を傾げる。この本丸の生活で無理があるなら、前職のうちにとっくに命尽きているはずだ。 「台所手伝ってるんでしょ。オーバーワークしてないか心配してんのよ。歌仙にはあんたのこと色々話してたから」 「えええ、全然! むしろ毎日楽しく手伝ってるけど」  歌仙兼定さんは、私が本丸で働くことになったことを特に歓迎してくれた刀の[[rb:一振り > ひとり]]だ。  姉と二人三脚で本丸を立ち上げ、ここまで大きくした立役者である。雅を愛する文系名刀である彼と確かな才能はあれど大雑把な姉の組み合わせは一見そりが合わないようだが、意外にも相性は悪くないらしい。主に、強行突破が好きなところが。  しかし生活面や実務ではそうはいかず、部屋は散らかす、偏食は酷い、書類の期日は守らない、部屋から出ない、話を聞かない――何かと苦労したそうだ。  それが、私が来てからは多少改善されたのだという。「やはり主も姉だから、きみにいいところを見せたいのだろうね」とのことだが、正直実家にいた頃も大概酷かったので、きっとそれは気のせいだと思うけれど。ただ、姉も人間であるので、一人私という気心の知れた人が増えて気が休まったのかもしれない。  理由はなにあれ、歌仙兼定さんに感謝されたことは私の心の支えとなっていた。当時はまだ、神様との接し方を測りかねていた。前職での心の傷がまだ癒えず、不安な夜には自分の存在意義について無駄に考え込むこともあった。それが歌仙兼定さんの言葉で「ここにいていいんだ」とほっと安心できたのだ。変な遠慮をしなくなったのも、その頃からだ。  歌仙兼定さんは私の前職時代のことを姉に聞かされて知っている。私の文化的とは程遠い生活を知って、嘆き、若干引きながらも胸を痛めてくれていた。  そんな彼に無駄な心配をかけるわけにもいかない。私は桑名江さんと畑であった日のこと、今は彼がいないせいで時間を持て余していることをつぶさに姉に話して聞かせた。それから、もし迷惑でなければせめて彼が戻るまでは手伝いたいとも。 「わかった。迷惑どころか大助かりだとは言ってたから、歌仙には私から話しておく」 「うん、ありがとう」 「それにしても、桑名と随分仲がいいのね」  姉はからかい交じりの口調で腕を組んでにやりと笑う。  これまで、私の口から業務関係以外で刀剣男士の名前が出たことはなかった。ましてや、桑名江さんというのも意外だったのだろう。彼は自分から積極的に他人と関わろうとする社交的な性格ではない。物腰柔らかで人当たりが良くはあるけれど、他人と沢山喋ったり遊んだりするよりは一人で土と向き合うことを好む人だ。 「仲良く……というより、私が付き合ってもらっているだけ」 「ふーん。じゃ、そういうことにしておくわ」  これ以上長居しても姉のオモチャにされるだけだと判断し、私は部屋を出た。  その足へ台所へ向かうと、食事の仕込みをしている歌仙兼定さんがいる。私は姉から歌仙兼定さんに心配をかけていた話をして、お礼と謝罪を言った。彼は逆に杞憂で口出ししたことを詫びたが、その様子から姉や私を気遣ってくれる気持ちが伝わってくる。この人がいたからこの本丸はここまで立派に大きくなったのだと感じた。  台所に顔を出すようになってからというもの、少しずつ他の刀剣男士との交流も増えていた。それも私にとっては喜ばしいことだ。お料理部隊の方は特に配慮深い人が多く、私に対し遠慮がちだった。最も身近な〝人間〟が自由奔放な姉だったばかりに、それと比べて正反対な私を控えめで体の弱い人間だと認識していたらしい。  それがこうして共に作業をする時間が増え、思いのほかタフで暇だと気付いてもらえたのか、今では気軽にちょっとした手伝いや雑用を頼んでもらえる。頼ってもらえることが自分を認めてもらえたように感じて嬉しかった。  時計を見ると、そろそろ畑当番の人が外に出るだろうか。夏場の畑当番はやることが多く大変だ。手伝えることはないかと、気が付くと自然に足がそっちに向かっていた。  現世の夏は野菜がダメになってしまうというほどの酷暑だというが、ここは時空の狭間にある本丸。確かに日差しは厳しいものの、まだ四季の変化を楽しめる程度の暑さだ。眩しさに目を細め、畑を眺めていると、「ちょっといいかな」と声をかけられた。  松井江さんだ。切りそろえた髪と中性的で整った顔立ち、そして華奢な体躯。戦場には見合わない細身で優雅な姿をしているが、彼もまた刀剣男士である。実のところ、口を開けばすぐに血の話をするため王子様みたいな容姿に反して怖い人なのではなんて疑って、少しばかり苦手意識を持っていた。  実務が得意な彼は執務室での仕事によく振り当てられているため仕事の話をする機会はあるが、個人的な会話をしたことはほとんどない。もしやなにか仕事でミスをしてしまったのでは? と身構えた。 「はい、何か」 「農具の予備がどこにあるか知らないかな。壊れてしまって困っているんだ」 「え? あ、あぁ、それなら」  松井江さんは美しいほほえみを湛えたままそう私に尋ねた。彼の手には年季の入った鍬がある。ひとまず仕事のミスの指摘ではなさそうだと私は内心胸を撫でおろした。 「この鍬の持ち手が割れていてね。うっかり血を流してしまいそうだ」 「これは危ないですね。農具ならこっちの倉庫だったと思います」  松井江さんを連れて農具の予備を仕舞ってある倉庫へと向かう。厩の裏手にひっそりと建てられており、畑から遠いため使わなくなった道具とともに仕舞い込まれているのだ。他の頻繁に使う道具は別に置き場所があるため、この倉庫の存在自体知らない人も多いようである。私も桑名江さんのお手伝いをするようになってから知った場所だ。  倉庫の中は埃っぽく、戸を開けると滞留していた空気と共に塵が噴き出して視界が真っ白になった。  幸い目的の鍬は倉庫の手前に置いてあったので、この空気の悪い中を探し回らなくて済んだ。松井江さんの持っていた鍬は修繕すれば使えそうだったので、一旦予備と入れ替えで収納しておくことにする。 「助かったよ。こんなところにあるなんて知らなかった」 「いえ、お役に立てたならよかったです。今日は松井さんが畑当番なんですね」 「正直、気は進まないけど……桑名にしつこく言われたんだ。『ちゃんとやっていたか、土を見ればすぐにわかるからね』……ってね」 「あはは、想像つきます」 「後から口煩く言われても面倒だから」  松井江さんは気怠くため息をつく。そんな様も肖像画になりそうなほど美しい。ジャージを着て、鋤を持っていなければ。しかしこう線が細く見えても、私が両手で抱えて倉庫から引っ張り出した鋤を何のことなさそうに片手で持っているあたり、あんなに華奢に見えてもやはり刀剣男士だ。  畑仕事を手伝うと申し出ると、彼は心底嬉しそうにした。長いまつげが影を落とし、光を反射した瞳がきらきらして宝石みたいだ。炎天下に似合わない白い肌は、陶器のようだった。 「そういえば、桑名と仲良くしているそうだね」 「えっと……そう、ですかね。たまに畑でご一緒させていただいたりはしますけど。あの、桑名江さんから何か聞いたんでしょうか」 「あぁ、最近はよく貴方の話を聞くよ。土いじりに付き合ってくれるのがよほど嬉しいんだろうね。そんなもの好きはこの本丸にはなかなかいないから」 「あはは……。私も元々農業に興味があったわけじゃないんですけどね」  松井江さんと桑名江さんはルームメイトだ。同じ時期に顕現した同じ刀派ということで、ペアにされがちであるらしい。  桑名江さんが私のことを、親しい間柄である松井江さんに話している。それを知っただけで、どんな声色で、どんなことを話しているのか、そんなことまで気になってしまった。  農業にさほど興味のない松井江さんが聞き流す傍ら、もうすぐ収穫を迎える作物の成長と共についで話で語ったのだろうか。私と一緒にいない時でも話題にのぼる程度には、親しいと思ってもらえているんだろうか。  ――桑名江さんは、私をどう思っているんだろう。  無性に彼が恋しくなって、桑名江さんが帰ってくる日を待ち遠しく思った。 「以前、桑名にそんなに畑仕事が好きなら変わってあげようかと言ったら、当番は当番だと突っぱねられたんだ。そのくせ、結局畑仕事をしていてね」 「よっぽど畑が好きなんですね……」  松井江さんの口から出る話のほとんどは、穏やかな口調ながら我が強く主張を譲らない桑名江さんの愚痴だった。早朝、彼の身支度の音で起きるだとか、たまに部屋に土をつけたまま上がってくるとか、当番をエスケープしようとしたら農具を持って追い回されたとか。  私はそれが新鮮で、面白くて、笑い転げそうになりながら聞いていた。身内の前だと素を晒せるのか、松井江さん伝いに聞く桑名江さんはより生き生きとしている。私が桑名江さんの話をすると、松井江さんは「貴方の前だとえらく格好をつけているんだね」と笑った。  それから、少し松井江さん自身の話をしてくれた。彼は血を流し流されることが刀の本分であると考えているようで、色んな意味で桑名江さんとは正反対の人物だ。物騒な言い回しではあるけれど、仲間想いの方だと思った。  桑名江さんの口からは戦の話なんて聞いたことがない。私に話してもわからないからだろうけれど、そのせいでどうしても農業大好きお兄さんのイメージがついてしまっている。刀剣男士なのだから、彼も戦のために本丸に顕現しているのに。それがすごく不思議に思えた。 「明後日には帰ると聞いているけれど、無事帰還できるといいね」 「そうですね。……早く帰ってこないかな」 「ふふ」  陽の光を反射し、野菜がきらきらとしている。大地の声はまだ聞こえないけれど、葉やつるも桑名江さんの帰りを待っているように見えた。土に混じる青っぽいにおいが、今ではこんなに好きになっていた。  翌朝、いつも通り朝食の準備の手伝いに行く前に、何気なく畑へと立ち寄った。  松井江さんと桑名江さんの話をしてから、どうにも彼のことが頭を離れない。できることはないとわかっていても、ついつい彼といつも話す場所へと来てしまった。  誰もいない畑はだだっ広い。私は初めてここで桑名江さんに会った時のことをふと思い出した。  ようやく本丸での生活に慣れてきたところだった。最低限人間の形を保つための生活から逃れて、人よりずっと豊かに暮らす刀剣男士たちと関わるうちに、閉鎖的だった視野が広がっていくのを感じていた。その第一歩が、桑名江さんとの出会いだったと間違いなく言えるだろう。  無性に彼が恋しい。私は畦道を歩いて回った。夏真っ盛り、何にも守られていない頭頂部が焼けそうだ。しゃがんで土を見る。そういえば桑名江さんは土を食べて調べたりしていたな、と思い出した。  ここにいると、何をしていたって桑名江さんとの思い出がよみがえってくる。そう長い時間は経っていないはずなのに、不思議だった。  ふと、頭上から影が落ちた。さっきまで快晴だったのに突然曇り始めたのだろうか、と空を見上げる。頭上には雲の代わりに人影があった。 「畑に出るときは帽子をかぶらないといけないよ……って前に言ったの、もう忘れた?」 「えっ……、え!?」  そこにあるはずのない姿に、私は驚いて尻もちをついた。  桑名江さんは私に自身のキャップをかぶせた後、こちらに腕を伸ばした。その手を取ると、強い力で引き上げられて立たされる。 「くわ、なさん」 「日射病で倒れてしまうからね。ほら水も飲んで」 「す、すみません」  差し出された水筒から喉に水を流し込む。思ったより長い時間日に晒されていたようで、冷えた水が心地いい。  桑名江さんは見慣れたいつものジャージ姿だった。約二週間、失われていた日常が帰ってきたみたいだ。私が昨晩眠りにつく前には、まだ遠征部隊は帰還していなかったはずだけれど、一体いつ帰ってきたのだろう。  不思議で目を白黒とさせる私を桑名江さんは縁側まで導く。そこに腰を下ろすと、縁甲板はひんやりとしていた。 「本当は明後日までかかる予定だったんだけど、どうしても早く帰りたくて。なんとか前倒しで帰って来たんだ」 「そうなんですね。……ご無事でよかったです。おかえりなさい」 「うん、ただいま」  二週間前と何も変わらない桑名江さんだった。それにひどく安心感を覚え、私は自分がどれだけ彼を恋しく思っていたんだろうと実感する。たった二週間のはずが、随分と長く離れていたように感じた。 「いつ帰って来たんですか?」 「昨日の深夜……って言っても、ほぼさっきみたいなものかな。少しだけ仮眠をとったよ。これから主に報告に行くんだけど、その前にどうしてもここに来ておきたかったんだ」 「あはは、桑名さんらしい」 「遠征中、いろんな土地を見て回ったんだけど、やっぱり本丸の畑が気がかりで」  桑名江さんらしい言葉に、私はくすくすと笑う。ふと、こちらを見る桑名江さんの髪の隙間から瞳が覗いた。優しそうな金色の瞳が私を捉えていることに、ドキリとする。つい口を噤み、視線を逸らした。 「そういえば新しい作物を育ててみようと思って、遠征先から苗や種子を持ち帰ったんだ。手伝ってくれるよね」 「もちろんです」  風が吹く。汗が流れた頬が冷やされて心地が良かった。畑に視線をやると、蜃気楼が燻っている。彩度の高い空の青、植物の輝き。どこからか風鈴の音も聞こえる。特別うつくしい夏の朝がそこにあった。  少し畑の様子を見たら台所へ行こうとしていたはずなのに、腰がここから離れてくれそうにない。この景色が愛おしく、彼の隣は居心地が良かった。  私は桑名江さんがいない間の本丸のことを話した。壊れてしまった鋤のこと、松井江さんとたくさん話したこと、朝食の用意を手伝っていたこと。桑名江さんはそれに耳を傾けて、それから遠征中のことを話してくれた。  ぽつり、ぽつりと、お互いの近況を語るこの空間が幸せで堪らなかった。 [newpage]  自覚してしまったら止めようがないものだ。自分にこんなピュアな感情が残っていたことにも驚きながらも、数年ぶりに芽生えた恋心は私の日常を鮮やかに彩った。好きな人と話すだけで幸せなんて、まるで初恋が芽生えた子供みたいだ。  それはそれとして、お互いの関係と立ち位置は十分弁えているつもりだ。そもそも彼は、人間ですらない。神様だ。しかも、姉によって顕現させられており、その本分は戦いである。  浮かれてばかりいられないというのは分かっている。この気持ちを伝えたり、成就させる気持ちは毛頭ない。ここでの仕事は期限も何も決まっていないけれど、いつまで本丸にいられるかもわからないのだ。  だからせめて、実ることのないこの小さな芽をひっそりと大事に守ることだけは、どうか許してほしい。誰に言うでもなく、そう願った。  姉からの呼び出しはいつも気まぐれだ。思い立ったらその瞬間、なんでもやりたいというタイプである。しかし審神者という職業上、何をやるにも政府への申請が必要なので、その手続きのために私が呼び出される。やりたいことはあってもめんどくさい事務処理は絶対やりたくない、というのが姉という生き物なので。  迎えに来てくれたへし切長谷部さんは、私が姉の部屋に入ったのを確認すると恭しく礼をして部屋を離れた。本丸関係のことなら忠臣である彼の耳に入ってもいいはずだが、そうではないのだろうか。胡坐をかいた姉に「どうしたの?」と尋ねると、彼女は頬杖をついたまま気だるげに言った。 「あんた、なんかほしい物とかないわけ?」 「……急に何? お姉ちゃん、まさかなんか悪いことしたんじゃ」 「失礼過ぎるでしょ。そうじゃなくて、ボーナスみたいなもんだと思ってくれたらいいから」 「ええ、なんで?」  素直に喜ぶには姉の提案はあまりにも唐突すぎた。特に何かを貰うほどの功績を成し遂げた覚えはないので、口止めに賄賂でも渡されるのかと身構えたが、どうやらそうではないらしい。  私が姉の不正を疑っていると、姉は「あんた自分の口座見たことある?」と尋ねた。突然また飛躍した話に、私は首を横に振る。 「ないけど……」 「でしょうね、使ってる様子もないし」 「それで、なんで?」 「あたし……っていうか、うちの刀剣たちがあんたにちゃんと褒美やってるのかってうるさくて。ほら、みんな一応お殿様とかに使われてた刀だし? 使える家臣には褒美を出さないとって」 「なるほど……?」 「とにかくそういうわけだから」  身内である姉ではなく刀剣男士の方からの進言ならば、私も無下にするわけにはいかない。  話しながら促され端末から口座残高を確認すると、確かに結構な額が入っていた。前職時代は給料をもらっても使う暇がなく溜まっていく一方だったが、今は時間があっても使う必要性を感じないのだ。生活に必要なものは大体ここにあるし、どこかへ出かけたこともない。出かけないから、服や化粧品を買うこともない。お金の使いどころが存在していなかった。 「[[rb:審神者 > あたし]]らと違って面倒な申請なしで帰れるんだし、欲しいものがないなら現世に帰って旅行でもしてくれば?」 「旅行……でも確かに、現世にはちょっと帰りたいかも。お母さんたちのことが気になるし」 「というか、頼むから休んでよね。政府に目付けられるのはあたしなんだから」 「この仕事って労働基準法とか通じるの?」 「審神者の補佐官はね。あたしたちは……まあ、歴史を守るってそういうことよね」 「…………」  時の政府の闇が一瞬垣間見えたが、藪をつつくのはやめておくことにする。とにかく、これだけ懇願されれば頷くほかない。私は規則をちらつかされると弱かった。  よく考えてみれば、学生時代の友人とも随分疎遠だ。身を案じて時々連絡をくれていたのだが、多忙のあまりなかなか返信できずにいた。もしかしたら今頃安否すら危ぶまれているかもしれない。懐かしむと、急に会いたい気持ちが募った。 「じゃあ分かった。悪いけど、お休みもらうね」 「そうして。その間のことは……まあ、長谷部に頼んどくから」 「…………」  あたしに任せろ、とは嘘でも言わないのが姉らしい。心の中で、私の不在中しわ寄せがいくであろうへし切長谷部さんを労った。  私は丸め込まれるがままに、明日から一週間ほど本丸を離れることになった。随分急な話だったのでやはり不正があるのではと再び疑うと、「休み倍にされたい?」となかなかない角度で圧をかけられたので、おとなしく休ませて貰うことにする。今日はその身支度にあててもいいと言われ、姉の部屋を出た。  確か急ぎの仕事はすべて片付けていたはずだ。ひとまず心配ないとは思うけれど、気になって一度執務室へと向かうことにした。  道中、私の目はいやでもその姿を捉える。桑名江さんだ。後姿を見ただけで胸がどくんと高鳴り、体がそわそわと落ち着かなくなる。前髪を指で整え、身なりを確認する。毎日会っているのにそんなことが気になるのは、恋をしているからだ。 「桑名さん、今日は……どうしたんですか、その恰好」 「うん? ああ、きみかぁ」  私のほうを振り返り、ふわりといつもの柔らかな笑みを向けてくれることが至上の幸福と感じる。私はにやける顔を必死に抑え、平静を装った。  桑名江さんは戦装束に身を包んでいた。今日は確か、彼の出陣はなかったはずだ。出陣記録を眺めていても、彼の名前だけは頭に残ってしまうから間違いない。  その上、なんだか身なりがボロボロだ。まるで取っ組み合いでもしたかのように、衣服や髪が乱れていた。 「蜻蛉切様に手合わせをしていただいていたんだ。きみは?」 「えっと私はお姉ちゃんとこに行った帰りで。あ、そうだ。私、明日からしばらく本丸を留守にするんです」 「そうなの? 随分急な話だね」 「私もそう思います」  ことの経緯を説明すると「休むのも大事なことだからね」と桑名江さんはうんうん頷いた。  降って沸いた休みだが、本丸を離れるとはその間桑名江さんに会えないということだ。急に、喉がきゅっと苦しくなる。  ――桑名さんにしばらく会えなくて寂しいです。  そんな言葉はぐっと喉の奥に飲み込んだ。 「じゃあ新しい苗の植え付けはきみが帰ってきてからかな」 「あっ、そうでした。あの、無理に待たなくてもいいんですよ」 「時期にはまだ少し早いから大丈夫だよ。ゆっくり羽を伸ばしてきてね」 「はい、ありがとうございます」 「今度は僕が待つ番かあ」  その言葉を耳にして、かっと顔が熱くなるのを感じた。まるで、私が桑名江さんの帰りを待ち遠しく思っていたことを見透かされているみたいだ。  彼も、私のいない畑で何かを思ってくれたりするだろうか。少しだけ話し相手がいないことを寂しく思ってはくれないだろうか。しないと決めたはずの期待の炎が、ちらちらと揺らめく。  返す言葉が見つからず、「へへへ」と間抜けな笑みで誤魔化した。  衣服の大部分を実家に置いてきていたため、荷物は思ったよりもコンパクトに纏まった。貴重品と化粧品やスキンケア用品、それからスマホとその充電器。一週間分の荷物は大きめのトートバッグ一つで十分だった。何かあれば買い足せばいいだろう。気楽な旅立ちだった。  最初の二日は両親と過ごし、それ以降は都合のついた友人たちと久々に顔を合わせた。友人たちの第一声はまず生存確認だ。職場の環境が悪いことはすでに知られていたため、過労で倒れたか自ら命を絶ったかとまで思われていた。  友人が私と会ったことをSNSに書き込むと、それを見た別の友人が連絡をくれる。そうして過ごしているうちに、一週間はあっという間に過ぎていった。  現世で過ごす最終日の夜、この日は学生時代の友人が誘えるだけの人を誘って飲み会を開いてくれることになった。地獄みたいな職場の飲み会を除けば、こんな賑やかな場は数年ぶりだ。  顔の広い友人曰く「気にかけていた連中全員に声かけといた」とのことだったので、正式に誰が来るのかは聞かされていない。ずっと連絡をくれていた子もいれば、昔お世話になって疎遠だった先輩もいた。  飲み会が始まって三十分経った頃、店に入ってきたその顔を見て固まる。退職する一年ほど前に別れた元恋人だった。  前職が一番忙しく、そして過酷だった頃だ。当時は自分の置かれた環境が客観的に把握できず、本気でやりがいのある仕事だと思っていた。だから結婚して仕事を辞めてくれと懇願する彼を邪険に扱い、大喧嘩になり、酷い別れ方をしてしまった。二度と会うことはないだろうと思っていたが、まさか再会することになるなんて。  どう話せばいいんだろう。まだ怒っているだろうか。縋るようにグラスを両手で握ると、結露が私の手を濡らした。  私の対面に座った元カレは、私の顔を見て安堵したような顔でほっと笑った。 「……久しぶり。急にごめん、俺が来ること知らなかったよな」 「うん。びっくりした」 「内緒にしてくれって頼んだんだ。先に知ってたら断られるかもしれないし。……その、謝りたくて」  隣に座っていた友人は空気を読んで別卓へと移ってしまった。私は元カレとふたり、四人用のテーブルに取り残される。  冷静でないまま別れてしまったことが気がかりだったのは、私も同じだ。言い方は一方的だったけれど、当時の彼は私を心配して職場から引き剥がそうとしてくれていただけなのに。  あのまま彼と結婚していれば、倒れることはなかっただろう。そして――こうして今、本丸で働くこともなかっただろう。 「悪かった。お前のこと考えて言ってるつもりだったけど、俺の考えばっかり押し付けて」 「私の方こそ、余裕なくて酷いこと言った」  近況を訊ねられ本丸のことをぼかしながら今は前職を辞めて幸せに暮らしていると話すと、彼はほっと安心した様子だった。酒が進むと少しずつ気が緩んでくる。別れた時の険悪なムードが嘘のように昔話に花を咲かせた。  すっかり弛緩した空気の中、時間を確認しようと卓上のスマホに手を伸ばす。すると、元カレはそれを制するように私の手を握った。 「あのさ、また会えないかな。今度は二人で。もっとちゃんと……話したい」  真剣な視線なまなざしだった。浮かんだ感情は、緊張と困惑である。  彼への未練はない。けれど、懐かしい話をして心が少しだけ惹かれたのは事実だった。今やり直せば、今度はうまくいくだろうか。そんな考えを一瞬巡らせてしまうほどに。  桑名江さんへの恋心が実ることはないということも背中を押した。真っ当に生きるつもりならば、神様に恋焦がれたまま朽ち果てるより彼と一緒にいるべきだ。今はよくても、いつかきっと苦しむことになる。恋心が執着に変質してしまう前に捨て去ったほうがいい。そう理解できる程度には、私は年を重ねている。  返事に迷う。握られた手が少しだけ痛かった。  私が「あの」だの「えっと」だのつぶやいて時間を稼いでいると、誰かが私と彼を遮るようにテーブルに手を付いた。自然と私たちはその人物を見上げ、驚きのあまり大きく目を見開いた。元カレはきょとんとして、「え、誰?」と漏らす。  それもそのはず。その場にいたのは私たちの共通の友人ではなく、ここにいるはずのない桑名江さんだった。 「ごめんね、遅かったから迎えに来たよ」 「えっーと……どちらさま?」 「くわ、なさん」 「知り合い?」  元カレに説明する間もなく、桑名江さんはそばにあったトートバッグを掴んで肩にかけ、私の手を取った。困惑する元カレが何か言おうとして口をぱくぱくと開閉する。  状況が飲み込めない私、そして友人たちをまるで気にしていないかのように、桑名江さんは「お姉さんが心配してたよ」とマイペースに宣う。時計を見ると、姉に帰る予定だと伝えた時間を一時間は過ぎていた。  幹事をしてくれた友人に挨拶をして財布を出そうとすれば、それを押し込めて店から追い出される。察しが良くて気を使える彼女だったので、何かを感じ取ったらしくぐっと親指を立てられ恥ずかしくなった。  慌ただしくも、友人たちに手を振りながら店を出る。扉が閉まる前、元カレと目が合った気がした。  桑名江さんは私の手を取って、繁華街を歩いていった。初めて来た場所だろうに、キャッチや酔っぱらいを掻き分け迷うことなく進んでいく。  彼の背中を追っていて気が付いたことだが、桑名江さんは現世を歩いていても違和感のない洋服に身を包んでいた。こうして歩いていると、普通の人となにも違わないように見える。刀の神様だなんて、きっと誰も気付かない。 「あの、桑名さん」 「さっきのは友達?」 「え? はい、まあ」 「そっか。会えてよかったね」 「……はい」 「こっちだよ」  前髪で視線は遮られているのはいつものことなのに、いつも以上に目が合わないような気がする。わざわざ迎えに来てもらってしまって、手間をかけさせたことを怒っているんだろうか。感情の読めない彼の表情に、そんな心配までしてしまう。  桑名江さんに促されるままについていくと、薄暗い路地裏へと辿り着いた。彼は看板のない扉を開けて、その先に進んでいく。何枚かドアを潜ると、さっきまでの雑然とした繁華街が嘘のように白くて清潔な部屋が広がっており、一目で時の政府の管轄施設だと分かった。 「ここは?」 「審神者や刀剣男士が使える転移ハッチだよ。色んな所にあるから、わざわざ施設に戻らなくても本丸へと帰れるんだ」 「そんなものがあるんですね」 「こっちへ来て」  桑名江さんは壁にある操作パネルに何度か触れると、円柱型の機械へと私を連れて入る。二人くらいなら余裕で入れそうなサイズのそれは、内側に入ると青い光が点滅していた。私が現世へやってきたときに使った転移ゲートと同じ色だと気付いた。  口をぽかんと開けたまま物珍しさにハッチの中を見回していると、桑名江さんが急に私の腰に腕を回した。ぐっと近づいた距離に驚く余り声を上げる隙もなく、耳もとで「ごめんね、すぐ着くから」と囁かれる。優しいその声色が、頭の中で反響した。  電子音と共に転移が始まった。それをかき消す程に心臓の鼓動がうるさい。血液を流れる音が、耳元でざわざわと聞こえる気さえする。これはお酒を飲んでいるからで、と聞かれてもない言い訳を心の中で繰り返した。すぐそばにある桑名江さんの顔を見る勇気は、持ち合わせていなかった。  しばらくすると電子音が小さくなり、青白い光が消えて代わりに扉が開く。ハッチから出ると、そこはいつもの本丸の転移ゲートだった。  桑名江さんの腕から逃れ、私は彼が持ってくれていた荷物をひったくる。これ以上くっついていたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。 「じゃ、じゃあ私は姉のとこへ行ってきますので! おやすみなさい!」 「うん、おやすみ」  完全に調子が変になった私を特に気にせず、桑名江さんは見送ってくれた。首まで真っ赤な私に彼が気付かないはずはないというのに。  どたどたと廊下を走り、姉の部屋の扉をノックもせずに開ける。部屋の中で、一城の主らしからぬだらしない姿で姉はスマホゲームをしながら寝転んでいた。 「お姉ちゃん、ごめん今帰った」 「あれ? 早かったね」  姉はアザラシみたいに転がりながら体を起こし、私に座るよう促した。 「桑名さんがお姉ちゃんが心配してるって言うから。ごめんね、時間見てなくて……」 「心配? あたしが?」  姉の反応は予想外のものだった。何言ってんの? と訝しまれ、不思議に思いながら桑名江さんが迎えに来た時のことを話す。てっきり、予定通りに帰ってこないから不測の事態を案じて心配かけているかと思っていたのだが、姉にその様子はない。 「心配って……それあたしがじゃなくて桑名がでしょ」 「桑名さんが?」 「いつ帰ってくるのって言われたからそんな気になるなら迎えに行けば? って現世に飛ぶ許可だして座標渡したの。帰ってくるの明日の朝でいいって言ったんだけどなぁ」 「えっ、お、お姉ちゃん」  桑名江さんと密着していた時のように、心臓が激しく脈打つ。姉はにやにやしながら、悪い冗談みたいなことを言った。からかっているならさっさとネタばらしをしてくれ、そうでもしないと妙な勘違いをしてしまう。そう懇願したかった。 「あのさ、あたしが時間守らなくて怒る人間に見えるわけ?」 「見えない」 「それは即答なんだ」  顔だけでなく、首までが燃えているように熱い。畳を睨んで、顔は上げられそうにない。  とにかく、姉に心配をかけていないことが分かれば十分だった。これ以上姉に無様を晒したくなくて、まだ何か言いかけている姉を無視して部屋を出る。力いっぱい締めたふすまがスパンと小気味いい音を立て、その奥から笑い声が聞こえた。妹の醜態を面白コンテンツだと思い込んでいる人でなしの笑い方だった。  部屋の外、すぐそばで控えていたへし切長谷部さんと目が合う。彼は穏やかに、作り物みたいな顔で美しい笑顔を浮かべた。妙にキラキラしている。私は会釈の振りをして、顔を下にそむけて走って逃げた。 *  目を覚ました瞬間に、寝坊したのだとわかった。もう本丸で暮らすほとんどが起きだしている時間なのだろう。外が妙に騒々しい。スマホで時間を確認すると、八時を既に回っていた。  自堕落とは言わないまでも、実家暮らしは良くも悪くものんびりとしていた。早朝に目を覚ましても、スマホをいじるくらいしかやることがないのである。生活リズムを崩さない程度に自由な時間に寝起きしていた弊害だ。私は急いで身支度を整え、食堂へと向かった。 「おはよう」 「お……はようございます」  食堂に着くと、すでに朝食を食べ始めている桑名江さんがいた。すぐそばには豊前江さん、村雲江さん、五月雨江さんの姿もある。元気に手を振ってくれた豊前江さんの向かいで、味噌汁を啜る村雲江さんの目が露骨に泳いだ。あまり親しくない相手と食事を共にするプレッシャーはよくわかる。  仲間内に混ざるのが気が引けて別の席に着こうときょろきょろしていると、お米をかきこんだ豊前江さんが「俺もう食い終わっからよ、ここ座んな」と桑名江さんの隣の席を開けた。  気遣っていくれているんだろうけれど、人見知りの村雲江さんのことを思うと席に着きづらい。いやでも、この状況で断るのは。困惑していると、豊前江さんが不思議そうに「どーした?」と声をかけてくれた。 「お邪魔じゃないですか?」 「んなことねえって! なぁ、雨、雲」 「はい。どうぞお座りください」 「雨さんが言うなら……」  ここまできたら別の席で一人で食べます、というのも変な話だ。村雲江さんに申し訳なく思いながらも、私は桑名江さんの隣に座って、朝食を食べ始めた。  実家の料理も美味しかったけれど、本丸のお料理部隊の料理はまた違った良さがある。味噌汁を啜れば、現世の味付けの濃い料理に慣れた私の舌に深いダシのうまみが広がった。刀剣男士は体が資本であるから、当然栄養バランスも考えられているのだろう。ここで暮らせば誰だって健康になれそうだ。 「今朝は寝坊しちゃった?」 「あはは……実家でダラダラしすぎたみたいで」 「そっかぁ、ゆっくりできたならよかったよ」  なんとなく目を合わせられずにいた桑名江さんがこちらを覗き込む。今朝畑に行かなかったことを言っているのだろう。彼の皿を見ると、ほとんど食べ終わっていた。味噌汁が少し残っているだけで、茶碗にはご飯粒一つすらついていない。  向かいの席では、お腹が痛いと言い出した村雲江さんを五月雨江さんが慰めている。やはり私、邪魔なのでは? そう思いながら少しでも早く去ろうと、ぱくぱく朝食を食べ進める。そういえば実家ではあまり朝食を食べていなかったから、朝からこんなに食べるのは久しぶりだった。  いつもより少し遅い朝食は、穏やかに過ぎていく。昨夜のことが気にかかったが、とても訊ねられそうにない空気だ。 「そういえば植え付けの話だけど、明日はどうかな」 「あっ、そうですね。はい、大丈夫です」 「よかったぁ」  桑名江さんは遠征から持ち帰った苗の植え付けが楽しみで仕方ないようだ。生育についてや収穫プランを笑顔で語っている。五月雨江さんは村雲江さんの背中をさすりながら「なるほど、季語ですね」と言っていた。  ……もしかして、迎えに来てくれたのって畑仕事要員がなかなか帰ってこなかったからじゃないよね?  そんな考えが頭を擡げた。いや、ない話ではない。全然あり得る。なんせ、三度の飯より農業の桑名江さんだ。口を開けば土、草、野菜の話である。飲み会、元カレ、夜の街――シチュエーションが色っぽく見せただけで、メロドラマみたいな話とは限らない。  勝手に浮かれていた自分が恥ずかしくなって、私は誤魔化すようにご飯をかきこんだ。  一週間ぶりに入った執務室は修羅場と化していた。  机の上は書類の山で埋まっている。その間で博多藤四郎が目を充血させながら電卓を叩いていた。奥に人が倒れていると思ったら、仮眠中のへし切長谷部さんである。姉の前では折り目正しい執事のような彼が、くちゃくちゃの雑巾みたいになっていた。  そんな光景に戦々恐々とし挨拶できずにいると、電子端末を睨んでいた松井江さんがこちらに気付き、顔を上げた。 「きみか。昨日帰って来たんだっけ。早速だけど……お願いできるかな。正直、全然手が回っていないんだ」 「は、はい。……あの、何かあったんですか? 「主が思い付きで厩ん増設ばしたいって言いだしたたい」  代わりに答えたのは博多藤四郎さんだった。ずり落ちた眼鏡を直しながら予算がぁ、呻いている。また姉が無茶な希望を出したのだろう。  姉は突拍子もなく、思い付きで本丸の施設を増強したがる悪癖がある。実家にいた頃は急に高価で場所の取る家電を買ってくるとかで済んでいたが、本丸となればそう簡単な話ではなくなる。その上素早く、どこよりもハイグレードにと言い出すので、事務処理側は堪ったものではない。業者の選定から見積もりから何まで人任せである。本丸が時の狭間にあるからといって、何から何まで霊力でできるとは限らないのに。 「とにかく、それを最優先でって言われたものだから他の仕事に手が回っていなくて」 「なるほど……」  厩関連は私が留守にしている間にかかりきりになっていたので、ほとんど終わっているそうだ。残ったのはそれにとられた時間で押し出された日々定期で発生する事務仕事たちである。「長谷部、そろそろ起きれ」と博多藤四郎さんに叩き起こされたへし切長谷部さんのうめき声を聞きながら、私は気合を入れ直し席に着いた。  数時間後、ようやく一段落着いたところで背中をぐっと伸ばす。ごきごき、と体の節々から鈍い音が鳴った。  時計を見ると、もう随分前に昼を回っている。博多藤四郎さんが昼食をとりに執務室を出ていったところまでは覚えているのだが、仕事に集中するあまり時間を忘れていたみたいだ。  いつの間にか執務室にへし切長谷部さんの姿もなく、松井江さんと二人きりになっていた。松井江さんも同じく仕事のきりがいいところのようで、息を吐いて首を回し「血の巡りが悪いな」とぼやいている。 「お腹空きましたね」 「そうだね、僕たちも食堂へ行こうか」 「はい。まだ残ってるかなぁ。……あれ? お姉ちゃんからだ」  食堂へ行こうと席を立つと、ポケットのスマホが振動した。部屋にいるはずの姉からの着信だ。一応同じ建物にいるんだから来てくれればいいのにな……と思いながら、応答ボタンを押した。 「もしもし、あんた今暇? 近くに誰かいる?」 「溜まってた仕事が一段落着いたところだけど……なに? 松井さんといるよ」 「そう。じゃあ今すぐ現世へ行って」  今からお昼食べるんだけど、と文句の一つでも言おうとしたところに、姉が鋭い口調で言う。通話内容を隣で聞いていた松井江さんの表情が一瞬で強張った。  緊張感の張りつめた声が、嫌でも緊急事態を予想させる。 「……何かあったの?」 「座標は松井に送るから今すぐ飛んで。その場所にあるひらいしんって店に五年前のアニバーサリーイベントで一〇〇体限定販売されたフィギュアが入荷したって告知があって」 「ちょっと待って」  緊張から手汗で滑るスマホを両手で握りなおしたところに、思いもよらぬ単語が耳に入り話を止めた。警戒に目つきを鋭くした松井江さんの美しい眉がひくりと吊り上がる。  ――アニバーサリーイベント? 百体限定? フィギュア?  戦とは何ら一切無関係な言葉の並びに拍子抜けだ。 「何、急いでるんだけどコッチは」 「フィギュア? フィギュアって言った? 今」 「そうよ。政府に頼んでたらその前に買われちゃうし、あたしが出るには申請に時間がかかりすぎる。今すぐ買ってきて。大至急。最重要。」 「そんなことのために……。いや、うん……わかった」  姉と通話を切断し、松井江さんと目を見合わせる。お互い言いたいことは色々あったが、胸中は同じなのだろう。言葉は不要であった。  彼も彼でこういうのは慣れっこらしく、呆れたため息を吐いてから「行こうか、少し支度を整えてくるよ」と部屋を出た。私も同じように自室へ戻り、外に出られるような格好に着替える。  まさかこんなにすぐにまた現世に戻ることになろうとは。しかも、こんなくだらない理由で。  転送ゲート前で待ち合わせた松井江さんは洋服に身を包んでいた。グレーのジャケットセットアップが彼の細身な身体を引き立てている。スタイルが良くてモデルさんみたいだ。まじまじと眺める私に彼は嫌な顔一つせず、「どうかしたかな?」と首を傾げた。 「あ、いや……その、似合ってますね。素敵です。」 「ありがとう。これでも、身に付けるものにはうるさい方でね」  松井江さんが転移ゲートのパネルに触れ、一緒にその前に立つ。青白く光り始めたそれを見て私が「すみません」と小さな声で断りを入れながら彼の細い腰に腕を回すと、松井江さんは驚いた様子でこちらを見下ろした。 「もしかして、転送が怖いのかな?」 「怖くは……えっ?」  何か間違えただろうか。私は申し訳なくなって、松井江さんと適切な距離を置いた。  確か桑名江さんの時は、こうしてくっつくように言われた、ような。言われたんだっけ? あの時は少し酔っていたから、記憶が定かではない。ただこの空気から察するに、私の行動が松井江さんにとっておかしいものだというのは確かだった。 「あの、えっと、これは、時の政府指定ゲートじゃなくて刀剣男士の方を介して移動するときはくっついていないとだめなのかと思ってて、その」 「主からそう聞いたの?」 「いえ、桑名さんが」 「……桑名から?」  とにかく他意はなくてと慌てふためきながら必死に伝える私を前に、松井江さんは顎に手を当て、考えるような仕草をした。転送ゲートはこちらを催促するように光を点滅させている。気まずい時間が続き、いたたまれなくなった。  審神者補佐官の労働環境には指導が入ると言っていたけれど、果たしてセクハラの場合はどうなるんだろうか。それも、対刀剣男士の場合は。 「離れすぎていてはいけないけれど、抱きしめる必要はないよ」 「そうなんですか!?」 「主が歌仙兼定に抱き着いているところ、想像できる?」  言われるがまま、歌仙兼定さんと姉の姿を想像する。反抗期の娘とその父親のような掛け合いばかりをしている二人だから、抱き合ってくっついているのはちっとも想像がつかない。身内としては、あまりイメージしたくない光景だった。 「どうする? そうしてほしいなら、体を抱いておこうか」 「けけけ、結構です! すみません!!」 「顔が赤いよ。血の巡りがよくなっているんだね」  一方的に気まずい気持ちを抱えたまま、私たちは現世へと転送された。  指定された店は古い店の立ち並ぶ電気街の一角にあった。色褪せた看板には、消えかけの文字で『ホビー・フィギュア』と書かれている。店頭のショーウィンドウには姉から送られてきたフィギュアの実物が飾られており、私から見ればただのおもちゃのお人形だが、分かる人にとってはとんでもないプレミア品らしく結構な値段がつけられていた。  こんなことのために国家機密レベルの技術と神様である刀剣男士を使って罰が当たらないのだろうか。しかし、これを逃せば姉が歴史修正主義者に堕ちかねない。審神者一人の裏切りを防げたなら安いものかと思うことにした。  無事任務をこなせたことに安堵すると同時に、猛烈な空腹感に襲われた。昼食を食べそびれたままもう三時を回ってしまっている。  姉に無事フィギュアをゲットしたことを報告すると、電話越しの狂喜乱舞の後に「せっかくだし二人で飯でも食ってきな」と言われたので、それに甘えることにした。 「松井江さん、何か食べたいものはありますか」 「栄養があればなんでも。血を作るために必要だからね」 「血……」  松井江さんの言葉が頭に残った結果、私たちはちょっといい焼肉屋さんに入った。  本丸では準備が大変で、なかなか焼肉パーティーを開催するのは難しい。設備もそうだが、用意する肉のことを考えるとあまり想像もしたくなかった。いくらあっても足りないに違いない。  あまり焼き肉のイメージのない松井江さんが気に入るかどうかと不安だったが、彼は思いのほか喜んでくれていた。細い体のどこに入るのか、頼みすぎたつもりの量があっという間に彼の胃の中だ。食べてる最中、ずっと血と赤色の話をしていたのは怖かったけれど。  松井江さんとの遅いランチの後、少しだけ街をぶらつく。何気なく目に留まった和菓子屋でフルーツ大福をいくつか買い、本丸へと戻ることにした。  本丸へ戻ると、ちょうど出陣部隊が帰城したばかりのようだった。戦帰りの特有の硝煙のにおいが立ち込めている。どうやら無事に時間遡行軍を制圧出来たようで、目立ったけが人も見えない。  私の目は自然に、桑名江さんを探していた。それを見透かしたように、松井江さんが彼の名前を呼ぶ。松井江さんが兄弟刀である桑名江さんを気にかけるのは自然なことなのに、そんなことにも気まずさを感じてしまうのは自意識過剰が過ぎるのだろう。  振り返った桑名江さんは、私の後ろにいた松井江さんと私を物珍し気に交互に見た。 「あ、桑名さん。お帰りなさい。お怪我は」 「ないよ。全員無事。それより、二人はお出かけしてたの?」 「はい、お姉ちゃんのお使いです」  松井江さんが手にしていたビニール袋を持ち上げる。箱のサイズ感とうっすら透ける文字から、中身を察したらしい。合点した様子の桑名江さんが「こっちは?」とフルーツ大福の入った紙袋を覗き込んだ。 「フルーツ大福だよ。数に限りがあるから出陣部隊に配ろうか」 「果物が入っている大福だね。楽しみだなぁ、何があるの?」 「みかんといちごとキウイと、ぶどうもあったかな」 「へえ! 楽しみだ」 「私、お姉ちゃんにお使いのもの渡してきますね」 「ああ。よろしく頼むね」   存外お土産を喜んでもらえたことに嬉しく思いながら、松井江さんと桑名江さんと別れ、姉の部屋へと向かう。ふと、振り返ると、二人はまだ何か話しているようだった。遠くから「これもうちでつくりたいね」「まだ畑を増やすつもりか」と聞こえて、くすくすと笑った。 [newpage]  季節は移ろい、朝夕はすっかり涼しくなった。日も短くなり、乾燥した空気と落葉樹の色が秋の訪れを告げる。  桑名江さんは畑仕事に忙しくしており、収穫や新たな作物の種まきなど、毎日楽しげだ。私はというとこの夏を乗り越え体力がついてきたのか、以前と比べ疲れを感じにくくなったようだ。本丸へ来る前は無気力で休みの日はベッドの上で一日過ごしていたのが嘘のようである。  畑仕事を終え縁側に座っていると、夕日を背にした桑名江さんがこちらへとやってきた。顔に土をつけた彼は収穫したばかりの作物がいっぱい入ったかごを手に、幸せそうである。そんな彼を見て、私も頬が緩んだ。 「桑名さん、ほっぺに土ついてます」 「ええ、どこ?」 「ここ」 「うーん、とってくれる?」  縁側に座った桑名江さんは差し出すように顔を寄せた。私は恐る恐る、軍手を外して彼の頬に触れる。親指で軽く擦ると、固まった土がはらはらと地面に落ちた。  夕食の準備が始まったのか、どこからか美味しそうな香りが漂ってくる。最近は畑で収穫された採れたての野菜が食卓に並ぶことも多く、それがひと際楽しみでもあった。 「そういえば、明日って何か予定ある?」 「明日ですか? うーん、姉からは何も言われてないのでお昼には仕事終わると思いますけど……。あ、畑のお手伝いですか?」 「ううん。じゃあ、でぇとしようよ」 「あーデートですか! いいで……え!?」  さらりと放たれた言葉を受け流しそうになり、同様のあまり上体を仰け反り、縁側に倒れこんだ。ぶつかった後頭部がごちんと鈍い音を立て痛みが広がる。桑名江さんが「大丈夫?」と覗き込み、さらりと流れた前髪の隙間からほんの少しだけ瞳が見えた。 「す、すみませんびっくりして……。なんでしたっけ?」 「でぇとだけど」 「聞き間違えじゃなかった」  上半身を起こして座り直し、なんとなく緊張して膝の上でこぶしを揃えた。  ちらちらと桑名江さんの様子を伺う私に何を勘違いしたのか、桑名江さんは「大丈夫、主には許可取ってるからね」と一言添える。違う、そうじゃない。そうじゃないんだけど。 「ち、ちなみにどちらに?」 「梔子街はどうかな。僕もあんまり行ったことないんだけど」 「そうなんですか?」 「うん、大体のものは僕が作れるから、買い物に行くことはあんまりないね」  梔子街は時の政府が時間遡行軍との争いにかかわる者たちの娯楽のために作った町のひとつだ。万屋もここにあり、常に審神者や刀剣男士で賑わっている。現世へ戻るのに煩雑な手続きが必要な審神者が息抜きをするための場所で、小規模な娯楽施設もあるという。  とはいえ買い物だけなら通販があるため、出不精の姉が出かけることはほとんどない。私も存在こそ知っていれど行ったことがなかったため、以前から興味を持っていた。 「どうかな」 「行ってみたいです!」 「よかった。じゃあ明日、支度が出来たら部屋まで迎えに行くね」 「はい!」  デート、デートって。この響きもなんだか懐かしい。私の心では祝宴のダンスが繰り広げられていた。先日帰省した時に何着かお気に入りの服や化粧品を持ち帰っていた心の底から過去の自分を褒めたたえたい。何せ、デートなのだ。デート、デート……。  浮かれる私を置いて、あっという間に夜は更けていく。結局私は、ろくに眠れないまま翌日を迎えてしまった。  てっきり時代劇のような古風めいた街並みを想像していた私は、梔子街に降り立って驚いた。思ったより現代風な――というより、現世ですと言われて連れてこられたら信じてしまいそうなくらい馴染みのある風景だ。人通りも多く、刀剣男士が帯刀していることを除けば普通の町だった。  しかしよく見ると、ピンポイントに審神者や刀剣男士向けの商品が売られているようである。ペットショップに五虎退のトラのおやつが置かれていたり、油揚げ専門店なんてニッチな店が建っていた。 「はぐれないでね」 「は、はい」  町を眺めていると、コスメを取り扱うバラエティショップが目についた。SNSで見かけた売り切り続出で入手困難なバズコスメが普通に売っている。  そういえばここ半年、新しい化粧品とか買ってなかったな。視線に気づいた桑名江さんが「気になる? 入ろうか」と言うので、お言葉に甘えて店頭に立ち寄った。店の中には審神者らしき女性数名と、刀剣男士の姿もちらほらあった。 「あ、これかわいい」 「へぇ、きらきらだね」  私が手の甲に塗り広げたアイシャドウを後ろから覗き込むようにして桑名江さんがまじまじと眺める。手を動かすと偏光多色ラメがちらちらと輝いていた。  前職時代は仕事以外化粧をすることがなかったので、職場につけていけるニュートラルカラーのアイシャドウをなくなったときに買うばかりだった。コスメを見て心がときめくなんて、いつぶりだろう。  一つ見るとあれもこれも試したくなって目移りする。一人ならいざ知らず、今は〝デート〟だ。私は桑名江さんの方を振り返った。 「すみません、桑名さん。退屈させちゃうかもしれないです」 「そんなことないよぉ。化粧には疎いからね。こんな機会なきゃ見ることもないし、楽しいよ」 「えぇ、無理させてないですか?」 「うん。女の子ってこんなのが好きなんやぁって」  私ははたと気付く。もしかして、以前私への褒美を進言してくれた刀剣男士のように桑名江さんも彼なりに気を使ってくれていたりするのだろうか?  ここ最近は特に、畑に出ている時間も長い。私は楽しんでいるけれど、申し訳ないと思われているのかもしれない。だったら遠慮なく楽しんだほうがいいんじゃないか。私はそう心を決めて、桑名江さんを見上げて声をかけた。 「あっちのお店も見ていいですか?」 「うん、もちろん。行こうか」 「これ、サツマイモみたいだね」とモーブカラーのパレットを桑名江さんが手に取る。彼も彼なりに、楽しんでくれているみたいだ。  見て回るうちについ楽しくなりすぎてしまい、気が付けば結構な時間桑名江さんを連れまわしていた。はしゃいでいるうちに時を忘れ、桑名江さんに「そろそろどこかで休もうか」と声を掛けられるまで歩き通しだった。久々にヒールを履いて歩いたものだから、気が付けば疲労がたまってふくらはぎがパンパンになっていた。 「……すみません、荷物まで持ってもらっちゃって」 「いいよぉ。でぇと、だもんね」 「…………」  目についたカフェに入り一息ついていると、さすがに甘えすぎてしまったと後悔が募る。散々連れまわした挙句、桑名江さんの腕には紙袋がいくつかかかっていた。彼にしては珍しく『でぇと』と茶化すような口調で言われ、私は身を縮こまらせた。  桑名江さんは疲れた様子もなく、カフェの秋季限定かぼちゃプリンに舌鼓を打ち、「これ美味しいね、うちでもつくれないかなあ」とのんきに言っている。  意を決して、私はずっと気になったことを彼に訊ねた。 「あの、どうして今日は誘ってくれたんですか?」 「どうしてって……僕がでぇとしてみたかったから」  衒いのない返事だった。気を遣わせまいとしているのか、本意なのか。はたまたただの好奇心か。桑名江さんの些細な一言に、私の心はこんなにもかき乱されてしまう。  期待をしないと決めたはずなのに。最初から実らないとわかっていたのに、太陽のような彼の温もりが恋心をここまで育ててしまった。それでも突き放せずにいたのは私の弱さだ。桑名江さんと過ごす時間がいとおしくて、少しでも一緒にいたくて、人間として最低限形状を保つことに必死だった私をここまで笑顔にしてくれた人から離れることなんて出来なかった。  深く考え込んだ私を見つめる桑名江さんがスプーンを置いた。彼の答えが私にとって不服だと思ったのだろう。桑名江さんは言葉を続ける。 「……前に主のお使いで松井と現世に行ったのを覚えてる?」 「はい、そんなこともありましたね」 「松井から話を聞いて、いいなぁって思ったんだ」  ずるい言い方をする人だと思った。はっきりと気持ちを伝えているようでいて、核心には触れない。そんな捉え方をしてしまうのは、私が彼に好意を寄せているからだ。彼は、お出かけをうらやましいって思ってくれた。そう伝えているだけなのに。  私はそれ以上、深堀するのをやめた。根を腐らせて、実らない花を枯らせるのは嫌だった。美しい花を愛でるなら、美しい以上を求めるべきではない。  複雑な心中を笑顔で覆い隠して、私は桑名江さんにお礼を言った。 *    今でこそ台所や畑などを手伝うようにもなったが、私の主な仕事場所は執務室だ。その日も松井江さんと二人、机に向かっていた。  本人が自負する通り、実務に長けた松井江さんとは一緒にこの場所で仕事をすることが多い。姉のお使いに行ったことをきっかけに、彼との距離も縮まったように思う。血の話ばっかりしているという第一印象が覆ることはなかったが、そこに目を瞑れば物腰柔らかで紳士的な人物だ。気遣いも行き届いているし、仕事仲間として非常に付き合いやすかった。  長期遠征部隊の報告書をまとめていると、がらりと扉が開いた。豊前江さんだ。 「松、ちょっといいか? 今日の宴のことなんだけどよ」  松井江さんが席を立ち、扉の前で話している。聞き耳を立てずとも会話は私の耳に届いた。今夜開かれる酒宴の準備を豊前江さんが担当しているらしい。この距離とはいえ、盗み聞きされたら気分が悪いだろうと聞いてないふりをしてと仕事に打ち込んでいると、豊前江さんが私の名前を呼んだ。 「はい、なんでしょうか?」 「よかったらあんたもどうだ?」 「長期遠征部隊の帰還を労って宴会を開くことになっているんだ。まぁ、宴会と言ってもただ飲みたい者が集まるだけなんだけれど」 「お誘いは嬉しいですけど……お邪魔じゃないですか?」 「まさか。好きな時に来て好きな時に帰る集いだから、肩肘張る必要はないよ」  刀剣男士たちが度々酒宴を開いているのは知っていた。酒好きの男士も多く、この本丸ではある程度の予算が下りるのでこういった催しは盛んに開催されている。大広間から聞こえる楽し気な声を聞いては気になってはいたものの、私のような者が混ざっていいものだろうか。  長期遠征部隊は私が本丸へやってきてすぐに本丸を出てしまったため、ほぼ面識がない。親睦を深める意味でも顔を出してみたいが、私の立場は上司の親族でもある。気の許せる仲間との飲み会に水を差したくはなかった。  が、こうして誘われる機会も早々ない。それも、話を聞くに今回はとりわけ大きな集まりになるみたいだ。  考えた末、私は松井江さんのご厚意に甘えることにした。  宵。いつもなら部屋で過ごすこの時間に、私はそろりと部屋を出た。  酒宴が行われている大広間は、近づくだけで賑やかな声が聞こえてくる。少し遅い時間に来たつもりだったが、結構な大人数が参加しているようだ。中を覗けば、雰囲気は大規模な宅飲みみたいだった。ぐでんぐでんになったマッチョが床に落ちている。なかなか見ることのない光景に、正直圧倒された。  あんまり騒がしかったため、桑名江さんが襖から顔を出してきょろきょろする私に気付いてくれなければ、怖気づいて帰っていたかもしれない。松井江さんからすでに私の話を聞いていたのか、彼は「待ってたよ」と声をかけてくれた。  大広間の端では、燭台切光忠さんが本業さながらの出で立ちでバーテンダーをやっていた。あまりにも似合いすぎている。よく見ると服もそれらしいものを設えていた。「日本酒だけじゃなくて洋酒や果実酒、リキュールも色々揃えてるよ」と言うだけあって、お店が開けそうな量の酒瓶がずらりと並んでいる。  人並みには飲むが、付き合い程度で酒の種類には明るくない。何でも作るよと言われたもののその量に圧倒され迷っていると、燭台切光忠さんはいくつか味の好みを訊ね、あっという間に好みに合わせたオリジナルカクテルを作ってくれた。  きれいなグラデーションの色に、飾り切りされた果実が飲み口に刺さっている。見た目にも美しいカクテルだった。  ……刀剣男士って、こんなことまで出来ていいものなんだろうか。  燭台切光忠さん曰く、何年か前の酒宴で誰かが「かくてるってのを飲んでみたい」と言い出したのをきっかけにいつしかここまで本格的に設備がそろったとのことだ。一度試しにやってみたところ評判が良く、二回三回と続けるうちにBAR燭台切は定番となったそうだ。 「すごいですね、いつもこんな感じなんですか?」 「こんなに集まることはなかなかないんだけど。遠征部隊が色々お土産を持って帰ってきたから、それ目当てかな」  私と桑名江さんは端でどんちゃん騒ぎを眺めていた。最初こそ遠征部隊を労い彼らを中心として輪ができたらしいが、今ではそれぞれ好き勝手している。賑やか好きの刀は輪の中に、静かに酒を楽しみたい刀は端でちびちびとやっていた。そこらへんに落ちている日本酒を雑に注いでいる者もいれば、燭台切光忠さんにオーダーをしに来る者もいた。  大広間の隅っこに腰を下ろし、桑名江さんと乾杯をして、カクテルグラスに口をつける。畳張りのこんな部屋で飲むのは、なんだかちぐはぐだった。 「あ、これ美味しい」 「口に合ったみたいで良かったよ。ねえ、桑名さん」 「うん、そうだねぇ」  バーカウンターにもたれかかった燭台切光忠さんが品のいい笑顔を浮かべている。二人が意味深に視線を交わすので不思議に思っていると、「中に入ってる果物は桑名さんが育てたんだよ」と燭台切光忠さんが教えてくれた。なるほど、彼らの共作か。桑名江さんは満足げに私を見つめていた。 「昔本丸でお酒を造る案も出たことがあるんだけど……法律が理由で通らなかったんだ」 「人を斬るのは良くてお酒は造っちゃダメなんだって。変だよねぇ」  二人が穏やかな口調で刀剣男士ジョークを繰り広げるのを、私は苦笑いで聞き流した。  とりあえず一杯だけいただいて帰るつもりが、ついついグラスを傾ける手が進んでしまう。燭台切光忠さんのお酒があまりにも美味しかったものだから、気が付けば一杯、二杯とお代わりをしていた。  私に気付いて話しかけてくれる刀剣男士の方もいて、当初の目的であった遠征部隊との挨拶も無事済ませることができた。お酒の席だから皆陽気で、これまで遠慮していたのがもったいないほどだ。物怖じせず来てよかった、と思った。以前であれば神様に委縮して一緒に酒を飲み交わすなんてできなかっただろう。 「随分血の巡りが良さそうだね、楽しんでいるみたいで何よりだ」 「あ! 松井さん。楽しいです、ふふふ」  そういう松井江さんも、白い肌に少し朱がさしている。お酒で少し気が緩んでいるのか、いつもより声がゆったりしていた。 「誘ってくれてありがとうございます。来てよかったです」 「礼なら豊前に言ってくれるかな。それに、貴方と話せて喜んでいる刀も多かったよ」  松井江さんの手には赤いワインがある。飲んでいるものを聞かれて燭台切光忠さんの話をすると、納得したように頷いてから私の顔をじっと見つめた。 「? なにか」 「……血の巡りが少し、よすぎるかもしれないな。桑名、桑名!」  松井江さんが桑名江さんを呼びつける。なんで? と振り返ると、体がふらりとよろけた。意識ははっきりしているのだが、体には酔いが回ってきているらしい。そんなに赤いか、と顔を手の甲で触れると、びっくりするくらい熱かった。  桑名江さんは豊前江さんや篭手切江さんと飲んでいたようだ。顔が真っ赤なのにまだ飲もうとする豊前江さんに篭手切江さんが水を飲ませようとしている。お礼を言うのは、また後日にした方がよさそうだ。 「松井、どうしたの?」 「彼女を送ってやってくれるかな」  松井江さんがぽんと私の背中を叩く。酔っているとはいえ、同じ屋根の下である。一人で帰れます、と言う前に、桑名江さんが口を開いた。 「うん、そうだね。僕もそろそろ部屋へ戻るつもりだったから。出ようか」 「そんな、悪いです。一人で帰れます」 「途中で寝たら風邪ひいちゃうからね、ちゃんと送るよ」 「頼んだよ」  松井江さんも桑名江さんも送りを辞す私の話に聞き耳を持たなかった。松井江さんは私が持っていたグラスを回収し、桑名江さんは背中に手を添えて出口へと促す。振りむこうとすると頭が予想以上に重く、首ががくんと曲がった。名残惜しさを残しながらも、すれ違う刀剣男士たちに手を振りながら大広間を出た。  縁側を通ると、ひんやりとした夜風が火照った頬を撫でて気持ちがよかった。自分が思っているより私は傍から見て出来上がっているらしい。足取りがおぼつかないのか、いつの間にか桑名江さんが私の二の腕をつかんで「こっちだよ」と引っ張ってくれていた。 「結構飲んだんだね」 「いやぁ……燭台切さんのお酒が美味しくて……」  すぐ近くにあった桑名江さんの顔を見上げると、少しも酔っているそぶりが見えなかった。つかまれたのと逆の手を伸ばし、顔に触れる。桑名江さんが、驚いてびくりと動いた。嫌がられないことに調子に乗ってそのまま少しだけ髪に触れて分けてみても、顔色はいつもと少しも変わらなかった。 「えぇ、なんなん……。どうしたの?」 「えへへ、酔ってるかなぁって……全然顔に出ないですね。強いんですか?」 「どうなんだろう、潰れたことがないからなあ」 「それ強いってことじゃないですかー……」  桑名江さんの肩におでこをぶつける。彼は何か言いたげに私を見下ろして押し黙ったが、私が酔っぱらい特有のへらへらした情けない顔で笑ってばかりいるので口を閉ざした。  つかまれた腕から体温が伝わって温かく、それが心地いい。ずっとこのままでいられたら、気持ちよく眠れそうなのに。そんなことまで考えてしまう始末で、ああ私って結構酔ってるんだと自覚した。めちゃくちゃになる前に松井江さんに追い出されたことを感謝しなければならない。 「着いたよ。もう大丈夫?」 「はい、ありがとうございました」  自室の前に到着し、引手に手をかける。部屋へ入る前に振り向くと、桑名江さんが襖のふちをつかんでいた。  驚く間もなく、彼は襖を開いた。襖に体重を少し預けていた私の体がよろめく。「わっ」と驚いて目屋の中に倒れこみそうになった私の腰を、桑名江さんの腕が掴んだ。  背後から腕を回され、私の背中と彼の腰がぴったりとくっつく。さっきまで心地いいと思っていた体温が、別の意味を孕んでいた。  後ろを振り向けなかった。襖が開いた分だけ、廊下の光が薄暗い和室の床を照らしている。それを遮る私と桑名江さんの影が、ひとつになっていた。彼の吐いた息が耳にかかって、熱かった。  心臓が早鐘を打つ。背中から伝わる心音も、同じくらいに早い。何か一つでも間違えたら世界が終ってしまいそうな緊張感があった。  ――桑名江さんの腕が、私から離れていく。  開いた体の距離が一気に私の頭を覚ました。自室に一歩足を踏み入れて振り返って見た彼の顔は、薄暗くて表情がうかがえない。 「気を付けてね、危ないから」 「えっ、は、はい。すみません、あの、」 「じゃあ、おやすみ」 「はい、おやすみなさ……」  私が言い切る前に、襖が閉じる。真っ黒な部屋で、私は床にへたりこんだ。さっきまでの酒に浮かれた気分から一転、背筋に汗が伝う。  ……もしかして、とんでもないことになりかけていたのでは?  半身を暖めた温もりも、背中から感じた熱も、ふわふわとしていて夢みたいだったのに、まごうことなき現実だった。  長らく部屋の主が留守だった自室はしんと冷たく、寂しい。さっきまでのどんちゃん騒ぎの声が恋しいほどに。大広間から離れたこの部屋には、あの喧噪も届かない。 「桑名江さんも、ちょっと酔ってたのかな……」  夜半、いつもなら既に眠りについている時間だ。寝自宅を整え終わると、酒も手伝って私はすぐに睡魔に引きずられ眠りについてしまった。  *  雨の日が数日続いた。ようやく上がったかと思うと一気に気温が下がり、秋の終わりを告げる。朝の鋭い冷たさは、布団との別れを辛くさせた。毛布を掛けた羽毛布団が私を離してくれないのである。  収穫が終わった畑は農閑期に入り、すっかり冬の支度を始めている。桑名江さんは今でも畑を気にかけているようだけれど、朝の習慣がなくなり、彼に会う機会がぐっと減ってしまった。  加えて、彼の出陣回数が増えた。口ぶりから戦を好んではいない様子だったのに、ここのところは毎度のごとく部隊に編制されているようだ。戦況が良くないのかと思えば、全体としての出陣量はそう変わらない。ただ、資料で見ても桑名江さん出陣率が非常に高い。今では本丸で彼の顔を見るより、戦の資料で彼の名前を見ることの方が多くなっていた。  戦の素人である私は、審神者である姉や桑名江さんが何を考えているかはわからない。戦いこそが刀の本分なのだ。  もしかしたら、これでよかったのかもしれない――とも、思う。寂しい気持ちがないわけではなかったが、これが本来の適切な距離感だ。  私は彼に近づきすぎて、生むべきではない感情を芽生えさせてしまった。人が神様に懸想するだなんて、笑えてしまう。冷静になるためにも、少し距離を置くべきだと誰かに言われているようだった。これ以上好きになって、取り返しがつかなくなる前に。  だからといって、好きにならなければよかったと思わなかった。桑名江さんと過ごした時間がなければ、今こうしてこんなに元気にはなっていなかったはずだ。屍同然だった私に元気を与えてくれたのは間違いなく彼で、彼と過ごした時間を後悔することは決してない。  私は私の、彼は彼のやるべきことに集中するだけ。そう決めて、私はより一層仕事に打ち込んだ。  その日は珍しく、執務室に一人だった。一緒にいた刀剣男士の方が呼ばれて出て行ってから、本丸の中がどこか騒々しい。心配になって廊下へ出ると、窓の外はどんよりと曇っている。一雨きそうな気配だ。また寒くなるだろうな、と憂鬱に思っていると、話し中の歌仙兼定さんと姉と鉢合わせた。  彼らの表情から、一目で何かがあったのだとわかる。私に気付いた姉と歌仙兼定さんはお互い顔を見合わせる。言うべきか言うまいか、迷っているようだった。 「何かあったの?」 「……帰還した部隊の一部が深手を負っていてね」 「えっ」 「心配しなくても誰も折れてないわ。手入れも終わった」 「そ、っか……」  最悪の事態を想像していた私は、姉の言葉にほっと息を吐く。命のやり取りをしているのだ。付喪神とはいえ、何があったっておかしくない。足元を冷たい風が吹き抜けた。 「ただ――敵の動きが予想外でね。対策と調査が必要だ」 「ああ、そうだ。あんたこれ、手入れ部屋に持ってってくれる?」 「そうだね、お願いできるかな」  そうして姉が促し手渡されたのは、歌仙兼定さんが持っていたお盆だ。一食分の料理が乗っていて、ご飯はまだ湯気が立っていた。なるほど、歌仙兼定さんはこれを持っていくついでに姉に鉢合わせ、話し込んでいたようだ。手入れが終わった以上、私にできることは何もない。言われるがままに、お盆を受け取った。 「すまないね、一番奥の部屋だ」 「はい。わかりました」  転ばないよう用心して、歌仙兼定さんに言われた部屋の前へと移動した。  手入れ部屋前の廊下には、土に混じって点々と血が滴っている。それを目にし、誰かが重傷を負ったという事が現実感を増した。手入れ完了の札が下がったその部屋の奥に、人影が見える。起きていることに安心しながら、廊下から声をかけた。 「すみません、ごはん持ってきました。開けてもいいですか?」 「どうぞぉ」 「……!」  襖の向こうからくぐもった返事が返ってくる。聞き間違えるはずがない、桑名江さんの声だった。  ついさっきの、状況を伝える姉と歌仙兼定さんの声と廊下の血痕を思い出す。いやな想像が頭を過り、指先から力が抜けそうになる。震える手を何とか律して、襖を開いた。  桑名江さんは布団の上で胡坐をかいて座っていた。上裸で、肩から腹にかけて包帯が巻かれている。想像以上に痛々しいその姿に言葉を失った。手当の痕から戦いの激しさをいやでも察してしまう。久しぶりに見る姿が、こんなものになるなんて思わなかった。 「ごめんね。こんな格好で」 「い、いえ……。その、……大丈夫ですか」 「傷は塞がったよ。あとは休むだけ」  刀剣男士と人間は体の仕組みが違う。大けがをしても、折れてさえいなければ手入れをすればどんな傷も治るのだという。知識としては知っていたはずだが、だから大丈夫とは思えなかった。  桑名江さんが私に心配をかけるまいと腕をぐるぐる回して「ほら、もう大丈夫。元気だよ」と見せてくれる。目に水膜が張って、瞬きができなくなった。  部屋の隅に血で汚れた桑名江さんの服が落ちている。白いパーカーが切り裂かれ、真っ赤に染まっていた。私がそれに視線を奪われていると気づいた桑名江さんは、それを掴んでくしゃくしゃに丸めて自分の後ろへと隠した。「怖がらせちゃった?」という言葉に、首を横に振るのが精いっぱいだ。  これ以上、こんな彼の姿を見ていたくなかった。戦いの恐ろしさを見て見ぬふりをしてきた罰か、私の視線からなるべく隠そうとしてくれてた姉や刀剣男士たちに甘えてきたツケが回ってきたのか。 「お休みのところ邪魔してすみません。じゃあ、これで……」 「待って」  お盆を桑名江さんの手の届くところに置き、下がろうとした私を桑名江さんが呼び止める。顔を上げた私に、桑名江さんが微笑みかけた。 「もう少しここにいてほしいんだけど。忙しい?」 「……忙しく、はないです」  嘘でも忙しいっていえばよかったのに。こんな彼を見ていたくない気持ちを、呼び止められた喜びが上回ってそんな返事をしてしまった。  なかなか会えずにいた期間、考えていたことが頭をぐるぐると回る。それを吹き飛ばすくらい、久々に桑名江さんとと話せるのが嬉しかった。 「最近、出陣増えてますよね」 「うん、僕が主に頼んで増やしてもらったんだ」 「そうなんですか……」  畑の手がかからない時期だからだろうか。心配だというのも烏滸がましい気がして、言葉に詰まった。  沈黙が訪れる。何か気分転換になりそうな話題も見つからないまま、彼の傷を目に入れないために私は布団の端っこをじっと見ていた。 「そっちに行ってもいいかな?」 「えっ!?」  驚いて顔を上げると、桑名江さんは私の返事を聞く前に膝立ちでこっちへと歩いてきた。けが人を固い畳の上に座らせるわけにいかず、慌てて部屋の端にあった座布団を引っ張り、私の横に置いた。桑名江さんはそこに座って、私の肩に体重を預けた。   「手に触れてもいい?」  手一つで照れるような年でもないのに、私はどきどきしながら頷いた。太ももの上で握りこぶしを作っていた私の手を桑名江さんの大きな手が包んだ。  指でこぶしをほどくように触れられて、肌の表面同士がさりさり擦れるのがこそばゆい。好き勝手されているうちに、恋人同士がするみたいに指が絡まった。 「うーん、人の身ってやっぱり難しいな」  桑名江さんが独り言のように呟いた。私はと言えば手の感覚に気を取られそれどころではなく、黙りこんでいる。それが、彼の言葉の続きを促しているみたいになってしまっていた。 「笑っているところを見ているだけでいいと思っていたんだけど、どんどん欲深くなるね」 「そ、それはなんの話でしょうか」 「君のことだよ」 「私ですか」  桑名江さんの言葉に、言外の意味を見ようとするのはもうやめた。動揺を気取られまいとなるべく平坦な口調で返すが、心中は穏やかではない。  傷ついた彼の姿、お互いの関係性、触れた体温。それらすべてが、私をおかしくする。そのすべての真ん中に桑名江さんがいる。いや、いつだってそうだ。私がここで暮らしていてよかったと思える瞬間の一つ一つに、彼がいた。  気持ちを伝えるべきか、少しだけ迷った。  何もしなくても実らない。何をしたっても、きっと実らない。じゃあ、もう楽になってしまったほうがいいのではないか。  やるべきことにお互い打ち込んで、私はきっといつかこの本丸を去る。そして誰かと結婚するかもしれない。けれどずっと私の心には、私を〝人間〟にしてくれた桑名江さんの姿がある。このまま拗らせた感情が腐り落ちて歪で醜悪なものに変化して執着と化したそれがいつか私や彼を傷つけるくらいなら、きっとそれがいい。  桑名江さんの手を振りほどこうとする。一瞬緩んだ彼の手は、私の手をより強固に捉えて離れることは叶わなかった。 「桑名さん、」 「主に、君のことが好きだって言ったんだ」 「はい、……………え?」  彼の名前を呼んで、続けようとした言葉を口にすることは叶わなかった。  側頭部を強く殴られたように思考が止まる。予想していなかった一言を急に当たり前みたいに言われて、返せたのは「お姉ちゃんに、ですか?」の一言だった。  ――桑名江さんが私のことを、好き?  初耳だ。知るはずがない。まさか、そんな素振り――があったかは、わからない。行動から感情を類推するには、刀剣男士という存在は特殊過ぎた。だって神様だから。普通の男の人ならいざ知らず、刀の神様が、私を好きになるなんて。  そもそも、先に姉に伝えていたとはどういうことだろう。いや、よく考えればそれが正しいのか? 桑名江さんは彼女の所有物で部下だ。私はその妹で主君の親族に懸想をしたら主君に伝えるのが道理――か? 考えたけれど、答えは出ない。 ……私は今、どんな顔をしているんだろう? 「え、あ、あの、桑名さんって私のこと………す、す……すきなんですか?」 「うん、そうだよ」 「本当に?」 「うん。伝わってると思ってたけど……そんな驚く?」 「は、初耳ですけど」 「えぇ、気付いてると思ってた」  恥ずかしさに耳までが燃えているみたいに熱い。顔を背けると、覗き込んで目を合わされる。それから逃れようときゅっと瞼を閉じると今度は距離を縮めてくる。手は依然として掴まれたままで、逃げ場なんてなかった。 「好きじゃなかったら、でぇとに誘ったり――触ったりしないよ」  結構わかりやすかったと思うんやけどぉ、と桑名江さんはぼやく。それからぽつりぽつりと、桑名江さんは彼の心中を語り始めた。  好きになってすぐ、江の仲間にバレた。そのあと怖い顔をしたへし切長谷部さんに呼び出され、姉の前に突き出されたのだという。姉は桑名江の話も聞かず、一言「弱い奴には妹はやれない。まずはあたしに認めさせてみせろ」とだけ。それ以来、鍛錬に励む時間や出陣回数が増えたのだそうだ。 「少なくともへし切長谷部から一本とれるくらいじゃないとって言われてね」 「は、長谷部さん!? そ、それは結構な……」  へし切長谷部とは姉の本丸で随一の実力者だ。初期から本丸を支え忠義に厚く、戦力の要である。本丸が軌道に乗ってから呼ばれたと聞く桑名江さんでは、はっきり言って実力差は歴然だ。とんでもない条件を突きつけられているというのが私にも分かった。  姉に私への気持ちを伝えたのは、少し前――あの酒宴のすぐ後だったという。桑名江さんの申し出を聞いてすぐ、姉は出陣予定表を彼の名前で埋めた。「本気なら折れる覚悟でやれ」というのが、姉の言い分らしかった。 「今日は長谷部の部隊に編制されていたんだけど、彼は強いね。敵と打ち合っても無傷だったよ」 「……………」  彼が傷を負った原因の根本を辿れば、そこに私がいる。その事実が大きくのしかかって、胸が苦しくなった。姉の言い分もよくわかる。桑名江さんが私を想ってそうしてくれているのも嬉しいと思う。それでも、自分のせいで好きな人が傷を負うことが耐え難い。 「なんで、そんな」 「きみを命の循環から外すんだから、このくらいの覚悟は承知の上だよ」 「……!」 「少しだけ、待っていてくれる?」  ――命の循環。  意味はわからないでもなかった。好きになった相手が人間じゃないということは、そういうことだ。だって神様なんだから。それは、片思いをするうちに何度も自分で自分に問いかけてきたことだった。だからこそ結ばれるはずがないと思っていたのに。  優しい口調で訊ねられて、私は頷いた。視界が涙で潤んで、私の手を握る彼の手の甲に落ちる。今すぐ抱きしめたいと思ったけれど、けが人に無茶はできない。その分、私は手を強く握り返した。  ずっと一人で、自分のことだけを考えていた自分が恥ずかしかった。傷つくのが怖くて気持ちを伝えるどころか「彼が私を好きになるはずがない」と言い聞かせ、たくさん言い訳をして向き合うことから逃げていた。言葉以外でたくさん気持ちを伝えていてくれた桑名江さんから目をそらし続けて、今だって少しだけ信じ切れずにいる。  姉に気持ちを知られていると気付いたとき、彼はどう思っただろう。思いを伝えた時、どんな覚悟だっただろう。もしかしたら、その時点で不敬と見做され刀解されていたかもしれないのに。  畑仕事の時間を削って鍛錬をして、血を流してこんなに大けがをして。 「桑名さん、私、……待ってます。ずっと」 「うん。すぐに迎えに行くよ」  苦しみと葛藤の渦の中で、それでも中心にあるのは想いが通じたことによる幸福だった。手を握りなおして、桑名江さんの体重を感じる。結局私は、桑名江さんがご飯を食べ終わるまでの間、手入れ部屋に留まっていた。  手入れ部屋を出て空になった食器を台所へ戻し、その足で姉の部屋へと向かう。部屋を尋ねた私を、姉は軽薄な笑みで出迎えた。 「もう終わったの?」 「終わったって何が?」 「何って一発」 「お姉ちゃん……」 「うそうそ冗談、もし手出したら[[rb:刀解 > バラ]]すって」  審神者ジョークにしては重すぎる。冗談じゃ済まないからやめて、と私は姉を睨んだ。すぐそばにはへし切長谷部さんが控えているというのに。刀の前でどんな神経をしているんだと思ったが、へし切長谷部さんは何も気にしていなさそうだ。この姉に付き従うなら、この程度で動揺してはいられないのだろう。 「……桑名さんから、その、聞いたんだけど」 「あんたと付き合いたいなら長谷部から一本取れってやつ?」 「そ、そう。それ本当なの?」 「当たり前じゃん。かわいい妹を長谷部にも勝てないような弱いやつに任せらんないよ」  姉はあっけらかんと言い放つ。へし切長谷部さんは、光栄そうにうんうんと頷いた。その頭上にちらりと桜が舞う。 「でも長谷部さんに勝てって無茶じゃないの。長谷部さん、何年ここにいると思って」 「ええ、妹様のお気持ち、よくわかります」 「ちょっと静かにしてもらっていいですか」  こっちは真剣だっていうのに。ついへし切長谷部さんに言い返す。姉はそれを見てケタケタ笑っていた。へし切長谷部さんといえば――姉のツボに入ったのが嬉しかったらしく、目を閉じておかしな笑い声に耳を澄ませている。この本丸は主も変だが従者も大概変だ。 「まあまあ。一応方便みたいなものだから。半端な奴には任せられないっていうのは本当だけどさ。適当に手加減してくれるって」 「はい、もちろん。主がそう命ずるのであれば」 「手加減しませんって顔に書いてますけど……」 「どうする? 長谷部が嫌なら歌仙に変えてもいいけど」 「そっ…………れは」  姉の提案に言葉が詰まった。  彼は姉にはいつも厳しく接している印象だが、妹である私にはとりわけ優しい。雅を愛する文系名刀らしく優雅な方だ。しかし以前、部屋に虫が出て助けを求めた時の鬼神のような姿を思い出すとそっちの方がマシとは言い難かった。文系だからというのを言い訳に、パワーで押し切るきらいがある。場合によっては、へし切長谷部さんよりも手加減してくれそうにない。それなら、まだへし切長谷部さんの方が話が通じそうだとも思った。 「遠慮しときます……」 「そうだね。歌仙、あんたのこと可愛がってるみたいだから本気出してきそうだし」  脳裏に歌仙兼定さんの私に向けられる穏やかな笑顔と鬼神の姿が交互に浮かぶ。可愛がってもらえるのは非常にありがたいのだが、今は状況がまた違う。  私が唸っていると、姉が「あんたね、惚れたんだったら信じてあげなさいよ」と平べったい目で睨んだ。 「だ、だって……。と、いうか私、桑名さんのことお姉ちゃんに言ったことないよね!?」  そもそもの話、私のこの気持ちは一生隠し通して墓まで持っていく覚悟だった。まさか桑名江さんだけでなく、姉や刀剣男士たちにも筒抜けだなんて。誰もがみんな、私たちが両思いであるという前提で話を進めるのはおかしいんじゃないか。こちとら桑名江さんの気持ちだって、ついさっき知ったばかりなのに。 「本丸の中であれだけいちゃついてりゃ誰だって気付くでしょ」 「いちゃついてないけど」 「平安の連中だってあんたらに遠慮して早朝の散歩コースから畑避けてたのよ。今更すぎるって」 「そ、そうなの!?」  衝撃の事実が明かされ、私はがっくりと項垂れた。確かに早朝、桑名江さん以外になかなか会わないとは思っていたけれど。  羞恥にのたうち回る私に反し、この件というおもちゃで遊び飽きたらしい姉は「話は終わり? あたしまだやることあるから」と素気無く言い捨てる。一緒に下がるように言われたへし切長谷部さんと共に、半ばつまみ出されるように部屋を出た。 「恐れながら申し上げますが」 「は、はい!」 「桑名江は見所があります。そう無謀な話ではないかと」   へし切長谷部が上体を曲げ、かがむようにして私に囁きかける。黒い外套が肩に触れた。彼なりに私を励ましてくれているのだろう。彼が主に関すること以外でわざわざ言葉を紡ぐということは、そういうことだ。 「もちろん俺は主の刀ですから、そう易々とみすぼらしく負けを晒すつもりはありませんが」 「……ありがとうございます」  言いたいことを言い終えたへし切長谷部さんは主の刀として当然です」という顔つきで、その場を後にした。  外はしとしとと雨が降っている。秋の花が散った後の庭は寒々しく、曇天も相まって塗りつぶしたような灰色だ。もう少しすれば、この雨も雪に変わるのだろう。雨に濡れた縁側の端を避けて、私は部屋へ戻った。   *  長い冬の間、桑名江さんは以前に増して鍛錬に励んでいた。一日一度のへし切長谷部さんとの手合わせを見守るのが私の新たな日課だ。  私と桑名江さんの関係はいつしか本丸の誰もが知るところとなり、次第にギャラリーも増え、この本丸のエンタメと化していた。博多藤四郎さんが桑名江さんがいつ勝つかで賭けを始めたあたりで、「さすがに人様の恋路を見守る姿勢としては雅じゃなさすぎる」と歌仙兼定さんから大人数での観戦禁止のお触れが下りたが、日常的に気にかけてくれたりお膳立てしようとしてくれる者まで現れて気恥ずかしい思いをしている。  梅のつぼみが膨らみ始めた日だった。いつも通りの道場、いつも通りの手合わせ。違ったのは、その結果だった。 「主の命だ。一本は一本、だからな」へし切長谷部さんの声と同時に、私は走り出す。まだ肩で息をする桑名江さんに飛びつくと、彼は危なげなく私を受け止めた。 「待たせてごめんね」  桑名江の腕の中で首を横に振る。頭を擦り付けると、大きな手がそれを撫でていた。  状況を忘れ抱きしめあっていた私たちを引きはがしたのはへし切長谷部さんの咳払いだ。「主への報告が先だ」と冷たく言い放つ。ぱっと離れると、代わりと言わんばかりに桑名江さんが私の手を握った。 「長谷部、後片付け頼んでもいいかな」 「……今日だけだ。早く主の元へ行け」 「ありがとう」  へし切長谷部さんに甘えて道場を出ると、風に乗って微かに花の香がした。冬の間寂しげだった庭も、いずれ花が彩りを与えてくれるのだろう。まだ風は冷たいながらも、日差しは温かい。今までで一番長く感じた冬が終わり、一番待ちわびた春が訪れていた。  

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