Sink

貴方と眠るために

 審神者と刀剣男士の居住地である本丸が存在するのは時の狭間であり、刀剣男士が増えて手狭になれば、不思議な力で増改築が容易に行えた。とはいえ、建設業者に依頼して地盤の検査をして——などの現実的な工程がスキップ出来るだけで、審神者の思うまま、意のままに好き勝手間取りを変えられるわけではない。ある程度の規定に則って、然るべき手続きを踏み、然るべき技術者の力を借り、一定期間一部区間を封鎖して——と、多少の面倒は発生する。
 そのため、劣化、汚損部分の修繕は自力で行わねばならないし、部屋の模様替えも同様だった。男手は十分に足りているから、大仕事に思える家具の移動には何の懸念もない。最大の課題は、その前段階のこまごまとした物の整理や片付けだ。

 ベッドを新調することにした審神者は、部屋の隅に長らく鎮座していた安っぽいカラーボックスふたつを撤去するために、その中の私物を断捨離していた。
 本丸に居を移したばかりの頃に間に合わせで買った安物で、買い替える必要に迫られることもないまま、ここまで暮らしを共にしてきた。棚に丁度収まるサイズのプラスチック製の箱を押し込んでおり、実家から持ち込んだものや審神者になってから入手したものまで、とりあえずここに入れておけば失くしたりしないだろう、の精神で考え無しに放り込んできたところ、地層状に物が積み重なって、仕舞ったものを取り出しにくくなっていた。
 新しいベッドは今のものよりも一回り大きく、このカラーボックスを退けなければ運び込むことが出来ない。収納している物も使用頻度が低いため、不要なものを捨てて量を減らし、クローゼットの下段に仕舞い込む算段を立てていた。
 小一時間ほどかけて、審神者は黙々と要るものと要らないものの仕分けに取り組んだ。始めるまでは腰が重くてたまらなかったものの、いざ手を付ければ思いのほか集中してしまって、地層は審神者就任初期まで掘り返されている。研修で貰ったボールペンや、買ったことすら忘れていたアクセサリーなんかが出てくるたび、ひとりで「懐かしい」と声を上げていた。
「……入るよ」
「どうぞー。あ、村雲」
「どう、進んでる……?」
 開けっ放しにしていた扉から顔を覗かせたのは、村雲江だった。審神者が使役する刀剣男士でありながら、相思相愛の仲である。
 今日は早朝から「雨さんと季語の様子を見てくる」とか言って出かけていたはずだが、審神者が片付けをしていると誰かから聞いて様子を見に来てくれたようだ。審神者は「季語の様子ってなんだろう」と思ったが、その季語がカブトムシだとかセミだとかの話ならあまり耳に入れたくはなかったので、敢えて深掘りすることを避けていた。
「あと一息って感じかな」
 審神者が物の仕分けを続けながら返事をすると、村雲江が近寄ってきた気配がした。審神者が振り向くと、彼はベッドの上に腰掛けて、転がしてあったクッションを抱えている。彼がこの部屋にいるときの定位置だが、もうすぐこのベッドを処分することを思うと、その姿が妙に感慨深く思えた。
 村雲江は何をするでもなく同じ空間に居座って、審神者の様子を眺めている。審神者は背中に視線を感じながら、「さっさと片付けて構いに行きたい」と思った。
 このまま箱の中身を全てゴミ袋に流し込んでもいいほどに、出てくるのは不要物ばかりだったが、地層は審神者が就任時に現世から持ち込んだ物へと突入している。うっかり処分して取り返しのつかないことになってはならないと、より慎重に箱の中身を検分した。
「うわっ」
「何?」
 そんな時だった。審神者は目についたものに対し反射的に声を上げ、手のひらの中にそれを仕舞いこんだ。
 ベッドの上でまったり足を揺らしていたはずの村雲江は、さすが刀剣男士といわんばかりの速度で身を起こし、審神者の手元を覗きこむ。審神者は訝しげな村雲江の顔を見ながら、誤魔化すような苦笑いを浮かべ、背筋に冷や汗をかいた。
 両手で挟んだそれのつるりとした手触りに、それが村雲江の視界に入らないことを確かめながら、審神者はばくばくと騒がしい心臓が一秒でも早く落ち着くことを祈った。村雲江の方は、てっきり審神者の苦手な虫でも現れたのだと思って、心配して駆け寄ったのだろう。審神者の異様な反応に、首を傾げた。
「な、な、なんでもない」
「何かいたのかと思った。……それは?」
「なんでもないよ……!」
 なんでもない、を重ねれば重ねる程、村雲江は審神者がひた隠しにしようとするそれに関心を持ってしまう。頭ではそう分かっていても、審神者の口からは適切な言い訳がひとつも出てこなかった。
 案の定村雲江は不審そうに眉根を寄せ、審神者に顔を近づける。桜色のひとみに囚われて、審神者は「いつ見てもきれいな顔だな」と現実逃避しながら、だくだくとかいた手汗のせいでそれが滑ってしまわないか、気がかりでならなかった。
「俺に見せられないもの?」
「見せられないわけじゃないけど、見せたくない……」
「…………」
 審神者が村雲江から隠したのは、彼女が現世にいた頃に交際していた男とのプリクラだった。数ヶ月後に破局することも知らず永遠の愛を誓うようなポエムを綴り、やたらとハートのスタンプを貼り付けている。当時は若かったんですとか、こういうのが流行ってたんですとか、そういう言い訳を幾重にも重ねたくなるような痛々しい落書き入りの写真は、村雲江の存在がなくともあまり人の目に触れさせたくないものである。
 男のことは「昔そういう人がいた」程度の認識であり、個人としての記憶は掠れて、今では一切思い出すことのない彼方へと遠ざかっていた。それがたった一枚のプリクラのせいでさまざまな記憶が呼び起こされ、審神者はどんどん気分が悪くなってくる。
 そう長くもない交際期間、悪い経験ばかりではなかったはずだが、こうした時にふっと浮かび上がってくるのは嫌な記憶ばかりだ。ああそうだ、確かあんなことを言われて凄く落ち込んだんだっけ、「お前って結構重いよな」って——だとか。
 単に昔の男の存在を今の男に感知させたくないだけではなく、審神者には絶対にこれを村雲江の視界に入れてはならない理由わけがあった。
 刀だった頃の来歴からか、彼はことあるごとに様々なものと価値を比較する悪癖がある。他人でも、馬でも、物でも、ありとあらゆるものとかつて自分につけられた金額を比べては、卑屈になってしまうのだ。
「雨さんといると癒される」と五月雨江によく引っ付いて回っているのは、きっと五月雨江が物の価値や他人からの評価ではなく、胸に浮かぶ情緒を重んじているからなのだろう。あの方と慕う存在を追った向き合い方が、村雲江の心を軽くしている。——審神者は、そんな風に考えていた。
 審神者の元恋人ともなれば、きっと彼は自分と比較してしまうに違いない。五月雨江程にはなれずとも、自分といる時だけは腹痛や彼の心を苛む呪いのような価値観を忘れて穏やかに過ごしてほしいと考えているのに、その象徴の最たるものを審神者が持ち出すわけにはいかなかった。たとえ、記憶の底に埋めて忘れていた物を、不可抗力で掘り返してしまったのだとしても。
「どうしても?」
「うん。村雲に嫌われたくないから」
「それ見たら俺、嫌いになるの?」
「分かんないけど、嫌な気持ちにはなる、かも……」
 思った以上に弱弱しい声が出て、審神者はしまった、と思った。これでは余計に村雲江を不安にさせかねないし、彼の興味を引くばかりだろう。村雲江の様子を窺うと、彼は審神者の顔と彼女の手を視線で行き来していた。その表情にはありありと関心が表れている。
「わかった」
「え」
 物分かりのいい村雲江の返事に、審神者は拍子抜けして思わず声を漏らす。村雲江は自分の髪の毛先を指で弄びながら彼女から目を逸らし、何もない床をじっと見つめていた。
「見せなくていいから、捨てて」
「す、捨てる。シュレッダーしてから燃やして、灰は海に撒きます」
「……うん」
 審神者は「後で忘れずに総務経理の部屋でシュレッダー借りないと」と考えながら、それをポケットの奥深くに仕舞い込んだ。
 嵐が去った後の曇天のような静寂に、審神者の手は止まったままだった。手持ち無沙汰に箱の中を眺めてみたが、残っているのはがらくたばかりだ。
「俺、見てない方がいい?」
「うーん、他は見られて困るものないと思うけど……一応後ろでちょっと待ってて」
「……うん」
 村雲江は定位置へと戻って、再び片付ける審神者の背中を眺めた。
 数分後、一通り仕分けを終えた審神者は、必要と判断したものだけを仕舞った箱をクローゼットの中に押し込んだ。空になったカラーボックスは、後日ベッドの入れ替えの時に運び出してもらうことになっている。
「終わったよ」
「…………」
 村雲江に声をかけると、村雲江はベッドから降りて審神者の隣へと寄って肩をくっつけた。「待ちくたびれた」とでも言いたげな仕草に、審神者は詫びるように彼の背中を軽くつついた。
「ゴミ捨ててくるね」
「貸して」
「あ、うん。ありがとう」
 ゴミ袋に入っているのは捨てそびれていた古いものばかりで、村雲江に見られて困るものはない。審神者は彼に甘え、素直にゴミ袋を手渡した。

 ふたりで一緒にゴミを捨てに行った後、審神者は五月雨江と村雲江が共用で使っている部屋へと招かれた。「お土産、あるから」との言葉に、審神者は一瞬、虫カゴいっぱいに入ったセミとかだったらどうしよう、と嫌な想像をする。犬らしい性格をした他所の五月雨江と村雲江が、そんなお土産を持ってきた話を聞いたことがあったからだった。
 しかし、審神者の想像は失礼な杞憂に過ぎなかった。用意されていたのは、人気老舗和菓子店の水羊羹だ。句会仲間である歌仙兼定から教えてもらったそうで、「頭にもぜひ食べていただきたいと思って、雲さんと開店前から並んで買いに行ったのです」と五月雨江は誇らしげな顔をした。
 水羊羹を頂きながら、審神者は隣に座る村雲江の表情をちらと盗み見る。下がりがちな眉が嬉しそうにアーチを描き、上品な甘さと滑らかな舌触りの水羊羹を堪能していた。その穏やかな表情に、「ずっとこんな風に幸せそうでいてほしい」と思ったのだった。

 後日、審神者のベッドは無事新しいものに取り替えられた。大人二人が横になっても十分ゆとりのあるサイズで、部屋の大部分をベッドで埋めることになったものの、元よりこの部屋は寝起きと村雲江との逢瀬にしか使っていない。どちらにしても、ベッドの新調でより過ごしやすくなるに違いない。口には出さないものの、実のところ、ベッドの買い替えに踏み切った理由のほとんどは、後者にあった。
 今夜から寝られるように寝具を整え終えた後、審神者と村雲江はふたりで新しいベッドの寝心地を確かめていた。マットレスやシーツごと新しくしたので、肌に触れる質感や体重に沈む感覚すら新鮮だ。村雲江が「ふかふかだ」と可愛い言い方でシーツを撫でるのを見て、審神者は頰を緩ませた。
「村雲」
「何?」
 村雲江がマットレスから顔をわずかに浮かせる。その目元は新しいベッドの寝心地の良さにリラックスしていたのか、いつも以上にとろんと垂れ下がっていた。
「あのさ、……前の、私が見せたくないって言ったやつ、何ですぐ引いてくれたの?」
「それ、蒸し返すの?」
「ごめん、……どうしてもずっと引っかかってて」
 審神者は喉に残った小骨のように気に掛かっていたことを、弛緩した空気に委ねて訊ねた。村雲江はそれに、冗談めいた口調で聞き返す。彼自身は、今ではあの件を全く気にしていないようだった。
「だって……泣きそうな顔してたし」
「うそっ、そんな顔してた?」
「それに、俺のためって分かってたから」
 村雲江にしては珍しい自惚れた発言に、審神者は胸がきゅっと締め付けられたような気持ちになる。これまで伝えてきた好意がきちんと彼に届いているのだと実感し、安堵と高揚が同時に押し寄せた。
「そういうこと、気にするんだ」
「するよ、村雲が落ち込んでたらどうしようって……」
 胸に乗っていた重石が降りた審神者は、ベッドの上で寝返りを打って息を吐いた。未だ寝心地は身体に馴染まず、「今日寝れるかな」なんて心配をする。村雲江の方へ顔を向けると、彼は何か言いたげに審神者の方をじっと見つめていた。
「このベッドさ」
「うん?」
「……いや、何でもない。寝れなそうだったら、一緒に寝てあげても、いいけど」
 審神者の思考を見抜いたかのような言葉に、審神者ひとりで恥ずかしくなって、シーツの上で手を握ったり開いたりした。「一緒に寝て」と返した言葉は小さく微かなものだったが、ふたりきりの静かな部屋ではそれで十分だ。当たり前みたいに触れ合った個所から伝う体温に、審神者は「ベッド新しくしてよかった」と幸福を噛み締めたのだった。


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