の執務室は出入り自由で、日々様々な刀剣男士が訪れる。仕事を手伝いに来てくれる者、構われたくてやってくる者、気を利かせて茶と茶菓子を持ってきてくれる者など目的はそれぞれで、近侍でなくとも誰か一振りは部屋にいることが多かった。 その中でも、村雲江は頻繁に部屋を訪れる刀のうちの一振りだ。彼はいつからか暇を持て余すと——特に、五月雨江が多忙だと、の元へとやってくるようになった。 何かあったのかと訊ねれば「おなかいたい」とだけ言って、座布団を折ったものを枕に畳の上で横になり、仕事を手伝うでもなくじっとしている。五月雨江に相談したところ、「頭の側は落ち着くのでしょう」と言われたので、居心地がいいならいくらでもいてくれて構わないと、そっとしておくことにした。 今ではの部屋の一角が定位置になり、彼女も村雲江のためにブランケットを用意している。事務仕事をする彼女の背中をじっと見つめては、気の利く刀がに差し入れたおやつを一口齧るのが、この部屋での彼の過ごし方だった。 は廊下に人の気配を感じて、手にしていた紙束を丸めて棚へと放り込んだ。 開け放たれた障子から顔を出したのは村雲江だ。そろそろ来る時間だと思っていたので特に驚くこともなく、は彼を招き入れた。 彼女が村雲江に微笑みかけると、彼は眉間に皺を寄せ、無言で何かを訴えかけるようにを睨んだ。お腹の調子が悪いのだろうか、彼女は小首を傾げる。 定位置に移動するかと思われた村雲江は、の傍へとやってきて、彼女がたった今紙束を放り込んだ棚へと手を差し込んだ。村雲江の腕が胸元を掠めたので、はぎょっと肩を跳ねさせた。 「これ、何……?」 「えっ?」 村雲江の視線は、静かに了承を求めていた。 が彼に気取られる前に隠してしまえたと思っていた、数枚の紙束。その中身を見る許可を、彼女に求めている。は無言の圧力に屈し、つい頷いてしまった。 村雲江は遠慮なくくしゃくしゃになったそれを開き、じっと内容を睨みつける。村雲江の視線がその文章を——甘ったるくきざな口説き文句の数々を撫でている間、は刑罰を言い渡される囚人の気持ちになっていた。 三度ほどそれを読み直して、村雲江は紙から顔を上げた。 「……そういう関係のヤツ、いたんだ。知らなかった」 「ご、誤解です!」 恨みがましい口調で言われ、は村雲江の手の中から紙束を勢いよく奪い返す。雑に扱われたそれは、くしゃくしゃと無数の折り目が付いていた。 「結婚するって書いてたけど」 「しません! こ、この方が勝手に言っている……だけで」 「…………」 が何を言っても、村雲江の瞳から疑念が薄れることはなかった。 彼は言葉通り、内容の真偽を問うているわけではない。彼女の意思を探っているのだ。嫁入りのために審神者を辞め、自分をどこかへ売り飛ばすつもりではないか——と。 村雲江にこの眼差しを向けられると、は彼が満足するまで、その気はないと言葉を尽くして説き伏せねばならなかった。今回に限らず、彼が売られるのではないかと疑心を抱くたびに、この部屋で何度も何度も、何度も繰り返されたやり取りである。 時間にして十五分ほど。が同じことを言葉を変えて幾度も伝え続けると、村雲江はようやく納得してくれたようで、「わかった」とブランケットと座布団をひっつかみ、定位置に横になった。 村雲江が静かになったのを確認すると、はほっと胸を撫でおろし、仕事の続きへと取りかかる。退屈な数字の羅列を眺めながらも、の口角は僅かに上がっていた。 言葉を選ばなければ、村雲江は卑屈で、接しやすいとは言えない気性だ。それでも、は彼のそんな一面をとりわけ愛おしく思っていた。 幼少期に飼っていた気難しい老犬に似ているからかもしれない。彼女はグルメで好き嫌いが多くて、散歩も気に入った道しか歩きたがらず、気に入らないことがあるとすぐエサ皿をひっくり返す癖に、眠るときは絶対にの布団へと潜り込んでくる。 手のかかる子ほどかわいいとでもいうのか、村雲江にとっては同じ屈辱を繰り返さぬための試し行動だと分かっていても、それが今の主である自分にだけ向けられているのだと思うと、彼のそんな言動がには可愛く見えて仕方がなかった。 彼相手だからこそ、心を曇らせたくなくて例の紙を隠したというのに。こんな時ばかり村雲江は嗅覚の鋭さを発揮して、いともたやすく疑心の種を探し当ててしまった。 が振り返ると、村雲江とぱちりと目が合う。透けた花びらのような色の瞳が愛おしくて、は笑みをこぼした。 「結婚しないよ。村雲のことも、売らない」 「……うん」 村雲江は今度こそ心から納得したらしく、安心したように瞼を下ろした。 それからややあって、安らかな寝息が聞こえ始める。はその音を聞きながら、静かにペンを走らせた。 [[rb:件 > くだん]]の男からの求婚は、村雲江に手紙を見つかってしまったあの日以降も続いていた。 相手は、講習や演練で知り合った男審神者だ。どうも見当違いな運命を彼女に見出したらしく、根拠もなく相思相愛であると思い込んでは熱烈な恋文を寄越してくる。 村雲江を伴っているときに彼と鉢合わせては事なので、ここのところ演練部隊に村雲江を編成したり、外出の護衛に彼を選ぶのを避けていた。それがにとって、とても窮屈だった。 書かれていることが毎度同じでも、念のために一度は目を通すことにしている。その律儀さが彼女の首を絞め、ここのところはストレスからか眠りが浅くなっていた。 手回しのシュレッダーで手紙を破棄すると、ちょうど村雲江が部屋にやってくる。また見つかるところだった、とはシュレッダーを元の位置へと戻し、何食わぬ顔で仕事をしているふりをした。 「あのさ、渡したいものがあるんだけど」 「なに? なんか拾った?」 刀剣男士からへのプレゼントは、珍しいことではなかった。遠征土産や季節の花、店先で見つけた趣味のいい雑貨など、彼らはを思って様々な贈り物をしてくれる。その類だと思って、は村雲江を見た。 「手出して」 「ん?」 「そっちじゃない。反対」 が右手のひらを差し出すと、村雲江は彼女が膝に置いていた左手を取った。手の甲を上にし、ポケットから何かを弄ると、それをそっと指に嵌める。この動作で贈られるものを、はひとつしか知らなかった。 「えっ……」 「俺より高いから、大事にして。虫除けにはなると思うって……雨さんが」 「ちょ、ちょっと待って」 は動揺し、村雲江の顔と自らの左手、薬指にはまった指輪を視線で行き来した。 シルバーのシンプルなリングは素人目に見ても高価なもので、最初からそこにあるために誂えられたかのようにサイズもぴったりだ。村雲江の意図を掴めぬまま、美しいその贈り物にの視線は縫い留められた。 「ど、どういうこと。これ、なんで?」 「結婚しないんでしょ。じゃあしてて」 「さ、五月雨! さみだれーッ!」 「はい、頭」 村雲江相手では疑問は解消できまいと思ったは、五月雨江を呼んだ。 彼は忍びのように音もなく現れ、気がつけば彼女の背後で膝をついている。どこから来たんだろうと思いながら、は左手を彼に見せつけ、「説明して欲しいんだけど」と言った。奇しくもそれは、入籍記者会見をする芸能人の写真のようなポーズになる。それが恥ずかしくて、彼女はすぐに手を引っ込めた。 「頭が意にそぐわない求婚にお困りだと雲さんから伺いまして、役に立てればと」 「うん……。虫除けで指輪するっていうのは、まだちょっとわかるよ。私も考えてたから」 ——ではなぜ、村雲江直々の贈り物なのか。 わざわざもったいぶって、左手薬指にそっと嵌めたりして。十分な給金を出しているつもりではいるが、こんなものに使うために渡しているわけではない。そんなにしつこい男が疎ましいならば、と雑談程度に提案してくれれば、はそれらしく見えるカモフラージュを行っただろう。 ——なんで、なんで。 疑問の形をしての胸に渦巻くそれは、もっと別のものだった。 心臓の動きが騒がしく、村雲江の顔が直視できない。未婚の彼女は当然、こうして指輪を嵌められたのは初めてのことだった。 真に理由を求めているのは、彼の行動にではない。この高揚を鎮めるためのもっともらしい言い訳が必要だった。そうでなくては、あるべきではない勘違いを生みそうで。衝動的に溢れそうになった、名前を付けることすら躊躇っていた感情を抑えるための蓋になるものが欲しくて。 の赤い顔を見て、五月雨江は何かを言いかけ——口を閉ざす。視線は、彼女の傍に立つ村雲江へ向けられていた。 「頭。聞きたいことは私ではなく雲さんに聞くべきかと」 「えっ?」 「失礼します」 五月雨江は好き勝手言い終えると、来た時と同様音もなく姿を消した。部屋にはと村雲江のふたりきりになり、彼女は所在なく手を擦り合わせる。その度に指輪は存在を主張し、どくりと心臓が脈打った。 「村雲」 は村雲江を振り返る。いつもは不安げに見上げる癖に、この時ばかりはどうしてこんなにも堂々としているんだろうと彼女は思った。 絶対に売ったりしない。村雲のことが大切だから。ずっと私の刀——そんな、聞く人が聞けば耳を塞ぐようなこっぱずかしい台詞はいくらでも言えたのに、ただ一言、彼の真意だけが問いただせない。 「これ……返せないよ」 「いいよ。……ずっと持ってて」 はおずおずと、村雲江に指輪の嵌った手を伸ばす。彼の手を握ると、ひやりと冷たい。滲んだ手汗は、どちらのものかわからなかった。