地獄に星を撒く
蝉の鳴き声の騒がしい真夏だというのに、心の臓だけがひやりとしていた。
広大な畑の真ん中に、大男ふたりが蹲っているのが見え、審神者は目を凝らした。白いのと黒いのだったので、稲葉江と富田江だろうか、と歩み寄ると、どうやら片方は違っているらしい。富田江の隣にいるのは、実休光忠だった。
柔らかい土を踏み締めた足音など、蝉の声にかき消されて聞こえるはずがない。しかし、不思議と二振りは同時に審神者の方を振り返った。審神者はどきりと心臓を跳ねさせて、すぐに平静を装い、彼らに手を振った。
「珍しい組み合わせだね」
「そうかな」
二振りはそれぞれ半歩ずつ距離を離し、間に審神者が入れるよう場所を作った。富田江に手招きされた審神者がその場にしゃがむと、彼は自分の帽子を彼女の頭に被せた。
「倒れてはいけないからね」
「ありがとう」
柔らかく微笑んだ富田江に審神者は礼を言って、顔を隠すように帽子を深く被りなおした。
「何してたの?」
「薬草の採取だよ。富田くんが興味を持ってくれたから誘ったんだ」
「前に薬草茶をご馳走になってね。いろいろ話を聞かせて貰ったんだよ」
全く違った歴史を持つ二振りであるのに、彼らはよく似ている気がした。穏やかな語り口調や纏う雰囲気、決して冷たくはないのにどこか近寄り難いと思わせるところ。印象的な瞳の温度にも、審神者はどこか近いものを感じていた。
様々な時代の刀剣が集まる本丸という場所で、同じ場所にあることのない刀や持ち主の思想が敵対する刀同士が同胞として新たな関係を築くことを、審神者は好ましく思っていた。考えの違いから多少の諍いが起きることはあれど、根本的には同じく人の歴史を守るために力を貸すことを選んでくれた物たちである。分かり合えることはなくとも、一時的にでも手を取り合うことは出来ると信じているし、その上で新たな縁が生まれれば僥倖だ。
実休光忠と富田江、この二振りが親しくすることについても、彼女は歓迎すべきである。しかし、彼女には心からそう思えない理由があった。
審神者には出生にまつわる秘密を持っていた。ごく親しい友人にも明かさず胸に秘めてきたそれは、明かすのも煩雑で、知れば気を使わざるを得なくなる。円滑なコミュニケーションの妨げになるからと伏せるようになったその事実は、本丸に来て尚誰かに打ち明けたことはなかった。
——それを最初に悟り、秘密を持つことを肯定してくれたのが実休光忠。そして、重く錆びついた口を開かせたのが富田江だった。
それぞれがそれぞれ、煤を払うように彼女の心を軽くした。命がけで戦う彼らを前に、明かせぬ秘密を持つ後ろめたさを実休光忠が許し、誰かに分かってもらいたい、知っていてほしいという気持ちを富田江が尊重してくれた。
異なるふたつの優しさは、どちらも審神者の中で比較しがたいほどに大切なもので、しかしそれが相反するものだと理解している。
審神者は、恐ろしかった。この二振りが交流を深めることで、どちらにもいい顔をしていると思われてしまうような気がして。
審神者の胸の内に気付くことはないまま、二振りは楽しげに会話を続けている。植物に詳しくない審神者は、気の抜けた相槌を打つばかりで、実休光忠の少しだけ弾んだ語り口とそれを助ける富田江の言葉を耳にしながら、意識はどこか別の場所にあった。
「ごめんね、退屈な話だったかな」
実休光忠の言葉に、審神者はハッとした。
話を聞き流していたのが見透かされ、彼女は罪悪感に駆られ首を横に振る。実休光忠は申し訳なさそうに眉を下げていた。
「ううん、私の知識不足。もうちょっと勉強するね」
じりじりと照りつける太陽が背中を焼く。審神者がふと空を見上げようとしたところ、姿勢を崩して尻餅をつきそうになった。
背中から転ぶ前に、実休光忠の手が彼女の体を支える。不意に距離が近付いて、何かが香った。薬草茶を煎じるうちに染みついた香りだろうか。彼からはいつも、不思議な——しかし決して不快ではない、どこか癖になる香りが漂っていた。
実休光忠は彼女の身体を起こし、自身も立ち上がった。それに合わせて富田江も腰を上げる。長身の二振りの顔が途端に遠ざかり、審神者は取り残されたような錯覚を覚えた。
「そろそろ戻ろうか。あまり外に長居をしては体に障るから」
「そうだね。富田くん、ありがとう。これは僕が」
「勉強になったよ。また誘ってくれるかな、薬草茶の試飲にも」
「勿論」
実休光忠は富田江が採取していた薬草を預かって、ひとつの籠にまとめた。日陰へ戻ってから、審神者は富田江に帽子を返す。二振りはそれぞれ用事があるようで、不思議な薬草採取会はその場でお開きとなった。
図らずも体格のいい彼らが日よけになってくれていたはずだが、少しだけ日光に体力を奪われたようだ。くらりと眩暈がしたので、二振りと別れた後、審神者は自室に戻って横になった。
審神者にとっては寝耳に水の話だが、実休光忠と富田江の交友関係については本丸では存外知られているものらしい。
織田の刀曰く、どんなに人を選ぶ味のものを出されても表情ひとつ変えず薬草茶を飲み、淡々と味の感想を言うところが有り難いのだろうと。確かに富田江は食の好みに頓着はないものの、良し悪しを理解する鋭敏な舌を持っているようなので、モニターとしては適任だ。どういう経緯で薬草茶を飲ませることになったのだろうと審神者は興味を持ったが、深く探るには至らなかった。
納得はしたものの、審神者の懸念が消えたわけではない。互いが知る前に——彼らが審神者の秘密について話をする前に、直接打ち明けるべきだろうか、と彼女は迷った。
しかしそれは加害者の一方的な謝罪と同じく、彼女が楽になりたいだけに過ぎない。少しでも幻滅されませんように、という情けのない祈りだった。そんな愚行に逃げることこそ主としての信頼を失うことに繋がるのでは、という考えまで浮かび上がってくる。
思考の袋小路に陥り身動きを取れなくなって、結局のところ何も行動に起こせないまま時が過ぎた。
先日の快晴から一転、その日の空は厚い雲に覆われていた。
朝方から絶え間なく降り続く雨が空気を湿らせて、本丸全体がどんよりと薄暗い。気分が降下するばかりでなく、審神者は体にも不調を感じていた。体が重く、じんと響くような頭痛が続いている。
彼女がぐったりと畳に張り付いて横になっていると、空いた障子から富田江が顔を覗かせた。
「探したよ。体は大丈夫?」
「富田……。なんかあった?」
背筋のぴんと伸びた彼相手にだらしない態度で応対するのは憚られ、審神者は緩慢な動きで上体を持ち上げて、座り姿勢を取った。
頭を動かすと、脳が膨張したように気怠い。富田江は「茶会のお誘いだよ」と言って、審神者に視線を合わせようと畳に膝を付いた。
「お茶会?」
富田江のお茶会と言えば、茶室で行うしっかりとした茶道の会である。審神者も何度か誘いを受け、作法を知らないなりに形からと着物の着付けを篭手切江に頼み、参加させてもらったことがあった。
茶道の素人ながら、心落ち着くあの場の空気は好ましいものだったが、生憎と今の体調で腹を帯で締められては口から何かが出かねない。「悪いけど」と断ろうとすると、富田江は首をゆるく横に振り、「今日は私の茶会ではなくて、実休くんの薬草茶だよ」と言った。
「実休の? ……っていうか、それをなんで富田が?」
「元々試飲をさせてもらう約束をしていたんだ。それで、君の調子が悪いようだから誘ってきてくれと頼まれて。君向けに調合したものが上手くできたそうだよ」
どうやら、気候の変動で体調を崩しやすい審神者を気遣って、実休光忠が薬草茶を淹れてくれたそうである。
こういったことは初めてではなく、実休光忠は以前も、月のもので腹痛に苦しむ彼女に薬草茶を用意してくれた。この頭痛が少しでも楽になるならば藁にも縋りたいのが現状だ。富田江に「どうかな」と訊ねられ、審神者はのそのそと起き上がった。
「行く……」
「辛そうだね。歩ける? 抱えようか」
「そ、そこまで体調悪いわけじゃないから。大丈夫」
抱えると言われ、審神者は真っ先に自身をお姫様抱っこする富田江の姿を想像した。江の刀の王子様、というだけあって、空想の中でも絵になる姿だが、お姫様のポジションが自分というのは頂けない。
じわりとかいた汗を湿気のせいにして、審神者は廊下をぺたぺたと歩いた。長い脚の富田江は、彼女の後ろを歩幅を合わせて歩いている。審神者はなんとなく、散歩に連れ出された老犬になったような気持ちになった。
審神者の覚束ない足取りを、富田江は後ろから見守っている。ふと審神者が振り返ると、ふらつきながらも彼女が自分の足で歩くことを尊重しているようなやさしい眼差しをしていた。
富田江に教えられた部屋へ入ると、実休光忠が湯呑に茶を注いでいるところだった。
彼は審神者の顔を見ると「来てくれたんだね」と表情を柔らかくする。部屋の隅に積んでいた座布団を富田江が敷き「座って」と促され、審神者はそこに腰を下ろした。
「どうぞ」
「ありがとう。……なんか、いいにおいする」
実休光忠に差し出された茶は、飲むのに適した温度に冷まされていた。香りを嗅ぐと、草の香りの奥にさわやかな果実の気配を感じる。ほんのりと甘い優しい香りが、痛みに強張った体をほぐすようだ。
審神者の言葉に、実休光忠は「わかる?」と口元を綻ばせた。
「飲みやすくなるように果物を幾つかブレンドしてみたんだ」
「へぇ」
「うちの果樹園で採れたものなんだよ。形のよくないものや小さいものを幾つか桑名くんに譲ってもらえるように、富田くんに交渉してもらって」
「交渉というほどのことは何も。君の口に入るものだと言ったら、桑名も喜んで譲ってくれたよ」
「そうなんだ。なんかいいね、そういうの」
意外な交流を耳にし、審神者は自分の知らないところで様々な人間——刀剣関係があるのだな、と思った。
湯呑に口をつけ、茶を舌に滑らせる。薬草特有の青い苦みは果物のさわやかな甘さで抑えられ、嚥下を妨げない飲みやすい味に仕上がっていた。
食道に広がる温かさにほっと安らぎながら一口、二口と湯のみを傾けていると、審神者は実休光忠からの期待に満ちた視線を感じた。
「おいしい。あったかくて……ほっとする。今日蒸し暑いと思ってたんだけど、内臓は冷えてたのかな、なんか……不思議な感じ」
「良かった。血の巡りを良くする薬草をブレンドしたから、これで少しは頭痛も収まるといいのだけど」
「富田も同じの飲んでるの?」
「私は別のものを頂いているよ」
審神者が興味本位で隣の富田江の湯飲みを覗き込むと、それは審神者のものと違った色をしていた。立ち上がる湯気に乗った香りは、審神者が口にしたものよりも青臭い。いかにも薬草茶然とした、人を選ぶ香りである。
「試作品だそうだ」
「主も飲みたいなら淹れようか」
「いや……大丈夫。こっち美味しいから、もう一杯おかわりしていい?」
「嬉しいな。気に入ってもらえたんだね」
審神者が空になった湯呑を実休光忠へ差し出すと、彼は輪切りの果物が浮いた耐熱ガラスポットから茶を注いだ。「少し熱いから気を付けて」と言い添えて、審神者に湯呑を返す。
富田江は茶を啜り、思案するような顔で味わっていた。香った独特の匂いを思えばもう少し表情を変えたっていいものだが、富田江は真剣にその味を確かめている。
「少しえぐみが強いね。土の味に近いかな。後味は残らないけれど、一口目の刺激が強いかもしれない。香りを抑えれば少しは変わると思うけれど、どうだろう」
「ありがとう。参考にするよ。こっちはどう?」
「いただくよ」
審神者はふうふうと茶を冷ましながら、二振りのやり取りを見ていた。
富田江の饒舌なレポートを聞き、茶の味に興味を引かれたが、土の味がすると聞いては手が出ない。そもそも、何故富田江は土の味など知っているのだろうか——と考えて、先ほど名前が出た彼の身内の、桑名江が土を味見していたことを思い出す。彼に付き合って、富田江も口にしたことがあるのかもしれない。
審神者は自分用にとブレンドされた薬草茶を飲みながら、富田江がまた新たな茶の味を品評をするのを聞いていた。二振りの落ち着いた声色と語り口調は心地良く、彼女の心を安らげた。
「ふたりっていつもどんな話してるの?」
「今日みたいに薬草茶の感想を聞いたり……あとは、僕の話を聞いてもらうことが多いかな」
「茶道と違った茶の話は興味深いから、ありがたく聞かせて貰っているよ」
「へぇ、ほんとに仲いいんだね」
「あとは、君の話を」
湯呑を持ち上げていた審神者の手がぴたりと止まる。
顔を上げると、二対の瞳が審神者を捉えていた。首筋を汗が伝って、審神者は口を付けないまま湯呑を机の上に戻す。薬草茶で温まったはずの身体が、指先からひたりと冷えていくのを感じていた。
「私の……話?」
「そう身構えるようなことではないよ。君が頑張っているね、という話さ」
身体を強張らせた審神者を見抜いて、富田江はそう口にした。けれど彼女の緊張は解けぬまま、視線は実休光忠へと移る。二振りのそっくりな真意を見透かさぬ瞳は、審神者の頭と身体の動きを鈍らせた。
審神者だけが、穏やかな茶会で居心地が悪かった。顔色を悪くした彼女に気付かないような、鈍い二振りではない。俯いた審神者の様子を窺った実休光忠が、不安を纏った声色で「嫌だった?」と訊ねた。
特に接点を持たぬ二振りだから、会話のネタと言えば本丸の生活と互いの趣味、そして共通する主のことに限られるのは目に見えている。他の刀たちだって、審神者の話を話題に上げることは珍しくない。それをこの二振りにだけやめてくれというのは、あまりにも利己的で、筋が通っていないと審神者自身も理解していた。
「ううん。何言われてるんだろうって、気になっちゃっただけ」
彼女は首を横に振る。今更取り繕ったところで、違和感は拭えるはずがない。けれど大人びた二振りは、彼女が何もないと言えばそれ以上を追及してはこなかった。
「主、どこかへ出かけるの?」
「あ、うん。ちょっとお買い物」
「じゃあ僕もお伴していいかな」
ある日の昼下がり、気晴らしに街へ出ようとしていた審神者に、実休光忠が付き添いを申し出た。
ここのところ富田江と彼の並びに気を揉むことの多かった審神者だが、元々は悩みを打ち明ける程に心を傍に置く間柄である。彼の誘いを断る理由はなく、それを分かっていてか、もう行くことが決まったような顔つきでウキウキとした実休光忠を見てしまっては、袖にすることなどできなかった。
「いいけど、顔洗ってからね」
「顔?」
「ほっぺのとこ、土ついてる」
審神者が自分の顔をとんとんと指さすと、実休光忠は目を丸くして示された部分を拭った。ぱらぱらと乾いた土が落ち、眉を下げて「恥ずかしいな」と笑う。
「また薬草の採取?」
「今日は畑当番だったんだ。支度をしてくるから、少しだけ待っていて」
そう言って、実休光忠は汚れを落とし、外出用の衣服に着替えて身なりを整えてから、門の前で待つ審神者の元へやってきた。
「さ、行こっか、僕が欲しいのはね」
「ちょ、ちょっと待って」
「うん?」
浮かれを隠しきれない様子で出立を促す実休光忠を、審神者は思わず制止した。彼はその容貌に見合わぬかわいらしい仕草でこてんと首を傾げ、何ら不思議なことはないと言わんばかりの態度を崩さない。
「手、これ……何?」
「刀を佩くのと同じようなものだよ」
「どこが……?」
審神者の手はがっちりと、実休光忠の黒手袋に包まれた手に掴まれていた。
彼女が見せつけるように手を持ち上げても、実休光忠は頑なに手を離そうとはしない。痛みを感じるほどではないものの、決してして離す気はないという意思を明確に感じる力で握られて、非力な審神者では到底振りほどけそうになかった。
「嫌、だったかな? だったら離すよ」
「い…………嫌じゃないけど」
「じゃあ、このままで」
嘘でも嫌だと言うべきだったと、審神者は後悔した。ふわふわした口調に惑わされてしまいがちだが、実休光忠という男は我が強い。意見を強く主張するわけではなくとも、纏うオーラが周りに全てを許させてしまう。彼女もまた、いつの間にか彼のペースに巻き込まれてしまっていた。
実休光忠はご機嫌に審神者の手を引いて街へと歩き出す。幼なげな短刀と戯れに手を繋いだことはあるが、相手は大人の男の姿をしている太刀である。同じ刀剣男士といえど、それとはわけが違った。
じわりと手汗が滲むのを感じて審神者は手を緩めようとしたが、彼はそれを許さない。結局街に着いて、窮屈な店内で不自由になるまで、その手は掴まれたままだった。
審神者の買い物を済ませて店を出ると、実休光忠は自然な動きで彼女の手から荷物を攫った。審神者がお礼を言う前に再び手を繋がれて、開いた口が何の言葉も発さぬままになる。見上げた先の紫の瞳は楽しげで、審神者は何も言えなくなった。
「私の分の買い物はこれで終わりかな。実休、寄りたいお店とかある?」
「うん。こっちだよ」
実休光忠に手を引かれ、人通りの多い大通りを歩きながら、審神者は誰かに見られているような錯覚を覚えた。
街中で自分の本丸の刀と出会うことは滅多になく、こんなところですれ違うような知人もいない。であれば自意識過剰なはずだが、こんな風に感じてしまうのは何故だろうかと考える。
理由はひとつ、隣を歩く男に未だ拘束された手だ。
刀剣男士と女審神者がいい仲になるという話は、今日では珍しいことではなかった。本丸崩壊に発展するレベルの痴話喧嘩や内輪揉めさえなければ、ある程度は看過されている。他所で男を作って審神者を辞められるよりはマシ、という考えなのだろう。
なので、はたから見てどこかの本丸の審神者と実休光忠が手を繋いで歩いていようと「ああ、そういうところか」と思われるのが関の山だ。決して、注目を集めるほど目新しいものではないはずである。
つまりは、審神者の自意識過剰だ。彼女の後ろめたさが、賑やかな街でたったひとり、居心地を悪くさせていた。
審神者は心の中で「気にしない、大丈夫」と自分に言い聞かせ、黒い背中を追った。
実休光忠は目当ての店を見つけると、「ここだよ」と看板を指さし、くたりと力の抜けた笑みを見せた。彼が店で購入したのは、薬草茶を煎じるのに必要であろう器具などだ。審神者の買ったものを、一緒に大きな紙袋にまとめてもらっていた。
陶器やガラスで出来たそれ等が入ってそれなりに重いはずの紙袋を、実休光忠は軽々と片手で持っている。店を出た途端に空いた手を当たり前のように差し出され、今度は審神者から掴んでやると、実休光忠は至極幸福そうに表情を綻ばせた。
興が乗ってあれこれと店を見て回っているうちに、陽は傾き始めていた。長く伸びた影を追いかけるように背に夕陽を受けながら、ふたりは帰路に着く。大小の影は、彼らと同じく手を繋いでいた。
「今日はすごく楽しかったな」
「買い物しただけだけど」
「うん。でも、君を独り占めできた」
思わせぶりな言動に、審神者の心臓がどくりと跳ねた。こういった甘い言葉を躊躇わないところは、やはり長船だなと審神者は思う。
背筋がピンと伸び洗練された佇まいの長船派の中で、実休光忠という刀は少しばかり異質に見えた。容姿こそそれらしいものの、話してみると彼らの中では珍しい、ほわほわと柔らかい雰囲気を纏っている。長船派の面々と話す時は気を張ってしまう彼女にとっては、珍しく心を寛げたまま接することのできる一振りだった。
故にこうも気を許してしまっているわけだが、やっぱり油断ならないなと、審神者は内心気を引き締める。手を繋ぎたいと甘えられてそれを受け入れてしまっているあたり、もはや手遅れなのかもしれないけれど。
ふとした時に匂い立つ色気は本刃の意図しないものであり、色っぽい声質がそう聞こえさせるだけで、その言葉には深い意味はないのだろう。
そう自分で自分に言い聞かせ、雑念を払うように首を横に振ると、地面に写った影も同じように頭を揺すった。
「実休は普段は誰と買い物行くの? 燭台切?」
「うん。弟たちに付き合ってもらうことが多いかな」
「へー」
それは安心、と頭に浮かんだ本音を、審神者は喉の奥に押し込めた。
買い物中の実休光忠は、あっちにこっちに興味を引かれては、フラフラ好き勝手歩いて行ってしまう。今日は手を繋いでいたからはぐれることこそなかったものの、ひとりで出掛けさせては、心配で気が気でないだろう。
それこそ、悪徳業者にでも騙されて水の定期購入を数万円で契約させられてしまうんじゃないか、とすら思うほどの危うさだ。さっきだって、明らかに相場より高い商品を売り付けられてそのまま受け入れて買ってしまいそうになっていた。
他の光忠の二振りはしっかりしているから、彼らがついているなら心配はなさそうだ。これではどちらが兄か、わかったものではない。
そういえば——と審神者は、そんな経緯である話を想起する。そんな実休光忠と対照的に、ここのところ富田江は買い出しに引っ張りだこなんだっけ、と。
先日故障した家電を買い替えにいく際に、経理に携わる松井江が「富田を連れて行ってはどうか」と提案したそうだ。「交渉が得意だそうだから、値引き交渉をさせてみよう」と国宝相手に文化庁が聞いたら卒倒しそうな庶民的な頼みを、富田江は二つ返事で請け負った。
その結果、富田江は最新家電を店頭価格の半額まで値引きさせ、しかも付属する消耗品のストックをいくつかおまけとしてつけてもらって帰ってきた。もはや交渉を超えて手品の領域である。それ以降、本丸全体で消費する日用品は勿論、個刃的な買い出しにまで、富田江は付き合わされているという。
実休光忠とはまるで真逆だな、と審神者は思った。彼らに交友があると知った当初は、よく似た二振りだという印象を受けたが、紐解いていると、まるで真逆であるように感じる。
ぼんやりと遠くにやっていた審神者の意識を引き戻すように、実休光忠が握った手に力を込めた。審神者がハッとしてその顔を見上げると、彼は瞳をうっとりと細めていた。
「でも、次にまた欲しいものが出来たら君を誘おうかな」
「えっ」
どうやら今日の買い物を、実休光忠は審神者が思っているよりもずっと楽しんでいたようだ。
火傷痕に飾られた整った顔立ちが、一日の出来事を思い返して噛み締めるように柔らかく綻ぶ。男女問わず視線を惹きつけるような魔性の笑みに、審神者は刹那、時を忘れた。
何のしがらみも無ければ胸を躍らせていただろうに、高揚と同時に感じるひやりとした危機感が審神者の体に張り付いて離れない。夕陽に焼かれて熱いはずの背筋に、冷たい汗が伝った。
「……暇な時ならいいけど、実休だけを特別扱いできないよ」
「そうだね。君はみんなの主だから」
「うん」
みんなの主——その言葉に縋るみたいに、審神者は深く頷いた。
歩いているうちに、道の先にはもう本丸が見えていた。今頃、厨当番が夕飯の支度をしてくれているはずだ。
空腹を感じて審神者が思わずこぼした「お腹すいた」の独り言に、実休光忠が同調しながら腹の音を鳴らす。先程まで感じていたじっとりとした寒気が気の抜けた音で晴らされた気がして、審神者は声をあげて笑った。
長らく机に向き合っていた審神者は、ふと途切れた集中力に身を委ねて、腕を伸ばし凝り固まった背筋を解した。時計を見ると、仕事を始めてから二時間が経とうとしている。
この日は本丸全体が休みで、出撃や遠征の出立の予定を入れていなかった。近侍にも暇を出しているから、執務室には彼女ひとりだ。
いつもなら頃合いを見て気の利く刀が茶と茶菓子の差し入れをしてくれるところだが、審神者の意を汲んで、今日は彼女のこともそっとしておいてくれているらしい。仕事に没頭するあまり、時間を忘れてしまっていた。
審神者は椅子から腰を上げ、戸棚へと向かった。木枠にガラスが嵌められたそれは、本丸発足から一年が経った頃、町の家具屋で一目惚れして迎えたものだ。サイズも手頃で、目隠しがわりのデザインガラスが可愛らしい。その中には休憩時に使う食器や、貰い物のお菓子なんかを仕舞っていた。
戸棚の手前に収まっていた菓子は、先日富田江が遠征の土産にと持ち帰ったものだ。
富田江は審神者の口に合う菓子を選ぶのが非常に上手だった。遠征のお土産として貰ったものに毎度喜びと感謝を伝えるうち、今では審神者好みの菓子を見つけるたびに、理由がなくても贈ってくれる。
本刃はあまり菓子を好き好んで食べる習慣はないらしく、口にするのは茶会くらいのものだそうだ。行く先々で街の人々から評判の菓子を聞き出すのが上手いようである。
今回のお菓子もとっておきのタイミングで食べようと大事に置いておいたもので、疲労の溜まった今は甘味を味わうのに最適だろう。
丁寧に包みを開けると、中には羊羹が入っていた。つやりとした表面を見るだけで、舌を撫でる濃厚な甘さを想像し、審神者は口元を綻ばせる。しかし、小ぶりではあるもののひとりで食べるには多いように思えた。
審神者は少し考えて、取り出した羊羹を机に置いて部屋を出る。彼女の暮らす離れから廊下を渡って母屋へと移動し、さらに歩いた先にある茶室を覗く。するとそこには、思った通りに富田江の姿があった。先日の雑談で、次の休みは何をするのかと尋ねた時、茶室の掃除をしようと思う、と話していたのを審神者は覚えていた。
「富田、ちょっといい? この間もらった羊羹食べるんだけど、一緒にどうかな」
「そうなんだね。私がいただいてもいいのかな」
「勿論。掃除、途中だった?」
「今ひと段落ついたところさ。それでは、せっかくだしお呼ばれしようかな」
審神者は富田江を伴って、再び部屋へと戻った。
富田江は彼女に指示されるよりも先に奥の給湯室へと入って、茶の用意を始める。審神者が羊羹の箱を持っていくとそれを切り分けて、ひとり分ずつ皿に盛った。
茶会の準備で慣れているのか、見事な手捌きだ。西洋の名画から飛び出してきたような顔立ちの彼がジャージ姿で腕まくりをしているのがなんだか面白くて、審神者は口元を緩めながらその姿を眺めていた。
羊羹と一緒に飲んだ紅茶は、審神者がストックしている格安のティーバッグで淹れたものだが、富田江の手にかかると途端に値段以上の高貴な風味を感じられた。
審神者が自分に淹れるのとは訳が違うのは当然として、素人目に見ている限りでも湯の注ぎ方や蒸らしが丁寧だったように思う。「富田って紅茶淹れるのも上手いんだね」と素直に褒めると、「実休くんから薬草茶の淹れ方を聞くうちに、少し学んだんだ」と答えた。
審神者はぴたりと一瞬止めた動きを誤魔化すように、カップに口をつける。淹れたての紅茶は口内に招き入れるには少し早くて、舌先で熱さを確かめただけでソーサーに戻した。
何気ない雑談をしばらく交わすうち、話題は審神者の卓上のことに移った。
電子機器の取り扱いに不慣れな刀剣男士も多いため、日々の生活に関わる申請などは書面で行なっており、レターケースには承認を待つ書類が詰まっている。逆に審神者のみが行う仕事や、実務に慣れた者が携わる経理関係は完全に電子化されており、こちらは電子端末で処理を行っていた。
富田江が興味を持ったのは、仕事道具の脇に飾られているいくつかの雑貨だった。
明らかに仕事に不必要なそれらは、審神者の趣味で買ったミニフィギュアや、貰い物の装飾品である。最初は現世へと帰った時に回したガチャガチャのフィギュアの置き場に迷って飾ったものだが、いつの間にか数が増えていた。審神者がそれらひとつひとつの思い出を語るのを、富田江は穏やかに頷きながら耳を傾けていた。
「それで、一番端っこのが香水だね。昔友達に貰ったんだけど、本丸だとつける習慣がなくて……。瓶が可愛いから飾ってる」
「そうなんだね。上の飾りはお姫様かな? 確かに、よくできているね」
仕事中にうっかり落とさないようにと、壁に寄せて端に追いやられているのは香水瓶だ。ノズルの部分は彫刻のような細工がされていて、ガラスの瓶の上に西洋のお姫様が乗っているような意匠であった。香りは審神者にはちょっと上品すぎるくらい華やかで、つけて出かける場所もないのでこうしてインテリアとして目を楽しませてくれている。
「富田ってこういう香りものってあんまり興味ない?」
「私はあまり馴染みがないかな。稲葉なんかは、そういうのに凝っているみたいだけれど」
「へぇ、ちょっと意外」
気品ある顔立ちは薔薇の香りでも漂ってきそうな造形をしているが、富田江からは何の香りも香ったことはない。茶道を嗜む彼は、茶の香りを楽しむために、敢えて強い香りを避けているのかもしれない、と彼女は思った。
審神者は稲葉江の香りを思い出そうとしたが、特別印象に残ってはいなかった。それもそのはず、稲葉江は取っつきやすいとはいえない刀で、無闇矢鱈に触れようものなら無礼打ちにされかねない。あの様子なら、鼻につくような下品な焚き方もしていないだろう。
刀剣男士によってはそういった香りものをつける趣味があったり、戦支度の一環として備えている者がいる。稲葉江はおそらく、後者だろうと審神者は思った。
そういえばと、思い出したのは実休光忠のことだった。
彼は香水ではないけれど、独特の香りを纏っている。顕現して間もない頃——まだ彼のことを光忠兄弟の兄であり、あの魔王の刀であるとしか認識していなかった時に、ふわりと香ったその匂いについて訊ねたのだ。長船だから、何か香りを身につけているのだと疑わず。
けれど実休光忠はそれを否定し、香りの出所は審神者であると言い出し、あまつさえそれを嗅いで——甘い、などととろけた声で囁いた訳である。当時はその衝撃に驚くあまり、近侍として側に控えていたへし切長谷部がいなければその場に伏していたかもしれない。
昔馴染みということもあって、その後実休光忠はへし切長谷部から主との適切な距離について説教を受けた。当時は「ごめんね」と謝ってくれたものの、その事は今や遠くに忘れ去られているらしい。買い物に行った時に握られた手が、その証拠だった。
審神者が物思いに耽っていたせいか、不意に会話が途切れた。
紅茶はもう飲みやすい温度に冷めている。富田江のカップを覗くと、ちょうど審神者と同じだけのかさが残っていた。その隣の皿に乗った羊羹も同じことである。
審神者が紅茶を飲み干すと、富田江は不自然でない仕草で同じようにカップを傾ける。意識して見なければ気付かないほどにごく自然に、審神者とペースを揃えていた。
——話すなら、今しかない。
カップの持ち手に指が触れ、ソーサーとカップの間で軽い音が鳴った。「あのね」と切り出した審神者の声は先ほどの雑談と比べて弱々しい。富田江は正座した膝の上に手を揃えて、彼女の言葉の続きを待った。
「……富田って、実休と最近仲良いよね?」
「そうだね。江の刀や加賀っこ以外なら、実休くんと話す機会が多いかもしれない」
「その……私の話をしてるって言ってたけど、……」
切り出して尚、彼女は逡巡する。
審神者が富田江たった一振りに明かした、出生にまつわる秘密。これについて実休光忠と話したのかどうか、ただそれを訊ねたかった。
審神者が彷徨った視線の先を追うようにして、自然と富田江と目が合っていた。彼が微笑み頭を小さく傾けると、美しい金糸がさらりと揺れる。
「君が心配するような話はしていないよ」
「あっ……」
だから安心してね、と言いたげに唇は緩い弧を描く。
審神者が例の秘密について憂慮しているのだと、富田江は間違いなく気付いていた。彼女の不安を全て見透かして、心を苛むこと自体への後ろめたさを感じているのを理解して、その上で明言することを避けているみたいだった。
「富田が実休に言っちゃうんじゃないかって疑ってる訳じゃ、ないの。ただその……」
「わかっているよ。彼は秘密を大事にしているから、ということだろう」
「うん……」
審神者の心配が杞憂だったことだけがわかって、それ以上は必要なかったのに、気付けば彼女はつらつらと言葉を並べ立てていた。
富田江の真綿の優しさが、彼女の心臓を締め上げる。カップに手を伸ばして、もう中身が空なことを思い出した。
「お茶のおかわりはどう?」
「……ううん、もういいかな。ごちそうさま」
その一言で、お茶会はおしまいになった。
富田江は空になった食器を集めて、後片付けをしようとした。準備もほとんど任せてしまった彼にそこまではさせられないと、審神者は無理矢理に彼を部屋から追い出そうとする。するとちょうどよく稲葉江が富田江を探す声が聞こえて、「呼ばれてるよ」と言って背中を押せば、富田江は申し訳なさそうに眉を下げ、彼女に従って部屋を出た。
審神者はひとりで流し台に立ち、食器類を洗った。流水が陶器やシンクの底を打つ音が、思考に耽った彼女と現実世界を隔てる膜のように鼓膜を覆う。秘密についての心配がなくなっても、どこか心ここに在らずのままだった。
富田江、実休光忠——審神者の心には、二振りの刀がいた。
刀剣男士を数振り選んで引き立てるのは、珍しいことではない。はじまりの一振りや初めて鍛刀した刀は言わずもがな特別な存在であるし、日々を過ごすうちに他とは違った関係が生まれるのも、心を持つ者同士なら当然だ。今や刀と人が恋し合うなど審神者の間では驚く話でもないから、彼女が負い目を感じる必要などひとつもなかった。
にもかかわらず、じくじくと臓腑がとけおちていくような苦痛が審神者を蝕む。頭の中で誰かが繰り返し、審神者を罵倒していた。怒声が反響して、声量は大きくなるばかりだ。ノイズのような流水音と罵声が重なって、外の音がまるで聞こえない。
こんな風にネガティブな考えに押し流されてしまうくらいなら、富田江を追い出さず悪いと思っても後片付けの手伝いをしてもらった方が良かったのではないか——そんなことを考えて、きっとそれはいけないと目を瞑る。
無意味に水を垂れ流していた蛇口を捻ると、思考の濁流が止まる。ぴちゃん、ぴちゃんと雫が水溜まりに落ちる音が、審神者の冷静さを取り戻させた。
彼女は深い深呼吸をして、気晴らしでもしようと部屋を出た。
「天下一の江と魔王の刀、ですか。いい趣味をしてますね」
籠の鳥が外にいる、と思った。
離れを出て庭へと降り、母屋の方へつながる道を歩いていると、鉢合わせたのは宗三左文字だ。彼は腕を組んで片足に重心を預けて立ち、審神者にそんな言葉を投げかけた。
「珍しい、外にいるなんて」
「僕だって日光浴することくらいあります」
「嘘だあ」
「ええまあ、嘘ですけど。おさよが粟田口の子たちと遊びに行くのを見送った帰りです」
ふたりはなんとなくそばの縁側へと寄って、そこに腰を下ろした。
宗三左文字の白い肌が日に焼けてしまってはいけないと、審神者は彼の影になる位置に座る。けれど細身といえど刀剣男士と小娘だ。日避けになるには、小柄な体躯では些か嵩が足りなかった。
「それで、さっきのなに? 天下一の……とか、魔王とか」
「ああ。随分いいのを侍らせているなと思って」
貴方の部屋から富田江が出てくるのを見ました、と宗三左文字は続けた。審神者は膝の上で拳を握る。半身がじりじりと日光に焼かれて暑かった。
富田江とは羊羹のお礼にお茶に招いただけだ。それも、準備はほとんど彼にして貰っている。家臣としての一線は越えておらず、何ら問題はないはずだが、休みの日に女人である主の部屋から一振り出てくる様を見れば、そのような誤解を受けるらしい。そんなことに、浅慮な審神者は今更になって気がついた。
「てっきり実休とそうなのかと思っていたので、驚きましたよ」
誤解を解こうと開きかけた口は、宗三左文字の言葉によって閉ざされた。審神者ははくはくと餌を乞う池の鯉みたいに唇を戦慄かせると、俯いて消え入りそうな小さな声を漏らす。
「実休も富田も、そんな……特別な関係じゃないよ」
「そうですか? 向こうはそう思ってないようですが」
宗三左文字の飄々とした口調は、彼女を嗜めるようだった。
まるで立場を利用して、見てくれのいい男を好き勝手弄ぶ悪女のような扱いを受けている。審神者は口ではそんなことないと言いながら、強く否定出来ずにいた。何もないと堂々と主張するには、彼女は彼らに心を預け過ぎている自覚があった。
「文句があるなら、ちゃんと言ってよ」
「文句? 自分で言うのもなんですけど、僕が何か言うとでも?」
「……それもそうか」
遠回しな嫌味に耐えかねた審神者が宗三左文字を睨むと、意外にも彼は目を丸くして軽い声で応対した。どうやら宗三左文字の言葉を呵責だと感じていたのは、彼女の被害妄想であったようで、当の本人は驚くほどにけろっとした顔をしている。
要は、宝として刀として求められ続けた彼が、人が〝刀〟を侍らすことに否定的になるはずがない、と言いたいのだろう。腹落ちした審神者は行き場のなくなった感情を飲み込んで、庭の景色へと視線を逃した。
「自分でもガラじゃないとは思うんですけどね、心配しているんですよ。これでも」
「心配?」
「ええ。よりにもよってあの実休光忠ですから。碌なことになりませんよ」
「碌なこと、か」
——そんなの、最初から決まっている。それこそ、生まれたその瞬間から。
もごもごと呟いた言葉は、宗三左文字の耳には届かない。「何か言いました?」と聞き返され、審神者は明るいふりを装って首を横に振った。
「ううん。宗三もそういう風に思ってくれるんだって、ちょっと意外だった」
「まぁ、一応は今代の主ですからね。あんまり愚かだと見てられません」
宗三左文字は組んだ足の膝に頬杖を突き、ため息を吐いた。何とも愛らしい照れ隠しだ。色違いの虹彩が、それぞれ光を受けて輝いて見える。この瞳が宝石ならば、きっと美しいプリズムを放つのだろうと審神者は思った。
「じゃあ、私に何かあったら助けてくれる?」
「面倒ごとはよして下さい。それに、頼むならもっと他に喜びそうなのがいるでしょう」
「あ、長谷部とか?」
「よくわかっているじゃないですか」
軽口を叩き合っているうちに「暑いね」「暑いですね」と言い合って、ふたりは屋根の下に引っ込んだ。
揃って厨を覗くと、南泉一文字が冷凍庫を開けたまま冷気を感じながら棒アイスを貪っている。審神者と宗三左文字は『節電』と書かれた張り紙にチラリと視線をやって、南泉一文字から口止め料として棒アイスをせしめた。
ホテルに備えられたガラス張りのラウンジからは、見頃を過ぎても不自然なほどに咲き狂ったバラ園が一望出来た。日光に晒されたアイアンチェアは曲面に光を跳ね返し、触れるのを躊躇うほどに熱されているのが明らかだ。
審神者の対面に座る宗三左文字は、主の前とは思えぬ態度で寛いでいる。ふかふかとした座り心地のいいラウンジチェアは、いかにも上品でございという佇まいで、審神者の心を強張らせた。
「近侍に僕を選んだのはこうなることを予見していたからですか?」
「……正直、否定できない。ごめんね、嫌な目に遭わせて」
「まさか。良い判断だという意味です。前に愚かだと言ったのは取り消しますよ」
履き口の堅いパンプスは、ストッキング越しの審神者の足を窮屈に締め付け続けている。さっさと脱いでしまいたい、と思うものの、こんな高貴な場所でそうするわけにもいかず、審神者は机の下で足首同士を組んだ。手持ち無沙汰に啜った小難しい横文字の紅茶は、抜けるような優美な花の風味が口に合わず、居心地の悪さを増長させた。
護衛に宗三左文字を伴って、審神者はある人物——書類上は父ということになっている男との面会を済ませたばかりだった。
グレイヘアを撫でつけ口ひげを蓄えた厳めしい顔つきの男は、およそ彼女の生みの親にしては歳を重ね過ぎているように見えた。それもそのはず、本来の血縁は審神者の母の父——つまりは、祖父に当たる。
審神者は、この男の娘と、ある刀剣男士の間に生まれた子だった。審神者を生んで間もなく、母は亡くなった。それに伴い本丸も解体され、父にである刀剣男士はその時に刀解された——そう聞かされている。
一家の名に泥を塗るような愚かな行いをした母は、その存在自体を抹消され、審神者は祖父が愛人に産ませた子、ということになった。そんな都合が通るのかと問われれば、それを通す権力が祖父にはあった、としか答えようがない。
煩わしい存在を物置に押し込めてなかったことにするように、祖父は審神者を本丸へと送り込んだ。それを数か月に一度呼び出して、母と同じ愚行を犯していないかを確かめている。
そうして、彼は繰り返し審神者に言うのだ。お前の存在は家の繁栄のための道具にすぎないと。それをゆめゆめ忘れるな、と。
祖父は刀剣男士を、路傍の塵と同じ眼差しで見る。いくら祖父が刀剣男士らを忌み嫌っていようと、立場上護衛を外すわけにはいかない。迂闊な刃選をしては流血沙汰に発展しかねないので、審神者は特に気を遣って伴を選んだ。そうして白羽の矢が刺さったのが、宗三左文字である。
物として宝として、達観した価値観を持つ宗三左文字は、祖父の失礼極まりない言動にも動じなかった。天下人に求められ続けた伝承が形作った彼の魂は強固で、あの程度の三下に愚弄されたとて傷にすらならない。
それを見越して彼を選んだことを本刃に指摘され、彼女は内心胸を撫でおろした。彼の気高さは、あの程度で損なわれることはない。家臣としては淡白なその態度が、今の審神者には何よりも有難かった。
「舐め犬がわりの鉄くず、妖怪風情でしたっけ。結構な言われようでしたね」
「失礼な父で申し訳ない……」
「あなた、あれをまだ父と呼ぶんですか? 随分孝行なんですね」
宗三左文字は、審神者の出生の秘密を知らない。まさか本当の父ではないと知るはずもないが、彼の皮肉が不意に本質を掠め、審神者はごくりと喉を鳴らした。
「それで、どうするんです。結婚、本当にするつもりですか?」
「……するんじゃない?」
「まるで他人事ですね」
「だって、私が決められることなんて一つもないもん」
いつもの如く一方的に罵倒に等しい言葉を浴びせられるだけの面会かと思えば、今日は少し違っていた。祖父は従順に肯定以外の言葉を返さない彼女に少しばかり機嫌をよくしたかと思えば、「お前の結婚相手が決まった」と言い放ったのだ。
お付きの者に結婚相手とやらの写真を見せられ審神者が落胆したのを、彼女の斜め後ろに立っていた宗三左文字も見ていたらしい。彼女と干支一周では足りないほど歳の離れた冴えない中年を、本気で審神者に見合うと思って当てがうのだから、祖父は心の底から審神者のことを駒の一つとしか思っていないのだろう。それをまざまざと感じ、愛など遠い昔に諦めていたはずの彼女の胸がつきりと痛んだ。
「結婚しなかったら、本丸ごと解体だよ。すれば一応、形としては残しておくって」
祖父は自身がこの上なく寛大であると主張して、審神者に条件を出した。
写真の男と籍を入れ、男児を産むこと。彼女を血と縁を媒介する肉人形としか思っていない非人道的な扱いだ。
抵抗は彼女の首を絞めることにしかならないと、彼女は知っている。諦めるしか出来ないような育てられ方で、彼女はこれまで生きてきた。何かを選び取ろうとするたびに、指の骨を一本ずつ折るように、それは叶わぬことだと痛みと共に教え込まれてきたのだ。
宗三左文字は審神者の弱腰を気に入らないと言わんばかりに鋭く睨んだ。左右で色の違う光彩は人間離れした美貌を引き立てて、この場では審神者を威圧する道具になる。
「そんなに嫌なら、隠してもらえばどうです」
まるで名案とばかりに宗三左文字は言い放つ。審神者は思わず、表情の抜けた呆然とした顔で彼を見つめた。
「そんなこと、できるの?」
「昔から神隠しなんてのは、妖怪風情の悪戯ですよ。やってやれないことはないでしょう」
どうやら存外、祖父の言葉を根に持っているらしい。宗三左文字は、嘲るような口調で言い飛ばした。
——神隠し。
一般には山や森などで行方不明になることを指す言葉だ。普通に暮らしていれば日常的に聞くはずはないが、刀剣男士と関わる者たちにとっては、ある種縁の切れない話題だった。
刀剣男士は物の魂から生まれた付喪神である。要はただの妖怪で、それに刀剣男士だなんて大仰な名と役割を与えることで時間遡行軍と戦える形へと調えられた。
そこらの妖怪よりは少しばかり力を持った彼らが、気に入った人間——特に審神者を、攫って隠してしまうことがあるという。それが、神隠し。
本来人に扱われた物の付喪神は、人という存在を愛し、重んじる。だからこそこうして歴史を守る戦いに力を貸してくれている訳だが、まあつまるところ——時の政府も一枚岩ではなく、審神者にもそれぞれ事情がある。その事情によって止むを得ず、審神者の本意ではないところで引き剥がされそうになれば、もしくは審神者本人が望めば、その手段を取ることもやむなし、と考える刀剣男士もいるということだ。
望まぬ結婚、断れば本丸ごと解体。条件としては、揃いすぎている。そして彼女と共にあるためならば手段を選ばない刀剣男士にも、心当たりがあった。
審神者はしばらく考え込んで、首を横に振る。
「できないよ」
「…………」
「できない」
それを拒むのは、幼少期からそうあるように躾けられ続けた審神者の心だ。
祖父の命に背き姿を消し、逃げ出すなんて出来っこない。それは事実としての可否なんてものは、関係がなかった。審神者には、はなから選択肢なんてものは存在しない。
「……あなたも籠の鳥、というわけですか」
宗三左文字がため息をつく。
彼が審神者を思って言ってくれたのだということは、十分に理解していた。
厭世的に見える捻くれた言葉を選ぶ彼だが、今代の主として審神者を認めてくれているのはよく知っている。そんな彼が、軽々しく神隠しなんて言葉を出すはずがない。宗三左文字も彼なりに考えた上で逃げたって構わないと言ってくれている。
その気持ちを有り難く思うと同時に、審神者は胸の痛みを感じる。もうずっと長いこと、、未来のことを考えると息ができなかった。
例の面会から間を置かず、再び審神者は現世へと呼び出された。
帰省を楽しめるような暖かい実家はないから、審神者が現世へ帰るときは大抵日帰りである。しかしこの日は翌日にも用があるとかなんとかで、一泊二日の日程を抑えられていた。
前回とは別の、しかしまた相応の格式のホテルである。食事を用意してあると言われ、そのつもりで指定されたレストランへと赴くと、プライベートルームへと案内された。
審神者がその日も付き添いを頼んでいた宗三左文字と共に中へと入ろうとすると、案内役の男は「護衛の方は外で」と言った。ふたりは顔を見合わせる。審神者は規則について伝えたが、男は時の政府からの許可は得ているの一点張りだった。
宗三左文字の視線が審神者の意思を問う。彼女としてもこのような場で信頼できる家臣——宗三左文字と離れるのは不安で心苦しい。出来ることなら、食事の間もそばにいて欲しかった。
しかし、男の急かすような「お父様がお待ちです」の言葉が後押しし、結局審神者はその要求を飲んでしまった。
「宗三、悪いけど外で待っていて」と口にした時、彼女は俯いたままでいた。きっと宗三左文字は、どこまでも父親に逆らえない彼女を軽蔑しているのだろう。そんな顔を見るのが、恐ろしくて堪らなかった。
個室の席に座って待っていると、やってきたのは先日写真を見せられた婚約者だった。
父はまだかと案内役の男に訊ねると、彼は手を兼ねて「急用が入られたようで」とはぐらかす。審神者は婚約者の目も憚らず、深いため息を吐いた。
最初からこのつもりだったのだろう。——母と同じように、刀と駆け落ちなんて真似をさせないために。
写真で見た時から思っていたことだが、自己管理のなっていない婚約者の身体は、実際に対面するとより大きく見えて、審神者は身が竦んだ。目を合わせたがらないくせに、審神者が視線を別へやると品定めするようにジロジロと眺めてくる。それが気持ち悪くて、食事の手は一向に進まなかった。
何か話を振られたが、向こうもさして審神者に興味があるわけではないらしい。人としてではなく、彼女の肩書きと女の身体としてだけ求められているのが明白だった。
ヤケクソになって出されたワインを煽ると、頭がぐらりと揺れる。この空間全てが気分が悪くて堪らず、酒でも煽って飲んで正気を失わねば耐えられそうにない。
——大丈夫、この場が終わればすぐに宗三に会える。
そう自分に言い聞かせ、審神者はこの会食が終わるのを待っていた。
しかし、そうはうまく事は運ばない。食後のデザートを——ほとんどスプーンで撫でてアイスクリームを溶かしただけだけれど——済ませ、やっと解放されると気を緩めた時のことだ。この上に部屋を取ってあるから、と言われ、審神者はスプーンを取り落としそうになった。
祖父は、審神者が思っていた以上に事を急いていたらしい。審神者は立たされて、入ってきたのとは別の扉から婚約者と共に部屋を出た。
ロココ調の細工が施されたエレベーターはふたりを待ち構えていたように扉が開いて、婚約者に促されるがまま、審神者はそれに乗り込む。扉が閉まる隙間から、審神者を婚約者に差し出したホテルマンが頭を深く下げているのが見えた。
エレベーターの中は不自然に静かだったから、婚約者の呼吸音だけが際立っていた。抱かれた肩が気持ち悪く、今すぐ切り落としたいと思った。審神者は絶望的な気持ちで、焦点の合わない瞳で、カーペットの柄を眺めていた。
それからのことは、あまりはっきりと覚えていない。
部屋に入るなり抱きすくめられ、審神者は本能的な危機を感じた。筋肉隆々の巨漢には馴染みある暮らしをしていたが、じゃれあい程度に彼らと触れても、恐怖を感じたことは一度もない。酒気の混ざった洗い息が項を撫でて、気味が悪かった。
審神者に出来たのは、ちゃちな時間稼ぎだけだった。せめてシャワーを浴びさせてくださいと言えば、婚約者は審神者を解放し、身を清めることを許した。
逃げ場などどこにもない、ただの悪あがきだ。審神者は一人で脱衣所に飛び込んで、つゆひとつ残すことなく磨き抜かれた鏡を見た。
このまま首を掻っ切って死んでやりたい、と思う。しかしそんな勇気もなく、アメニティ類を探っても刃物らしいものは見つからなかった。
宗三左文字はどうしているだろうか、と審神者は考える。今頃、心配してくれているはずだ。食事にしては、あまりにも時間がかかり過ぎているから。
あの時、離れないでと言えばよかった。ただ一言そう伝えれば、宗三左文字は何をされても審神者から離れなかっただろうに。
決してそんなことはできないとわかっていて、審神者はもしもを考えることをやめられなかった。これまでも何度も繰り返した空想である。祖父の命令を跳ね除けていれば。噂話で母の名を囁き合っていた召使の話をもっとよく聞いていれば。——宗三左文字の言う通り、隠してくれと頼んでいれば。
——誰に?
二振りのよく似た、しかしまるで別物の柔らかい微笑みが、審神者の頭に浮かんだ。
彼女はドアを開けてガラス張りのバスルームへと入り、ドレスを着たままシャワーのノズルを捻った。頭から冷水が降り注ぎ、全身を濡らす。あんな男のために、身体を綺麗にするなんてまっぴらごめんだ。
数十分を浴室で稼いだ審神者は、ガウンへと着替え、遂に腹を括ってドアノブを押した。
頭から水を被って散々泣いたせいで、鏡に映る見た目は酷い有様である。髪は乱れ化粧は崩れ、全身水を滴らせたままだ。この姓を継ぐ子供さえ産めばなんだっていいんでしょ、と投げやりになった彼女の些細な反抗だった。
しかし、ドアの先には審神者が想像したのと全く違った景色が広がっていた。
「……え」
婚約者の男が、ベッドの上に臥している。うつ伏せで顔は伺えないが、扉が開いた音に反応がないということは、意識がないのかもしれない。さっき彼も結構な量の酒を飲んでいたから、酔っ払って寝てしまったのかも——なんて楽観的な考えはできなかった。
実休光忠が、そこに立っていた。
人間離れした美しい容姿とその長躯は、華美な客室の内装によく見合った。抜き身の刀を握っていなければ、の話だが。
本丸で見るのと同じ紫色の瞳が、濡れ鼠になった審神者を見て丸く見開かれる。ぽたり、ぽたりと髪から雫が滴って、審神者の首筋を流れていった。
「よかった。無事だった」
「……じ、実休」
「うん?」
実休光忠は刀を鞘に収めると、そこに転がった婚約者の身体など目に入っていないかのような素振りで、審神者へと近寄った。
未だ事態を飲み込めず呆然と立ち尽くした審神者の体を抱き寄せ、濡れてしまうことも気に留めず、自身の腕の中に閉じ込める。湿った髪に頬ずりをして、「うん、ちゃんと君だ」と確かめるように深く呼吸をしていた。
「その人は……」
「大丈夫、殺してないよ」
審神者がやっとの思いで口を開いて問うと、実休光忠はなんてことない風に答えた。まるで、部屋に忍び込んだ小さな爬虫類への扱いと同等だ。
人一人の意識を失わせるような出来事が、扉一枚隔てた向こうで起きていたとは思えない。いくらシャワーの音がうるさかったとしても、扉を開けるまで異変に気付かなかったのは奇妙だと審神者は思った。
聞きたいことは色々あるはずなのに、審神者の頭は混乱したまま、何から問いただせば良いのかわからない。ただ、その身を抱く逞しい腕の温度に、深い安堵を感じていた。
「酷いことはされてない?」
「……うん。実休が助けに来てくれたから」
「そっか。間に合ってよかった」
実休光忠の髪の一房が垂れ、審神者の首筋を擽る。さっきまで貞操を危ぶまれていたというのに、彼に抱きしめられるなり恐怖や危機感はどこかへ霧散してしまっていた。
今審神者が思うのは、この状況への困惑、そして審神者が害されるのではないかと不安げな彼の心の影を払ってやらねば、ということだった。
「そろそろ富田くんが来るかもしれない」
「え、富田?」
「実休くん、入るよ」
まさに、のタイミングで、ドア越しにくぐもった声が聞こえる。実休光忠が少しだけ声を張って返事をすると、ドアがかちゃりと音を立てて開いた。
白い外套をはためかせ、富田江が客室へと入ってくる。納刀した柄に手を添えた、戦支度の見慣れた姿だ。
富田江は審神者と目が合うと、優雅に目を細めた。本丸でいつも、そうしてくれるように。富田江は審神者の言葉をゆっくり待って、ただ微笑みだけをたたえて受け入れようとしてくれるのだ。彼女が秘密を明かしたときも、包容力に溢れたこの笑みを浮かべていた。
「あっ!」
「わぁ」
審神者は自分が実休光忠に抱きしめられたままだったことに気付いて、思わず彼の身体を突き飛ばした。審神者の細腕の力で押されるような柔な体ではないはずだが、実休光忠は驚いたような素振りで彼女の望み通りに距離を置く。富田江の前で実休光忠に抱かれたままでいるのは、いけないことのような気がしていた。
「富田、実休。その……なんで」
「なんでって、君を助けにくるのに理由が必要?」
「私たちは君の刀だからね。主の危機に馳せ参じるのは当然のことではないかな」
二振りの言葉は、まるで問いの答えになっていない。審神者が知りたかったのはなぜ助けに来てくれたのかではなく、どうして、どうやった彼女の危機を察知し、どのようにここへやってきたのかということだ。
審神者は説明を求めたが、富田江がそれとなく制した。「今はあまり時間がないから、後でゆっくり話そう」と言って、きょろきょろと客室内を見渡す。それから雫の滑る審神者の髪を一束指で掬って、「本当は、髪も乾かしてあげたいのだけれど」と言った。
「その格好では外に出られないね。これを」
「あっ、ありがとう」
富田江は羽織っていた外套を、審神者の身体に被せた。体の大きい富田江が着ていたものだから審神者の身体はすっぽり包まれてしまう。前のボタンを一つ止めれば、ポンチョのような形になった。
客室を出ると、廊下は嫌に静かだった。富田江の先導をついて歩き、彼女の背後を守るように実休光忠がそれを追う。
富田江が歩く様は、妙に堂々としていた。婚約者の男が意識を失っていたことから、正当な手段でここへやってきたとは到底思えない。少なくとも、祖父が喜んで招き入れることはなさそうだ。にもかかわらず彼らが逃げも隠れもしないので、審神者はそれが不思議だった。
「不安そうだ」
「そりゃ、……状況もよく掴めてないのに」
富田江が審神者を振り返る。彼女を気遣った実休光忠に手を差し出され、審神者は思わずそれを掴んだ。何か寄る辺になるものを、ひとつでも増やしておきたいという思いからだった。
「心配はいらないよ。これからのことも、ずっと。君は明日からも、僕たちと本丸で暮らせる」
子供に言い聞かせるみたいに、実休光忠はゆっくりと優しくそう口にする。彼が何を言っているのか、審神者にはまるで分からなかった。
生まれたその瞬間から自由などなく、審神者は祖父の駒として育てられてきた。使い所を見つけたから今こうしてこんな場所へと招かれたわけで、今更逃げ出せるはずがない。あの眩しい本丸での暮らしは、刹那のうたた寝が見せた夢だ。審神者がいるべき場所はもっと暗澹とした、陽の光を浴びることのない影のはずである。
「君の——父が、話の通じる相手でよかったよ」
富田江は今度は視線を進路に向けたまま、審神者にそう言った。祖父の呼称を躊躇ったのは、彼女への気遣いだろう。
けれど問題はそこではない。富田江の口ぶりでは、まるで彼は父——審神者の祖父と、交渉してきたようである。
「どうやって……」
手段や方法など知ったところでどうしようもない。信じがたいその言葉をひとつひとつ説明されたところで、納得など出来るはずがなかった。
審神者にとっては祖父が世界の全てで、正解で、真実だった。他のものは彼女を惑わすだけの幻想で、だから祖父の示した道以外はあり得ない。そこに交渉の余地など、ありはしないのに。
「君には以前、交渉のこつは勝とうとしないこと、と教えたね」
富田江の言葉は踊るようだった。彼の放つ言葉には不思議な力があって、否、それは言葉だけでなく、纏う雰囲気全てがその能力の一端を担っていた。富田江の手にかかれば、彼の引き出したい言葉を他人に言わせるなど造作もないこと。何の疑問もなく、審神者はそう思えた。
しばらく歩いた先、壁に寄りかかるようにして宗三左文字の姿が見える。彼が審神者の姿を目にし、安心した様子で肩をすくめたのが遠目にも分かった。
「では今、もう一つ教えておこう」
ここまで来ればもう警戒の必要はないと言わんばかりに、富田江が身を翻す。底の見えない金色の瞳が、不気味に光っていた。
その輝きに審神者は目を奪われ、しばらく他のものが目に入らなかった。長いまつ毛が瞬きで上下する様すら、ひとつの芸術のように思えた。
「欲深い人間は、最も御し易いんだ」
事体が一段落して、審神者の生活はこれまでとまるで変わらなかった。
時間遡行軍との歴史を巡る戦いはいまだ収束する気配は見えず、審神者や刀剣男士らがお役御免になることは当面なさそうだ。恐らくは、審神者が命を終えるまで、彼女の望む限りはこの生活が続くだろう。
それが、何一つ選ぶことを許されない人生を送ってきた審神者にとっては不思議で新鮮で仕方がなかった。
変わったことといえば、審神者が本丸の運営を続ける条件が『祖父の言うことには全て従うこと』から、『あの家には今後一切関わらないこと』に変化したことだろうか。
あの事件の真実を、審神者は未だ全てを知らずにいる。富田江に訊ねてもうまく乗せられて、はぐらかされるばかりだった。では実休光忠にと聞いてみれば、勿体ぶって顔を寄せ「秘密の方がよいってことも、あるんじゃないかな」とあの色気たっぷりの声で囁くのである。
あの二振りにのらりくらりと逃げられれば、審神者に追えるはずなどない。審神者は彼らに問うのを諦め、宗三左文字にターゲットを変えた。
宗三左文字はただ一言、「言われた通りのことをしただけですよ」と答えた。
何かあったら助けてくれと言われたから、その手引きをした。護衛のマニュアルでは審神者と離れた際は一秒でも早く本丸へと連絡をすると決まっていたから、その通りにした。
結果、増援としてやってきたのは実休光忠と富田江の二振りだった。今代の主思いの彼らはそれぞれ審神者の悲壮な運命に胸を痛め、自分たちに出来ることがあるならば、とそれを実行したまでの話だという。——前談として、宗三左文字が以前の面会で感じた〝所感〟を、昔馴染みの実休光忠に話していた、いう背景はあったけれど。
望まぬ縁談を破断にし、合意なく密室に連れ込まれた彼女を助け出し、根本的な問題である父との関係を解消させた。二振りにはそれが出来たから、大事で愛おしくて特別かわいい審神者のために、そうしてあげただけにすぎなかった。
事件の後、実休光忠と富田江は、夜な夜な彼女の離れに通うようになった。
彼らとふたりで——時には、二振りと共に夜を過ごす度、審神者は胸がすく思いがした。祖父があれほど嫌悪した母と同じ運命を辿ることで、今になって反抗した気になっている。それが、痛快でたまらなかった。
ある人が見れば、それは自傷だと捉えるかもしれないし、その身を救った褒賞として自身を差し出したようにも見えるだろう。
しかし審神者にとっては、理由も形も些事でしかない。彼女自身が選んだこと。それに最も意味があった。
星屑を散りばめた地獄への道を、審神者は歩く。傍に、二振りを佩いて。
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