Sink

最後に並んだ男

「光忠、——って誰か知ってる?」
 先日、めでたくこの本丸にやってきたばかりの兄にある男の名を問われ、燭台切光忠は返答に迷った。
 男は、この本丸の審神者の恋人である。「私、恋愛してないと生きてる感じしないんだよね」とは本人の言葉で、燭台切光忠がこの本丸に呼ばれたその日から、審神者には常に男の影があった。
 審神者業と恋愛の両立は容易でなく、関係が長く続くことは滅多になかった。燭台切光忠が知る限りで最短は三日、最長は半年だ。けれど別れる頃には次の男の控えがいたので、交際は途切れることがなかった。
 兄——実休光忠が口にした名の男とは、先週二か月目の記念日を迎えたばかりだ。明け透けな審神者の恋愛事情は本丸中に知られており、燭台切光忠がはぐらかしたところで答えに辿り着くのにそう時間はかからないだろう。彼は、素直に兄の疑問に答えてやることにした。
「主の恋人だよ」
「恋人」
「そう」
 実休光忠は、不思議そうに燭台切光忠の言葉を復唱した。
 もう長くは続かなそうだけど、という主観は喉に押し込めて、燭台切光忠は手元の帳面を捲る。電子端末を支給されているが、考え事をするときはやはり手書きが便利だ。帳面には、今週収穫を迎える旬の野菜の名前が並んでいた。
 実休光忠は、燭台切光忠の答えに満足したようだ。何かを考え込むようにしばらく黙ったのち、礼を言って部屋を出ていった。
 彼の後ろ姿を追った隻眼が瞬く。「面倒ごとの予感がする」と思いながら、今はそれどころではないと、燭台切光忠は帳面に向き合った。


 審神者の今の恋人は時の政府職員である。
 健康診断の案内役をしていた彼と目が合って、「いいじゃん」と思ったのだ。三ヶ月と少し付き合っていた当時の恋人には、飽き始めている。相手からの扱いが雑になり始めたこともあって、潮時かと見切りをつけたばかりだった。
 審神者にとって恋愛とは、デザートの美味しいところだけ食べることだ。気に入らないところを見つけたり飽きたりすると、何の躊躇いなく捨ててしまって、次の皿へと目移りする。
 歳ももう三十手前。まともに生きていれば、将来の伴侶だったりのことを考えるべきなのかもしれない。が、こんな仕事をしているうちはどうせ早くに戦争で死ぬのがオチだと思っているから、小難しいことを考える必要もなかった。女としての魅力が衰え見向きもされなくなるまでは、この生き方を貫くつもりでいた。
 しかしそんな職員の男も、ここのところ口うるさくていけない。時の政府関係者と付き合うと、仕事について隠し立てする必要がないのが気楽だが、半端に詳しいからこそ煩わしい。
 恋人は、刀剣男士に嫉妬するのだ。万屋に行く時の護衛は短刀にしろとか、近侍は定期的に変えろとか。
 嫉妬が可愛いのはセックスの着火剤になるまでで、仕事のやり方にまで口を出されるのは我慢ならない。やっぱり都合をつけるのは面倒だが、審神者という仕事を知らない男の方が余計な干渉がなくていい、と彼女は考えていた。

 この日の審神者は午前のうちに仕事を片付けて、夕方からはデートに行く予定を立てていた。
 恋愛体質と移り気のひどい彼女だが、仕事は人より出来た。霊力も采配も同期と比べて頭一つ抜けている。将としては文句のつけようがないので、この奔放さを許されていた。
 化粧をし、髪を整え、全身鏡で姿を確認する。近侍が控える部屋に「行ってくるね」と声をかけ、審神者は玄関へ向かって歩き出した。
「主、今いいかな」
 そんな彼女を呼び止めたのは、実休光忠だ。彼は使われていない部屋からひょっこり顔を出し、審神者を手招きする。
「何? 今から出かけるんだけど」
「うん。ごめんね、ちょっとだけだから」
 断りの意味で言ったつもりだが、実休光忠の方も引く気はない。幸い、予定していた外出時間には少し余裕がある。ちょっとだけなら、と審神者は招かれるまま空き部屋へと入った。
 部屋の中は照明すらつけられていなかった。実休光忠が襖を閉じると外光が絶たれ、真っ暗で何も見えなくなってしまう。
「実休、何? 暗くて見えな——」
「こっちだよ」
 突如腕を引かれ、審神者の体が傾いた。転んでしまう、と壁に手をつこうとするより先に、厚い胸板に抱き止められる。薬草の青臭さと知らない甘い匂いが混じり、彼女の鼻腔を擽った。
 暗闇でも、どのような状況かは理解できた。実休光忠に抱き締められている。顔を胸に押し付けるように頭を抱き込まれ、彼の匂いで肺が一杯になった。
 様々な男に抱かれてきた彼女だが、これほど体格の良い男に抱かれたのは初めてだった。包まれるようというのか、逃げ場がない。腰に回された太い腕が、がっちりと彼女の動きを制していた。
「実休? 何してんの?」
 本丸は男所帯で、そのどれもが見目麗しい。それでも色好きの彼女が本丸の中で間違いを起こさなかったのは、そこだけは明確に線を引いていたからだ。付き合うのは人間の男だけ。刀剣男士とはそうはならない。この本丸の長としてやっていく上で、唯一定めた決まり事だ。
 それを今、理由も何も分からぬまま崩されそうになっている。だが動揺を表に出せば、この刀の思う壺だろう。だからこそ審神者はなんてことないふりをして、この腕からどう抜け出すかを考えていた。
「これからデートなんだけど」
「うん。だから、行かせたくなくて」
 実休光忠にこんなことを言われる謂れはなかった。他の刀剣男士と同様、平等に家臣として扱ってきたはずである。特別扱いしたことも、それ以上の感情を抱いたこともない。向こうからその気配を感じたこともなかった。
 正常性バイアスというやつか、審神者は何故か「実休光忠がこんなことをするということは、なにか事情があるのかもしれない」と思った。深刻なバグか、もしくは誤解か。それが危機感を削ぎ落とし、審神者は無意味な抵抗をやめ、厚い体を押していた手を下ろした。
「えっと……なんで? 何かあるの?」
「何かあるってわけじゃないけど、君に恋人と会ってほしくないんだ」
「…………」
 分かんないな、と彼女は思う。しかしここで「はい分かりました」と彼の願いを聞き入れることも出来なかった。実休光忠にデートをキャンセルしろと言われた、なんて言った日には、ただでさえ刀剣男士を敵視している恋人は怒り狂うに決まっている。
「悪いけど、それは聞けない。……ほんとに離して、遅刻しちゃう」
 審神者はもう一度強く彼の胸を押した。びくともしない。顔をあげると、視線がばちりと重なった。紫色の瞳が、暗闇で不思議なほどにはっきりと輝いている。
 まずい、と思った時には遅かった。兆候を察せないほど経験に乏しいはずがないのに、審神者はそれを見落とした。——気付いたところで、抵抗は出来なかっただろうが。
 実休光忠によって、唇が重ねられた。柔らかい感触と共に強く彼特有の香りがして、酔ってしまいそうになる。油断した隙に唇を舌で割られて、いとも容易く侵入を許してしまった。
 痛いプランパーを塗ってくればよかった、と彼女は思った。お気に入りの、いちばんきれいに唇が仕上がるグロスをドレッサーに置いてきたのは恋人のためで、この男と口付けをするためではなかった。
 実休光忠は、生活面において器用な刀ではない。趣味の薬草茶はさておき、当番なんかではよくほかの刀に世話を焼かれている方だ。それがどうしてか、口付けだけは信じられないくらいに上手かった。どこで覚えた技巧かは知らないが、彼女が気持ちいいところを絶妙な力加減で擽る。その度に反応を隠せないので、より快いところを教えてしまうだけだった。
 爪先に変に力が入って、腰を強く抱かれた。実休光忠の腰は審神者よりも高い位置にある。腹に硬いものが当たっていた。これだけ手慣れた口付けをするくせに、こんなことで発情しているのが、なんだかちぐはぐだった。
 解放された時には、口元は互いの唾液ですっかり濡れてしまっていた。暗い部屋で、実休光忠の表情は窺えない。が、これ以上足止めをする気もないらしい。審神者が彼を突き飛ばして部屋を出ても、追っては来なかった。

 デートには当然のように遅刻した。恋人はここぞとばかりに小言を連ね、不機嫌を露わにする。
 苛立った審神者は、言うつもりもなかったのに「実休光忠にキスされたから遅れた」と素直に明かしてしまった。当然男は怒り狂って、怒鳴り合いになり、二人はその場で破局した。
 別れについては、別に良かった。実休光忠の件がなくたって、近いうちに審神者はそうするつもりだった。次に付き合う予定の男は特に目星をつけていなかったけれど——正確にはひとりいたけれど、「今度〝普通に〟飲みに行こうよ」というメッセージの文面にちょっと苛立ったので、返事をしていない——探せばすぐに見つかるはずだ。審神者は、そういう自信が持てるような容姿だった。

 本丸へ帰ってただいまを言うと、近侍はひどく驚いていた。帰りは明日になると伝えていたのだから当然だ。デートはどうしたと問われて返事をはぐらかし、審神者は暮らしている離れへ戻って、風呂に入った。
 髪を乾かしていると、何者かが彼女の部屋を訪ねた。仕上げの弱い冷風の音にかき消されて、声の主が誰かは分からない。ほとんど乾いているからもういいだろうと、彼女はドライヤーのスイッチを切って、「入っていいよ」と襖の向こうに声をかけた。
「こんばんは」
「げっ、実休」
「今日は帰ってきたんだね」
 あからさまに嫌な態度をとったことを、実休光忠は気に留めなかった。部屋へ入ってきて襖をぴったりと閉じ、勝手に審神者の隣に腰を下ろす。
「デート、うまく行かなかった?」
「別れたよ。どっかの誰かのせいで」
「そうなんだ、よかった」
「最悪だな」
 実休光忠は身近な人間の吉報を聞いたような、心からの笑顔を見せた。およそ、主の破局を知らされてすべき顔ではない。審神者は眉を顰めて彼を睨んだが、彼はほけほけと平和な笑顔を浮かべるだけだった。
「じゃあ、僕が順番待ちをしてもいいのかな」
「順番待ち?」
「うん。君の恋人になるには順番待ちをしたらいいって」
 審神者は一瞬きょとんと呆けて、それから眼差しを鋭くした。「誰に聞いたの、それは」と問いただしたが、実休光忠はこんな時だけ「誰だったかな、忘れちゃった」と答えを濁す。覚えていないはずがないのに。しかし、そこを深く掘ってもどうせ「焼けてしまったから」だとか責めづらいことを言い訳にするのは目に見えていたので、審神者は情報の出所を辿るのをやめた。
「実休、私の恋人になりたいの?」
「うん。だめ?」
「なんで?」
「君が好きだから」
「…………」
 審神者は天を仰ぎ、額を抑えた。最近付け替えた調光機能付きの丸い照明が目に入り、網膜を焼く。この問答だけで、何を話しても無駄だと思った。
 刀剣男士とそういう仲にならない、と定めた理由はふたつある。一つは、単純に業務に支障をきたしたくないから。仕事に私情を持ち込むのは彼女の理念に反するし、どうこうなった以上それは避けられない。ならば、最初からそうならなければいい。最も安易な対策である。
 二つ目は、一度刀剣男士をの交際を経てしまうと、他ではもう満足できなくなってしまいそうだったからだ。
 彼女は飽き性だが、美食家ではない。グルメになって選り好むより、美味しくいただける飯は一品でも多い方がいいと思っている。一見ゲテモノに見えても、食べてみれば口に合うこともある。あちこちに興味が向くから、こんな有様になっているわけだが。
 一度極上の男を知ってしまったら、取り返しがつかない。実休光忠は、数いる刀剣男士の中でも——こういう順位をつけるようなことは気が進まないが——ただ男としての器だけを見、交際相手の異性として順位付けするならば、かなり上位に位置する。
 目立つ焼け跡を霞ませるどころか、それすら魅力に仕立て上げる顔立ち。目はぱっちりとしているのに鼻筋が通って輪郭が男らしい。体格は文句のつけようがなく逞しく、声の響きは蠱惑的だ。いい匂いもするし、いつもなんだか色っぽい。そこそこ場数を踏んでいる彼女でも、滅多にお目にかかれない上質な男だ。
 そんな男に『主だから』という理由で慕われて、おかしくならない方がどうかしている。そうなるのが目に見えていたから、先んじて距離を置いていたのに。自分は人間の男が大好きなどうしようもない女だから、あなた方とはそうはならないと線を引いていたのに。
 実休光忠はそれが全くの無意味であるかのように、一線を飛び越えてきた。
「どうしたら、恋人にしてくれる?」
「刀剣男士とは付き合わないようにしてるから」
「それは、なぜ? 僕が刀じゃなかったら恋人にしてもらえたのかな」
「そりゃ、うん。こっちからお願いしてたと思うよ」
 こんな男、人間にいてたまるかと思うけれど。
 審神者は言葉を飲み込んで、実休光忠から半身を逸らした。すると彼はそれを許さないと言わんばかりに距離を詰める。審神者の身体に覆い被さるように身を乗り出して、影が落ちた。
「近い」
「そればっかりは、今はどうしようもないんだ。ごめんね」
「いやごめんねじゃなくて、離れて」
「選んでもらえるように、努力するよ」
「話聞い……っ!」
 決して彼の方を見ないように、審神者は床を凝視し続けた。髪の毛が落ちているから、後でコロコロしとかないと、と現実逃避をしながら。ここではないどこかへ向かった意識を、つむじに落ちた柔らかい感覚が引き戻す。
 気が付けば彼に肩を抱かれていた。実休光忠の唇はつむじからこめかみ、頬へと下るように辿った。
「じっ……ん、ッ」
 最初から、全て彼の手の内だった。思わず彼の方を向いた隙に口付けながら押し倒され、ずっしりとした重みに体を潰される。ちゅ、ちゅと軽い音を立てるくせに、彼の口付けはそんな可愛いものではなかった。
 この香りがダメなんだ、と審神者は思った。薬草どうこう言っているが、本当は変な草でも燻しているんじゃないかと疑う。実休光忠の香りに包まれると、審神者は頭がふわふわしてまともな判断が出来なくなる。
 現に今も、彼の大きな手がパジャマの隙間から忍び込もうとしているのに、それを止められない。人間の男が相手でも、付き合うまでは体を許さないようにしているのに。このままでは、ふたつも自分の決まりを破ってしまう。
 だめと言おうした舌は唇に食まれて、抵抗は形にならなかった。

 結局審神者はそのまま流されて、どこもかしこも実休光忠の好きにされてしまった。
 いろんな男と夜を過ごしてきた彼女だが、実休光忠はこれまで過ごしてきた誰とも比較のしようがなかった。人間ごときが勝てるはずがない。刀剣男士が皆がそうなのか、実休光忠という刀がそうなのか、この彼がそうなのかはわからないが——とにかく、すごかった。
 技も凄ければ物も凄い。顔と声がとにかくいいので、見つめ合って囁くだけで前戯として成り立つ。
 刀剣男士には、かつての主の個性を色濃く継ぐ者がいる。実休光忠の場合、焼けて記憶は怪しいようだが、夜の知識の出所はあの男なのだろうか。やっぱり天下人って、すごかったんだろうか——と、日本史の教科書に載った肖像画でしか知らない男を不躾に思ったりなんかした。
 頭の中で、過去の彼女が「だから言ったのに!」と怒鳴っていた。一度こんな風に抱かれてしまったが最後、今後誰と寝たってままごとにしか思えない。そのつもりはなくても、別の誰かに触れられるたび、きっとこの夜のことを思い出してしまう。それほどまでに、実休光忠とは凄まじい男だった。
「……起きてる?」
 夜が明けても、実休光忠は背後から彼女を抱き締めて離さなかった。互いに裸のままだが、肌がくっついた部分が汗ばんで暑苦しい。審神者が身動ぎすると、意味をはき違えた実休光忠がぎゅっと腕に力を込めた。
「寝てます」
「おはよう。身体はつらくない?」
「話聞こうか」
 身体の方は、もうめちゃくちゃだった。腹にも腰にも、余韻だなんて風情ある呼び方が出来ない後遺症が残っている。今日一日はまともに働けないだろう。元々デートの予定だったから、仕事を入れていなかったのが幸いした。この男に抱かれるために、調整したわけではなかったけれど。
「それで、どうかな」
「何が?」
「僕は恋人にしてもらえそう?」
 実休光忠は、閨事の具合が良ければ恋人にしてもらえると思っていたらしい。顔を見ずとも、声が弾んでいる。本人的には手ごたえを感じているようだ。当然だろう、昨夜の審神者の乱れ様を見れば、誰だってそう思う。
 素直に良かったと認めるのが悔しくて、審神者は「及第点ですかね」と答えた。
「やったぁ」
「でも付き合うとは言ってない」
 審神者がぴしゃりと言い切ると、背後からは情けのない「えっ」という小さな声が聞こえた。それがなんだか間抜けで可愛いらしく、審神者はつい口元を緩める。それから即座に、頭の中で自分をひっぱたいた。男を可愛いと思い始めたら、そこは沼の第一歩である。
「どうして? 何が足りないのかな」
「付き合うって体の相性だけじゃないからね」
「うん?」
「私まだ、実休のこと好きじゃないもん」
 別にこれまでの男とも好きで付き合ったわけじゃないのに、審神者は勿体ぶってそう言った。好きになれそう、の段階で付き合って、尽くされるうちに愛着が湧いて惚れるのが彼女の常だ。こんなことを言い出す時点で大分、実休光忠に心惹かれているわけだが、それには気付かないふりをした。
「頑張るよ、好きになってもらえるように」
「……」
 その言葉だけで、審神者の胸はきゅんと高鳴ってしまう。ここ数年は感じていなかったときめきに心が躍って、指先が痺れた。
 ——そんな、幸せそうな声で言わないで欲しい。
 些細な抵抗で、審神者は自分の腹に回った腕をつねった。皮下脂肪のついていない皮膚は摘むのも難しく、背後で実休光忠がくすぐったそうに笑っていた。


 厨での野暮用を済ませた燭台切光忠は、自室に戻ろうとしたところ、夜も遅いというのに灯りの付いた部屋を見つけたので、覗いてみることにした。
 確か、今夜は陸奥守吉行がいい酒を手に入れたとかで、酒宴が行われているはずである。時代も刀派も入り混じっての気楽な会だ。兄——実休光忠が誘われているのを小耳に挟んだので、妙なことになっていないか、彼は少し気に掛かっていた。
 長谷部くんなんかがいてくれれば心配ないんだけど——と開きっぱなしの襖から中を覗き込む。酒宴は至って平和であった。誰も脱いでいないし、喧嘩もしていない。実休光忠も輪の中で、ご機嫌そうにニコニコしていた。
 面々を見るに、介抱を買って出る心配もなさそうだ。杞憂だったかと部屋を離れようとした時、燭台切光忠の耳にその言葉が飛び込んできた。
「そういえば、最近主から男の話聞かなくなったよな」
 誰が言ったかまでは、定かではない。その言葉をきっかけに、刀剣男士は確かに、と口々に同意する。燭台切光忠は足を止め、酒宴の会話に耳をそば立てた。
「なんつったか、職員の男じゃないのか?」
「えぇ、でも最近その人の名前聞かないよ」
 襖越しに燭台切光忠はうんうん、と頷く。
 聞く側が心配になるほどに恋人とのやり取りを詳らかに話す彼女の口からは、ここのところ男の名前を聞いていなかった。新しい男ができた時が一番盛んに話すので、もしかすれば関係が安定して、話すこともなくなってきたのかもしれない。それならば良いのだが、やはり妙だ。そのことが燭台切光忠も少し引っかかっていた。
「別れたのかな?」
「別れたよ」
 誰かの疑問に答えたのは、実休光忠だった。
 張っているわけでもないのに、その声はよく部屋に通った。その場は、水を打ったように静まり返る。燭台切光忠もぎょっとして、ぴくりと指先を跳ねさせた。
「実休さん、詳しいんだな」
 口を挟んだのは薬研藤四郎だ。燭台切光忠が、この酒宴で心配はいらないと思った理由のひとつでもある。短刀ながらしっかり者の彼は、積極的に昔馴染みの実休光忠の世話を焼いてやっていた。
「うん。今は僕が主の恋人だから」
「ほー、実休さんが……え?」
 沈黙ののち、大声が燭台切光忠の鼓膜をつんざいた。既に眠りについた本丸の面々が、奇襲か何かと勘違いして起き出してきてしまいそうなほどの声量だ。圧倒され、彼は思わず尻餅をつく。酒宴の面々はその言葉は聞き捨てならないと、身を乗り出して実休光忠に詰め寄った。
「は? 主と? 恋人? 実休光忠が?」
「うん」
「い、いつから」
「一ヶ月くらい前かな」
 燭台切光忠は、頭の中でカレンダーを捲った。
 ちょうど主が男の名前を口にしなくなったのは、大体一ヶ月と少し前。確かその頃に、デートに行ったのにその日のうちに帰ってきたことがあった。まさか、あの時から手を打っていたとでもいうのだろうか。
 それから、燭台切光忠はある会話を思い出す。そのもう少し前、実休光忠に当時の主の恋人の名前を訊ねられたのだ。あの時は聞き慣れない名前を不思議がっているのかとさして気に留めなかったが、どうやらそれだけではないらしい。あの時感じたいやな予感は、何も間違っていなかった。
 酒宴の面々は、実休光忠と審神者の熱愛報道について、好き勝手口々に言い合っていた。単純に彼を「やるなぁ」と褒める者、いまだに衝撃から抜け出せない者、素直に審神者を心配する者など、反応は三者三様だ。
 刀剣男士は絶対に相手にしないと態度や行動で示していたはずの彼女がなぜ、彼を——実休光忠を許し、受け入れたのか。燭台切光忠は何となく彼らのやり取りを察しとり、密かに審神者に同情した。
 もう少し早く実休光忠の心の動きに勘付いていれば、対処のしようがあったのかもしれないが——と考え、首を横に振る。この男に目をつけられた以上、遅かれ早かれ結果は同じだ。一応は弟であるので、燭台切光忠はそれをよく理解していた。
「いいんじゃないかな。コロコロ変わってしまうから、覚えられなかったし。ね、えっと……弟もそう思うだろう?」
「俺の名前はそろそろ覚えてくれ兄者!」
「まぁ確かにな、実休さんならしばらく落ち着くんじゃないか?」
 燭台切光忠は襖越しに会話を盗み聞きながら、たらりと冷や汗をかいた。
 ——薬研くん、それは違うよ。
 どんな手を使ったのかは知らないが、かの実休光忠がこうして審神者を籠絡した以上、〝しばらく〟で済むはずがない。一生、あるいは死んだその先も、彼は絶対にその手を離さない。いくら飽き性で気が多く取っ替え引っ替えの彼女でも、実休光忠に捕まってしまっては逃れようはないだろう。
 今は眠っているであろう今代の主に同情の念を抱きながら、燭台切光忠は足音を殺し、そっとその場を後にした。


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