真夏日の今日、庭では畑仕事を終えた短刀たちが、どうせ汚れたのだからと水遊びに興じはしゃぐ声が響いている。この本丸の厨番長を務める燭台切光忠は、本丸の一室で来週の献立に頭を悩ませていた。 暑さが続くためスタミナのつくものを出したいところだが、今は夏野菜の収穫時期だ。せっかくだからそれを活かしたメニューを採用したい。大所帯だからあまり手の込んだものは作れず、そうなると大鍋料理に偏ってしまいがちだ。 己を愛したかつての主の影響を色濃く受けた燭台切光忠は、本丸の暮らしの中で、本来の——骨肉を断つのとはまた別の役割を与えられている。こういった場所に呼ばれたからこその些細な悩みを、彼は日々のスパイスとして楽しんでいた。 「みっちゃん、ちょっと……時間いい?」 「ん? ああ、君か」 新たなインスピレーションを求めて街に買い出しでも行こうか——と考えていた彼を、控えめな声が呼び止めた。燭台切光忠の今代の主であるだ。彼女は部屋の入り口で、頭を抱えた燭台切光忠に控えめな視線を送っていた。 刀を碌に握れぬような、細腕の華奢で若い娘だ。戦のない平和な暮らしから無理矢理この本丸へと連れ出された経緯を同情すると共に、そんな中でも実直に己の役割を果たすため邁進する彼女のことを、燭台切光忠は物の持ち主として抱く情だけでなく、人柄を含めて慕っていた。 発足当初、戦力の揃わぬうちに顕現した燭台切光忠は、太刀であることや堂々とした振る舞いから彼女に頼られる機会が多かった。それに応えるうちに燭台切光忠はのことを主でありながら妹や娘のような目で見るようになり、彼女もその関係性を気に入っているようである。 かつては『燭台切さん』と呼ばれていたが、彼の旧知の太鼓鐘貞宗が顕現し『みっちゃん』と呼んでいるのを聞いて以来、彼女もそれに倣うようになって、ふたりのやり取りはより兄妹染みたものになっていった。それは別の『光忠』が本丸へやってきてからも変わらず、『みっちゃん』の呼び名は燭台切光忠ただ一振りに与えられたままだった。 ぼんやりと思考に耽っていた燭台切光忠は、の方を向き直り微笑みかけた。しかし、障子の影から顔を出した彼女の表情は思わしくない。 本丸発足当時、子供らしいあどけなさを残して審神者となった彼女は、今や立派な大人の女性だ。しかし、燭台切光忠を含め気心の知れた古株と接するときは、甘えからかかつての幼さが垣間見えることがあった。 今、彼はそれを目にして、何か悩みでもあるのだろうかと小首を傾げる。 「部屋へ来てほしいんだけど」 「もちろん。何か僕に相談?」 「相談……なのかな。とにかく、部屋へ着いてから話すね」 燭台切光忠は腰を上げ、の後ろをついて彼女の部屋へと共に向かった。時折振り返る丸い瞳は不安げに揺れている。こんなに畏って一体何があったのだろう、と燭台切光忠は不穏な気配を感じ取っていた。 机を挟んで向かい合って座布団に座った彼女は、重い空気を弛緩させようと燭台切光忠が淹れたお茶に口をつけながら、一言呟いた。 「話す前に、なんだけど。その……出来れば、私はみっちゃんに嫌われたくなくて」 「僕が君を嫌う……? どうしてそんなことを?」 「……っ、えっと」 は至極話し辛そうに、重い口を開いた。俯いて髪が垂れ下がり、その影が表情を更に暗くする。 深刻そうな顔で頼られ、家臣として——兄代わりとして誇らしいと思うことはあれど、嫌われる心配をされるなど思ってもおらず、燭台切光忠は密かに眉を顰めた。彼女に嫌悪感を抱くなど余程のことでは有り得ないと思えるほどの信頼関係を築いているつもりであったのに、それを疑われて僅かに負の感情が湧き上がる。 けれどその本題とやらを聞かぬうちには、燭台切光忠は何の判断も出来ない。彼は、静かに彼女の言葉を待った。 「実休さんのことで」 「あぁ、あの人がどうかした?」 「…………」 逡巡からのまつ毛が揺れた。急かすつもりのなかった燭台切光忠だが、身内の名を出されては黙ってはいられない。 福島、実休、それぞれは燭台切光忠の兄を自負しておりそれらしく振舞うが、この本丸での『光忠』といえば彼、燭台切光忠だ。厨番長を任せられるほどの古株として、身内が何かを起こしたとすれば責任を感じずにはいられなかった。 燭台切光忠は逸る気持ちを抑えて、「落ち着いて。ゆっくりでいいから、聞かせてくれる?」と彼女の言葉を促した。 「……く、口付けを」 「うん?」 「口付けを、してしまって。実休さん、と」 机の上で握られた彼女の小さな拳が震えている。燭台切光忠は突拍子もないその言葉に、しばらく理解が追いつかなかった。 ——口付けを。と、実休光忠が。 燭台切光忠はしばらくぽかんと、らしくなく間抜けに唇を薄く開いたままでいた。どんどん俯いて顔が見えなくなってしまったが、断罪を待つ罪人のように身体を小さくしている。 目の前の彼女と兄の姿が頭に浮かんで、それが言葉通りの情景を脳裏で映し出す。燭台切光忠は驚きと困惑、そして焦りを飲み込んで、飽くまで彼女の頼れる兄であろうと努めて、冷静に振る舞った。 「ごめんね、最初に一つだけ確認させてくれるかな」 「は、はい……」 「その、……合意の上? あの人——実休光忠が無理に君に迫ったり、そういうことをされたりは」 はふるふると、小さい動きながらはっきりと首を横に振った。 それを見て、燭台切光忠は一旦ほっと胸を撫で下ろす。もし身内が彼女に無理に取り入ろうと関係を強要したならば、刀を抜かないわけにはいかなかった。一先ずそういった心配がないことに、彼は心底安堵した。 「君はあの人が好きなの?」 「わ、わかんない。好きな人とかいたことないし、他の刀のみんなのことも……大事だけど、そういう気持ちになったことないから」 彼の知る限り、彼女が審神者になってから色恋の気配を見せたことはなかった。恋を知る前に戦に身を投じる彼女を気の毒に思ったことはあるが、愛する男と結ばれ子を成すことだけが幸せの世ではないと聞く。ならば、彼女が望む形で、例え束の間の夢のような幽世であろうと、楽しく過ごせればいいと願っていた。 「でも、これが良くないってことだけはわかるの。実休さんは歴史を守るために手を貸してくれてるのに、こんなこと……」 燭台切光忠は、なぜ彼女がこの世の終わりのような顔をしているのか、ようやく理解した。 戦乱の世を生き抜いた武将を主に持ち、明確な上下関係が価値観に練り込まれた彼らには到底想像も出来なかったが、平和的な時代で生まれ育った彼女には上に立つものとしての傲慢さが身についていなかった。むしろ、上の者が下の者に関係を強要することを悪しとされる風潮があって、それを憂いているのだ。 燭台切光忠がこう感じるならば、当人である実休光忠もそう遠くない認識を抱いているはずである。寧ろ、それどころか—— 否、今重要なのはそこではない。燭台切光忠にとっては、目の前の彼女が表情を曇らせていることこそが最も重大であった。 「このことを、どうして僕に話してくれたの?」 「……楽に、なりたかったから。みっちゃんに言っても、困らせるのは分かってるんだけど……でも誰かに叱ってもらえないと、苦しくて」 ダメな主でごめんね、と自責するようにはぽつりと呟いた。 真面目で真っ直ぐに生きてきた彼女は、自らが犯した罪を贖う方法を探していた。考えて行きついた先が、燭台切光忠に打ち明けるという行為なのだろう。の性格からそんな想像をした燭台切光忠は、そっと首を横に振った。 「悪いけど、その役目は僕には出来ないよ。君を叱る理由がない」 「…………」 「正直、かなり複雑な気持ちではあるんだけど、僕としては君があの人を好きだって言うなら、それに口出しをする権利はないから」 燭台切光忠の様子を伺おうと、は僅かに顔を上げた。その表情には、彼に叱責されなかったことへの戸惑いと安堵、そして突き放されたかのような不安が滲んでいる。 口を出す権利がないのは、結局のところどれだけ親密になっても彼女が所有する百数振りの刀のうちの一振りでしかないからだ。しかし今の彼には心があって、彼女に与えられた身体を使えば、好きに言葉を紡ぐことができた。 燭台切光忠本人ですら、未だどう言葉をかけるべきか迷っているのだ。誤解を受けるのは仕方のないことだったが、それをそのままにしておく事にはできない。 彼は腹を決め、わざと少し足を崩して、「だからこれは君の——兄代わりとして聞くんだけど」と言った。 「本当に大丈夫? されたのは口付けだけ? 何か——変な要求をされたりとか、術を使われたりとかはなかった? 嫌なことを言われたりとか……」 「そ、そんなことは!」 捲し立てた燭台切光忠につられて、は顔の前で大きく手を振った。らしくない薄暗さはそれによって払われて、彼女は頬に手を当てる。 「い、嫌じゃなかったの。でもこんな、ダメだよね。なのに私……」 の頬が赤みを帯びて、それはまた別の少女らしさを纏わせた。その顔を見て、燭台切光忠はたらりと汗をかく。こちらの方がたちが悪いかもしれない、と思った。 「ねえ、みっちゃん。私どうしたらいいんだろう。本当にわかんないの。なんでこんなに、実休さんのことが気になるんだろう。好きになっちゃったのかな、どうしよう。私、審神者なのに」 どうしようと縋られても、燭台切光忠にもお手上げだった。 これまで共に戦い、見守り、幸せであれと尽くしてきた今代の主が、兄を名乗る身内に心を奪われ翻弄されているのである。彼にとっても、たまったものではなかった。 もし実休光忠でなくもう一振りの兄——福島光忠の方であれば、もう少し対処のしようというか、見守る余地はあった。お兄ちゃんと呼んでくれと隙を見つけては強いてくるところは頂けないが、あれはあれで誠実な刀だ。 実休光忠の方が不誠実だと言いたいわけではないが、焼けて記憶が怪しいとはいえ〝あの〟第六天魔王の気に入りの光忠であるので。油断したが最後、どうなったって、何をされたっておかしくらない。 「とりあえず、僕が言いたいのは……あの人と君がどうなっても、僕は君の味方をするから。だから何かあったら——絶対に、僕に相談してくれるかな」 「本当に……?」 「もちろん。君の『みっちゃん』だからね」 にこりと気取った笑みを見せれば、いつもの彼らしい表情に安心したのか、はお利口にこくりと頷いた。 一先ずこれで、自分の知らぬうちにことが進んでいたということは避けられるだろう。あとは、彼の思惑を探る必要がある。 燭台切光忠は、親指の腹で眉間を押す。来週の献立など、今となっては可愛い悩みだ。 そちらは素麺のカードを切ることにして、彼はの部屋の庭に目をやった。我が物顔で広がる青々とした薬草畑が太陽の光を反射して、彼の隻眼を焼いた。 [newpage] 誉の褒美として薬草畑を作りたいと言い出した実休光忠だったが、発足から数年経ったその本丸では、目ぼしい場所は殆どが桑名江によって開拓されていた。他は日当たりと水捌けの悪い場所ばかりで、彼の望みは叶えられそうにない。 せっかく誉を取ったのにこれでは気の毒だと、は自分の庭はどうかと提案した。 の部屋の庭は見窄らしくない程度の手入れをされてはいるが、特別何かに使われることもなく、風を通すために障子を開いた先に景色として広がっているだけである。環境としては植物の生育になんら問題はなく、広さはないが薬草茶のための材料を育てる程度ならば事足りるだろう。 しかし、仮にも本丸の主である彼女のプライベートスペースだ。他に場所はないとはいえ、一介の家臣である彼の個人的な畑を作るのは如何かと、当然反対の声も上がった。 けれど現状ほとんど放置されている庭に活用方法があるならば、それを退けることは勿体無く思えた。薬草茶の趣味は、焼けて記憶の乏しい彼が持った数少ない逸話のひとつでもある。刀剣男士としての彼の在り方も後押しして、薬草畑はの庭に作られることになった。 薬草畑の手入れのために、実休光忠は彼女の庭に頻繁に立ち寄った。の部屋に上がらなければ畑への出入りは自由とされている。執務室で過ごすことの多い彼女は実休光忠が尋ねる度に部屋にいるわけではなかったが、それでもふたりで話す機会は増えていった。 春に畑を設えて、日に日に暑さが厳しくなる中、ある日は声をかけた。「冷たいお茶があるから休憩したら」と。 きっと、その日が境目だったのだろう。それまでは、もまだ他の刀と同じく異性として意識することはなく、『みっちゃん』の兄であるという理由で距離感を測りかねていた。 同じ『光忠』でもしっかり者の燭台切光忠と違い、実休光忠はふわりふわりと風に揺られる草のようである。讃える微笑みは柔らかく、感情を強く出すこともほとんどなかった。 整備されて薬草畑になった庭を眺めながら実休光忠と話をするのが、彼女は楽しかった。本丸での些細な日常や薬草についてのこと、兄弟刀や織田に縁のある彼らの話。話題はどれも取るに足らない物ばかりで、その退屈さが心地良かった。 次第に、は彼が畑にやってくるの心待ちにするようになった。二つ揃えのグラスを買って、彼のために清潔なタオルを備える習慣ができた。 この頃はまだ、恋と名のつくほど情熱的な感情ではなかったように思う。芽生えたばかりの些細な特別を愛おしむような、穏やかな想いだった。 殊更暑さが厳しい日であった。はいつも通り冷たいお茶を出して、汗を拭くためのタオルを実休光忠に差し出してやっていた。 これではまるで侍女のようだ、と彼女は思った。として、本丸の主としての威厳を考えると、あまり褒められたことではないのかもしれない。他の者が見れば咎めたかもしれないが、実休光忠以外の刀がこの庭に立ち寄ることはなく、二人の秘密が暴かれることはなかった。 「そうだ、実休さん。アイス食べませんか?」 「僕が頂いてもいいの?」 「はい。お取り寄せ品なんですけど、全員分はないから。他の子には秘密にしてくださいね」 は縁側から立ち上がり、部屋の小冷蔵庫からアイスバーに二つ持ってきた。「チョコとミルク、どっちがいい?」と訊ねると、実休光忠はチョコを指さしたので、そちらを彼に渡す。 「嬉しいな。ありがとう」 「どういたしまして」 包装を剥いてミルク味のアイスバーに歯を立てれば、しゃく、と小気味いい音と同時に口の中に甘さが広がった。小売店によく並ぶものとは別の濃厚で贅沢な味わいだ。暑さのせいで溶けたアイスが手に溢れそうになって、は下からそれを啜った。 「実休さん、手に溢れてますよ」 「あぁ、本当だ」 食べ慣れていないのか、実休光忠の手は溶けたチョコアイスでベタベタに汚れていた。 手の届く範囲にティッシュなどの拭くものは見当たらず、がオロオロしているとその隙にも互いのアイスが溶けていく。彼女の指にも白い液体が伝って、先に食べてしまったほうがいいかと棒を高く持って口の中に流し込むようにしてアイスを完食した。 実休光忠も辛うじて固形を保ったアイスを口に放り込むと、手に伝ったチョコアイスだった液体をペロリと舐めた。肌の色の違う火傷跡に舌が這う姿に、はどきりとする。行儀の悪い子供がするような仕草にもかかわらず、あまりにも淫らな光景だ。 「君も、手が汚れてる」 「あっ……」 気が付かないうちに溢れたらしいアイスが、手の甲を伝っていた。指摘されたははっとして、ウェットティッシュか何かを取ってこようと腰を上げる。 しかし、そんなの腕を実休光忠が掴んだ。 ぴたりと動けなくなった彼女の腕を手繰り寄せ、汚れた右手に唇を添えた。白い液体が伝った跡を撫でるように、赤い舌が這う。アイスで冷えた舌が熱った肌を滑っていく感覚に、はぞわりと鳥肌を立てた。 「なっ、何を……」 突然人に手を舐め取られて、平然としていられるはずがない。しかしそこに嫌悪感は微塵もなく、それが却って不味かった。 無理に強く掴んでいる様子でもないのに、の細腕は自分の意思ではもう動かせない。雫を吸って舐め取られ、足の裏から上った痺れが脳天を貫く。 「溢してしまうのが勿体無くて」 彼の行動が信じられなくて、は言葉が出なかった。 手を離されると同時に立ち上がり、部屋の中に引っ込んでウェットティッシュを容器ごと持ってくる。は無言のまま、彼と自分の手を拭き取った。 実休光忠はされるがまま、指の間を開いて大人しく手を拭われている。世話をされ慣れているというのか、人の手を舐めた後とは思えぬ動じない態度に、はこのまま口ごと拭いてやろうか、と思った。 記憶が怪しいとか、長船だからとか、そんな理由で片付けられることではない。は自分が怒っているのか戸惑っているのか恥じらっているのか、もうわからなかった。 「や、やめてください。こういうの」 「ごめんね、嫌だった?」 「嫌とかそういうことじゃなくて、汚いし、普通そういうことしないから。みっちゃんにそういうことしないでしょ」 「光忠にはしないね」 「そう、だから……」 「君だからしたくなったんだ」 気が付けば実休光忠は、再びの手を取っていた。 握り込んでいたウェットティッシュを取り除いて、指を絡められる。肌の重なった部分が熱くて、は燃えているようだと思った。けれど相手が彼だから、冗談でもそんなこと、口が裂けたって言えない。 深い紫の瞳に見つめられて、の動きが止まった。 ——私だから、したくなった? 熱くて頭が茹っているのか、あまりはっきりと物を考えられなかった。もしくは、その色香と視線に酔わされたか。 気が付けばふたりは、膝がぶつかる距離に座っていた。いつからこれほど近距離にいたのか、は思い出せない。 手を拭ってやった時か、掴まれた後か。それ以前に、なぜいまこのようにふたりきりで見つめあっているのか。 実休光忠にはただ庭を貸してやっていたはずで、自分の体調を顧みずに作業を続ける姿が心配になってしまったから声をかけるようになっただけだ。そこから話すようになって、思いの外話が弾んで、この時間を楽しみにするようになった。そこにこんな、主従の足を踏み外すような気配はなかったはずである。 「今度はちゃんと聞くよ。……君に触れたい。いいかな」 真っ直ぐ見つめながら問われて、反射的には頷いていた。指に絡められた実休光忠の手が解かれ、手の甲からわざわざ腕を伝って肩へと上った。 指先が鎖骨をくすぐって、は身をこわばらせる。きゅっと反射的に目を閉じたのが、いけなかった。実休光忠の指の背がの頬に触れる。猫の喉を撫でるような、微かな力で。 それを拒絶しなかったから、唇が触れ合っていた。そうとしか言いようがなかった。 いつ近付いたのかすら、彼は悟らせない。アイスに冷まされたはずの唇はとっくに再び熱を帯びて、甘さだけを残していた。 驚いて離れようとしたの後頭部を捉えて、実休光忠はさらに深く角度を変えて口づける。唇の皺全てが重ならんばかりに強く押し当てられたかと思うと、熱った舌が彼女の唇を舐めた。 口が離れた隙に、は強く実休光忠の胸を押した。けれど想像以上に逞しい胸板は、彼女の抵抗にびくともしない。 「口付けしていいとは、言ってない……」 「嫌?」 「ッ……嫌じゃないから困ってるんです!」 「じゃあ、いいんじゃないかな」 「よくな……んっ」 文句は口で塞がれて、その後は何も言えなかった。口付けの合間に囁かれる言葉だけが彼女の耳に残って、他の感覚は触れる熱以外曖昧である。 知らぬ間に縁側の床板が背に張り付いている。実休光忠のずしりとした重みを感じながら、貪られるとはこういうことかとはぼんやり思った。 重量に従って、彼の唾液がの口内に注がれる。彼女が口にすることはなかったチョコレート味のアイスは、こんなにも甘かったのだろうか。首筋で息を吸った彼が、「君の香りは心地いいね」と囁いた。 彼女は、出会って間もない頃のやり取りを思い出していた。実休光忠はの香りを嗅いで、甘いと言ったのだ。何も香料の類はつけていないはずで、一体何が香るというのか。また長船のよくない癖が出ているのかと当初は思っていたけれど、そういうわけではないらしい。 流されて唇を許し、息を奪われて、はもう起き上がれなかった。 端に避けた麦茶のグラスをチラリと見れば、氷が溶け切って色が薄くなっている。視線に気づいた実休光忠は体を起こしてグラスの中身を飲み干すと、口移しで麦茶をに飲ませた。 嚥下しきれなかった雫が頬から顎に伝う。その冷たさに、ぞわりと鳥肌が立った。肌を滑る滴を舐め上げられているのを感じながら、は「もう終わりだ」と思った。 [newpage] 実休光忠との出来事について、抱えきれなかったは燭台切光忠に打ち明けた。 仔細明かしたわけではないから、ただ唇をくっ付けただけでは済んでいないとは思っていないことだろう。あの夏日の出来事を語って聞かせるには、はあまりに初心であった。 触れられた部分の熱が心地良かった。君だから、と言われて心が弾んでしまった。口付けが、嫌じゃなかった。そのどれもが彼女の思う『審神者としてのあり方』に反している。 歴史を守るために刀の魂を呼び起こしたはずなのに、その彼に性欲紛いの感情を抱くだなんて。実休光忠の身内であり、彼女の兄的存在でもある燭台切光忠ならば、それは良くないと言い切ってくれるかもしれないと思った。そうしてくれれば、きっと彼の言葉を理由に次は実休光忠を拒絶出来るはず。 そう算段を付けていたのに、燭台切光忠は彼女を責めるどころか「味方だから」などと優しい言葉をかけた。彼の心をありがたいと思うと同時に、すぐそばに見えた堕落が恐ろしく、そしてそれに他人の力なくては抗えない己の情けなさに腹が立つ。どこまでもの心身を気遣ってくれる燭台切光忠に、は罪悪感を抱いた。 障子を開け広げた先の庭には、背中を丸くした実休光忠の後ろ姿が見えた。 庭で栽培しているものは、この辺りにはなかなか自生していない薬草だそうだ。種類や用途、効果について説明されたこともあったが、植物に明るくない彼女の頭からはすっかり抜けてしまっていた。 実休光忠は採取した薬草が入った籠を持って縁側へと近付いてきた。も恐る恐る、縁側へと出る。相変わらずの酷暑だが、今日は冷たい風が吹きぬけて幾分か過ごしやすい。風鈴がちりんと涼しげに音を立てた。 冷たいお茶を注いだグラスを手渡すと、実休光忠は「ありがとう」と言ってそれに口をつける。手持ち無沙汰になったは、縁側に置かれた籠の中身を覗き込んだ。青々とした葉っぱは、地域によっては野草として生えているものだから当然といえば当然だが、彼女には雑草との区別が付かなかった。 「君は飲まないの?」 「私は喉乾いてないので……」 嘘だった。一緒に並んで座っていると、また前のようなことが起きてしまう気がして、は恐ろしかった。今も彼の隣には座らず、人一人分の距離を置いている。近付いて彼の色香にあてられては、また触れられることを許してしまうかもしれない。それどころか、今度はそれ以上を求めてしまうことだって。 実休光忠はジャージのファスナーを下ろして首筋や胸元に空気を取り入れようと服を仰いだ。気を確かに持とうと決意を固めたばかりだというのに、その様子に彼女は視線を奪われる。傷跡を汗が伝って、内に着ていたTシャツに染み込んでいった。 「風があるから涼しいね」 「そうですね」 「どうして隣に座ってくれないの?」 「っ……」 実休光忠に問われ、は胸の内を見透かされているような気がした。後ろめたさから視線を下げたまま、実休光忠の顔は見られない。 「僕が君に、酷いことをしたから?」 「ひど……いことだって、思うんですか?」 「光忠にそう言われたから」 兄代わりの刀の名を出され、は思わず実休光忠を見上げた。彼は悪びれる様子もなく、ようやく視線が合ったことを喜ぶように微笑んでいる。 「すごく怒られたよ。君に嫌われたのかもしれないって思った」 「え……」 「でも、こうして話してくれるってことはそうじゃないんだね」 じくりじくりと、胸が痛む。暑さが質量を伴って、肺を押し潰しているようだ。 燭台切光忠に相談したのは自分の気持ちに歯止めを利かせたかったからであり、決して実休光忠の行動を責めたり、ましてや説教をさせるつもりはなかった。二振りへの負い目から、の呼吸が浅くなる。 現実逃避に目をやったグラスの中身は、既に飲み干されていた。片付けると言って、この場を離れなければ。そう思うのに、床板についた腰が少しも持ち上がらない。 「僕に触れられるのは、嫌じゃなかったんだよね」 は頷く。実休光忠が腰を浮かせて、僅かに彼女と距離を詰めた。 「じゃあ、何がいけないんだろう。他の人に申し訳ないって思う? 彼らはみんな君のものなんだから、そんな風に思う必要はないのに」 垂れ下がって顔にかかったの髪を、実休光忠の指が掬って耳にかけた。指の先が耳たぶを掠めて、彼女は身体をこわばらせる。 「君の香りを、もっと近くで感じたいな」 低い声が直接耳元で囁かれ、熱い吐息が頬を撫でた。 が必死に作った距離は呆気なく詰められて、最初からこんな抵抗は無意味だったと思い知らされる。彼をこの庭に受け入れた時点で、もう手遅れだったのだ。最初から、他の刀の忠告を聞き入れるべきだった。たった一振りを選んで、許してはならなかった。 それが運悪くも、実休光忠という刀だっただけ。その不運によって、彼女の背は深い溝へ向かって蹴り飛ばされた。 「だめ、だめです。実休さんとのこと、全部みっちゃんに言うって約束したから」 「この事も光忠に話すの?」 「話せないことはしませんっ……」 「じゃあ、僕たちだけの秘密にしよう」 ——僕たちだけの秘密。 甘美な響きだ。抗う手を絡め取られた彼女の動きが止まった隙をついて、実休光忠がに口付ける。水気を帯びた粘液同士が、離れ難いと吸着した。 実休光忠の舌がの唇を容易く割って、その隙から忍び込む。彼の舌と唾液は、あの日と変わらず甘かった。 その後は、実休光忠を部屋に上げてしまった。 全てが済んだ後、夕陽が差し込む部屋で気怠い体を横たえながら、兄のように慕った刀を裏切ってしまったことを深く悔いた。こんなこと、秘密だなんて言われずとも、打ち明けられるはずない。 後ろから彼女を抱きしめた実休光忠が、の後頭部で息を吸う。それが恥ずかしくて身じろぎするも、先程までそれ以上に恥ずかしいことに興じていたのだ。ささやかな抵抗をものともしない彼を諦めて、はされるがままになっていた。 「みっちゃんに会ったら、なんて言うんですか」 情事の痕跡は、どう頑張っても拭い隠せない。シャワーを浴びて洗い流しても、それでも不自然さが残った。の身体にはいくつもの朱が散らばっていて、夏だというのにしばらくは首元や腕を晒せそうにない。 「汗をかいたから君の部屋でシャワーを借りたと言うよ」 「そんなので通じるわけ」 「……今は僕といるのに、他の光忠の話をするんだね」 「っ!」 の言葉を咎めるように、実休光忠の手が彼女の肌を撫でた。たったそれだけで、未だ冷め切らない身体はそれだけで熱を取り戻してしまいそうになる。 は失言をしてしまったと、慌てて口元を手で押さえた。頭上からくすくすと笑い声が聞こえて、揶揄われたのだとわかる。羞恥にかっと顔が紅潮した。 「君は心優しくてかわいい子だね」 「じっきゅうさ……」 「気持ちいいな。……眠ってしまいそうだ」 実休光忠の手がの身体を抱き直す。後頭部に柔らかく口付けられた気配があった。 肌の触れ合う部分のじっとりとした湿度が重く感じて、ただそれすら心地いいと感じる。はもう何も考えたくなくなって、彼に倣って現実から逃げるように瞼を下ろした。