Sink

眠れる君に安らかな夢を

 気がつけば、審神者は見知らぬ土地にひとりぽつんと立っていた。
 彼女は状況を振り返る。この日の午前は時の政府のちょっとした催しがあって、政府管理の施設へと顔を出した。しかし、本丸へと帰還したのちにちょっとした忘れ物をしたことを思い出し、ひとりで施設へ戻ろうとしたのだ。
 付き添いだった近侍は昼食の配膳を手伝っている最中だった。政府の施設には何度も足を運んでいる。これしきのことで呼びつけては悪いかと、彼女は誰にも声をかけず転移門を潜った。
 そうして、門が開いた先に広がっていたのがこの見知らぬ光景である。
 人の往来が盛んな町だ。商人が忙しなく働き、活気がある。鮮魚を扱う店が多く、海が近い土地のようだ。衣服や建物の様子から、少なくとも西洋の文化が大きく取り入れられる以前の日本であることは間違いなさそうだった。
 転移門のゲートは、今や影も形もない。時の政府施設への転移ということもあって、油断していた審神者は、本丸と連絡のつく端末の類をひとつも持っていなかった。全くの手ぶらで、強いていえば一期一振が弟のついでにとくれた飴玉がひとつ、ポケットに入っている。
 お役所に顔を出しても失礼ではない程度の装いは、この街では酷く浮いていた。洋装の審神者を、物珍しそうに町人はちらちら眺めている。その視線が居心地悪く、審神者は人目を避けて路地裏へと入った。

 それからあっという間に時間が経ち、日が落ちて辺りは暗くなった。
 突然タイムスリップし、縁もゆかりもない土地と時代に放り出され、彼女に出来ることなどひとつもありはしない。本丸との連絡の手段がない以上、助けを求めることもできず、一人ぼっちの審神者は八方塞がりで呆然と立ち尽くすばかりだった。
 あれだけ賑やかだった町は、店が閉まると途端に静まりかえって、人通りもほとんど見られない。季節は春だろうか。日中とは気温差が激しく、夕方を過ぎると一気に肌寒さを感じるようになった。審神者は恐怖と寒さに震えながら、路地裏で瞳に涙を浮かべていた。
 このまま、ここで一夜を過ごすことになるのかもしれない。否、たった一夜で済めば幸運だろう。この先、本丸に戻れる保証などどこにもなかった。運が悪ければ、この先永遠に誰にも見つけてもらえないまま、ここに留まりそのまま命を終えることになるかもしれない。
 異形との戦いに身を投じることになった時点で、苛烈な運命への覚悟は決めていた。きっと自分は、ろくな死に方をしないだろうと。けれど、ここまで孤独かつ無為な死を遂げることになろうとは思っていなかった。敵に打ち取られるわけでもなく、誰にも知られずの垂れ死にだなんて。せめて命尽きるならば、誰かのために役立ちたかった。
 ——いや、本当のことを言えば、こんな早くに死ぬだなんて真っ平ごめんだ。審神者はまだ十代の、若い娘だった。
 素質があるからと半ば無理やり親元から引き剥がされ、それでも巡り巡っては大好きな家族や友達を守ることになるのならと、気丈に慣れない采配を振るってきた。歴史修正主義者との戦いは、関係者以外の一般人には伏せられている。誰に褒められることはなくとも、いつか何かの形で実を結べばと、祈りにも等しいささやかな願いを持っていた。
 それがどうして、こんな悲惨な最期を。審神者は人気がないのをいいことに、子供のように嗚咽を漏らし、声をあげて泣いた。
 孤独と不安に耐えきれず口の中に押し込んだ飴玉が溶けていく。甘味が疲労を少しだけ和らげたが、十分もすれば溶けて無くなってしまった。審神者は丁寧に飴の包みを畳んで、ポケットに仕舞った。
「ん、あんた……」
 膝と腕に顔を埋めていると、どこからかしゃがれて覇気を感じない男の声がした。それが思いのほか近くで聞こえたので、審神者は恐る恐る顔を上げる。そこには酔っぱらいの中年男性が立っていた。だらしない猫背で彼は路地裏を覗き込むようにして、審神者の様子を窺っていた。
 嫌な気配に、審神者は座ったまま後退りをする。しかし、すぐ後ろは行き止まりだ。男は千鳥足のまま近付いて、審神者の前にしゃがみ込んだ。
「こんなとこで何してんだ? 風邪引いちまうぞ」
「い、いえ。お構いなく」
「お構いなくってなぁ……あんたみたいな女が一人でこんな時間にいちゃ、心配だなぁ……」
 男に顔を近づけられ、むわりと酒気の混ざった息がかかった。審神者は嫌悪感に顔を顰めたが、男は引く様子はない。
 表情や声色から、行く当てのなさそうな娘の身を心から心配しているわけではないというのは明らかだった。べったりとした下心が視線に混じって、彼女の身体を厭らしくなぞる。審神者は本能的な危機を感じて、鳥肌が立った。
 この時間に外にいる一人ぼっちの女など、格好の獲物だ。その上、見慣れぬ衣服に身を包んでいる。のっぴきならない事情があることは間違いなく、それは悪漢にとっては付け入る隙でしかなかった。
「そうだ、俺ンちに来いよ。腹減ってんだろ? 飯くらいは食わせてやるからさあ」
「い、いらないです。やめてください」
「そう言わずに、なぁ!」
 ついに男は、審神者の手を掴んだ。無理矢理立ち上がらせられて、路地裏から引き摺り出される。手加減のない酔っぱらいの力に非力な女が抗えるはずもなく、審神者は「やめてください」とか細い声を上げることしか出来なかった。
「っ……!」
「へへ、悪いようにはしねぇから……」
 孤独、空腹、寒さ——極限状態の中で、審神者はもう冷静な思考を失っていた。このまま宿無しのまま野垂れ死ぬくらいならば、男の慰み者になってでも生き延びるべきなのではないか。そんな考えさえ頭を擡げる。
 やがて審神者は、精神的な疲労から抵抗することすらも出来なくなってしまった。男に腕を引かれ、連れられるがまま歩く。
 それを男は合意の意志だと取ったらしい。機嫌よく語られる男の話を聞き流しながら、涙で滲む足元を見つめ、平穏だった暮らしに思いを馳せていた。
「止まれ」
「あぁ、なんだあんた……」
 突然酔っ払いが立ち止まったので、審神者はたたらを踏んだ。先ほどの上機嫌から一転、男が怪訝に唸る。その場に漂う緊張感から、顔見知りに声をかけられたわけではなさそうだった。
 こんな夜更けに声をかけてくる者など、この酔っ払いを含めて碌な人間であるはずがない。まさか、辻強盗か何かだろうか。立て続けにこんな不運があるものかと審神者は己の不遇を嘆きながら、この場の出来事をどこか遠い世界のように感じていた。見慣れぬ景色と信じ難い現実から目を逸らしただけの逃避だ。しかし、そうでもしなくては正気を保ってはいられなかった。
「その女は連れだ。返してもらおう」
「連れェ? 何言ってんだ、俺が拾って——」
「腕ごと切り落とされたくなければ今すぐ立ち去れ」
「ひ、ヒイッ!」
 酔っ払いは声をかけてきた不審な人物に脅されると、情けない悲鳴を上げて審神者の腕を振り払い、一目散に逃げ出した。
 突然突き飛ばされた審神者は勢い余ってその場に尻餅をつく。どたどたと足をもつれさせながら走っていった酔っ払いの姿は、あっという間に見えなくなった。
 そうしてその場には、月光を背負い帯刀した男と、惨めにも地面に座り込んだ審神者のふたりだけが取り残された。
 ここまで追い込まれれば、もう何だってよかった。乱暴をされる相手が酔っ払いからこの男に変わっただけで、向かう先が地獄であることには何ら変化がない。
 仮にこの男が金品を目的としていたとしても、審神者が持っているのはこの町では珍しい洋服と飴玉の包み紙だけ。最も高く金に変わるのは、この若い女の身体だ。どこぞに売り飛ばされるのかもしれないと、審神者は悲観的に自嘲した。
「……立てるか」
「……………」
「聞こえているのか?」
 男の態度は、酔っ払いと相対していた時とはまるで別人だった。静かで重厚な低い声は誰もを威圧する鋭さがあったが、審神者に向けられたものはそれを最大限和らげた、まるで彼女を心配するかのような声色だった。
 盗賊のくせに女には紳士なつもりだろうか、と審神者はちらりと顔を上げた。提灯の少ない通りは月明りだけが頼りで、すぐ目の前の男の顔すら薄ぼんやりと隠してしまう。闇に慣れた目が次第に男の輪郭、そして顔つきを捉える。
 悪党には勿体ないくらいの端正な目鼻立ちには、見覚えがあった。審神者は瞠目し、思わず後退あとずさる。
 不気味に光を集める鉛色の虹彩はおよそ人間のものとは思えない。左目の下の印は同じく双璧と謳われた片割れと鏡合わせのもので、陶器のような白い肌には曇りひとつ見えなかった。その姿はまさしく、刀剣男士・稲葉江そのひとだった。
「い、稲葉……?」
「……気付いていなかったのか」
「ほんもの……? 私の稲葉江、だよね?」
 審神者は自分の目を疑って、何度も瞬きをした。極まった疲労が見せる幻覚か、都合のいい妄想としか思えない。こんな状況で、今更誰かの助けなど諦めきってしまっていた。
 酔っ払いを追い払った男——審神者がその手で魂を下ろした稲葉江は、ぽかんと口を開けたままの審神者の前に膝をついて視線の高さを合わせた。仏頂面に浮かんだ僅かな安堵は、審神者の気のせいではないはずだ。
 審神者は思わず、彼の顔に手を伸ばした。日頃暇を持て余した審神者の戯れを「無礼打ちにされたいのか」と一蹴する彼だが、この時ばかりはされるがまま、未だ再会に実感を持てない審神者がその存在を確かめようとする幼い手つきを許していた。
「稲葉だ……」
「他に誰がいる」
「うん……」
この数時間で審神者が感じた途方もない恐怖と絶望を稲葉江は知らず、己が助けに馳せ参じるのは当然と言わんばかりの顔をした。それが彼女にとっては信じられないほどの奇跡だとは思ってもみないのだろう。暴行に遭う最中さなかの白昼夢だと言われた方が、彼女はまだ納得できた。
「もう良いか。場所を移すぞ」
「あ、うん……」
 地に足つかぬ朧げな意識の彼女を現実へと連れ戻すように、稲葉江は自分を無遠慮に触っていた審神者の腕を掴んで、彼女を引っ張り上げた。その場によろめいた審神者の足は、生まれたての小鹿のようにがくがくと情けなく震えている。危機的状況を脱して正常に働きだした脳が、今になって恐怖を身体で訴えていた。
「歩けるか」
「たぶん、大丈夫。でも……ごめん。まだちょっと怖くて。腕掴んでてもいい?」
「好きにしろ」
 ぶっきらぼうに言いながらも、稲葉江は掴みやすいように片腕を空けていた。審神者は控えめにそれを掴んで、彼に引っ付きながら半歩後ろを歩く。
 腕から伝わる稲葉江の体温が審神者の心ごと温めて、先程までの心をすり潰すような恐怖心が少しずつ払拭されていく。不明な土地、時代であることには変わらないが、稲葉江という頼りになる愛刀が一振りいるだけで、精神的な余裕を持てていた。
 稲葉江の存在に救いを感じると同時に、審神者はいかに自分が非力であるかを思い知らされていた。審神者としての力を見込まれて主に祭り上げられたものの、いざという時には彼らがいなくては何も出来ない。己の未熟さをひしひしと感じて情けなくなって、審神者は鼻の奥がつんと痛んだ。
 しかし、今は泣いてばかりではいられない。ここで泣き喚いては、稲葉江を困惑させるばかりだ。せめて重荷にならぬようにと、審神者は必死に涙を堪えた。
「どこに向かってるの?」
「富田と合流する」
「富田もいるの……?」
 そもそも、稲葉江はなぜここにいるのだろう。審神者は怒涛の展開に混乱するあまり、すっかり頭から抜けていた疑問を抱いた。
 たしか稲葉江と富田江は、数日前から遠征任務にあたっており、本丸を留守にしていたはずである。本日昼過ぎに帰還する予定で、彼女が命令した遠征の行先はここではなかったはずだ。
 審神者が考えに耽っているうちに、稲葉江は先ほどの通りとは打って変わって、提灯の灯りのまぶしい宿屋通りへと入った。彼はその並びのうち、一つの小ぢんまりした宿の暖簾をくぐる。物珍しそうに宿の中を見回す審神者に「こちらだ」声をかけ、奥へと進んだ。
「ここどこ?」
「富田が話を付けた宿だ」
 狭い土地に無理矢理建てられたこの宿は、階段は急で廊下は人ひとりがようやく通れるような広さだ。板張りの床は一歩歩くごとにミシミシと悲鳴を上げる。
 廊下の突き当りにある引き戸に向かって、稲葉江は「戻ったぞ」と声を掛けた。返事を待つことなく開くと、部屋の中には座布団の上に腰を下ろした富田江の姿がある。彼は畳の上で、筆で描かれた地図を広げていた。
「富田!」
 富田江は稲葉江の後ろにいた審神者を目にするなり、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。江の刀の王子様と呼ばれるに相応しい優雅な表情に緊張を解され、審神者は思わず彼へと駆け寄る。勢い余って畳で足を滑らせそうになったところを、富田江が抱き留めた。
「良かった。稲葉と合流できたんだね。怪我はない?」
「うん、大丈夫……」
「そう。君が無事で本当に良かった」
 富田江は審神者の安否を確かめると、ほっと安堵した様子で眦を下げた。抱き留めた手を背に回して、審神者の気を安らげようと優しく摩る。その温かさに張り詰めた緊張の糸が解け、審神者はまた涙が溢れてしまいそうになった。
 ぴしゃりと引き戸が閉まる音がして、審神者はハッとする。その音がなければ、富田江にわんわん泣きついていたところだ。審神者は指先で目元を拭ってから、稲葉江の方を振り返った。
「そうだ、ふたりはなんでここに……?」
 当面の命の危機の心配はなくなったとはいえ、依然として状況は掴めないままだ。審神者が不安げに二振りの顔を眺めると、稲葉江と富田江は頷き合った。
「状況の整理が必要か」
「そうだね。私たちがここへ来た経緯も話そうか。……その前に」
 富田江は意味ありげに言葉を止め、審神者へと視線をやる。慈しみを込めた目を向けられ、審神者は小首を傾げた。それと同時に、彼女の腹からはきゅうと空腹を知らせる音が鳴る。微かな音だが、静かな部屋にはよく響いた。
 危機的状況のため忘れていたが、朝食を取って以降、審神者は飴玉を除けば水一滴すら口にしていない。空腹は既に限界に達していた。羞恥のあまり審神者は耳まで赤くして、それを隠すように顔を伏せた。
「腹ごしらえが先だね。宿の者への交渉は済んでいるから、何か用意してもらおう」
「う、ごめん……。はずかしい……」
「私たちも君を探していてろくに食事をしていないんだ。私が取ってくるから、君は稲葉とここで待っていて」
 そう言って富田江は席を外すと、三人分の食事を持って部屋へと戻った。夕食にはかなり遅い時間だが、女将に話をして残り物を分けてもらったそうで、量とすれば軽食程度の質素なものである。
 しかし今の審神者にとっては、これまで食べたどんなご馳走よりも美味だった。審神者は喋る間もなく食事を口に運んで、あっという間に平らげてしまった。

 腹が膨れ落ち着いて話ができる状況になり、審神者と二振りはお互いに、ここに来るまでの出来事を話した。
 稲葉江と富田江は無事に遠征任務を終え、いつも通りに帰還しようとしていた。転移装置を使用し本丸へと移動するはずが、なぜかこの町のはずれにいたそうである。
 最初こそ機器の不備、もしくは本丸に危機が迫っているのではないかと疑った。何らかの理由で本丸に接続できない状況になっているのではないか、と。そうして原因を探るうち、二振りはこの時代、この土地に微かに審神者の気配を感じ取ったのである。
 審神者は、本丸で彼らの帰還を待ちわびているはずである。こんな時代にいるわけがない。しかしこの直感は、彼らにとって無視できないものだった。
 万が一、もし何かがあったとすれば。何かの理由で、審神者はこの時代にいたとすれば。ただの杞憂であればいい。そう祈りながら彼らは審神者の気配を追って、この町へと辿り着いた。
 微かに感じる審神者の霊力を辿れど、人の往来の激しい日中は雑踏に紛れて思うように捜索が出来ない。傍にいる気がする、という曖昧な気配だけを頼りに探し回っているうちに、日が暮れてしまった。
 稲葉江と富田江二振りだけであれば野宿に何の問題もなかったが、審神者にそんなことをさせるわけにはいかない。富田江はひとまずの寝床を確保しに、稲葉江は引き続き審神者の捜索を続けた。
 二手に分かれて行動していた折に、稲葉江が無事審神者を保護した――というのが、彼らの経緯いきさつである。
 つまりは、この時代に放り出された原因は依然不明のままということだ。時間遡行という高度な技術は、完全な安全性を確保されているわけではない。恐らく何らかのエラーに巻き込まれてしまったのだろう。時の政府の技術者がこのエラーを感知しさえすれば調査が進み助かる見込みはあるだろうが、それがいつになるかは分からなかった。
「君の転移は機械不良によるものかもしれないけれど、私たちがここへ来たのは別の理由だと睨んでいるよ」
「どういうこと?」
「遠征帰還時は予め転移先が本丸に指定されている。しかし仮にその転移先座標の基準が本丸ではなく審神者の居場所を元に割り出されているとすれば、我らがここへ飛ばされたことへの説明がつく」
「つまり、みんなは本丸に帰ってくるんじゃなくて、私がいる時代に移動するように設定されてるってこと?」
「恐らくはな」
「そのおかげで私たちはこうして君を見つけられたのだから、運が良かったよ」
 彼らの仮説を聞きながら、審神者はなるほどと頷いた。日々の業務ルーチンとして染みついているため意識したことはなかったが、確かに「遠征部隊の帰還時は本丸で出迎えるように」と教えられた記憶がある。
 本丸に幽閉状態で暮らしている審神者にとって、他に出迎えられる場所の選択肢は無いに等しい。形式的な指導だと思っていたが、その仮説が正しいのであればわざわざ本丸で、と指定されたのにも納得だ。機器の開発者が何故そのような仕様にしたのかは審神者には知る由もないことだが、その結果、現に彼女は九死に一生を得た。
 ここへと転移した原因はさておき、まずは本丸へ帰還する方法を探ることが先決である。審神者にはまるで見当がつかずお手上げ状態だ。頭の切れる二振りですら、その糸口すら掴めずにいるようだった。
「君と稲葉を本丸へと戻す方法ならば一つだけ思いつくのだけれど」
「富田!」
 思考に耽るあまり落ちた沈黙を破った富田江の言葉に、稲葉江が怒声を上げた。審神者はその声量に驚いて、びくりと肩を震わせる。怒りを露わにした稲葉江をものともせず、富田江は肩をすくめた。
「分かっているよ。これは最終手段だ」
「え、なに?」
「耳に入れるまでもない下策だ。忘れろ」
 稲葉江の怒りの理由わけ、そして富田江の言う方法とやらがまるで見えない審神者は、困惑した表情で二振りを見上げた。しかし、彼らは審神者の疑問に答えるつもりはないらしい。稲葉江に突き放され、富田江には微笑みで黙殺され、審神者は置いてけぼりにされていた。
「そういうわけだから、まずは当面の生活拠点の確保が先だろうね。毎日宿に泊まっているわけにもいかないし、明日は住み込みで雇ってもらえる場所がないか探してみるよ」
「働く……」
「金子は際限なく沸いてくるわけではないからね」
 富田江の言うことは尤もだ。これから本丸へ戻る手段を探るにしても、生命維持が第一である。ここの宿賃をどう賄ったのかすら知らない審神者だが、ずっとこのままではいられないということは理解できた。
 幼くして審神者となった彼女は、当然社会で働きに出たことがない。自分に出来るだろうか、と新たな不安が胸を締め付けた。
「稲葉も働くの?」
「無論だ」
「心配しなくても、君を飢えさせることはないから安心して。こういった交渉は得意だから」
「うん、ありがとう……」
 富田江の頼もしい言葉に、審神者はこくりと頷いた。
 彼らの転移についての仮説が当たっていたとすれば、二振りは審神者に巻き込まれた形である。本丸の外では何の力も持たぬ審神者が足手まといなのは火を見るより明らかで、彼女は歯痒さを感じていた。
「そろそろ休もうか。君も、ずっと外にいて疲れただろう。これからのことは一度体力を回復させてから考えよう」
「うん……」
 がっくりと肩を落とした審神者を見かねてか、富田江が声をかけた。彼の言う通り審神者の身体は心身ともに疲弊している。今考え事をしても、ろくな結論には至らないだろう。
「といっても、ここには布団が二組しかないんだ。狭いけれど、少しだけ辛抱して貰えるかな」
 間取りからしても、この部屋は見るからに一名から二名向けの小ぢんまりとしたものだ。急だったことと資金の都合で、この部屋しか用意できなかったのだと富田江は申し訳なさそうに詫びた。
 一時は野宿すら覚悟した彼女からすれば、屋根と布団のある場所で眠れるだけで十分である。彼らは二組布団を敷いて、有事に備えて審神者を挟む形で川の字に横になった。
 灯りを落とした部屋の中、仰向けになった審神者はぼんやりと暗闇を見つめていた。凍えた手足が布団で暖められ、疲れが癒えていく。じわりとした温もりに安らぎを感じながら、今日一日を振り返った。
 恐ろしかった。もう死ぬのだと思った。悲惨な、何の意味もない終わりを迎えてしまうのだと。稲葉江と富田江、彼らがいてくれて本当に良かったと心の底から安堵した。
 審神者は掛け布団を深く被って、目元に涙を滲ませた。
「稲葉、富田。本当にありがとう……。ごめんね、私のせいで」
「詫びは不要だ」
「ああ。そのために、私たちがいるのだからね」
 窮屈な寝床ですぐそばにふたつの気配を感じながら、やがて審神者は眠りについた。
 明日をも知れぬこの状況、考え始めれば不安は募るばかりだ。しかし、江の双璧と謳われたこの二振りさえそばにいてくれれば、なんとかなるかもしれないと思ったのも確かだった。

 審神者が目を覚ますと、もう日は随分高く登っていた。疲れのせいか審神者は泥のように眠って、夢すら見なかった。あくびを噛み殺しながら部屋を見渡すと、そこにいたのは稲葉江一振りだけだ。富田江はどうしたのかと審神者が聞けば、朝から仕事を探しに出掛けたのだと彼は答えた。
 自らが顕現させた刀剣男士と合流出来たこと自体恵まれた話だが、その中でも富田江が来てくれたことは、これ以上ない幸運だと審神者は思った。名前を譲り受けた元主に影響を受けて、交渉術に長けている。この状況で彼ほど頼りになる刀は他にいるまい。強い絆で結ばれ信頼関係を持つ稲葉江と二振り揃えば、乗り越えられぬ苦難などないように思えた。

 審神者は遅い朝食代わりに、宿に用意してもらった握り飯を食べた。稲葉江は部屋の壁に背を預けて胡座をかき、黙り込んでいる。元より寡黙で、楽しく雑談が出来るような人当たりのいい男ではない。富田江を帰りを待ちながら、沈黙に耐えきれなくなった審神者は、昨夜の疑問について再び訊ねてみることにした。
「そういえば稲葉、昨日言ってた最終手段って何のこと?」
「耳に入れる必要はないと言ったはずだが」
「聞くだけだって。何かのヒントになるかもしれないし……」
 稲葉江の鋭い視線を跳ね返すようにして、審神者は真っ直ぐ彼を見据えた。しばらく睨めっこが続き、最終的に根負けしたのは稲葉江の方だ。彼は深いため息を吐いて、「何の役にも立たん話だが」と前置きをして口を開いた。
「時の政府は歴史の齟齬を感知して各本丸へ出陣要請を送っている。つまり、何かしらの歴史修正を起こせばこちらの存在に気付く可能性が高い」
 稲葉江の言葉に、審神者は頷いた。確かに、時の政府に気付かせる、という目的だけならばこの方法が最も容易に果たせるだろう。が、しかし。それが罷り通らないことも、審神者はよく知っている。
「これは仮定の——あり得ない話だが。我か富田がこの町の住民を皆殺しにしたとする」
「っ……」
 ——皆殺し。血腥く物騒な響きに、審神者の心臓がどくりと脈打つ。一瞬で頭に広がった空想の中の惨状が、彼女の顔を青褪めさせた。
「そうすれば住民を手にかけた者以外は、運が良ければ事情聴取という名の保護扱い。悪くとも時の政府での身柄の拘束になるだろう。富田が言っているのは、そういうことだ」
「じゃ、じゃあ仮に富田がそれをやったとしたら」
「当然処分だろうな。主を本丸へ帰還させるため、という言い分がどこまで通るか次第だが、十中八九碌な結果にはならん」
 審神者はようやく、昨夜稲葉江が声を荒げた理由を理解した。
 審神者が帰還を急かせば、恐らく富田江は自分の身も省みず、そのような強硬手段を取る。自分一人の犠牲で審神者の身を保護させる——如何にも彼が考えそうな策だと思った。
 皆殺しは、稲葉江が彼女を脅そうとあえて悍ましい言葉を選んだに過ぎない。その内容が何であれ、大小問わず刀剣男士が歴史を修正しようとした動きを感知すれば、時の政府が放っておくはずがなかった。歴史を守るから〝刀剣男士〟だ。歴史を変えればその瞬間にたましいは穢れに堕ちたとされ、時間遡行軍と同列に成り下がる。
「……それは、出来ないね」
「言っただろう。耳に入れるまでもない下策だと」
「ごめん……」
 例えただの仮定としても、口にするのも躊躇われるような惨い策だ。言い辛いことを言わせてしまったことを、審神者は声を沈ませて稲葉江に詫びた。
 その後ふたりは互いに口を閉ざして、退屈な沈黙を守り続けた。活気ある街の声がばつの悪さを際立たせ、審神者は窓の外を覗く。彼女には目の前の現実が、画面越しの時代劇の一場面にしか見えなかった。その後富田江が戻るまで、部屋は静かなままだった。

「この宿の女将の知人が男手を探しているそうでね。まとめて雇ってくれるそうだよ」
 そうして富田江に連れられたのは、宿泊した宿からほど近い旅籠屋だった。立派な構えは昨夜の宿と比較にならず、少し門の中を覗いただけでもたくさんの従業員が忙しなく働いているのが見えた。
 何でも若い衆が数名、奉公の年季が明けて故郷へと帰ってしまい、特に力仕事の手が足りていないのだという。当面の食住を担保する代わりに、富田江と稲葉江が働くという契約を結んだそうだ。
 女将への挨拶を済ませ、案内されたのは住み込みで働く従業員のための長屋だった。審神者らに宛がわれた部屋は昨夜世話になった客室と同じ広さの板の間で、三人身を寄せ合えば眠れる広さだ。身元不明の男女三人組を雇い入れてくれるのだから、待遇に不満は言っていられない。昨晩は気にしている余裕すらなかったが、長らく人と並んで寝ていない審神者は、「寝相とか大丈夫かな」と急に心配になった。
「よく三人とも預かってくれたね。というか、私たちって何の関係だと思われてるの?」
「兄妹ということにしているよ」
「えっ、じゃあ私、二人の妹!?」
「そういう設定になるかな」
 大袈裟に反応した審神者に、富田江がくすりと笑みを零す。彼女は二振りの顔を改めてまじまじと眺めてから自らの顔立ちの平凡さを思い出し、「さすがにそれは無理があるでしょ」と思った。
 顔の造形のレベルが違い過ぎている。かたや標準的な日本人女性、かたや国宝級の美男子二人組である。同じ刀工の作である稲葉江と富田江は兄弟と呼んで差し支えないが、審神者は赤の他人にしか見えなかった。あまりに荒唐無稽な設定だが、ここで生き伸びる為には多少無茶でも押し通すしかない。審神者はそれ以上の言及は控えた。
「そういうわけだから、稲葉も私のことをお兄ちゃんと呼んでくれていいんだよ」
「なぜ貴様が兄になる。先に顕現したのは我だ」
 富田江の軽口に、稲葉江は眉根を寄せて反発する。二振りの気安いやり取りは審神者にとって衝撃的で、彼女は目を丸くした。あの富田江が意味もない冗談を口にし、更に稲葉江がそれに乗っかるとは思ってもみなかったのである。
「じゃあ私が……そうだね、粟田口にならって稲にい、とでも呼べば良いかな?」
「気色の悪い呼び方はやめろ」
「そう? それともお兄ちゃんと呼ぼうか。福島はそう呼ばれたい、と言っていたけれど」
「普段通りで構わんだろう」
「っ、ふふ」
 二振りのコント染みた軽快なやり取りを聞いて、審神者はつい声を漏らして笑った。すると彼らからの視線を感じ、はっとして手で口を塞ぐ。今は緊急事態で、こうして兄弟の真似事をしているのもただの茶番ではないのだ。何もかも彼らに頼り切りだというのに緊張感が欠けていたと反省し、「ごめん」と小さく謝罪をすると、富田江はふっと口元を綻ばせた。
「咎めているわけではないよ。君が笑ってくれて安心したんだ。稲葉も、そうだろう」
「……」
 富田江が稲葉江に同意を求めて視線をやり、審神者もまた彼を見つめ返す。二対の視線を稲葉江はそれぞれ睨んだが、やがて「べそをかかれるよりはマシだ」とぶっきらぼうに返した。
「そんな泣いてないし!」
「ふふ、君に元気が戻って何よりだ」
 審神者はその瞬間、自分が思っている以上に彼らは心配してくれていたのだと気が付いた。彼らの気持ちが暖かく感じると共にこのまま情けのない主のままではいられない、と己を奮い立たせる。生活面ではおんぶに抱っこはどうせ避けられないのだから、せめて心配を掛けぬよう気丈に振る舞おうと決意したのだった。

 少ない荷物を部屋で整理してから、富田江は今後の生活について、女将との契約のことや審神者が眠っているうちに稲葉江と相談したらしい今後の方針を話した。
 当面の間はこの旅籠屋で住み込みで働きながら、本丸への帰還方法を探ることになる。無闇に移動するよりは、しばらくはこの場に留まって感知されることを狙うべきだろう。運が良ければ審神者が消えたことに本丸の面々が気付き時の政府に救援を出してくれるかもしれないが、転移がイレギュラーであったことから、時間の経過が本丸と結びついていない可能性が高い。ただ待つだけで助けが来るという楽観的な考えは捨てるべきだろう、と富田江は言う。
 一通り話し終えた彼に、審神者は挙手をした。
「どうかした?」
「あの、私は何をすればいいんでしょうか……」
 富田江と稲葉江が旅籠屋での労働で日銭を稼ぐことは説明されたが、富田江は審神者に何も求めなかった。まさか彼らが働いている間ぐうたら過ごすわけにもいくまい。しかし富田江はそのまさかのつもりであるらしい。「君の身に何かあってはいけないから」と説得されたが、彼女もそう易々と引き下がることはできなかった。
「ふたりにだけ働かせるわけにはいかないよ。こんな言い方をするのは何だけど、このままじゃ時間持て余しちゃいそうだし……」
 これではただの穀潰しである。自分にも仕事が欲しいと審神者が食い下がると、意外にも助け舟を出したのは稲葉江だ。
「この規模の宿ならば手はいくらあっても足りんだろう。貴様から掛け合ってやれ」
「生活するだけなら働くのは私たちだけでいいと思うのだけど——わかったよ。君がそう言うなら、女将に聞いてみよう」
「ありがとう、お願い」
 そうして富田江の交渉を経て、審神者は旅籠屋で女中として、小間使いや雑用の仕事をすることになった。

 旅籠屋での仕事は決して楽ではなかった。本丸での生活では、つい家事や日常業務をそれらに長けた刀剣男士に任せがちで、積極的に行っていたわけではない。どうしてもほかの女中ほど手早く仕事をこなせない審神者は、己の不出来を嘆いた。そんな中でも、わがままを言って働かせてもらえるよう掛け合って貰ったのだから泣き言を言っている場合ではないと懸命に取り組むうちに、少しずつではあるが形になってきた。
 次から次へとすることが降って湧いてくるので、忙しなく一日が過ぎていく。毎日長屋の部屋に戻る頃には疲れ切ってくたくただ。ただ、日々少しずつ出来ることが増えていくのは確かで、そんな手応えを覚えながら、彼女はこの仕事にやり甲斐を感じていた。
 共に働く女中は歳の近い娘が多く、仕事を教わりながら話すうちに親しくなった。長らく同年代の同性と話す機会を失っていた彼女は、日々の中でこういった楽しみも見出していた。

 旅籠屋に世話になり始めて、一月ほどが経った。
 やっと仕事に慣れちょっとした作業をひとりで任せてもらえるようになったばかりの審神者と違って、稲葉江と富田江はもう周囲に溶け込み、能力を見込まれ頼られている。コミュニケーション能力の高い富田江は予想の範疇だが、稲葉江までもが馴染んでいることが審神者には意外に思えた。彼は言葉少なながらも実直な仕事ぶりから、同性にも羨望の眼差しを向けられているようだった。

 風呂の掃除を終えた審神者は、親しくなった女中、おたねと共に賄いを食べていた。
 おたねは噂好きで、宿に泊まる客のゴシップを耳に入れては審神者に話したがる。いつの時代も女の子が噂好きなのは変わらないのか、と思いながら、審神者はその話に相槌を打っていた。
 ここしばらく滞在している商人風の客は、羽振りが大層いいことで従業員の間で話題になっていた。女将からも直々にあの客への接客は手厚く丁寧に、と指示されている。ただ者ではなさそうだと審神者も思っていたが、実はやんごとないご身分の方が商人のふりをしてお忍びでこの町にきているらしい、とおたねは囁いた。身に着けている着物や物品は確かにそこらでは見ないような上等な品ばかりで、仕草も特徴的だ。擬態しているつもりだろうが、一般的な商人とは明らかに一線を画していた。
「ところで……あなたって、富さんと稲さんの妹なのよね?」
「えっ?」
 先程までうきうきと例の商人の話をしていたおたねは、突然話の矛先を審神者に向けた。無茶な自覚のある設定を指摘され、審神者は思わず上擦った声を上げた。飯を喉に詰めてしまいそうになって、審神者はけほけほと咳き込む。飲み物を喉に流しこんで、落ち着いてから「そうだけど」と肯定した。
 審神者は嘘をつくのがあまり得意ではなかった。そういう設定で世話になっているのだし、誰かに損をさせるような罪のある嘘ではないと分かっていても、どこか後ろめたい。自分の対応が下手だったばかりに二振りが疑われてしまったらどうしよう、とじわりと手汗をかいた。
「本当に?」
「う、うん。よく似てないって言われるけど」
「そうなんだ。じゃあただの噂かなあ」
 まさか自分に関する噂を流布されているとは思わず、審神者は首を傾げる。「何の噂?」と問うと、彼女はよくぞ聞いてくれました、と言わんばかりにニタリと目を細めた。
「あのね、あなたが実はどこかのお姫様であの二人は護衛なんじゃないか……って噂が流れてたの」
 今度こそ審神者は、呼吸が出来なくなってしまうかと思った。大きく噎せた審神者の背を、おたねが摩る。「そんなわけないじゃん」と否定した声は弱弱しく、僅かに震えていた。
 お姫様なんて高貴な身分は的外れだが、後半はぴたりと言い当てられている。審神者は刀剣男士に対し、日頃からフラットな態度を心がけているつもりだった。主という立場だが、偶然その力を持っていたから審神者になったに過ぎず、敬われるような人間ではないと思っているからだ。上下関係を感じさせる言動はしていないと思っていたが、どこからか滲み出ていたのだろうか。図星を刺され、審神者は狼狽えた。
「違うよ、お姫様なんかじゃ」
「そうなの? じゃあどちらかがあなたの婚約者とか?」
「そっ、それもない! 本当にただの似てない兄妹なの」
「ふうん、そっかぁ」
 焦りを取り繕おうと、審神者は皿に残った食事を一気にかきこんだ。おたねは噂の当てが外れて、つまらなそうにしている。どうやらうまく誤魔化されてくれたようだ。審神者は胸元を撫でて深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようとした。
「それにしても、どうしてそんな噂が?」
「さっきの商人のお客様の話に戻るんだけどね、前にあなた、あの方にお部屋に呼ばれてたじゃない?」
「あぁ……そんなこともあったっけ?」
 おたねが話題に出したのは、先日の商人の接客時のことだった。
 夕食の提供後、空になった食器などを下げに客室へと入った審神者は、例の商人に声をかけられた。何か申し付けられるのかと思えば、商人は審神者に年齢と出身、両親が存命かを訊ねる。女将に手厚い接客をと言われていたため、仕事の手を休めないまま愛想良く受け答えをしていると、商人は突然、「君は綺麗だね」と口説き始めた。
 卓上には結構な量の空の徳利が並んでいる。酔っ払いの戯言かと、彼女は笑みを張り付けて受け流そうとした。しかし商人は思いのほかしつこく食い下がり、「この後部屋でお酌をして欲しい」と言い出したのだ。
 直接お客様を接待するのはベテランの女中の仕事だ。女中として新米も新米、まだお酌の作法なども躾けられていない彼女は大いに困ってしまった。本丸の酒宴に混ぜてもらったことはあれど、そこでもジュースを飲んだりつまみをおやつ代わりに食べたりしていただけで、酒を注いだことはない。
 安請け合いをして女将が特別視するような上客相手に粗相をしては事だ。審神者が女将に相談すると、晩酌の相手は別の女中がすることになった。
 夕食の後始末が済んだら部屋に戻っていいと言われ、審神者はそのまま何事もなくその日の仕事を終えた。彼女にとってはそれだけの出来事だったが、どうやら裏ではそうではなかったらしい。
「富さんがね、あなたには絶対そういう仕事をつけないようにって女将さんに言ってたらしいの」
「富……兄が?」
「うちは飯盛女を雇ってないけど、身請け目当てでそういうことをする子もいるから黙認されてるの。でも富さんがあなたはダメって」
 飯森女、身請け。商人の言う酌がそのまま、ただ酒を注ぐ相手ではないことを審神者はその時ようやく理解した。世間知らずな彼女は、娘ひとりを部屋に呼ぶ理由を知らなかったのだ。彼女は己の無知を恥じた。
 自分だけが守られてばかりではいられないと働きたいと申し出た訳だが、その結果富田江に気を回させている。いたたまれない思いで俯くと、おたねは心配そうに「言わない方がよかった?」と、その顔を覗き込んだ。
「ううん、教えてくれてありがとう。私もしっかりしなきゃって思っただけ」
「そっか。……それにしても、富さんってすごいよね。あんな気が強い守銭……っと、商売に厳しい女将さんにお願い事をいろいろ聞いてもらってるって。本当にすごい立場の人じゃないんだよね?」
「それは……うん。私も自分の兄ながらすごいなって思うよ」
 女将は明らかに、富田江のことを一時雇用の男衆として扱っていなかった。裏でどのような交渉がなされたのか、審神者は知らない。聞いたところではぐらかされるのは目に見えていた。確かにこれでは、ただの兄妹ではないと疑われるのも仕方のないことだろう。周りの目を欺くためにも、もっと自分がしっかりしなくては。審神者はそんな風に、意識を改めた。

 審神者が食器を返しに厨房へと行くと、賄い方に「厩の連中を呼んできてくれ」と頼まれ、審神者はその足で厩へと向かった。
 草と馬の匂いの充満する厩を覗き込むと、稲葉江が黙々と馬の身体を拭いてやっている姿が見えた。本丸でも馬の扱いが上手な彼は、こちらでも評判が良いそうだ。馬も稲葉江に懐いているようで、気持ちよさそうに世話をされていた。
「稲葉、賄いの準備出来たって。切りいいところで食べに行って」
「相分かった。他の者にも伝えておこう」
 稲葉江は布を桶に放り込み、馬に向かって身体を撫でながら「終わったぞ」と声をかけた。お礼を言うような仕草で馬にすりすりと頭を寄せられる稲葉江の表情は、日頃の仏頂面からは想像がつかないほどに穏やかだ。審神者はその様子をまじまじと眺めていた。
「……なんだ。まだあるのか」
「この馬、稲葉に懐いてるね」
 賄いの件を伝えた後もその場に留まり続ける審神者に気付いた稲葉江が、彼女を振り返った。
 審神者も本丸で馬の世話を手伝ったことはあるが、こうも身を委ねられたことはない。好かれたり嫌われたりは刀剣男士次第で、それでもここまで見るからに好かれている様子は滅多に見ない。今も馬は心地よさそうに鼻を鳴らしている。よほど世話の手がいいのだな、と審神者は思った。
「気性が穏やかなだけだ」
「そういうのもわかるんだ」
「戦場で馬の存在は必要不可欠だ。兵の能力を見定めるのと同じく、性格を把握するのも当然のことだろう」
 何のことはないと言わんばかりに言ってのける稲葉江に、審神者は内心感心していた。理由はさておき、丁寧に馬の世話をしてやって、その結果懐かれていることに変わりはない。彼のぶっきらぼうで分かり辛い優しさは、人以上に伝わっているのだなと思った。
「稲さん、こっちは終わったよ。そっちは……おっ、君は」
 ブラシと桶を手に稲葉江に声を掛けたのは、別の馬の世話をしていた下男だった。
 彼は審神者に気付くと、人好きする笑みを浮かべる。仕事のやり取りで何度か話したことはあるが、審神者は彼のことを名前以外碌に知らない。刀剣男士以外の異性への人見知りのきらいのある審神者は、少しだけ緊張した面持ちで会釈を返した。
「お疲れ様です。あの、賄いが出来たから呼んできてって頼まれて」
「そうなんだ。わざわざありがとう」
 元気のいい溌剌とした男だ。稲葉江や富田江ほどではないにしろ整った顔をしていて、女の子から人気があるのだろうなと審神者は思った。自分のような者にも分け隔てなく接してくれて、人当たりも良い。そんな彼と稲葉江の前で話すことが何故だが気恥ずかしく思われて、審神者は普段よりトーンの高い、澄ました声で返した。
 下男はそのまま賄いを食べに向かうのかと思えばその場を動かず、笑顔で審神者を見ている。どうしよう、と彼女は馬の顔を見上げたが、馬は審神者に見向きもしなかった。するとその様子を見た下男が「馬が好きなの?」と審神者に訊ねた。
「好き……ってほどじゃないけど。かわいいなって思います」
「そっか。特にこいつは毛並みも良くてきれいだよね」
「は、はい。体がつやつやしてて、かっこいいです」
 稲葉江が気性が穏やかだと言った馬は、下男に撫でられても嫌がるそぶりを見せなかった。
 いいものを食べてよく手入れされているのだろう。毛並みの艶が良く、人慣れしている。戦場で駆け回ることを目的に育てられている本丸の軍馬とはまた少し様子が違って見えた。
「あのさ、よかったら今度——」
「随分長い休憩だな。戻らなくていいのか」
 何かを言いかけた下男を遮ったのは、これまで黙り込んでいた稲葉江の言葉だった。
 急に会話に割って入られたふたりはぎょっとして、稲葉江を見る。彼は汗のせいか髪が崩れて、一束額に下りていた。その隙間から見えた稲葉江の瞳は鋭く、とても機嫌がいいようには見えない。彼の低い声は、本人にその気がなくとも聞く者に威圧感を与えた。
 稲葉江は床に置いていた桶を持つと「我らも向かうぞ、賄いを食い逸れる」と下男に厩を出るよう促した。下男も慌てて頷き、厩の出入り口へとつま先を向ける。
 休憩の前後とはいえ仕事の手を止めていたことは否定できないが、この態度は気さくに話しかけてくれた下男に失礼ではないだろうか。審神者の不満を乗せた視線は稲葉江に届かず、彼女は苛立ちを覚えた。
「ごめんなさい、口うるさいで!」
 審神者が当てつけのように張った声が、厩に思いのほか大きく反響した。下男は審神者に雑談していたことを気負わせぬよう、柔らかく微笑み返す。稲葉江は審神者の方を振り向くと、何かいいたげに目を細めていた。
 経験上、こういう顔をする稲葉江が思うことを口にすることはない。審神者はふんと鼻を鳴らして、「私は仕事に戻ります。じゃあね、お兄ちゃん!」と、わざとらしい甘えた呼称で彼を呼んだ。

「あの、ちょっといいかしら」
 昼下がり、乾いたばかりの洗濯物を黙々と畳んでいた審神者は、不意に同じ仕事をしていた先輩女中が近付いてくる気配を感じて顔を上げた。無駄口を咎められぬようにと潜められた声色から察するに、仕事の用ではないようだ。
「あなたって富さんと稲さんの妹なのよね?」
「はい、そうです」
 少し前にも聞かれた問いだな、と思いながら審神者は頷く。またお姫様がどうだとかそんな噂が流れているのだろうか。
 しかし、女中が興味を持っているのは審神者の身分ではないようだった。審神者の返答に、彼女は少しだけ表情を明るくして、耳打ちするように顔を寄せた。
「じゃあ、ふたりに恋人がいるかとかって、知ってる?」
「恋人? いないと思いますけど」
「本当にっ?」
 思いがけない質問に、審神者は素直に答えた。声を弾ませて喜んだ女中に、ああなるほど、と審神者は合点がいく。この女中は、稲葉江か富田江のことを異性として関心を寄せているらしい。
 確かにあれだけの整った顔立ちと逞しい体つきに加え、女将からも一目置かれる仕事ぶりだ。憧れるのも無理はない。現に影でふたりがカッコいいと囁かれているところを目にしたことは何度かあって、それは従業員だけでなく客の間でも話題となっていた。
「じゃあ、異性の好みとか知ってる?」
「好み? うーん……わからないです」
「そうなの? じゃあこれまでどんな方とお付き合いをしていたとか」
「兄と恋愛の話なんてしたことはないので……」
 男世帯の本丸では、色恋沙汰は縁遠い。他所の本丸では刀剣男士が外に女を作ったり、はたまた審神者と恋愛関係になったりするという話も聞いたことはあるが、審神者の知る限りでは、彼女の本丸ではそういった浮いた話は聞いたことはなかった。
 特に富田江と稲葉江は、あまり異性に関心があるようには見えない。周囲の者の話に耳を傾けるばかりで自己開示をしない富田江と、戦と天下にしか興味がなさそうな稲葉江だ。例え無礼講の酒の席でも、そういった話に花を咲かせている姿は想像できなかった。
 二振りの好みのタイプが気にならないかと言われれば嘘になる。個体差はあれど、人の身と心を得た以上は多少なりとも好き嫌いはあるはずだ。思わしい答えが聞けず肩を落とした女中に、審神者は「聞くだけ聞いてみましょうか?」と提案した。
「いいの?」
「はい。あんまりそういうの興味なさそうなので、はっきりした答えは期待しないでもらいたいんですけど」
「ううん、それだけででも嬉しい。妹のあなたにこんなことを頼んでごめんね」
「いえ、私もちょっとだけ興味あるので……」
 まだ帰る方法は見つからないとはいえ、いずれ去るべき場所だ。彼らとこの旅籠屋の誰かが結ばれることはあり得ない。上手く聞き出せたとして、女中に伝えたところでどうにもならないだろう。
 それでも、審神者はこれまで年頃の娘らしい恋愛話をしたことがなかった。それに浮かれるあまり、うっかりこんな約束を取り付けてしまったわけだった。

 その日の仕事が終わり審神者は部屋へと戻ると、二振り夜番に当たっていなかったようで、就寝の支度や明日の仕事の準備をしていた。審神者が「ちょっといい?」と声をかけると、彼らは手を止めて審神者の方を見る。
「今日聞かれたんだけどさ、ふたりって好みのタイプとかある? 女の子の」
 稲葉江の表情が怪訝に強張って、富田江は不思議そうに首を小さく傾げた。概ね想像通りのリアクションだ。聞いたところで、素直に答えてくれそうなふたりではない。はなから期待していなかったが、あまりにも思い描いたとおりの反応を見せた彼らに、審神者は笑みを深くした。
「突然だね。どうしてそんなことを?」
「まあまあ、いいじゃん。稲葉は?」
「下らん」
「言うと思った」
 稲葉江は手を止めて損をした、と言わんばかりに審神者から顔を背け、明日の仕事の確認へと戻った。富田江と審神者は顔を見合わせ、彼らしいそっけない返事に苦笑する。
「富田は?」
「どうだろう、考えたことがなかったな」
「見た目とかも、ない?」
「特に思いつかないね。強いて言うなら、話をしてくれる子かな」
「話をしてくれる子ね……」
 審神者は「それって富田の前だと全員じゃない?」と思った。
 心を寛がせどんな相手からも言葉を引き出す術を持つ彼を前にすれば、いかに寡黙な相手だろうと口を割らずにはいられない。その答えは審神者の好奇心を満たすために用意されたものでしかない。だが稲葉江に一蹴されたことを思うと、興味本位の質問に形だけでも答えてくれるだけ、親切と言うべきだろうか。
「それで、君は?」
「えっ、私?」
「君の好みも知りたいな」
 まさか質問を返されるとは思っておらず、不意をつかれた審神者はきょとんと目を丸くした。
 多種多様な美男子に囲まれて暮らす審神者だが、色恋沙汰には全くの無縁だ。同年代が片思いをしたり恋人とステップを踏んだりしている間に時間遡行軍と戦う日々だ。彼らがバレンタインに一喜一憂する裏でちよこポイントとやらを貯め、ひと夏の恋に想いを馳せているときに夜光貝をかき集めている。青春とは審神者から最も縁遠い言葉だった。
 では、審神者になる前——本丸へ来る以前はどうだっただろうか。
 丁度、周りのませた同級生が恋に恋をして「クラスの中なら誰々くんが好き」だとか言い出した頃だ。当時の審神者は男子生徒に混ざって虫を捕まえることに真剣になっていたので、やはりその時も恋愛への関心は強くなかった。
「小学生の時は足の速い子がモテてたなぁ」
「足の速い子……豊前や五月雨のような?」
「その二人は足が遅くてもモテるでしょ」
 足の速さにこだわりは無いが、そういう憧れならば審神者にも少し覚えがある。虫取りが得意なクラスメイトの男の子がいて、彼には確かに羨望を抱いていた。恋と呼べるほどはっきりとした好意ではなかったが、「ちょっとかっこいいかも」の入口としては十分だ。
「佐野くんっていう子がいてね、ちょっとかっこいいなあって思ってたよ」
「そう。どんな子だったの?」
「カマキリ取るのがうまかった」
「カマキリか」
 富田江は考え込むように顎に手を当てているのを見て、審神者は「いらないからね?」と念押しをした。カマキリやバッタを追いかけることが審神者の生き甲斐だったのは十年近く前の話だ。富田江のことなので、冗談でも審神者が望めばここら一帯の草むらから虫をかき集めてきそうだ。白い装束を汚して草をかき分ける富田江の姿など、彼女は見たくなかった。

 後日、例の女中と仕事が重なった審神者は、質問の答えについて話そうと声をかけた。審神者がその話を切り出そうとするなり、女中は少し寂し気に「そのことなんだけどね」と口を挟む。
「稲さんと仕事が重なったから直接聞いてみたの」
「稲……兄にですか!?」
 大人しくて仕事が丁寧で評判の女中である。まさかそんな思い切った行動に出ると思わず、審神者は驚愕して大声を上げた。人は見かけによらないようで、おしとやかな彼女は恋には積極的な娘であるらしい。
 彼女に異性の好みを訊ねられ、稲葉江はなんと答えたのだろう。審神者の胸に好奇心がむくむくと沸き上がる。
 旅籠屋の従業員と会話している姿を見たことはあるが、それも業務に関する最低限の言葉のみ。こんなことを聞かれて、本丸でなら「無礼な」の一言で斬り捨てそうなものだが、序列で言えば勤続年数は女中の方が上だ。彼女にどんな態度で接したのか、審神者は興味津々だった。
「それで、兄はなんて?」
「——手のかかる弟妹ていまいの世話でそのような暇はない、だって」
「えっ」
 弟妹とは言わずもがな、富田江と審神者のことだろう。どちらが兄かと張り合っていたのはただの戯れか些細な対抗意識だと思っていたが、稲葉江は兄弟に当てはめるとすれば、富田江のことを本当に弟だと思っていたらしい。
 確かに顕現当初、人の身に慣れぬ富田江に暮らしのいろはを叩きこんだのは稲葉江だ。刀としては江の双璧とふたつ並べられる彼らだが、刀剣男士としての意識はまた別にあるらしかった。
 女中は思いのほか本気で稲葉江に桃色の憧れを抱いていたようで、しょんぼりと肩を落としている。建前とはいえ断りの理由に出された審神者は複雑な心境で、謝罪の言葉を口にした。女中は首を横に振る。
「いいの。そういうところが素敵な人だなって思ったから」
 審神者は稲葉江のことを罪な男だな、と思った。そして可愛げもあるじゃないか、とも。
 たとえ面倒ごとを避けようとしただけだとしても、応えられぬ恋慕の気配に期待を持たせるようなことをせず、予め断っておくのは彼らしい律儀さがある。そういうところが人を引き付けるのか、失恋したはずの女中は更に想いを大きくしているようだ。
 富田江にこのことを話せば彼は喜ぶかもしれないが、女中のことを思うと口外するのは気が引けた。それこそ、野暮というやつだ。
 審神者はこの出来事を胸に秘め、稲葉江ににやにやと生暖かい視線を送るに留めたが、「気味の悪い顔で我を見るな」と言われたので、力いっぱい彼の背中を叩いた。

 旅籠屋の女中の仕事は多岐に渡る。掃除洗濯接客、その他雑用諸々。男手が必要なほどの力仕事や料理などの特別な技能を必要とするような仕事を除けば、大体何でもやらねばならなかった。
 その中で審神者が特に気に入っていたのが、風呂掃除の仕事だ。客の目に触れる配膳などの仕事はいつも緊張していたが、定められた時間内に浴場を洗い上げる仕事は、気性に合っているようで楽しくこなしていた。
 栓を抜いた途端大量の湯が流れ出ていく様子は何度見ても圧巻で、また、磨き終えた湯船にきれいな湯が貯まっていく眺めるのも好きだった。指導を担当する先輩女中からも評判が良く、審神者はここのところ風呂場の清掃を指示される機会が増えていた。
「おふみさん、浴場の掃除終わりました」
「お疲れ様。こっちももう終わるよ。確認するね」
 おふみは審神者と共に男湯の清掃を担当する女中だ。脱衣所の掃除をしていた彼女は、審神者の清掃に不足がないのを確認した。
「うん、問題なし。お疲れ様。夕飯の支度までちょっと時間あるし……先に休憩入れちゃおうか」
「はい!」
 審神者は掃除道具をまとめながら、ふとちらりと足元に視線をやった。視界の端になにかが光ったような気がする。目を凝らすと、それは脱衣所のすのこの合間に転がった指先サイズの赤い玉だった。
 水捌けを良くするため、脱衣所は浴場に向かって傾斜がつけられている。脱衣所で落としたものがすのこの間に落ちて、浴場の前まで転がってきたのだろう。審神者はしゃがんで、それを摘んだ。
 艶々とした赤色にはどこか見覚えがあり、審神者はなんだったかと思案する。そしてすぐに、稲葉江の数珠に似ているのだと思い至った。彼がお守りのように肌身離さずつけているものとそっくりだ。
 もしかしたら、仕事をしているうちに切れてしまって、そのひとつがここに転がっているのかもしれない。審神者は懐にそれを仕舞って、おふみに急かされ、慌てて脱衣所を後にした。

 清掃道具を片付けた後、審神者は休憩室に向かっていた。その道中、従業員用の通路で女将の声を耳にする。どうやら誰かを叱っているようだが、それにしたって様子が妙だった。
 女将は厳しい人であるが、余裕を失うほどの一方的な叱責はしない、冷静な仕事人である。誰かが大きな失態でも犯したのだろうか。その様子を物陰から盗み見ると、叱られているのはおたねだった。
 彼女はえぐえぐと涙を流しながら女将に頭を下げている。勤勉な彼女が一体何をしでかしたのか、審神者はその様子を見ていられず、つい顔を出した。
「あの、何かあったんですか」
「……お客様がね、おたねが大切な宝物を盗んだって言うのよ」
「おたねちゃんが?」
 審神者を見たおたねは、ふるふると小さく首を横に振った。彼女の家は貧しく幼い頃から働きに出ているものの、人のものを盗むような手癖の悪い娘ではない。それは、最も長く彼女を見てきた女将が一番知っているはずだ。
「あたしだってね、おたねを信じてあげたいわよ。でもね、お客様がそうおっしゃってどこにも見つからないんだからどうしようもなくて」
「今お客様は?」
「富田がお相手しているわ。機嫌だけでも直してもらおうと思って、おもてなしの最中よ」
 盗難騒ぎで怒りの収まらない客人の相手を富田江がしている間に、女将はその宝物を見つけ出そうとしているらしい。けれど、おたねはやっていないの一点張り。従業員総出で探させているものの、未だその宝物は見つかっていなかった。
「あなたも、手が空いているなら探してちょうだい。顔の広いお客様だから、このまま見つからなかったらどうなるか……」
 盗人を雇っている宿だと悪評を広められることを女将は危惧しているらしい。項垂れた女将と未だ目元を涙で濡らしたおたねを置いて、審神者は宝物を探すために客室方面へ向かった。

 すれ違う従業員は皆、血眼になってその宝物を探し回っている。他の客の接待もあるため捜索ばかりに人員を割いていられず、宿はてんてこ舞いだ。それに、このままでは夕飯の支度も始まってしまう。
 審神者が客用の庭へと降りると、そこでは稲葉江が探し物をしていた。
「稲葉! 稲葉もなくしもの探し?」
「ああ。富田から話を聞いたか」
「ううん。女将さんがおたねちゃんに怒鳴ってるところを見てしまって、ちょっとだけ聞いたの。さっきお風呂の掃除終わったところだから、私も探すよ。宝物ってどんなもの?」
 稲葉江は富田江が客から聞き出したという宝物の特徴を話した。
 手のひらに収まる小ぶりなサイズの薄い巾着で、中には貴重な外貨が入っているそうだ。恩人から譲り受けたそれを、客は肌身離さず持っていた。しかし今朝部屋に置き忘れたまま入浴し、部屋へ戻るとなくなっていたそうである。その間に部屋の布団を上げたのがおたねで、故に彼女に窃盗の嫌疑がかかっていた。
 客人にとっては何にも変え難い大切なものだが、たかが外貨であれば金銭的価値は知れている。何か特別な事情がない限り、おたねが盗んだとはやはり考え辛い。きっと誤解があるはずだ、と審神者は思った。
 肌身離さず持ち歩いていたということは、気付いたのが部屋へ戻った時というだけで、どこかで客が落としてきた可能性も否定できない。大っぴらにそれを疑うことはできないので、富田江は雑談を装い、彼の宿の中での行動ルートを聞き出していた。
 稲葉江はその情報を元に、巾着を探していたそうだ。小さな巾着はなかなか見当たらず、捜索は滞っていた。
 その後、審神者は稲葉江と一緒になって、心当たりの場所を探して回った。
「あっ、そういえば」
「何だ」
「いや、探し物の話じゃないんだけどね」
 宿の隅々に目を凝らして巾着を探していた審神者が声を上げると、稲葉江が手を止めた。審神者は懐を弄り、脱衣所で拾った赤い玉を取り出し、稲葉江に見せた。
「これ、稲葉の数珠じゃない? 落ちてたから拾ってきたんだけど」
「我のものではないが」
「あれっ、ほんとだ」
 稲葉江は懐に仕舞っていた数珠を取り出した。作業の邪魔になるからと、仕事中は腕から外しているそうだ。
 審神者が拾った玉と数珠を並べてみると、色こそ酷似しているが、よく見ると別の素材でできているのか表面の光沢が異なっている。審神者の拾った玉は塗られたような艶があって、空いている穴が楕円だった。
「じゃあなんだろう、これ」
「緒玉だな。紐の擦れた跡がある」
「おだま?」
 審神者が手のひらの上に載せた玉を、稲葉江は指さした。楕円の穴を目を凝らして見ると、確かに穴の淵には何かが擦れたような細かい傷がついている。こんなところに気付くとは、と審神者は彼の着眼点に感心した。
「で、その緒玉って何なの?」
「巾着などの紐の結び目につけるものだ」
「ああ、見たことある。じゃあ紐が解けて取れちゃったのかな。……ちょっと待って、巾着ってもしかして」
 審神者と稲葉江は思わずハッと顔を見合わせた。巾着の特徴について緒玉の色までは聞いていないが、審神者が見つけたそれはただの偶然とは思えない。
「どこで拾った」
「えっとね、脱衣所。お風呂場との境目に転がってて。……って、お客様、お風呂に入ってる間になくなってた、って言ってたよね?」
「探してみる価値はあるな」
 ふたりは頷き合って、男湯へと走った。

 風呂場に着くと、運のいいことに、入浴している客はいなかった。清掃中の札を立て、彼らは男湯の脱衣所へと入った。
 審神者は脱衣所と浴場の境に立ち、しゃがんですのこの間を覗く。「この辺りに落ちてた」と、すのこの端を指差した。
「巾着は見当たらんな」
 すのこ張りの脱衣所の床を注視したものの、それらしいものは見当たらない。そもそもすぐに見つかるような場所に落とし物があったとすれば、先ほど清掃した時におふみが気付いているはずだ。桶の下や棚の中を覗いて回ったが、巾着は見つからなかった。
「ねえ稲葉、巾着って結構小さいんだよね?」
「そう聞いているが」
「じゃあこのすのこの間に挟まってたりしないかな。コインが入ってるならちょっと重いだろうし……」
「……少し離れていろ」
 審神者は稲葉江に言われるがまま、浴場へと退避した。
 稲葉江はすのこの端に指をかけ、部屋の端から端まで渡る長さのそれをゆっくりと持ち上げる。審神者がしゃがんで浮いたすのこの下を覗き込むと、隙間に落ちたゴミなどの他に、何か黒い影が見えた。
「あれ……何かある! 稲葉、もうちょっと上げてみて」
 稲葉江は審神者に言われるがままにすのこを持ち上げ、審神者は急いでその下へと潜った。部屋の隅、丁度すのこの板で隠れる位置に、小さな巾着が落ちている。
「あった! 稲葉、あったよ!」
 審神者がそれを拾い上げてすのこの下から抜け出してから、稲葉江は床板を元に戻した。
 審神者が拾い上げた巾着は少し汚れているが、逆に聞いた特徴と一致していた。片方の結び目が解けており、恐らく帯に巾着の紐を通していたものの何かの拍子に結び目が解けて落下して、気付かないうちにすのこの下に入ってしまったのだろう。緒玉だけが転がって、審神者の目に留まったわけだ。
 審神者が中をそっと覗くと、聞いた通りのコインが入っている。間違いなく、客の宝物だった。
「稲葉、稲葉」
「やらんぞ」
「ノリ悪いなぁ……」
 審神者はハイタッチをしようと稲葉江に手のひらを向けたが、稲葉江はつんと顔を背けて応えてはくれなかった。むっと唇を曲げた彼女を置いて、すのこを持ち上げて汚れた手を洗っている。

 無事に宝物が発見されたことで、おたねの容疑は晴らされた。あとは、いかにしてプライドの高そうなその客人に恥をかかさずあなたの落とし物ですよと伝えるかだが、それについては富田江に任せれば何の心配もいらないだろう。
 彼を呼び出し巾着を渡して事情を説明すると、富田江は頼もしく「私に任せて」と胸に手をやり、その役目を請け負った。その結果、彼は期待以上の仕事をこなしてくれたようである。誤解を認めた客は、詫びの気持ちを込めて大金を使ってくれたとのことで、旅館の名に傷が付く危機から一転し、女将は上機嫌だった。
 一件落着の後、おたねは汚名返上に活躍した審神者に泣きながら礼を言った。このままでは旅籠屋を追い出され、行く当てもなく途方に暮れることになっていた、と。
 審神者がしたのは、偶然稲葉江のものに似ていたからと緒玉を拾っただけだ。その玉が緒玉だと気付いて床板を引き剥がした稲葉江、一連の流れを丸く収めた富田江こそが今回の立役者で、審神者の功績はただの幸運にすぎない。
「お礼は私じゃなくて兄に言って」と謙遜したものの、日頃世話になっているおたねの役に立てたことを審神者は誇らしく思った。

 深夜、草木も眠る時間帯。半身に重みを感じ、稲葉江は目を覚ました。
 月も出ておらず、窓の外は殊更暗い。重みを感じた方向を見やると、ぐっすり眠った審神者が稲葉江に半ばのしかかるようにして張り付いていた。
「…………」
 審神者は無防備な寝顔を晒しながら、稲葉江の腕を勝手に枕として使っていた。重みの原因を把握した稲葉江は、彼女を起こそうと腕を揺すった。しかし、審神者は寝心地悪そうに眉を顰めるだけで、目を覚ます気配はない。稲葉江の気も知らず、ぐっすりと寝入っていた。
「……おい」
「……………」
「どうしたの」
 小声で声をかけると、反応があったのは稲葉江の眠りを妨げた当人でなく、その奥で横になっていた富田江だった。寝起きのいい彼は目を覚ましたばかりとは思えぬはっきりとした口調で、稲葉江の様子を窺った。
「富田、これを剥がせ」
「よく寝ているね」
「だからなんだ。重くて敵わん」
 稲葉江は今度は審神者の肩を掴み、ゆさゆさと揺り起こそうとした。しかし審神者は目を覚ますどころか、口をムニャムニャさせながら更に彼の方へと身を寄せる始末だ。抗えば抗うほどくっつく審神者の様子が愉快で、富田江が笑みをこぼす。自分が困り果てている様を面白がっている片割れに対し、稲葉江の顔が不機嫌に歪んだ。
「寒いのかな。私の方へおいで」
「ん……」
「稲葉がいいの?」
「…………」
 散々笑った後、富田江は稲葉江を助けてやろうと審神者の肩に手を添えた。しかし審神者は嫌々と身を捩って、それから逃れようとする。眠りに就いた無意識下だが、稲葉江の温もりから離れる気はないらしい。
 再びもぞもぞ動いて寝心地のいい場所を確保しようとする姿は小動物染みている。富田江は何度か肩に触れては、審神者が身動ぎするのをしばらく眺めた。
「振られてしまった。どうしてもお前がいいそうだよ」
「遊ぶな」
「お前が剥がせと言うから引き受けてやろうと思ったのに」
 何をしても目を覚まさない審神者に、稲葉江は白旗を上げた。
 拘束されていない方の手で蹴飛ばされていた掛け布団を掴むと、彼女の肩までかけてやる。片割れから生暖かい視線を向けられているのを感じながら、あえてそれに気付かぬふりをした。
 戦ほどでなくとも、旅籠屋での仕事は重労働だ。本丸を離れ十分に回復ができない今、睡眠時間は少しでも多く確保すべきである。何度引き剥がそうとしても張り付いてくる柔らかい熱の塊をなんとか無視することにして、稲葉江は再び瞼を閉じた。富田江もまた、眠りの姿勢を取る。
「富田」
「なにかな」
「これの相手はお前の方が向いている」
 富田江からの返事はない。よく口の回る男だが、稲葉江に対しては心を配って寛がせる必要はなく、気を許しあった仲であるが故に無言を貫くことがあった。
 しかしこの場合は、稲葉江の言葉の意味を理解した上でそれを受け入れまいという意思だろう。いざという時、残るべきはお前だと、稲葉江は暗にそう伝えていた。
「そうはいっても、お前によく懐いているよ」
「どこがだ」
「この通りべったりと」
「…………」
 タイミング良く、審神者がもぞりと動いて衣擦れの音が立つ。
 状況が状況なために、嫁入り前の娘が——と小言は言えなかった。彼女を挟んだ向こうに横になっているのは、自分自身よりも信頼を置いた片割れである。どちらかが妙な気を起こす心配ははなからしていなかったが、それでも年頃の娘が故に、彼女を思って気にかかることはあった。
「稲葉。お前は私に——この子にもらった身を大事にしろと言うけれどね、それはお前も同じことだよ」
「……どの口が」
「反省しているってことさ」
 例の愚策のことを言っているらしい。稲葉江はふと、その話を聞かせた時の審神者の表情を思い出した。
 重くのし掛かる責任と、そこまでの強行手段を己の刀に考えさせたことへの罪悪感から、雨に濡れた子犬のように萎びて、あまりに哀れな顔だった。瞼を閉じてその裏に焼き付いている程に、稲葉江としてはもう二度と目にしたくはない顔である。
 やがて隣から聞こえる寝息がひとつ増え、稲葉江は今度こそ再び眠ろうと体の力を抜いた。半身がとにかく温いので、入眠するのはあっという間のことだった。

 最初こそ雑用や力仕事ばかりを任せられていた稲葉江と富田江だったが、有能だと女将に認められるや否や次々と新たな仕事を頼まれるようになった。
 寡黙ながらきっちりと仕事を仕上げ、咄嗟の判断力に優れた稲葉江と、持ち前の包容力と交渉術から客への対応が評判の富田江。そして二振りほど並外れた能力があるわけでないにしろ、審神者の愛嬌は人を集めるようで、従業員たちに可愛がられている。彼らの旅籠屋の中での待遇は、次第に良くなっていった。
 しかし、本来の目的である帰還の方法は見つからぬまま、時ばかりが過ぎた。
 今となっては生活の心配はないが、稲葉江と富田江は人のようでいて人間ではない。彼らの身体には、少しずつ綻びが見え始めていた。

 ここのところ、富田江は深夜に仕事があると言って部屋を出ることが多くなった。審神者が眠る前、もしくは眠った後に部屋を抜け出し、朝まで帰ってこない。男衆が持ち回りで行っている夜の見張り番とは別の仕事のようだ。
 気になった審神者は、それとなく稲葉江に探りをいれた。しかし彼は「富田に直接聞け」の一点張りで、審神者の問いには答えない。結局富田江が夜な夜な出かけて何をしているのかは、分からず終いだった。

「っ……!? ぎゃあっ!?」
 ある朝目を覚ました審神者は、目蓋を開いてすぐ、視界に広がった光景に思わず絶叫した。
 飛び起きた勢いでそのままごろごろと布団の上を転がって、部屋の壁へと激突する。彼女の声に起こされた稲葉江は、不機嫌そうに地を這うような低い声で唸った。
「……なんだ朝から、喧しい」
「だっ、だ、だって、お、起きたら稲葉がくっついてたから……!」
 審神者は赤面し、手近にあった布団を思わず手繰り寄せ、それで身体を包んだ。
 目を開いてすぐにあったのは、はだけた寝衣から覗いた稲葉江の厚い胸板だ。審神者は眠っているうちに、稲葉江に腕枕をされていた。
「我が寄ったような口ぶりはやめろ」
「え、私? 私が悪いの?」
 稲葉江は自分が彼女を抱き寄せたような言い方が気に障ったらしく、寝起きということもあり一層表情を険しくした。
 確かに昨夜は富田江が留守にしていたため、一人一組布団を使い、いつもよりは場所にゆとりを持って眠ったはずだ。それが寝返りを打つうちに審神者の身体は稲葉江の方へと寄って、目を覚ました時にはぴったりと身を寄せていた。
「何を今更——」
「今更って……え?」
 羞恥に顔を覆っていた審神者が稲葉江を見ると、彼は失言したと言わんばかりに顔を背けた。まさか、と抱いた予想が真実味を帯び、審神者は掛け布団の中に頭ごと引っ込める。
 富田江と稲葉江は、仕事のスケジュール上審神者が目を覚ました時にはいつも身支度を終えていることが多い。今朝は偶然稲葉江よりも先に彼女が目を覚ましたが、仮にこの寝相が以前からのものだったとすれば、稲葉江はそれを知っていて黙っていたことになる。
「も、もしかしてこれまでもずっとそうだった……?」
「目を覚ましたならとっとと身支度をしろ」
「ねえ、ちょっと! 稲葉!!」
 起床予定にはまだ早い時間、日すら登っていない窓の外は靄かかったように見通しが悪く、室内もまた仄暗い。稲葉江はぎゃあぎゃあ騒がしい審神者から力ずくで掛布団を剥がし、彼女を無視して押し入れに二組分の布団を片付けた。
 二度寝を許されなくなった審神者は支度をするしかなくなって、彼女は稲葉江とのふたりきりの空間を気まずく思いながら、渋々身支度を始めた。
 富田江は結局、審神者が仕事を始める時間になっても部屋には帰ってこなかった。
 彼のことだから審神者に心配されるようなことはないと分かっていても、無理をしていないか、きちんと休みは取れているのだろうか——と、そんなことがどうしても気にかかる。
 審神者の願いになんでも応えてくれようとする彼は、自分の身を顧みない性質だ。知らず知らずのうちに無理をしているのではないかと、彼女は憂慮していた。

 そんな富田江とは思いがけずその日のうちに、調理場のすぐそばに備えられた勝手の間で会うこととなった。次々舞い込んできた仕事の波が途切れ、一息吐こうと審神者が向かったところに先客としていたのが彼だ。
 富田江は審神者の顔を見るなり、「こちらにおいで」と手招きをした。審神者が富田江の隣に腰掛けると、彼は懐から懐紙に包まれたお菓子を取り出し、審神者に手渡す。
「これを君に」
「えっ、いいの?」
「お客様から頂いたんだ。ここらではあまり出回りのないものだそうだよ」
「やったぁ。ありがとう、富田」
 長らく菓子など口にする機会がなかった審神者は、すぐに食べきってしまうのが勿体なくて、その甘さをじっくりと堪能する。食べている様子をまじまじ眺められるのが照れくさく、審神者は富田江に、彼が不在だった間の今朝の出来事を話した。
「——ってことがあって……。気付いてるなら起こしてくれてもよくない?」
「ふふ、稲葉らしいね。君がよく眠っているから、邪魔できなかったんだろう」
「何それ……」
 富田江は片割れと主のにぎやかなやり取りを想像し、くすくすと楽しげに笑った。
 本人にその気はなくとも、富田江が日頃浮かべる微笑みは話し相手の心を寛がせるために用意されたもので、彼の胸の内を写し出したものではなかった。しかし、こと稲葉江が絡むと、富田江はそれが嘘のように愉快げに肩を揺らす。
 けれどその目元には、微かに疲れが見えた。いくら有能な富田江といえども体力は有限である。気付いてしまったからにはただの杞憂で片付けるわけにはいかない。審神者は、稲葉江に富田江の体調について相談すべきだろうか、と考えていた。
「そう気にしなくても、稲葉も私も迷惑だと思っていないよ」
「いやでも——……ん? 私たち?……ちょっと待って、私、富田にもくっついて寝てた?」
「さぁ、どうだろう」
「絶対そうじゃん!」
 富田江に答えをはぐらかされ、審神者は思わず頭を抱える。「私ってこんな見境ない女だったの!?」と彼女が騒げば、富田江は笑みを湛えたまま彼女を宥めた。
 大男二人と眠るには狭い寝床だが、わざわざ密着する必要はない。無自覚のはしたない行動を自責して審神者は項垂れる。この二振りのことだから妙な気を起こす心配はしていないが、それでも休息の邪魔をしたことへの罪悪感が募った。
「もしかして最近夜出かけてるのって、私の寝相が悪いからだったりする?」
「それは誤解かな。ただご婦人の相手をしているだけだよ」
「ご婦人?」
 審神者はそれとなく、例の夜の仕事について富田江に訊ねてみることにした。稲葉江にはぐらかされた問いの答えを彼が素直に明かすはずがないと思っていたが、意外にも富田江は何の躊躇いもなく答えた。
「ああ。少しだけお話の相手をしているんだ。それでいくらか茶代いただけるというから」
「えっ」
 何のことでもないとさらりと言い流した富田江の言葉に、審神者はギョッとする。茶代——要はチップだが、富田江とその客であるご婦人とやらが夜な夜な密会をしてそれを得ていることを鑑みると、考えなしに言葉通り受け取っていい話ではないと思えた。
 審神者こそ未遂で富田江に庇われた形だが、例の商人風の客に求められたのと同じようなことを彼はしているのではないか。『お相手』だなんて迂遠で上品な言い回しが不穏な想像を掻き立てて、審神者の頭にこびりつく。
「あ、あの、富田、それって」
「いつまでも裏手の部屋ひとつでは暮らしにくいだろう。もう少し広いところに越したいと思っていてね。そうすれば君に一間用意できるから、もう寝相の心配も――」
「そっちじゃなくて!」
 審神者は思わず、声を荒げて富田江の言葉を遮った。聡い富田江が、俄かに表情を変えた審神者が彼の言葉をどう捉えたか、察せぬはずがない。それでもあえて、彼は彼女の答えを待つように小さく首を傾げた。
 審神者の心臓はどくりどくりと騒がしく脈打っている。血が通っているはずの指先が、氷のように冷たく感じた。
「……その、変なことさせられてるんじゃないよね?」
「ああ、そういうこと。心配しなくても、ご婦人の話を聞いているだけだよ」
「本当……?」
 自分の愛刀の言葉なれど、今の審神者はそれを素直に信じられなかった。当初、自分を犠牲に稲葉江と審神者を本丸へと帰還させる策を企てた彼である。審神者の生活を保障するために、隠れて何をしでかしたっておかしくはなかった。
 富田江の表情は、恐ろしいくらいに普段と変わらない。それが殊更、審神者の心配事が杞憂で済まないと思わせた。審神者だけが青ざめて、泣き出しそうに目元を熱くしていた。
「本当だよ。君や稲葉の矜持に傷をつけることはしない。稲葉にも強く言われたからね」
「絶対? いやだよ、私のために富田が……変なことさせられるの」
「約束しよう」
 気付かぬ間に、審神者は拳を強く握っていた。富田江は彼女の手を取って、爪の跡の残る手のひらを握った。素直に受け止めれば、富田江は審神者を安心させようとしているのだろう。けれどそれが、彼女の求めた王子様らしい仕草ではぐらかされているように思えてならなかった。
 その後、審神者は仕事に戻ったが、どうしても富田江のことが頭から離れずにいた。仕事をこなしながらも上の空で、同僚に心配される始末である。ミスを起こさなかったからいいものの、これでは今後仕事にも差し障る。富田江のためにも、何とかして一刻も早く本丸へと戻る方法を探さなければ、と考えていた。

 ——そんなことがあった翌日、明朝のこと。審神者が思っていたよりずっと早く、事件は起きた。
 彼女の意識を眠りから引き起こしたのは稲葉江の声であり、ぼんやりと覗いた窓から降り注ぐのは月光だ。こんな夜中にいったい何があったのだろうと寝ぼけ眼を擦りながら審神者が体を起こすと、金色の髪を血で染めた富田江が稲葉江に身体を支えられていた。
「っ……!? な、な、……と、富田……?」
 審神者が起き出すと、富田江は苦しげな表情を隠すようにぎこちない笑顔を取り繕った。ぽたりぽたりと血が額を流れ、稲葉江の寝衣を汚す。パニックに陥った審神者は、稲葉江に指示されるがまま手当の道具を取りに行った。
 刀剣男士が傷付いて帰ってくる姿は、もう見慣れているはずだった。時には血に汚れていない部分の方が少ないことや、体の一部が欠けた状態で帰還することもある。最初こそグロテスクなその光景が耐えきれず、手入れをしながら嘔吐を繰り返していたが、いつまでもそんな調子では仕事に支障をきたす。いつしか「手入れをすれば治る」と言い聞かせ、多少の負傷には動じないようになった。
 けれど、今は状況が違う。本丸ではないから、手入れができないのだ。
 刀剣男士の身体は非常に頑丈に出来ているが、それは本丸で手入れを受け、疲労を十分に回復し、万全の状態で出陣した上でのこと。長期遠征の後、慣れない環境で審神者という重荷を背負いながら働いた彼らは、今や本来の能力を十分に発揮できていなかった。

 稲葉江による応急処置を終えて、富田江は布団に横になっていた。最初こそ「出血が酷く見えるだけで大した事はないよ」と起き上がろうとしていた彼だったが、稲葉江が「ならば力づくで眠らせるまでだが」と拳を鳴らすと、それを聞いた審神者がヒィと悲鳴を上げて「頼むから寝てくれ」と泣きついたので、今では大人しくしている。
「それで、何があった」
「ご婦人に呼ばれて話をしていただけだよ」
「それでこんな頭から血を流してくるわけなくない……?」
「ちょっとした行き違いがあったみたいだ。『私のものになってほしい』と迫られたのだけれど、私は君のものだからね」
 富田江の琥珀色の瞳が、真っ直ぐ審神者を捉えた。こんな時でなければ心をときめかせるような甘い一言に聞こえたかもしれないが、審神者と刀剣男士の間ではまた違った意味を持つ。
 審神者は胸が締め付けられ、呼吸が出来ないほどに苦しくなった。決して涙を流すまいと、堪えるように唾液を飲み込んだ。
 彼は、審神者との約束を守ってくれていた。自らを差し出して対価を得ることはせず、執拗な要求を躱し続けていたようだ。
 あの富田江がこの有様なのだから、ご婦人の執着は凄まじいものだと想像できる。彼の話が通じないということは、富田江に断られて相当にお冠だったのだろう。逆上したご婦人は、怒りのままに床の間の花瓶を富田江の頭に叩きつけたそうだ。
「女人に殴られて避け損ねるとは、貴様も落ちたものだな」
「面目ない。殴られたふりをするつもりだったのだけど」
「大丈夫なの……?」
「かすり傷さ」
 額の血管を切ったから派手に見えるだけで傷自体は軽微なものだと富田江は主張するが、決してそんな楽観的な状況ではないことは審神者にも分かっていた。大袈裟であるはずがない。刀剣男士が一般女性の攻撃をまともに受けるなど、あるはずがないのだ。それだけ、ここでの暮らしが富田江の身体に響いているということである。
 そしてそれは、稲葉江も同じ状態のはずだ。まだ大きな怪我こそ負っていないが、彼の手には仕事によって出来た無数の小さな傷が残っていた。疲労から自然治癒能力が人間並に劣化していることの確固たる証拠である。
 本丸は、審神者の霊力で常に満たされていた。大きな外傷は手入れが必要になるが、多少の疲労や小さな傷は本丸で過ごしていればすぐに治ってしまう。審神者によって顕現させられた彼らにとって、霊力とはまさに生命線だった。
 それが今、長く本丸を離れて彼らの体から枯れ果てようとしている。この先どれほどの時間、ここで過ごすことになるのかはわからない。今度こそ命に関わる傷を負うことになるかもしれない。——審神者は、決断を迫られていた。
「富田、あの……いいかな。嫌だったら方法を考えるんだけど」
「うん、何かな」
 富田江はずっと、審神者に苦しげな表情を見せなかった。どのような状況でも、彼女を安心させようと微笑みを湛えていた。
 顕現当初、江の刀の王子様だと名乗った彼に審神者は言ったのだ。「本当の王子様みたいだね」と。富田江は「君が望むなら、そうあり続けよう」と答えた。
 それは今も変わらず、審神者を守る王子様でいようとしてくれている。その思いが、彼の微笑みから痛いほど伝わっていた。
「霊力供給、しようか。……やったことないから、上手くできるかわかんないけど」
 富田江だけでなく、稲葉江までもが彼女の顔を見る。審神者は身を強張らせ、膝の上で拳を握っていた。
 審神者に就任したばかりの初級講習で、体液を介した直接の霊力供給について彼女は学んでいた。
 ハイリスクハイリターンな方法だ。血液、唾液、——その他なんでも、審神者の肉体組織であれば、何だって構わない。それに霊力を乗せて刀剣男士の肉体に注ぐことで、より多量の霊力を流し込むことができる、というものだ。手段としては、口腔接触、性交渉、血液や皮膚など、肉体の一部を食することが上げられる。
 審神者の提案に、あの富田江が言葉に詰まっていた。
 彼の中でも葛藤があるのだろう。このままでは審神者の身を十分に守る事はできない。けれど、霊力供給は審神者への負担の大きい術だ。特に、彼女は若い娘である。そういった事情から躊躇っているのだと、珍しく感情を写した表情が物語っていた。
「……手拭いをとってくる。しばらく外すぞ」
 稲葉江が気を遣ったのは明らかだった。彼が部屋を出て、そこには審神者と富田江のふたりだけが残された。
 彼の性質上、自ら霊力供給をしてくれだなんて言えないことは分かりきっている。例え経験がなく不慣れであろうと、それを霊力供給をしない言い訳には出来ない。主たる彼女が、命じてでも選ばなければならなかった。
「富田、あのね。私ここに来てから……ううん、本丸にいたときからずっと、みんなに助けられてばっかりだったの。偶然審神者の素質があったからみんなに主って呼んでもらえて大事にしてもらえてるけど、本当はそんな大層な人間じゃない」
 審神者はここでのこと、そしてこれまでの本丸での暮らしを思い返していた。
 管狐に教えられるがまま、審神者としてのごく最低限の仕事をこなすところから始まって、今ではなんとかそれらしい働きができるようにはなった。けれど審神者はずっと、自分がその身を危険に晒して戦う刀剣男士に慕われるに相応しい存在であるとは思えなかった。
 今代の主が娘であることに戸惑いながらも、名だたる名将と比較すれば未熟なれど懸命に己の役割を果たそうとする彼女を、刀剣男士たちはやがて受け入れて心から慕うようになった。それでも、若い女であるという理由で甘やかされているのは否定できない。どこまでいっても審神者は、彼らにとって庇護の対象だった。
 ここに来ても尚、それは変わらない。本丸を離れ、審神者の無力さはより浮き彫りとなった。そんな中、彼女だけに出来ることがあるならば——それを躊躇ってはいられない。
「だから、私が富田のことを助けてあげられるなら、やらなきゃいけない。自分勝手かもしれないけど、私がやりたいの」
 審神者の言葉を聞いた富田江は、静かに目を伏せた。審神者が望む限り、彼は応え続ける。説得の必要がないほどに、彼の答えは最初から決まり切っていた。
「君がそう望むなら、私はその選択を受け入れるよ」
「……ありがとう。ごめんね」
 審神者は富田江の顔かかった髪を払って、覆い被さるように頭の横に手を付いた。
 間近で見つめると、その顔がいかに整っているかがよくわかる。今は血で汚れているが、きめ細やかで均一な白い肌にまつ毛の形に影が落ちていた。触れることすら躊躇われるような繊細な造形の相貌が目前に迫って、審神者は息を呑んだ。
「目、瞑ってもらっていい? ちょっと恥ずかしいかも……」
「うん」
 富田江は言われるがまま、長いまつげに縁取られた瞼を下す。審神者の心臓はこれまでになく大きく脈打って、緊張から手が震えるのが分かった。
 指先で恐る恐る頬に触れ、顔を寄せる。勢いよく近付くと、呆気なく唇が触れた。
「…………」
 ひたりと合わさった粘膜から、管を通して液体を注ぐようなイメージで、審神者は霊力を富田江へ送ろうとした。接触面が小さいせいか管は細く、思うように霊力は流れてくれない。やはり触れるだけでは厳しいかと、審神者はさらに身を乗り出した。
 富田江の薄い唇に、審神者は恐る恐る舌を差し入れた。彼はそれを抗うことなく受け入れ、薄っすらと口を開く。歯の隙間から滑り込んだ先で富田江の舌に触れる。唾液を沁み込ませるように舌を絡めると、淀みなく霊力は流れた。
「……っ」
 恋を知らない彼女は、口付けも当然初めてだ。必要に迫られた口腔接触は人工呼吸に等しいと分かっていて、唇と舌に感じる富田江の感触に審神者の鼓動が早まった。
 深いキスの作法を知らない審神者を導くように、富田江の舌が蠢く。彼の口に深く招き入れられ、審神者は教えられるがまま彼に応えた。
 交渉術や茶道の手ほどきを受けたことはあったが、まさか口付けの仕方まで教わることになるだなんて。自分の刀と口付けているという背徳感や富田江への心配、そして初めての口付けに揺れる乙女心。それらを、舌先から伝わる高揚感が押し流す。
 富田江との口付けは、甘美なものだった。深く、長く口付けるごとに少しずつ舌の絡め方が分かってくると、彼女は次第に快楽を知り始めた。
 霊力を注ぐと同時に、減った嵩を埋めるように何かが伝わる。それがくらりと頭を酔わせるほどに甘いのだ。霊力供給も口付けもこれが初めての審神者は、霊力の動きによる反応であるのか、それとも富田江の口付けの技巧によって翻弄されているのか、もうわからなかった。
 どれほどの時間口付けていたのか、もうわからない。審神者が顔を離すと、伝うように唾液が唇から垂れ、それを富田江の指先が拭った。
 彼の顔色は、先ほどよりも幾分かマシに見えた。花瓶による傷は癒えていないものの、目の下に見えた疲労は薄れている。
 明らかに分かるほどの変化に、審神者は安堵するとともに驚いた。霊力供給とは、こうも刀剣男士の身体に強く影響を与えるのか——と。
「富田、どう?」
「随分身体が軽くなったよ。もう起き上がれそうだ」
「それはダメだって。今日はちゃんと寝て」
 隙を見つけては起き上がろうとする富田江の肩を押し、審神者は少し乱れた掛布団をかけ直してやった。
 丁度良く、稲葉江が部屋へと戻ってくる。見るからに顔色が良くなった富田江を見て、「マシな顔になったな」と一言漏らした。
「この子のお陰だよ」
「っ……」
 審神者は顔を赤らめ、もう一枚の掛布団の中に逃げるように潜った。
 富田江の身を案じての霊力供給とはいえ、キスはキスだ。それを稲葉江の前で仄めかされて、平然としてはいられなかった。
 再び灯りを消して、眠りに就く。審神者の心臓は騒がしいままで、じわりと肌に滲んだ汗が眠りを妨げていた。
 目を閉じれば、舌や唇に触れた柔らかい富田江の感触を思い出してしまう。それと同時に、脳があの瞬間感じた快楽を反芻するのだ。ただ口付けをするだけならば耐えられたが、残った感覚に苛まれることの方が強く彼女を苦しめた。

 興奮冷めやらぬままの浅い眠りは、審神者の意識を何度か引き起こした。
 また目が覚めてしまった、と審神者が寝返りを打とうとすれば、どこかから微かに声が聞こえる。富田江と稲葉江の会話だ。
 審神者は何となく聞いてはいけない話のような気がして、狸寝入りをすることにした。
「……本気でこの方法を貫くつもりか」
「少なくとも、お前の言う下策よりはましだと思うけれど」
「あんなものは策とは言わん」
 富田江と稲葉江は、何かの策について話し合っているらしい。今回に限らず、彼らは審神者が寝入った後に度々相談しているようだ。
 主の自分を差し置いて、と思うと同時に、その輪に混ざっても碌に力になれないことも弁えていた。自分ひとりが除け者にされているように感じて、審神者はそのことが少しだけ寂しかった。
「ここでの暮らしが長引けばあの子に負担を強いることになる。それはお前もわかっているだろう」
「…………」
「それで、どうする? お前が上手くやる自信がない……というならば、私一人でやっても構わないよ」
 富田江の言うあの子が審神者なのは間違いない。私一人で——という言葉に不穏な気配を感じたが、審神者には何の話をしているのか、まるで見当もつかなかった。富田江が立てた策に稲葉江が乗るように仕向けているようである。
「下手な煽りを」
「こうでも言わないと、お前は乗ってこないだろう」
「…………」
 長い沈黙に、目を閉じたままの審神者は再び微睡に誘われる。二振りの会話が気にかかりながらも、次第に意識は眠りに沈んでいった。
「何も手籠めにしろ、とは言っていないんだから。私一人では——過ぎる危険性が高い。あの子のためだよ」
「……遅かれ早かれ避けられん道、か」
 稲葉江のぼやきは審神者の耳には届かない。無防備に眠る彼女を挟んで相対した富田江、稲葉江の二振りは、彼女に悟られぬうちにある覚悟を決めていた。

 ご婦人との諍いが例の窃盗騒動のように大きな問題になるのでは、と心配していた審神者だが、意外にも女将はそれについて富田江を責めたりはしなかった。
 曰く、そのご婦人は以前からここらの通りで宿の管理者を悩ませる困った客であったらしい。泊まり歩いては気に入ったつらと体の良い若い衆を買い上げて、愛玩動物よろしくかわいがるのが趣味の、異常な遊女上がりの女だそうだ。客側から暴力行為を働いたとなれば大々的に対処がしやすいと、富田江に感謝してさえいた。
 富田江は夜な夜な部屋を出ることはなくなって、ここのところは毎日審神者らと共に眠っていた。霊力供給をして以降は身体の調子はいいようで、今は女将の配慮で仕事を減らされているが、目立った傷さえ塞がれば元通り働けそうだと話していた。

 そんな中、審神者にはひとつの悩みがあった。
 仕事を終えて床に入ると、当然左右には恰幅の良い男が並んでいる。生まれて初めて濃厚な口付けをした衝撃と余韻が未だ消えず、夜になると人肌の温もりがその瞬間のことをまざまざと思い出させてかなわなかった。
 富田江の身体維持のためにやむを得ず行ったことであり、そこに感情は絡まないはずだ。それでも心を切り分けられるほど審神者は擦れておらず、未だ無垢だった。
 胸をどきどきさせながら眠りに就き、あまり身体を休められた気がしないまま朝日を待つ。働いているうちは仕事に熱中しているため邪念を忘れられるが、夜になって身体を落ち着けるとどうしてもそれが蘇った。
 そしてもう一つ。悩みとまでは呼ばずとも、懸念点がある。稲葉江のことだ。
 富田江には緊急事態のために迷う暇なく霊力供給を選んだが、ここで働いている稲葉江もまた、同じく疲弊しているはずである。今後起こりうる事故を未然に防ぐためにも彼にも霊力を分け与えた方がいいのではないか、と思いながらも、方法が方法なだけに審神者は提案できずにいた。
 合理的に考えると、審神者の羞恥心さえ無視出来れば、彼にも霊力供給をすべきだ。二振りのの仕事は体力を使うものばかりで、戦とは違った意味で身体への負担が大きい。力仕事の最中に霊力不足が原因で立ち眩みでも起こせば、とんでもない大怪我へと繋がってしまう。
 しかし——これは審神者の個人的な理由だが、あの稲葉江と口付けをするイメージが全く持てないのだ。
 富田江は想像がつくのか、と言われればあの状況に至るまで考えたこともなかったが、江の刀の王子様、と言いながら顕現した男である。有体に言えば、そういう場面が絵になる容姿と物腰の柔らかさを持っていた。
 頬の印を鏡写しにしたのと同じく、性格もまるっきり正反対の稲葉江だ。彼を思い出した時、脳裏に描くのは戦で勇ましく敵を薙ぎ倒し勝鬨を上げる姿ばかりで、色気を纏って女と口付けている様子などまるで想像できなかった。そしてその相手が審神者自身であれば、なおさらである。

 その日は団体客が来ていて、大広間を開けて盛大な宴会が開かれていた。従業員総出で対応に当たったため、審神者が仕事を終えたのは普段よりも半刻ほど遅い時間だった。
 審神者の仕事は酒や食事の配膳や空いた食器の片付けだ。主な接客はベテランの女中に任せられているが、それでも多少の接客業務は発生する。未だ客を相手にすることに慣れない審神者は、いつもより重い疲れを感じていた。
 というのも、審神者が話す相手とは大抵が酔っ払いの男性なのだ。例の商人風の客の時同様、こういった場面の躱し方を彼女は心得ていなかった。一度女中の先輩か、富田江にでもコツを聞いてみるべきかもしれない。そんなこと考えながら、審神者は寝支度を進める。
 富田江と稲葉江は、まだ部屋に戻っていない。待たずに眠っても構わないと言われているが、審神者が遅い日には彼らは揃って体を起こしたまま待っていてくれるのだ。主従の関係がそうさせているとしても、なんとなく自分だけが先に眠るのは憚られた。
 どちらかが戻るのを待とう、と審神者は人がいないのをいいことに大きな欠伸をした。

「——い」
「…………」
「おい、そこで寝るな」
 いつの間にか、審神者は眠りに落ちてしまっていたらしい。彼女が目を覚ますと、目の前には稲葉江がいた。
 無意識に睡魔に負け、寝落ちていたようだ。審神者が体を起こすとそこは三つ折りのままの布団の上で、どうやら布団を敷こうとして押し入れから引っ張り出してきたはいいものの、その上に転がってみたところ思いの外心地が良く、微睡んでしまったようだ。審神者が乗っているままでは布団が敷けないからと、稲葉江は彼女を揺り起こしたわけだった。
「いなば……。富田は?」
「客に捕まっている」
「大変だな……」
 今宵の酒宴の客は男ばかりのはず。ならば先日のように拗れる心配はないだろう。話し上手もここまで求められると考えものだな、と思いながら審神者は目を擦って体を起こそうとして——三つ折りの布団の上に倒れ込んだ。
「ねむい……」
「寝るなら布団を敷いてからにしろ」
「うん……」
「目を閉じるな」
 稲葉江の言葉を聞き入れるつもりもなく、審神者は再び意識を手放そうとしていた。稲葉江の言葉の意味はわかるが、分かった上で起き上がれないほどに睡魔が彼女を誘って止まないのだ。何を言っても起きる気のなさそうな審神者に、稲葉江は呆れて深いため息を吐く。
「……文句は聞かんぞ」
 稲葉江はそう言い置いて、布団に覆いかぶさる姿勢の審神者を抱き起した。
 そっと畳の上に転がすと、一組布団を敷き、横抱きにしてその上へ下ろす。その手つきがあまりにも不慣れに優しいものであったので、審神者は思わず噴き出した。
「……狸寝入りか」
「ちっ、違うよ! 途中までほんとに眠かったんだけど、稲葉が……ふふ、抱っこに慣れてなさ過ぎて……」
 稲葉江の不服げな眼差しを物ともせず、審神者はけらけらと笑っていた。そのぎこちなさと寝落ちた彼女を放っておけない面倒見の良さがツボにハマってしまい、その愉快さが眠気を振り払う。稲葉江は審神者を置いて、もう一組の布団を敷き始めた。
「はー、久しぶりにこんな笑った」
「次同じことがあれば床に転がしたままにしておくぞ」
「そんなこと言わないでよ、お兄ちゃん」
「…………」
 再びくっくっく、と笑い始めた審神者を睨み、稲葉江は灯りを消してその隣に横になった。
 最早、並んで眠ることに躊躇いはない。富田江の寝場所を確保するため、彼らは肩が触れ合う距離で寝転がっていた。
「稲葉、あのさ」
「何だ」
「霊力供給、する?」
「………………」
 月明かりが微かに照らす薄ぼんやりとした中、審神者の言葉に稲葉江が身動ぎしたのが布団の動きで伝わった。
 審神者は掛け布団に隠れた稲葉江の腕を手探りで探して掴み、引き寄せる。節が大きく分厚いごつごつとした手の先、爪には今は爪紅は塗られていなかった。満足に手入れが叶わぬ今、欠かさせたままでは見窄らしいと、この仕事を始めてすぐに落としてしまったのである。
 指の腹をなぞると、わずかに凹凸がある。先ほど抱き起こされた時に目についた、小さな切り傷だ。触れられて痛んだのか、審神者に握られていた稲葉江の手がぴくりと動いた。
「ここ切れてる」
「割れた徳利の処分をした時だろう。放っておけば塞がる」
「嘘、他にもちっちゃい怪我残ってるくせに……」
 手入れを受けるたび治癒する刀剣男士の手がこれほどまでに傷だらけなのは、滅多にないことだった。審神者が勘付くことを稲葉江が気付かぬわけがない。これまで通りの性能で動けないことは、自分が一番よく分かっているはずだ。
 しかし、富田江とは違って頑固な彼は、彼女が霊力供給をしたいと言っても素直に聞き入れてはくれなかった。
「何をしている」
「…………」
 審神者が稲葉江の手を口元に手繰り寄せていると、彼女の画策に気付いた稲葉江がぐっと腕に力を込めてその動きを阻んだ。先程まで好き勝手審神者が掴んでいたそれがぴたりと動かなくなって、これまでは意図して彼女の行動を許していたのだと気付く。
「傷、舐めたら治るかなーって……」
 審神者の考えなしのアイデアに、稲葉江は物も言えない様子だった。審神者が掴んだままだった手首を振り払うと、「不衛生だ」と端的にそれを拒否する。
 さすがの審神者も、そこまで歯に衣着せぬ物言いで断られてはショックを隠し切れない。確かに口の中には雑菌がいっぱいだって聞くけど!——と、頭を強く殴られたような気持ちでいた。
「どこを触ったかも知れぬ手を舐めるな、という意味だ」
「あ、そっちか……。さすがに泣くかと思った」
 ここまで強く拒絶されれば、これ以上食い下がる度胸はない。審神者はすっぱり霊力供給を諦めて、眠りにつく体勢を取った。
 目を閉じていると、隣で稲葉江が身体を起こす気配がした。勇気を出して誘った霊力供給を素っ気なく断られたことに少しばかり心が傷ついていた審神者は、あえてそれに反応を示さずにいた。
稲葉江は自分を責めるような声色で、「やむを得んか」とぼそりと呟いた。
「ん?」
「そのまま寝ていろ。すぐに済む」
「何が——っ、」
 碌な光源もない中で薄暗いせいか、ぱちりと目を開いたばかりの審神者は、すぐそばに稲葉江の顔が迫っていることに気が付かなかった。
 ちゅ、と彼に似合わぬかわいらしい音がして、唇に柔らかいものが触れる。その感触に、審神者の身体が激しく熱を持った。驚きのまま反応できずにいる彼女の身体に、稲葉江はそのまま覆い被さる。
 お互い寝入る前だったからか、触れた唇は熱かった。しばらく唇をくっ付けあったままでいると、わずかに距離を取った稲葉江が「舌を出せ」と言う。審神者は、「これは霊力供給だった」と思い出し、言われるがままに舌を突き出した。
「っ……!」
 唇同士が触れぬ距離のまま、ふたりは舌先を合わせた。霊力を送ろうと集中すればざらざらとした舌の表面の感覚を鋭敏に感じることになり、審神者の腰がぞくりと震える。舌を引こうにも仰向けで寝そべっているから、逃げ場がなかった。
 稲葉江の舌は富田江のものよりも厚く、質量がある。刀剣男士の咥内事情なんて知るはずのないことを二振り分も知ってしまって、それどころかいやでも比較してしまうことが、罪であるかのように審神者には感じられた。
「いにゃ、ば」
 思わず呼んだ彼の名が舌っ足らずに歪んで、審神者は失態を犯した気分になった。頰に熱を持ち、消灯していて良かった、と彼女は思う。唇を解放され、その場で大きく息を吸った。
 稲葉江との間に設けられた隙間は、拳ひとつ分ほどしか開いていない。それは、霊力供給がまだ不十分であることを意味していた。
「止めるか」
「そう、じゃなくて……この姿勢、やりづらいかも」
 霊力に重力の概念はないはずだが、組み敷かれているとどうも霊力の管の流れが悪い気がしていた。目に見えない感覚的なものであるからこそ、審神者が送りづらいと感じればその通り流れは滞る。
 稲葉江は思案するように数秒黙り込むと、審神者の腰に腕を回し、そのまま転がるようにして仰向けになり、審神者を自らの上に乗せた。稲葉江の腹に跨るような姿勢を取らされて、勢い余って審神者は彼の首筋に顔を埋める。ふわりと彼の肌の香りが、審神者の鼻腔を擽った。
「これでいいか」
「う、うん……」
 全然良くないが、と審神者は思いながら頷いた。
 肌が触れ合う面積が増え、稲葉江の存在が全身を通して伝わってくる。しかしそれが妙に心地いいのは、無自覚に添い寝を重ねていたからだろうか。
 肌のふれあいは微量ながら霊力供給と同じ効果があると聞いたことがある。効率を考えればこちらの方法が最善のはず、と自分の中で理屈を立てて、審神者は稲葉江の頬に手を添えた。
 今度は審神者から、稲葉江へと口付けた。彼は舌を出して審神者を迎え入れる。上下を逆転した甲斐あって、先程よりも霊力の流れはスムーズだ。
 審神者はふと思い出し、口付けをしたまま稲葉江の腕を手のひらで撫でた。手探りで稲葉江の手を捕まえると、それに自身の指を絡める。こうして触れれば傷の治りが早くなるのでは、と思ってのことだが、肌同士が触れ合う場所が増えたことで、よりただの霊力供給、と割り切り難い状況となっていた。
 富田江と口付けた時と同じく、何かに侵食されるような感覚があった。何かが肌の下を流れ、彼女を熱らせる。呼び起こされる感覚は、快感にほど近いものだ。触れ合った肌同士でじわりと汗をかいて、それが審神者を昂らせた。
「っ、はぁ……っ、ん……」
 ちりちりと燻る種火に似たそれが、唇を重ねるごとに勢いを増していく。導くような富田江の口付けと相反して、稲葉江のそれは捕食めいていた。
 今は審神者が上乗りになっているというのに、ちっとも主導権を握れる気がしない。肉食獣の巣に招かれ、喰らわれる寸前に泳がされている気分だった。
 乱暴に暴かれたわけでも、激しく貪られたわけでもない。ただ、これは霊力供給であって恋人同士のスキンシップではないこと、そして相手が初心な審神者であるからこそ手加減をされている——という確信があった。
 審神者が息を詰めるたび、稲葉江の舌先は彼女を解放する。それは親切心めいていながら、彼の男としての底知れなさを予感させる。
 ただの主従であるうちはその先を知るはずがない。しかし、必要に迫られて行っている行為だということを忘れてしまえば、審神者の幼く未熟で、そして好奇心旺盛な雌の部分は本能的にその先への興味を示してしまっていた。——尤も、互いに理性的であったが故にその線は越えることがなかったが。
「いにゃ、けほっ、いなば……」
 審神者が上体を持ち上げると、くらりと目眩がした。そのまま彼の胸に額をついたので、稲葉江はその身を案じて「不調か、どこが悪い」と訊ねる。口付けに夢中になるあまり呼吸を忘れて、酸欠の兆しがあった。
「だ、大丈夫。息苦しくなっちゃって」
「……それだけか?」
「うん……」
 それも大きく息を吸っていれば、次第に落ち着いてくる。しかし「もう平気」と言っても稲葉江はその言葉を疑って眉を顰めたままだった。
 ふと稲葉江は審神者の手を取り、指の腹を摘んだ。痛まない程度の弱い力を込めて「感覚はあるか」と問われ、審神者はよく分からないままこくりと頷く。
「本当にもう大丈夫」
「嘘はないな」
「えっ、なに? そんな心配されること……?」
 審神者は稲葉江の腹の上から退きながら、掴まれたままだった手をまじまじと見て、それから口付けの前にしたように彼の傷を指の触覚で確かめた。
 徳利の破片で切ったという傷は、入念に確かめねば分からないほど薄い線になっている。富田江の額の傷はすぐには塞がらなかったものの、この程度の小さな傷なら癒してしまえるらしい。審神者は改めて、刀剣男士の体の不思議に感心していた。
「傷、塞がってる」
「そうか」
「霊力供給、してよかったね」
「……………」
 審神者がぽそりと呟いた言葉に、返事はない。否定も肯定も、ふたりには不要だった。彼らはその後言葉を交わすことはなく、審神者は富田江の帰りを待たずして眠りについた。

 翌朝、目を覚ますと部屋に稲葉江の姿はなかった。代わりに富田江が身支度の最中である。審神者は目をこすりながら、彼に「稲葉は?」と訊ねた。
「早朝に目を覚まして、頭が冴えたとか言って馬の様子を見に行ったよ。調子が良いようだね」
 富田江は微笑ましげに、麗しの相貌を和らげる。その一言と表情だけで富田江が昨夜の出来事を知っているのだと悟って、審神者は富田江の視線から逃れようと再び布団に潜った。

その後、審神者と二振りは機を見ては唇を重ね合うようになった。
 稲葉江は、裏方部屋でふたりきりになるたび、審神者に身体の具合を訊ねた。審神者はその不器用な問い方が口数の少ない父親みたいだ、と思いながらもそれは言葉にせず、「稲葉は大丈夫なの?」と問い返す。それがふたりの合図で、それ以上の言葉を交わせば恥じらいが行為を妨げることが互いにわかっているから、何も言わずに求め合った。
 色事の気配をあえて遠ざける稲葉江とは対照的に、富田江は初心な審神者を気遣ってか、そういった空気を作りたがる節があった。
 富田江は本丸の頃から続く悪癖で自分の不調を明かさぬ性質だから、彼の具合については審神者から訊ねなくてはならない。「してくれるの?」と問われて頷くと、彼は審神者の腰を抱いた。審神者がより心地よく感じられるような動きが板について、空気に飲まれまいと事務的に済ませようとする彼女を舌先以外でも蕩かせようとするので、審神者としては溜まったものではなかった。
 二振りは口付けののち、決まって審神者に身体に変化や不調はないかと入念に確かめた。
 霊力欠乏症により、貧血に似た症状が引き起こされることがあると彼女も学んだことはある。しかし運良く身体の丈夫さと霊力の潤沢さに恵まれたおかげか、そういった兆しはまるで見えなかった。
 強いていえば彼女の悩みは、どうしても彼らの口付けの技巧に翻弄されては余計に体を熱らせてしまうことくらいで、己の矜持のためにそれは口に出せなかった。
 主従でありながら兄妹を演じ、その上で二振りと唇を重ねる——そんな日々が、彼女の常識を書き換えていく。本丸よりも開けた場所でありながらも幾重にも折り重なった秘密が、彼女自身も気付かないうちに彼らとの関係を歪めていた。

 その日は近くの川で花火が上がるとのことで、いつもより客が多く入っていた。普段より早く起きて朝食の準備に取り組み、その後は部屋の清掃。お客様が出払った隙に今度は風呂場を掃除しに——と、てんてこ舞いの一日である。
 川沿いでは花火の観覧客を狙った夜店が出るために夕食を断る客が多く、普段は忙しさのピークであるはずの夕飯前の時間に審神者は一息ついていた。
 季節が巡って、もう花火の時期である。審神者は、本当に本丸へ戻れるのだろうか——と今や懐かしさすら感じるあの場所へ想いを馳せた。
「ねぇ、通りからも少しなら花火が見れるそうよ。見に行ってみない?」
「本当に?」
 同じく休憩していた女中らがひそひそと囁き合っている。女将の目を盗んで、少しだけ仕事を抜け出す算段を立てているようだ。
 彼女の本丸では、夏になる度に毎年打ち上げ花火を上げていた。
 夜空を彩る美しい光の芸術を見上げながら、近侍がそっと祈りを語る。そんな記憶を、審神者はふと思い出した。
 稲葉江と富田江とは、まだ一緒に花火を見たことがない。いつか本丸へと帰り、共に見ることが出来るだろうか。そして彼らの祈りを聞けるだろうか——そんな風に、物思いに耽った。
 休憩の時間はまだ少しだけ残されている。花火が打ちあがる時間にはまだ早いが、雰囲気だけでも味わってこようかと、審神者は宿屋通りへと出た。
 めかし込んでいる人も多く、彼らはこれから川沿いへ向かうのだろう。見晴らしのいい場所に建ち、二階に出窓のある部屋を備えた宿では、「部屋で花火が見られます」と呼び込みをしていた。
「……お前は」
「ん?」
 ぼーっと町を行きかう人々を眺めていた審神者は、声をかけられてはっとした。まさかサボリを咎められたのでは、とそちらに顔を向けるが、そこにいたのは従業員ではない。藤色の浴衣を身に着けた男が、審神者の前で足を止めていた。
 ただの男ではない。その姿には、確かに見覚えがあった。しかし審神者の知る人物——刃物じんぶつとは別人のようである。
 どこからどう見ても、男は刀剣男士・へし切長谷部であった。どこの誰に顕現されたかは知らないが、少なくとも彼女の本丸で総務番長を務める彼ではない。信じ難い光景に、審神者は刹那、瞬きを忘れた。
「お前は、審神者だな?」
「は、はい……」
 彼女の本丸のへし切長谷部は、例に漏れず主に対し慇懃に振る舞う。このような砕けた口調で話されたことはなく、審神者は身を強張らせた。
 へし切長谷部は審神者を警戒している様子だったが、危害を加えるつもりはなさそうだ。少なくとも、審神者を害するためにここにいるわけではないようである。
 彼は眉間に皺を寄せ、審神者のつま先から旋毛までをじろじろと眺めた。ここに『審神者』がいることが信じがたいと言わんばかりに表情を険しくする。審神者から言わせてみれば、ここに稲葉江と富田江以外の刀剣男士がいることこそ幻のようである。
「あの気配は……いや、しかし」
 へし切長谷部は、何かを考え込んでぶつぶつと独り言を呟いている。
 これが、最初で最後の助けかもしれない。へし切長谷部がどのような目的でここにいるのかは知らないが、これを逃せばもう二度と本丸に戻れないかもしれない。審神者はそう直感し、その場で深く深呼吸をした。
「あの、すみません。話をしたいんですが。……その前に。あなたはどこかの本丸のへし切長谷部、で間違いないですよね?」
「……ああ。俺は——主の命でこの時代に調査に来ている。お前こそその、なぜここに。いや、その前に——」
「何をしている」
 彼からすれば、任務のために時間遡行した先に他所の本丸の審神者がいるのだ。へし切長谷部の困惑も無理はない。一体どこから話せばいいかと審神者が思案していると、旅籠屋の門からは稲葉江が現れた。その瞬間に、困惑の色を浮かべていたへし切長谷部の表情が厳しいものへと変わる。
「稲葉!」
「……へし切長谷部、か。なぜここに」
「それはこちらのセリフだ。貴様、稲葉江——だな? おい、どういう状況だ。説明しろ」
 稲葉江から目線で合図を送られ、審神者は頷いた。
 敵意はない。彼もまた状況を把握しきれていない。ただひとつ言えるのは、これが頼みの綱である可能性は高い、ということ。それらを稲葉江は、一瞬のやり取りの内に審神者の視線から汲み取った。
「ここでは営業の邪魔になる」
「はあ?」
「あっ、そうですね。長谷部……さん。良かったら泊まっていきませんか」
「おい、何を勝手に! そもそもお前ら、その恰好は——」
「一名お客様お通しします」
 こうして、左右を稲葉江と審神者に挟まれたへし切長谷部は、無理矢理客として宿へと連れ込まれ、あれよあれよと旅籠屋に宿泊することとなった。

 他の客が花火を見に出払っている今、宿の中は珍しく静まり返っている。遠くに響く花火の音を聞きながら、審神者、そして稲葉江に富田江、それから飛び込みのお客様——へし切長谷部は一名用の客室で向かい合っていた。
 審神者、そして稲葉江と富田江の二振りがここへ来てからのことを、富田江はかいつまんで話した。不測の事態によってこの時代に転移させられたこと。現状時の政府や本丸への連絡手段はなく、方法を模索していたこと。
 それから、何とかへし切長谷部の主に連絡を取り、この時代に取り残された審神者と稲葉江、富田江の保護を依頼できないかと頼み込んだ。
 へし切長谷部は腕を組み、「なるほどな」と呟いて思案した。
 彼はこの時代にある異変を察知し、時の政府からの調査を依頼された主の命でここへとやって来たらしい。その異変についてははっきりしておらず、その気配を辿った結果その先に審神者がいたということだ。
 つまり、その異変自体が審神者であった、という捉え方も出来る。そうなると、富田江に頼まれなくても報告は義務となる。どう転ぼうが、間違いなく時の政府は彼らを感知することになるだろう、とのことだ。
 審神者はようやく本丸へと戻る手がかりを得て、安心感で胸が一杯になった。本当に帰れるのか、未だ半信半疑なれど、これまではとっかかりすらなかったのだ。少なくともこのへし切長谷部、そしてその主は審神者と二振りがいることを知るだろう。それだけでも大きな進歩だった。
「それにしても……お前は——よく無事だったな」
「私ですか?」
 へし切長谷部は審神者を見て、酷く驚いていた。
 運よくその日のうちに稲葉江たちと合流出来たものの、そうでなければ無事では済まなかっただろう。今頃バラされていたか、どこぞの遊郭に売り飛ばされていたはずである。
 そういう話をしているのかと思って、審神者は「運よく彼らに見つけてもらえました。優秀な部下を持って光栄です」と答えたが、へし切長谷部は釈然としない様子だった。
「とにかく、貴様らのことは俺の主に報告させてもらう。その後の判断は主次第だが、俺の主はお優しい方だからきっと貴様らに助けの手を差し伸べてくれるだろう」
「ああ。この通り、頼むよ」
「一先ず俺は本丸へと戻る」
「えっ、泊まって行かないんですか?」
「異変の原因は掴んだのだからここにはもう用はない」
 そう言って、へし切長谷部は客室を出て旅籠屋を後にした。

 外から聞こえる花火の音はいつの間にか止んでいる。打ち上げは終わったらしく、恐らくすぐに客は戻ってくるだろう。本丸へと戻る足掛かりを得たことで一歩前進したが、今の彼らはまだこの旅籠屋の従業員だ。
「仕事に戻るぞ」
「そうだね。もしかしたら、これが最後の仕事になるかもしれない」
「そっか……ちょっと寂しくなるな」
 審神者が持ち場へ戻ると、仕事を抜け出して花火を見に行ったらしい女中らも帰って来たばかりだった。彼女らは審神者の顔を見るなり、「しー」と口の前で指を立てる。こういった同年代の娘との交流も、本丸へ戻れば再び縁のないものとなる。
 何もかも分からないままこの時代に放り出され、一時は命の危機すら感じ、そして今はこうしてこの旅籠屋に世話になっている。旅籠屋の仕事は決して楽ではなかったが、それでも本丸に幽閉されていては一生経験することのない数々の思い出が残っていた。
 戻れるかもしれないと分かった今だからこそ、ここでの生活が名残惜しい、と審神者は少しだけ思った。彼女には、そして稲葉江と富田江には、歴史修正主義者との戦いという避けられぬ使命があるというのに。

 仕事を終えて部屋へ戻ると、そこに居たのは富田江一振りだ。稲葉江はといえば、まだ仕事が終わっていないらしい。先に戻った彼は、部屋の後片付けを始めていた。
 まだ確実に戻れると決まったわけではないが、時の政府が動き出せば別れを言う暇もないだろう。歴史の異物である彼らの存在はこの時代を去ればすぐに忘れ去られることになる。それでも、発つ鳥として跡を濁したくはない。
「片付け、手伝うよ」
「ありがとう。でももうほとんど終わったから。君も、もし世話になった人がいたら今のうちに話をしてきてもいいんだよ」
「うん……」
 審神者の頭には、何人かの女中の顔が思い浮かんだ。仕事中は厳しく指導しながらも、特殊な身の上である彼女を気遣ってくれる優しい人たちばかりだ。審神者の生きる時代から見れば過去の人物であり、彼女たちの行く末は決まっている。そんな彼女たちに自分が今何か言うのは違う気がして、後ろ髪を引かれながらも審神者は首を横に振った。
「本当に戻れるのかな」
「あのへし切長谷部の様子を見るなり、頼りになる主を持っているのは間違いなさそうだよ。後は待つだけ、かな」
「そっか。……それにしても、なんで急に私たちの存在を感知できたんだろうね?」
「さぁ、なぜだろう」
 審神者たちがここで働き始めてから数か月。異分子として過去に置き去りにされた審神者の存在を時の政府が感知出来るなら、もっと早くに調査が入ってもいいものではないか、と彼女は思った。
 歴史上の流れで見ても別段大きな事件があった時代や土地ではない。故に把握が遅れて今になったのだろうか。考えても仕方のないことだが、審神者はそれだけが少し引っかかっていた。
「……稲葉、遅いね」
「あいつも律儀だから、案外世話になった人に礼でも言いにいっているのかもしれないよ」
「そうかなあ」
 富田江はここで働くうちに余剰に得た金銭を袋にまとめていた。いざという時にと貯めていたそうだが、この時代を去る以上もうお役御免だ。世話になった礼として、一言添えて女将に譲るつもりだという。
 ちゃりちゃりと小銭同士がぶつかる音を聞きながら、審神者はどこか落ち着かなかった。戻れるかもしれないという期待半分、もう慣れてしまったこの生活との別れを惜しむ気持ち半分で、自分の中でも整理がつかない複雑な心境だ。しかし、彼女の胸を占める思いは、それだけではなかった。
「どうしたの?」
「えっ?」
「何か言いたいことでもあるのかな。そんな顔をしているよ」
 審神者はそんなに何かを訴えかけるような顔をしていただろうか、と頬を揉んだ。言葉にすれば簡単で、しかし示してしまえば誤解を招きかねない。——もはや、誤解であるのかすら判別もつかないが。そんな葛藤が、審神者に思いを打ち明けることを阻んだ。
「気にかかることがあるなら聞かせてくれる?」
「……これはその、本当に他意はないんだけど」
 審神者は膝を抱き寄せて、そこに顔の下半分を埋めた。富田江は作業の手を止めて、彼女に身体ごと向けて話を聞こうとしてくれている。そんな改まった姿勢を取られるとより言いづらいんだけど、と思いながら、審神者はもごもごと口を開いた。
「霊力供給、もうすることないんだな……って」
 富田江の事件がきっかけで日常の一部になった触れ合いは、本丸を離れているからこそ必要に迫られて行っていたことだ。本丸へと戻れば万全の状態で手入れを施せる上に、彼女の霊力が通っているから直接分け与える手間もいらない。
 審神者と富田江、稲葉江は本来、唇を重ねるはずのない関係だ。今は兄妹だと偽っているが、本丸へと戻れば主と数百振りの刀剣男士の内の二振りとなる。
 ここまで長期間、特定の刀剣男士と密接な時を過ごしたことはなかったからこそ、審神者は彼らに特別な思いを抱いてしまっていた。
 素直に恋慕と呼べるような、甘ったるいものではない。ただ親愛ほど純粋で美しい物でもなくて、独占欲や色情などの濁った感情を含有している。そしてそれは、彼女から二振りに同じだけ注がれていた。
「君がしたいなら、私はいつでも」
「し、したいとかじゃないけどっ……! 慣れちゃったから、もうしないって思うと——」
「寂しい?」
「…………」
 審神者は無言のまま、小さく頷いた。
 刀と人、主と刀剣男士。このような感情を抱くのは間違いだと分かっている。万が一自覚したとしても内に秘めるべきであるそれを、富田江はいとも簡単に引き出した。——審神者が明かしたいと思っていたから、言わせてしまった。
 審神者が曲げた膝に顔を埋めて目を閉じていると、富田江が動いた気配がする。彼は審神者の隣へと移って、そのまま腰を下ろした。
 富田江の手が、審神者の耳元を擽った。髪を耳に掛けられた拍子に、審神者は顔を上げる。何度見ても身飽きないほどの美しい顔が、すぐそばに迫っていた。
「ん、……」
 ちゅ、ちゅ、と角度を変えて口付けられる。霊力供給を目的としていたキスでは、粘膜接触と体液の譲渡が必須だったため、このように触れるだけの口付けはあまりしたことがなかった。
 啄むような富田江の唇の動きが、却ってじれったくて審神者の羞恥を煽る。粘膜を擦り合う快楽を覚えた審神者は、早くそれが欲しくてたまらなかった。
 そう願った途端に、望むものを与えるように富田江の舌が審神者の唇を舐め上げる。彼女はおずおずと、これまで教えられた通りに舌を絡めた。
 舌先だけを擽り合わせると、背中からぞくぞくと泡立つような快楽が駆け上る。富田江の薄い舌は器用に蠢いて、審神者が気持ちいい場所ばかりを的確に撫でた。
「とみ、……っ」
「どうしたの? 君がしてほしいことをしているだけだよ」
「……っ」
 この男には、どんな小さな願いでも抱いた傍から見透かされ、叶えられてしまう。小さく燻った欲望の炎ですら、富田江にはお見通しだった。彼の金色の瞳に射抜かれてしまえば、どんな人間であろうと隠し事は不可能だ。
 熱を失った審神者の唇がふるふると震えると、富田江はそれが相応しいものであると主張するように再び唇を押し当てた。わざと音を立てるように唇を吸われ、かっと耳が熱くなる。気が付けば腰は富田江に抱かれ、体重を彼に預けていた。
 口付けに夢中になっていると、引き戸が開く音が聞こえた。審神者は恍惚に蕩けていた意識を引き戻し、富田江の胸板を押す。稲葉江が部屋に戻ってきたのだ。
 しかし彼はびくともせず、あろうことにも審神者の弱い口腔の天蓋を舌で突いた。妙な声が出そうになり、それを堪えるためにびくりと身体を震わせる。
 霊力供給という名の口付けは、互いが留守の時に行っていた。片割れが口付けているのを見ても、面白いものではないだろうと思ってのことだ。富田江に疲労が見えれば稲葉江は席を外したし、稲葉江は富田江の前ではそういう空気を作らなかった。
「……趣味の悪い奴だ」
「ああ、稲葉か。戻ったんだね」
「白々しい。片付けは済んだのか」
「この通り。お前も、もう用はいいの?」
「ああ。……ところで、それはなんだ」
 稲葉江がそれ、と呼んだのは口付けで蕩かされた審神者のことだ。腰を富田江に抱かれて胸板に上体を預け、息を荒くしたまま、審神者は彼にくっ付いていた。
 今この状況で霊力供給が必要ないのは明らかで、稲葉江もそれには気付いているはずだ。ならばここで口付けは、個人的な感情による選択である。
「この子がもう、ここを出たら口付けが出来ないというから」
「…………」
「お前も、名残惜しいなら今の内だよ」
 安っぽい煽り文句に、稲葉江が富田江を睨んだ。
 積極的に審神者の願いに応えようとする富田江と違って、稲葉江は特に必要に迫られなければ口付けによる霊力供給など絶対にしないだろう。習慣の一つとなる程に口付けを繰り返したのも、必要に迫られてのことだ。
 いつものように素気無く切り捨てられると思っていた審神者は、稲葉江が富田江から彼女に視線を移すと共に近寄ってきたことに驚いた。富田江の笑みが得意げに深まって、稲葉江が畳に膝をつく。
 視線の高さが揃うと、稲葉江の鉛色の瞳がよく見えた。富田江の心を見透かす瞳とは違って、こちらは本心を問いただす真っ直ぐな瞳だ。
 そんな彼相手に劣情まがいの欲望を抱いてしまったことが後ろめたく、審神者は目を合わせているのが苦しかった。しかし彼女の体を抱き止めたままの富田江の手によって、逃れることはできない。
「い、稲——」
「あの程度で煽られたと思われては癪だが、褒美代わりとでも思っておけ」
「えっ? ん、……」
 褒美とは何の——と訊ねる前に、稲葉江は審神者の顎を掴むと手早く唇を重ねた。
 霊力供給のための貪るような口付けとは違い、丁寧に薄い皮膚同士を重ね合わせていく。富田江に抱かれながら稲葉江と口付けをするという異様で背徳的な状況を、審神者は出来のいい夢か何かとしか思えなかった。
 触れてばかりの唇がもどかしく先に舌を伸ばしたのは審神者だ。稲葉江の下唇を舐めると彼はぴたりと動きを止め、しかしすぐに彼女に応じた。
 突き出した舌同士を絡めると、滴った雫が落ちて服に染みた。ひやりとした感覚に一瞬気を取られると、それを許さないと言わんばかりに稲葉江の舌が審神者の口内に押し入ってくる。
 唾液を流されて、頭の奥がちかちかした。口から溢れてしまいそうになったところで唇を解放され、審神者は口を閉じると同時につい嚥下してしまう。それが妙にいやらしいことのように感じて、羞恥で顔を上げられなくなった。
 長く濃厚な二振りとの口付けで濡れた口元を拭おうと審神者が手を伸ばすと、富田江がやさしくそれを掴んで制した。思わず彼の方を振り向くと、富田江は口端に唇を添わせるように雫を舐めとる。稲葉江が「富田」と不機嫌に唸った。

 これが最後の口付けの——稲葉江と富田江とのこの時代だけでの特別な関係を置き去りにするための、儀式めいた置き土産のつもりだった。
 へし切長谷部から連絡が来るならば明日以降だろう。それまでに精算しておくべきことだった、と意味の伴わない口付けを彼女は自分の中で許していたが、これを区切りに終えることが出来るのか、と考えれば、それは容易ではない気がした。
 本丸に戻った後、稲葉江と富田江相手にこれまで同様百数振りと同じように接することが出来るのだろうか。出来なかったとしても、しなくてはならない。
 ひいては彼らのため。そして自分のため。ここでの出来事を全て無かったことにするわけではないが、変わってしまった二振りとの関係を飲み込めるほどに彼女は柔軟ではなく、口付けの甘さを知っても尚、清廉な少女だった。


 翌朝、日が上る前に、へし切長谷部は再び審神者たちの元へ現れた。
 思っていたよりもずっと早い再会に審神者が驚くと、へし切長谷部は誇らしげな顔をした。曰く、「俺の主は非常にお優しい方だから、お前が自分の娘と同じ年頃だと知って、今すぐ迎えに行けと再び俺をこの時代に向かわせた。主のお心遣いに感謝するんだな」とのこと。〝へし切長谷部〟にこんな尊大な態度を取られたことのなかった審神者は、その様を新鮮に感じながら、二振りと共に帰還の準備を進めた。
 時の政府への連絡はへし切長谷部の主が行ってくれたようで、彼の本丸を経由して審神者らは時の政府に保護された。審神者と二振りの間では数か月が経っていたものの、本丸の時の流れとは結びついておらず、管狐が審神者について報告したときには、本丸の面々は審神者が見当たらないことに気付いたばかりであった。
 イレギュラーな転送により身体に異常をきたしていないかを検査するため、審神者は時の政府の医療機関に数日間入院することとなった。
 同じ期間、別室で稲葉江と富田江の事情聴取が行われていたらしい。健康状態への影響は特になく、審神者が自覚している変化も体重の変動くらいだ。自分には何のとりえもないと思っていたが、身体が頑丈なことは誇ってもいいのかもしれない、と彼女は思った。
 転移門のエラーについてはこれから調査が入るとのことで、しばらくは本丸での待機命令が出ている。稲葉江、富田江と政府の施設で合流した後、彼らは何度も夢に見た本丸への帰還を果たした。

「……知らせを聞いた時は本当に驚いたよ。僕たちの知らないところでそんなことが起きていたなんて」
 審神者を出迎えた本丸の面々にもみくちゃにされた後、彼女は自室に始まりの一振りである歌仙兼定を呼んだ。
 審神者が検査入院している間の本丸責任者は彼であったため、その報告——というのが建前で、審神者が彼に会いたくてたまらなかった、というのが本音だ。歌仙兼定は言葉にこそ大袈裟に表すことはなかったが、その表情からは転送事故に巻き込まれた彼女への心配、そして無事に帰った事への安堵がこれでもかと滲み出ていた。
「正直、実感がなかったんだ。昼食の支度が済んで、君がいないと気付いたばかりのことだったからね」
「ほんと、大変だったんだよ。一晩じゃ話し足りないくらい!」
「その話はいずれ聞かせてもらおう。今日はもう休んだ方がいい」
 半日中刀剣男士らの相手をしていた審神者を気遣って、歌仙兼定は早いうちに話を切り上げようとした。歌仙兼定が恋しいという気持ちは本心だが、審神者としてもやっとこの住み慣れた本丸に帰ってこれたのだ。一秒でも早く、自分の寝床に横になりたかった。
「ああ、それと」
「ん?」
 部屋を出ようと扉に手をかけた歌仙兼定が審神者を振り返る。
 彼は審神者の姿を、何かを確かめるようにじろじろと眺めた。彼の形のいい眉が歪んで、それは取り繕うように和らげられる。
「本当に、身体に異変はないんだね。どこか痛いとか、感覚が鈍くなっているとか、そういうことも……」
「それ、お医者さんにも何回も聞かれた。ないよ、健康そのもの! ちょっと痩せちゃったけど、本丸のごはん食べてたらすぐ戻ると思う」
「それは、腕によりをかけて作らなくてはいけないね。何もないなら僕の杞憂だ。長居して悪かったね」
「おやすみ、歌仙」
「ああ。おやすみ、主」
 歌仙兼定を見送ると、審神者はすぐベッドに横になった。
 マットレスの沈む感触、お気に入りの色のシーツ、重みのある布団。自分の身を休めるために、自分が用意した寝具で眠れることがこんなに幸せだとは思わなかった。
 目を閉じるとこれまでの出来事が瞼の裏に映っては消え、彼女を微睡へと誘う。疲労しきっていた審神者はそれに抗うことなく、あっという間に眠りに落ちた。

 夜勤の待機室は退屈な静謐が横たわって、青白いライトが煌々と輝いていた。時の政府が擁する医療施設の一室だ。彼らにとっては退屈こそが最も価値あるものである。
 白衣に眼鏡の男は、暇つぶしに患者——ここに入院していた審神者の検査データを眺めていた。マウスをスクロールしながら並ぶ数値を視線で追いかけ、ある一点で手を止める。
「なぁおい、見てみろよこれ」
 眼鏡の男は同様の恰好をした同僚に声を掛けた。同僚はエナジードリンクを片手に、キャスター付きの椅子に乗ったまま床を蹴って、眼鏡の男のディスプレイを覗き込む。見慣れた画面と数字の羅列だ。最初、同僚はわざわざこれを見せられた理由が分からず、首を傾げた。しかし、その視線が眼鏡の男と同じ位置へと至ると同時に、彼は動きを止める。
 対象は十代の女性、痩せ気味ではあるものの健康状態には大きな問題は見られない。最大霊力値は優秀な記録だが、例の事故の最中に相当な霊力を消費したようだ。
 が、そんなことは些事である。彼らの関心を引いたのは、数多くの検査項目の中で、唯一規定数値を大きく上回っていたものだ。刀剣男士の持つ気——いわゆる神気と審神者の間では呼ばれるものの保有値が、常識の範囲を超えて高い数値を叩きだしていた。
「なんだこれ、神隠し案件か? 最近なかっただろ」
「いやぁ、これ実は今日退院した例の転送事故の審神者らしいぞ」
「は?」
 同僚の男は、ずっしりと重い隈がぶら下がった目を見開いた。
 時の政府医療管轄に籍を置いて数年、相当な人数の審神者の検査結果を見てきた自負がある。その中でもこの数値が突出して計測された人間は、皆例外なく正気を失っていた。
 刀剣男士の神気への耐性が著しく低く本丸生活に耐えられなかった審神者や、意図的に神気を注がれ続けた者の末路である。こうなった以上は審神者の仕事を続けることは難しく、社会生活に戻るためには長期のリハビリが必要になる。とてもじゃないが、まず退院させられるような状態はあり得ない。
「……無事に戻ってきたんじゃなかったのか?」
「見た目上はな。これでまともに受け答えして身体に違和感はありません、だぞ。信じられるか?」
「いや……。どうなってんだこれ」
 件の転送事故について、この部署にいてその話を知らぬ者はいなかった。転送門の不良により全く別の時代に転移させられた審神者が、運よく自身の本丸の刀剣男士と合流し帰還した、という話だ。奇跡的なニュースとして時の政府内では話題になっていたが、この記録を見てしまった以上、彼らは職業柄暢気に捉えることが出来なかった。
 表向きは偶然、調査中の任務中の刀剣男士が審神者を発見し、保護に至ったと報道されているが、実情は違う。その調査自体が、神気異常を観測したことによるものだった。
 出陣要請のない時代、土地で異常値の神気が計測されている。まず疑われたのは新たな刀剣男士の——それも神格の高い刀のイレギュラーな顕現だったが、実際足を運んだ先にいたのは異常値の神気を注がれた審神者だったというわけだ。発見した刀剣男士曰く、彼女は受け答えには何の問題もなく至って正気、身体への異変も感じていないという。気配は明らかに異常であるのに当人が平然としていることが何よりも恐ろしかった、と彼は語った。
 時の政府では、保護と検査入院を兼ねて数日間彼らの身柄を拘束し、尋問を行った。勿論、審神者には悟られぬように。しかし、審神者、刀剣男士共に証言に齟齬はなく、肉体維持のための霊力供給については審神者自ら申告したため、悪意や事件性は極めて低いと判断された。
 ただ不運な事故に巻き込まれ、策を講じ審神者の身を守りながら救助を待ち、運よくこうして保護に至った。——ただそれだけだと、彼らは主張するのである。
「これ、対象の刀剣男士って調べついてるのか?」
「稲葉江と富田江だって。本人らがゲロった」
「江ってそういうことするイメージなかったけど……」
「二振り分丁度半分になるように注がれてたらしいぞ。……まあだから正気を保ってられたのかもしれないけど」
「いやだからって、そんなこと可能なのか?」
「この数値で正気、って段階でもう可能不可能の話じゃないんだよ」
 個人差あれど、並の人間が受け入れられるとは到底思えない量の神気だ。件の審神者はそれを身体に溜め込んで、平然としていた。
 霊力能力値が高い者は、神気への耐性も伴って高い傾向にある。十代にして審神者になったということは、それなりの身の上、もしくはよほどの才能を見出されたのだろう。
「お前、これどう思う?」
「どうって……」
 しかし、それにだって限度がある。このような事故に巻き込まれ、あまりに不遇で哀れだ。けれど彼らは、どうしたってただ同情することが出来なかった。
「決まってるだろ。——バケモンだよ」


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