仕様が無い

「これまでの関係を、なかったことにしてほしくて」  腐り落ちてしまいそうなほどに凍える指を、必死になって握り込んでいた。  覚えているのは爪が手のひらに食い込む痛みと、突き刺さる視線から逃れた先の畳の目だけだ。臆病な私は一方的に別れを突き付けておきながら、恋人だった男の顔すらろくに見ることが出来なかった。  何か言いかけた彼の喉が鳴る。それが私の鼓膜に届くほどに、静かな時間だった。  その後彼が発したのは、たった一言、了承を示す言葉だけだった。理由を問い詰めるでも、勝手な判断に異を唱えるでもない。いつも通りの声色で、「話はそれだけか」と彼が訊ねた。  彼の方を見向きもしないまま、私は頷く。すると、彼は立ち上がって出入口へと向かった。  戸を滑らせる音がして、室内に冷たい空気が流れ込んでくる。今にも雪が降り出しそうな寒さだった。  少し間を置いて、扉が閉まる音がする。部屋の中に置き去りにされた冷気が室温に馴染んだ頃、私は顔を上げた。  たったひとり取り残された部屋はがらんとしている。質素で生活感がなく、ただ空間を持て余しているだけの場所だ。我ながら、よくもまあこんな退屈なところに毎日通っていたものだと思う。  同時に、私の胸の内側にも冷たい風が吹き荒んでいた。空っぽだ。悲しいとか、苦しいとか、寂しいとかそういった感情すら沸いてこない。恋の終わりは呆気ないものなのだと、私はこの時初めて知った。  桜の見頃を終えた頃、新たな刀剣男士が本丸に顕現した。富田江、稲葉江と双璧を成す江の刀だ。  金色の髪に白い衣装を纏った彼は、これまでこの本丸に顕現したほかの江とは少し趣が違って見えた。装いや見た目の印象だけでなく、穏やかな声色までもが稲葉江とは正反対な男だ。しかし一見柔和な彼の表情は相対する者を萎縮させるほどの気品をまとい、その気高さは片割れである彼の気配を想起させた。  春先の大掃除を経て、廊下はまだワックスがまぶしい。私は本丸の暮らしについて説明しながら、富田江を連れて城内を案内して回った。 「——で、こっちが刀剣男士の部屋」 「ああ。私は稲葉の隣の部屋、だったかな」 「うん。それで大丈夫? 希望があるなら部屋替えもできるけど」 「問題ないよ」  外部からの敵襲に備え、刀剣男士らの部屋は、城の外側を囲うコの字の廊下に沿ってずらっと並んでいる。大所帯な上、定期的に新顔が入ってくるからこその単純な構造だ。  近寄り難いと思わせるほどの高貴な顔立ちが目を引く彼だが、時折すれ違う本丸の面々に挨拶をする姿は、見た目よりもずっと親しみやすい印象があった。  初対面の刀剣男士と打ち解けるのも早く、人当たりも良い。前田家伝来の刀であることから、顔見知りも数振りいるようだ。これならばすぐに本丸に馴染んで、私が心配せずともうまくやっていけるだろう。  さらに廊下を進み、ひとつめの曲がり角を曲がったところで、富田江に割り当てられた部屋の前に到着した。 「富田の部屋はここ。本丸の案内はこんなところだけど……大丈夫そう?」 「大体は把握できたかな。ここまで案内してくれてありがとう」 「いえ。じゃあ、私は部屋に戻るので——」  手短に切り上げてその場を離れようとした瞬間、富田江の部屋の隣の襖が開く。姿を現したのは、部屋の主——稲葉江だ。  思わずそちらに顔を向けてしまい、彼と視線が交わる。私は慌てて富田江の方へと目を逸らした。 「……富田か」 「稲葉。私の部屋はお前の隣だそうだよ」 「知っている」  知っているも何も、富田江に自分の隣の部屋を当てがって欲しいと言い出したのは稲葉江だ。私はそのことを思い出しつつ、言葉を交わすふたりを前に口を噤んだままでいた。  富田江の声色は、私や初対面の刀剣男士たちに向けたものよりも少しだけ楽し気に聞こえた。稲葉江の仏頂面はいつも通りだが、態度が少しだけ気安いように見える。  分かりやすい言葉にこそしたことはなかったものの、稲葉江はずっと富田江がこの本丸に顕現する日を待ち遠しそうにしていた。彼との再会を心から喜んでいるに違いない。 「じゃ、じゃあ私はこの辺で。富田、あとのことは稲葉に聞いてね」  ただ、私にとってはそれどころではない状況だった。一刻も早くこの場を立ち去りたくて、二人の会話を遮って声を張り上げる。彼らは揃ってこちらに視線を寄越した。 「ああ——」  重ねてお礼でも言おうとしたのか、富田江が口を開く。彼の言葉を最後まで聞かず、私は足早にその場を後にした。  背中に感じる視線は、不自然な態度の私を訝しむ富田江のものだろうか。あるいは——  思わず頭に浮かんだ厳めしい顔を振り払い、一心不乱に廊下を進む。執務室に飛び込と同時に、遠征部隊の帰還を知らせる音が城内に鳴り響いた。遠征部隊を出迎え、部隊長から報告を受けているうちに、彼のことは頭から抜けていった。  稲葉江と私は、かつて恋人同士だった。  といっても、気持ちを通わせていたのはごく僅かな時間だ。今や別れてからの期間の方が長く、片想いをしていた期間はそれよりもずっと長い。寒い冬が見せた微かな温もり、口付け一つ出来ないほどの一瞬、一夜の夢のような出来事だった。  唐突に別れを切り出した私に、稲葉江は理由ひとつ問いただすことなく、その申し出を受け入れた。互いに恋慕い合う気持ちなどなかったかのように、あっさりと。  雪解けと同時に終止符が打たれた恋は、心ごと溶けて消え失せたかの如く、その後私たちは何事もなかったかのように振舞った。私たちの関係を知る者はそう多くはない。気持ちが芽生える前に戻ったかのように、つつがなく日常を送った。――表面上は。  たったひとり、自ら手を下したはずの私だけが未練を残している。今も顔を直視することが出来ず、誰にも悟られないよう必死に取り繕い続けていた。  声を聞くだけで呼吸が苦しくなるし、遠くからでも姿を目にすると胸が切なく締め付けられる。それほどに、まだ稲葉江のことが好きだった。  夜毎、私は己の選択を悔いた。別の道を選んでいれば、今も彼のそばで笑顔でいられたのかもしれない――なんて、ありえない空想を眠りの淵で広げてしまう。  それでも最後には、「こうするほかになかった」という結論に至るのだ。過去の私を慰めるように、間違っていなかったと言い聞かせるように。  全てを手に入れるなんて我儘は許されない。私一人が傷つくだけで丸く治るならそれでいい、なんて悲劇のヒロインめいた感傷にも酔えず、棘を飲むような日々を送っている。いつかこの恋心が消え失せるその日を、ただ待ちながら。  現在、稲葉江には第一部隊の隊長を任せている。練度や能力を考慮し公正に判断した上でのことだが、本音を言えば顔を合わせた時になるべく話題に困らないようにしたかったのだ。突然距離を遠ざけては周囲に不審に思われかねないし、かといって楽しく世間話を交わす心の余裕もない。  幸い、稲葉江は隊を率いて指揮を取り、軍場で戦うことを好む性質だ。任務の話をしているうちは感情を持ち込まずに済むし、彼もまた思うままに戦える。互いのために、これが最良だと判断した。  ——というのは、ただの建前だ。本音を言えば、未練がましくも私はまだ彼との接点を失いたくなかった。  卑怯で臆病な自分自身と向き合えない私と違って、己がやるべきことを全うする彼が眩しかった。遠くからでも、一方的でも構わないから、彼を見つめていたかった。こんな風に思っているうちは、きっとこの気持ちを忘れられないのだろう。  稲葉江のことが、ずっと、ずっと好きだったから。 [newpage]  季節は巡り、梅雨に入った。太陽は厚い雲に隠れ、一向に姿を見せない。  近頃、私は原因不明の体調不良に苦しめられていた。全身のだるさに加え、頭蓋に響くような痛みが頻繁に起こる。連日続く雨のせいで気持ちも臥せってしまって、ここのところは座っているのも辛い状態が続いていた。  だが、命を賭して戦場で戦う彼らのことを思うと、そんな甘えたことは言ってられない。痛み止めを飲み、騙し騙し日々の仕事をこなした。 「少し休むか。冷たい飲み物を取ってくる」 「……ごめん、お願いできる?」  額に手を添えたまま動きを止めた私を見かねて、近侍の山姥切国広が席を立つ。審神者となってからずっと近侍を務めてくれている彼にだけは、体調が優れないことを伝えていた。  座椅子の背もたれに寄り掛かると、風通しを良くするために開け放たれた障子からは、雨に濡れる庭が見えた。  ずきずきと響く頭の痛みに眉を顰める。頭痛薬は一時間前に飲んだばかりだ。ここのところ頻繁に頼っているせいか、薬の効きも悪くなっていた。  雨音に交じって、ノイズに似た音が耳につく。鼓膜の周りを虫が這っているみたいで気味が悪い。目を瞑って深呼吸をしても、分厚い皮膜に覆われたかのように息苦しく、身体の怠さはちっとも良くならなかった。  本来ならば、今すぐにでも病院にかかるべき状況だと頭では理解している。しかし、そこで病が見つかった後のことを考えると億劫で、つい先送りにしてしまっていた。刀剣男士たちを信頼していないわけではないが、突然本丸を空けるだなんて審神者としての矜持が許さない。  目を閉じたまま身体を休めていると、雨音とノイズの間に足音が混ざった。  山姥切国広が戻ってきたのだろうか。足音は部屋の前までやってくると、はたと聞こえなくなった。しかしいくら待っても、部屋の中に入ってくる気配はない。私は目を閉じたまま、彼の名を呼ぼうとした。 「くにひ——」 「稲葉江だ」 「ッ、はい!」  私の声を遮った低い声に、思わずぱちりと目を開いて体を起こす。障子の前に立っていたのは、名乗った通り稲葉江だった。突然声を張って飛び上がった私に、彼は少しだけ驚いた様子を見せた。 「休養中か? 邪魔をしたな」 「い、いや、大丈夫。えっと、なに?」  動揺して視線が泳ぐ。上手く取り繕えず、声が震えた。  だが稲葉江はそんな私の狼狽えぶりを気にすることなく、畳に膝をついて私に視線を揃えると、手にしていた書類を差し出した。 「先の任務の報告だ」 「あっ、うん、ご、ご苦労様、ありがとう」  騒ぎ出した心臓は収まらず、しどろもどろのまま私は書類を受け取った。  稲葉江の報告書は、毎度簡潔で明瞭だ。彼のことだから不備などないだろうが、念のためにと書類に簡単に目を通す。交戦状況、敵の数や目的から対処内容、得た資材までもが、彼の性格をそのまま形に表したような生真面目で美しい字で記されていた。  目立った不備がないことを確認すると、私は書類から顔を上げないまま頷いた。 「うん、確かに受け取りました。ありがとう」 「…………」 「い、稲葉?」  下がってくれて構わない、と声色で伝えたつもりだが、稲葉江はその場に留まったままだった。不思議に思って、私は彼の胸元までが視界に収まる程度に少しだけ視線を上げた。  稲葉江の手が僅かに浮き、宙を彷徨う。それから何かを躊躇うように、自身の膝の上へと戻った。 「顔が白いな。休息は取れているのか」  具合が悪いことを言い当てられ、私はぎくりとした。  先ほど少し目を閉じて休んでいるところを見られたにしろ、横になってぐったりとしていたわけでもない。気に留める程の事とは思えなかった。  長時間共に過ごしている近侍だけでなく、たった今顔を合わせたばかりの稲葉江にも勘付かれるほど、今の私はひどい顔をしているのだろうか。  首筋を冷たい汗が伝う。うまい言い訳がすぐには出てこなかった。誤魔化そうとして、唇が不自然な弧を描く。口角がひくりと震えた。私の視線は、また畳の目に逃げていた。 「えっ……と、今日はちょっとだけ寝不足で。あの、でも仕事に支障はないよ」 「…………」  頭上から突き刺さる視線には、取り繕おうとする様を咎める意図が伝わってくる。ここにはいない近侍に、早く帰ってきて! と心の中で念じ、助けを求めた。  稲葉江は小さくため息を吐くと、膝を起こして立ち上がった。 「将の状態は士気に関わる。養生しろ」 「……気を付けます」  畳を踏みしめる音がして、稲葉江が執務室を出て行く。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は脱力して息を吐いた。  体調管理もままならない私を見損なっただろうか。膝を抱え、頭《こうべ》を垂れる。憂鬱が体に重く伸し掛かって、具合は悪くなる一方だ。  拍車をかけるように、雨音は激しさを増している。山姥切国広が帰ってくるまで、少しだけ横になっていようか。そんな姿を見せたら、猶のこと心配をかけてしまうかもしれない。でも――  耳元で騒がしい不快な音から少しでも逃れたくて、私は目を閉じた。  少し目を瞑っているだけのつもりが、いつの間にか意識を失っていたらしい。はっと気が付くと、私は執務室の奥の間で、布団の上に横になっていた。  指一本分ほど開いた襖の隙間からは、執務室の灯りが漏れ出ていた。体を起こして布団から出て、襖を開く。山姥切国広は私が起きだしてきたのを見て、手にしていた書類を机に置いた。 「起きたか」 「国広、あの私……」 「今日はもう休んだ方がいい。急ぎの分は粗方終わらせておいたから、明日にでも確認してくれ」  どのくらいの時間眠っていたのだろう。障子の奥、庭はすっかり日が落ちて薄暗い。雨脚は少しだけ弱まって、しとしとと静かに降り続いていた。  山姥切国広は、私の顔を見るなり痛ましげに目を細めた。  心配をかけないように、と思っていたのに、手遅れだったらしい。罪悪感に身が竦んで萎縮していると、彼は「近々医者にかかったほうがいいんじゃないか」と言った。 「ずっと具合が悪いんだろう。本丸のことなら気にするな。あんたの身体が第一だ」 「うん……」  私をずっと近くで護ってくれていた彼の言葉が、胸にずしりと伸し掛かる。ここまで迷惑をかけておいて、大丈夫だからなんて強がりは言えなかった。 「そうだね、そうする。国広、今度病院ついてきてくれる?」 「ああ」  山姥切国広の勧めを素直に受け止め、その後私は休息を取ることにした。  身体の不調を感じ始めたのは、冬の終わりだ。最初は倦怠感が強い日が続き、季節の変わり目の気候変動による自律神経の乱れだと思っていた。  きちんと休息を取れば収まっていくだろう――そう楽観的に捉えていたものの、一向に快方に向かう気配はない。それどころか悪化の一途を辿っていた。  わざわざ部屋に持ってきてもらった食事は、半分ほどしか喉を通らなかった。膳を下げに来た歌仙兼定の表情に罪悪感を駆り立てられ、胸が痛む。彼らにこれ以上心配をかけるわけにはいかない。  この先数日は予定が詰まっているため、病院に行くのは来週になりそうだ。それまでに、また倒れるなんてことがあってはならない。  少しでも良くなりますように。そう祈りながら、私は布団に入った。 [newpage]  北風を受けた窓がかたかたと揺れている。殺風景な八畳ほどの部屋には、絶えず隙間風が吹き込んでいた。  目の前の景色をぼやりと眺めて、私はすぐにこれが夢だと気が付いた。  庭の隅にある、ほとんど使われていない離れだ。茶室に改装する話が出たタイミングで忙しくなって、なあなあのまま放置されていた。稲葉江と付き合っていたときは、よくここで逢引をしていたものだが、別れて以降、一度もここには近寄っていない。  中綿の羽織の袖を伸ばして手を温めながら、小さくあくびを嚙み殺す。肩に触れた熱が身じろいでそちらに視線をやると、稲葉江がじっと私の顔を覗き込んでいた。 「眠いのか」 「ちょっとだけ……」  眠気を追い払おうと強くまばたきをしていると、稲葉江は触れ合っているのと逆の肩に手を伸ばし、そっと抱き寄せた。  思いのほか力が強く、体がよろめく。彼の太ももに手をついて顔を見上げると、稲葉江もそんなに力を込めたつもりはなかったらしく、罰が悪そうに視線を迷わせていた。  いつも堂々としている彼は、眼差しを揺らすことがない。らしくない挙動に、少しだけ胸が浮ついた。 「……肩くらいは貸してやる」 「えっ」  ——つまり、ここで寝ろと?  視線で問うと、稲葉江は小さく頷く。寒いはずなのに、背筋を汗が滑ったような気がした。  見つめ合った眼差しは、「寝ないのか」と追って問うかのように真っ直ぐだ。結構ですとも言いづらい空気耐えかねた私は、言われるがまま、彼の肩に頭を預けて目を瞑ってみた。  確かにもたれ甲斐のある逞しい肩ではあるが、言葉に甘えて体重を全て預けてしまう勇気はない。どうしても姿勢を維持するために腹に力が入って、このまま寝るのは難しそうだ。 「肩じゃなくて、こっちがいいかも……」  私は迷った末に、勇気を出して稲葉江の太腿に頭を預けた。  豊前江が仲間によくやっている、膝枕だ。目にしたことは幾度かあれど、実際に私が誰かの膝で横になるのは初めてだった。  頭を置いた太腿は、見た目通り筋肉質で硬く、寝心地がいいとは言えなかった。私が寝転がったことに驚いて、力が入ってしまったせいもあるだろう。  心臓がバクバクと騒がしい。私にとってはかなり思い切ったスキンシップだ。嫌がられていたらどうしよう、失礼だと思われていないかな? なんて不安に駆られながら彼の反応を待つ。  すると、何かが髪に触れる感触があった。  稲葉江は私の頭を撫でるようにして、髪に指を通していた。束になっていた髪が、彼の指の動きによってはらはらとほどける。それがくすぐったくも心地よく、どこか甘美な痺れが頭皮に伝わった。  軍場で敵を斬り捨て、天下を望み、真っ直ぐ駆け上がろうとする無骨で頑固な男――そんな彼の印象からは、全く想像もできない優しい触れ方だ。私が勇気を出して甘えたように、彼も不慣れながらに私を甘やかそうとしてくれているのかもしれない。  騒がしかった心臓は、小刻みながらも心地よく鼓動していた。寒い冬をじわりと温める甘い時間に胸をときめかせながら、私はその安らぎに身を委ね、瞼をおろした。    意識が微睡から浮上する。寝ぼけ眼のまま枕元の電子端末を手繰り寄せ、時間を確認すると、ディスプレイに表示された時計は深夜三時を示していた。  ――夢の中の光景は、いつかの記憶だ。  日中、稲葉江と顔を合わせて言葉を交わしたものだから、未練がましくも思い出してしまったのだろう。夢のような幸せな時間だと思っていたけれど、まさか本当に夢になってしまうだなんて。  あまりにばかばかしいと、自嘲気味に乾いた笑いを漏らす。体温すらまざまざと思い出せるほどに、その夢は現実味を帯びていた。  妙な夢のせいか、それとも夕方眠ってしまったからか。もう一度布団に潜って目を閉じても、頭が冴えて寝付けそうない。  私は二度寝を諦めて部屋を抜け出して、キッチンへと向かった。  住民たちが静まり返った本丸には独特の雰囲気がある。例えるならば、曰く付きの心霊物件のような。  そもそもここで暮らしているのは人ならざる者たちなので、見る人が見れば大差はないのだろう。静謐な緊張感は、自分の住まいだと思えないほど進む足を竦ませた。 「っ」  ふと、おどろおどろしい暗がりの曲がり角に、大きな白い影が見えた。私は思わず立ち止まり、息を呑む。  あやかし斬りの逸話を持つ刀は、十分に揃っている。ならば目の前にいるのも見知った顔のはず。当たり前のことを思い出し、私は小さく息を整えた。  寝ぼけ眼でも近づくとその影は輪郭をはっきりとさせていく。大きな白い影の正体は、富田江だった。彼は私に気がつくと、にこりと人好きする笑みを見せた。  白いサテン地のパジャマを着て、カーディガンを肩にかけている。それが妙に様になっているというか、〝らしい〟佇まいだ。江の刀は篭手切江に衣服を選ばせていることが多いが、富田江のパジャマも篭手切江が選んだのかもしれない。 「こんばんは。夜更かしさんかな」 「こ、こんばんは。なんか目が覚めちゃって」 「私と同じだね。どこへ向かっていたの?」 「キッチンです。喉乾いて……」 「そう、ご一緒しても構わないかな」 「それは、もちろん」  富田江との会話は、いつも穏やかな川の流れのようだ。思うままに気軽に受け答えをしているうち、何かが進んでいる。それは今宵も変わらず、私と富田江は気が付くと共にキッチンへと向かうことになっていた。  この本丸にはキッチンと呼べる場所が二つある。ひとつは私たちが今向かっている場所。そしてもうひとつは『厨房』、もしくは『戦場』という別名でも呼ばれる場所だ。  私たちが向かう『キッチン』には家庭用冷蔵庫と簡単な調理場、二口コンロがある。誰でも自由に使えて、気軽に料理ができる場所だ。個人で冷蔵・冷凍品を管理したいときは、ここの冷蔵庫に名前を書いて保管する決まりだった。  そして『厨房』『戦場』と呼びれる場所は、料理当番として選ばれた刀剣男士以外は立ち入り禁止となっている大型の調理場だ。  飲食店の厨房ほどの広さがあり、一度に百数人分の調理を行うために本格使用の設備が備えられている。冷蔵庫の中には百数振り分の食材が収められていて、間違ってもつまみ食いなどが起こらないよう厳密に管理されていた。飯時前のそこは、本物の戦場を知る刀剣男士らがそう呼ぶほどに壮絶な状況であるという。  キッチンに入り、冷蔵庫を開けてウォーターボトルを取り出し、共有のグラスに注ぐ。受け取った富田江が礼を言う様を見て、この人は世話を焼かれ慣れているな、と感じた。  顕現して間もない頃は、人の身に不慣れが故に周りから気にかけられているのだと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。前田家ゆかりの刀剣や江の刀から話を聞くに、どこかふわふわしているというか、ひとりで放っておけない雰囲気があるらしい。篭手切に彼のことを訊ねた時も「富田せんぱいはカッコよくて頼りがいのある尊敬できる方ですが、自分のことになると少し無頓着で」と零していた。  名乗りに印象を引っ張られてしまっているのは否めないが、世間知らずの王子様みたいだと思った。彼の新たな一面を目の当たりにし、噂に聞いた通りだと納得しながら、私もコップに口をつけた。 「ここのところ、体調が優れないそうだね。今夜のように眠れないことも多いのかな」 「……もしかして、稲葉に言われた?」 「うん。隈が酷いと言っていたよ」 「そっか……」  静かな夜に気を配って、音を建てないようにコップを机に置く。  稲葉江は、どういうつもりで私の話を富田江にしたのだろうか。緊張と、少しの不快感が入り混じる。  主の体調不良だなんて、どう転んでも明るい話題にはなり得ない。体調管理もままならない貧弱な人間だと失望されているのかも、なんてネガティブな想像をしてしまう。 「何か、悩みでもあるのかな」 「……悩みなんて」  俯いた私に、富田江は柔らかな声色で問いかけた。  睨みつけた水面から顔を上げる。深夜だからか、少しだけ彼の表情はとろんとしていた。温かいミルクにはちみつを流し込んだような甘さと包容感に揺蕩って、つい胸の内を曝け出してしまいたくなる。  誰にも言えない情けない自分の未練と、後悔のことを。  口を開いたのは、ほとんど無意識だった。 「夢を、見るんです」 「夢?」 「幸せな夢……。だけど、もう手に入らない幸せ。それがわかっているから、辛くて」  稲葉江と付き合っていたときの夢を見るのは、これが初めてではなかった。体調が特に優れない夜、彼は夢の中に現れては、私自ら切り捨てた幸せな思い出をまぶたの裏で再び演じるのだ。  恋人として過ごした時間はあまりに短い。後になって忘れられないような、特別で印象的な出来事は何も起こらなかった。恋人同士らしい進展はほとんどなく、触れ合いも最近の中学生の方が進んでいるくらいだ。  彼と過ごした時間を思い返してみると、何もない離れで私が一方的に話をしていることばかりだった。恋人らしい甘いムードが照れくさくて、言葉が途切れて静かになると稲葉江のことを意識してしまう。それから逃げたくって、場にそぐわないくだらないことばかりを一方的に聞かせていた。  あの時、少しでも黙ることを覚えれば、口付けのひとつくらいしてもらえたかもしれないのに。——今となっては、それも無駄な後悔だけれど。  それでも、間違いなくその瞬間は幸せだった。これだけは嘘偽りない本心だ。  ただそばにいて手を取り合い、同じものを見ているだけで心が安らいだ。人を好きになるとはこういうことだと初めて知った。  それを、私は自分の手で壊してしまった。 「悪いのは全部私で。だから、罰なのかも」 「それは、君一人が背負わなくてはならないものなのかな」 「……うん」 「そう」  具体的なことは語らぬまま、ただ誰かに打ち明けたかった本心を、言い訳みたいな後悔を、懺悔のようにぽつりぽつりと溢す。何も知らない彼にとっては要領を得ないであろう私の言葉に、富田江はただ寄り添ってくれた。  コップ一杯分の水を飲み干すと、不思議と少しだけ眠気が襲ってきた。話をしたことで心が楽になって、緊張が解けてきたのだろう。眠気を押し殺すような瞬きをした私に、富田江が「眠れそう?」と訊ねた。 「うん。ちょっと眠くなってきた……。ありがとう」 「私は何もしていないよ。よく眠れるといいね」  空になった富田江が私の手からコップを攫う。そのままシンクへ持っていったので後片付けを手伝おうとすると、微笑みとともに制された。 「後は私が。君はもう休んで」 「でも……。う、わかった。ありがとう」 「どういたしまして。おやすみ、良い夢を」 「おやすみ、富田」  有無を言わせぬ眼差しに負け、私はキッチンを後にする。部屋へ向かい廊下をひたひたと歩きながら、私はひとり考えこんでいた。  これまで夢の話なんて誰にもしたことはなかったのに、どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。体調不良の噂が流れている上であんな話をしても、無闇に心配をかけてしまうだけなのに。彼が見せた小さな隙に誘われるように、私も気付けば胸の内を晒していた。  あれが、『心を重ねる』ということなのだろうか? 些細な出来事から彼の天下の交渉人としての真価を見た気がして、小さく身震いした。  小さな後悔は眠気に押し流され、再び布団に入って目を瞑ると、今度はすぐに眠りに就くことができた。瞼の裏には、夢に見たあの黒い影がまだ残っていた。 [newpage]  審神者が集められる会合の中には、公式に時の政府が開催したものと、有志の審神者が集まって開いたものがある。今回私が参加することになったのは前者で、近年審神者間で起こっている問題や事件・事故を周知することにより、新たな発生を未然に防ぐ目的で開かれた、いわばセミナーのようなものだ。  本丸を運営する上で頻発するトラブル、刀剣男士との適切な関係の築き方、審神者をターゲットとした罠や詐欺など——審神者の数が増えた現在、時の政府はこういった場を設け、清く正しく健全な本丸運営の促進を試みている。内容が特殊なことを除けば、形式は学校の授業に近い。  広い会議室に並べられたテーブルの一角で、私はあくびを噛み殺す。内容の機密性から、護衛に連れてきた一振りは別部屋で待機させられているため、ここにいるのは講師と参加者である数十人の審神者のみだ。隣に座るのは見知らぬ同業者で、彼もまた退屈そうに目を擦っていた。 「次に、本丸解体案件の事例を——」  審神者とはかくあるべき、という説教じみたテーマを話し終えた講師は、画面に映し出されたスライドを進めた。  本丸解体案件——何らかの事情で運営の継続が難しいと判断した本丸に対し、時の政府は解体を命じることがある。または、審神者として相応しくない行動を行った者に対しても、その任を解くケースがあるそうだ。  私は手持ち無沙汰に握っていたペンに力を込めた。  講師はスライドの文字を指示棒で指しながら原稿通りの言葉を吐く。数年前に問題となっていた所謂『ブラック本丸』の実体から、特殊な呪詛にのめり込み呪いに取り殺された審神者の話、時間遡行群と内通し刀剣男士共々その本丸の存在ごと葬り去ることとなった大事件まで。センセーショナルな内容に、先程まで退屈そうに頬杖をついていた審神者たちは、前のめりになって聞き入っていた。 「本丸番号045519——刀剣男士に不適切な命令を繰り返し行ったとして……」  単調に読み上げられた数字の羅列を耳にし、ひくりと喉が震えた。  同じ番号がスライドに映し出される。見覚えのある番号だった。どくどくと心臓が騒ぎだす。指先がひやりとして、視界がぼやけた。講師が読み上げた数字を、もう一度頭の中で復唱する。045519——  私の本丸と、ひとつ違いの番号だった。  違う、違う。——私じゃない。  自分に言い聞かせ、息を整える。全身から血の気が引いて、寒気がした。はっ、と吐いた息すら熱く感じる。喉が嫌な音を立てた。 「……大丈夫ですか?」 「い、いえ。ちょっとだけ気分が」  ただならぬ様子である私を見かねて、隣に座っていた審神者が声をかけてくれた。朝挨拶したきりの初対面の他人相手でも見過ごせないほど、今の私は露骨に具合が悪そうに見えるらしい。  日頃の不調が嘘のように、今日はいつもよりずっと身体の調子が良かった。講義の退屈さから眠気と戦ってはいたが、それはいつもの頭痛がないからこそ。一変した体調に歯を食いしばり、机に肘をついて頭を支える。 「すみません、体調不良者が——」  講習を続ける講師の声を遮り、隣の席の審神者が挙手をする。そうして私は席を立ち、施設内の医務室で休むことになった。  ——審神者解任命令。  時の政府から審神者への伝令は、主に審神者に貸与された電子端末を介して伝えられる。しかし〝それ〟は、管狐が咥えた赤い封筒に入ってやってきた。  やけに神妙な表情の管狐が、「おひとりで中身を確認なさってください」と言い、それを受け取るまでを見届ける。私は言われるがままに自室に入り、封を切った。 『貴殿が管理する本丸において、当機関の定める運用規約に抵触する行為が確認されました。  なお、期日までに是正が確認されない場合、本丸を解体し、審神者としての任を解く措置を講じます。』  仰々しい文字に睨まれ、私は頭が真っ白になった。  自慢できるほどではないが、私の本丸の運営はごく健全なものだった。刀剣男士を雑に扱ったことも、無理な進軍を命じたこともない。彼らとの関係も、少なくとも一般的な審神者程度には良好だとは思う。重大な違反行為には、心当たりがなかった。——たったひとつを除いて。  稲葉江とのことだ。先日結ばれたばかりの恋人は、刀剣男士だった。  審神者と刀剣男士が特別な仲になることについて、それを厳重に取り締まる規則はない。ただ明文化されていなくとも、審神者の間では様々な噂が流れていた。  あそこの審神者と刀剣男士が結ばれたとか、刀剣男士の子を成した審神者がいるとか、審神者が自分の娘と刀剣男士に肉体関係を結ばせたとか、——刀剣男士と恋仲になった審神者は本丸を取り上げられる、とか。  この通達に真っ向から「覚えがありません」と抗うには、あまりにも後ろめたい立場だった。  刀剣男士とは、歴史修正を目論む時間遡行軍に対抗するための武力である。人の身と心を持つのは、色恋なぞに興じるためではない。一線を越えた審神者に対する処罰として、想像できない形ではなかった。  演練や催しでもなければ、審神者同士で関わる機会は滅多にない。噂のどれもが何の裏取りもされていない不確かなものだ。上に直接問いただして藪をつついて蛇を出すような真似もしたくない。相談できる相手もいなければ、確かめる術もなかった。  話せる相手がいるとすれば、恋人にしてこの問題の当人である稲葉江、ただひとりだ。  しかし、真面目な彼のことである。己の成すべき使命と個人的な感情を天秤にかけて、後者に傾くことなどあり得ない。彼ならばまず、この関係を切り捨てることを選ぶはずだ。このことを打ち明けた日には、こんな判断も一人で下せないのかと、恋人ではなく将として失望されてしまうのではないかと不安になった。  私はこれまで、ただ物の心を励起する力を生まれ持ったというだけで審神者になり、刀剣男士らを率いる集団の長であるという認識を正しく持てていなかった。  始まりの一振りである山姥切国広をはじめとして、彼らは時間遡行軍との戦いのことを何もわからない私を支えてくれた。長い時を見てきた彼らは幼い見目でも精神的に成熟していて、そんな彼らに私は甘えっぱなしだった。ここまで付いてきてくれた彼らに、こんな個人的な理由で「審神者を辞めさせられるかもしれない」だなんて情けない相談は出来ない。  悩みに悩んだ末、私が選んだのは——稲葉江との別れだった。  その後まもなく、管狐がやってきて私に告げた。「あの宣告は誤りでした」と。  ああ、なるほど。こういうことか――と思ったのだ。すべてを詳らかにはせず、ただ事実だけでそれを審神者に認めさせる。半端に流布された噂の原因は、こういった時の政府の迂遠なやり方にあったのだと。  ただ、私の選択は間違っていなかった。それだけで十分だった。  休憩室のベッドでしばらく横になった後、講義が終わる時間に合わせて私は会議室に戻った。  この後は自由参加の交流会が予定されている。それに参加する審神者は席に座ったまま、参加しない審神者は帰り支度を整えながら、近侍の迎えを待っていた。  壇上の機材整理を行う講師に、私は声をかけた。彼は私の顔を見て、心配そうに体調について訊ねる。講師は、自分の父親よりは少し若い男性だ。講義中よりも少し和らいだ表情に緊張が解れた。 「先ほどの話で聞き逃したことについて教えていただきたいのですが」  ただの貧血です、と答えた後、そう続ける。彼は少し意外そうな表情を見せ、そして閉じかけた電子端末を開きなおした。 「本丸番号04551……なんでしたっけ」 「045519の件だね」 「そう、そこの話の途中で離席してしまったので気になって」  講師は躊躇いがちに彼の言葉を待つ私の顔を確認してから、おそらく講義で語ったのと同じように事例の解説をした。  時折言いづらそうに口ごもっていたのは、聞くだけでも痛々しい内容にまた貧血で倒れられては、と案じてのことだろう。改めて内容を聞いても、ぞっとするような悍ましい出来事だ。あまり具体的に想像しないようにして、私は彼の言葉を聞き流す。  一通り話し終えた講師に、私は訊ねた。 「あの、私も一度勧告が来たことがあって」 「それは、本当に?」 「はい。赤い封筒で」  信じられない、とでも疑わしげな顔で私を見た講師は、『赤い封筒』と耳にすると目を細めた。私の言葉を嘘ではないと確信した表情だ。それから、思い出せる限りそこに書かれていたことを話す。すると講師の顔はどんどん険しくなっていった。 「……でも、数日後には管狐から誤りでしたと言われて。そんなことってあるんでしょうか」 「私の立場からすればありえない、と言いたいところだが——ふむ」  講師は端末の画面を私に見えないようにして、私の本丸番号をもう一度訊ねた。復唱しながらそれを端末に打ち込み、画面に指を滑らせる。  しかしその後、不思議そうに眉を顰めわざとらしく首を傾げた。その所作には、どこか私を安心させるためにわざとコミカルに振る舞うような気遣いが見えた。 「調べたところ、君の本丸について報告は上がっていないようだ」 「そう、ですか」  ――ああ、やっぱり。  嫌な予感がぴたりと当たったとわかって、私の声から色が抜け落ちる。 「……だが、あり得るとしたら私の部下のミスだ。少し時間をもらえるかな」  思い当たる節があるらしい講師はため息を付き、端末を閉じた。  講義の冒頭に名乗った肩書から推察するに、講師は時の政府ではそれなりの地位についている。その彼が私の本丸を知らないというならば、——つまりはそういうことだ。  片付けを始めた彼に礼を伝えてから、私はよろよろと自分が座っていた席へと戻った。隣の席は空っぽだ。講義中に声を上げてくれた彼は、すでに帰ってしまったらしい。きちんとお礼を言いそびれたな、なんて小さな悔恨は、ただの現実逃避だった。  虚無感に包まれたまま椅子に座り、シミ一つない壁の一点を眺めていると、私の山姥切国広が部屋に入ってきた。案の定体調を気にかけてくれた山姥切国広に、私は講義を途中離籍したことを伏せ、何事もなかったかのように彼と共に本丸へと戻った。  ――決死の思いで下した決断が勝手な思い込みによる間違いだった場合、どうやって取り返せばいいんだろう。  母屋の廊下をとぼとぼと歩く。本丸の大半が夕食も湯浴みも済ませ、寝ずの番以外は自室で休んでいる時間だ。  夏が近付いて、夜でもじっとりと暑苦しい。まとわりつく湿気が、首筋や背中に汗を滲ませた。  講義から帰ったあと、私は心身への疲労を理由にすぐに私は自室で休んでいた。夕飯も断って、ずっとひとりきりでいた。  しかし日付が変わる直前、明日までに提出しなくてはならない書類があったことを思い出した。翌朝から取り掛かれば間に合いそうではあるものの、明日は山姥切国広とともに病院へ行く予定だ。朝から慌てたくはない。  私は仕方なく、布団から起き出して執務室へと向かった。  ひとりでいると取り繕う気すら起こらず、ため息が漏れる。執務室へ向かう最中も、ずっと今日の出来事について考えていた。  いくら脅すような書状が届いたとはいえ、当時の私はあまりに冷静ではなかった。しかしその裏側には、自分がやっていたことの後ろめたさが確かにある。  自分と稲葉江の刀剣男士という立場や、凜とした彼への憧れに潜む劣等感、身分不相応にも彼との幸せを願ってしまったこと。恋人同士だった期間は確かに幸福の絶頂ではあったけれど、本当にこんなに幸せでいいのかな、なんて恐れが幸せの裏側にこびりついていた。  きっとどこかで帳尻合わせが必要になる。いつかばちが当たるんだと思い込んでいた。  ずっと、自分に自信がなかった。幸福を疑い続けた私は、突きつけられた書状を見て、「ああやっぱりだめなんだ」と納得して、簡単に彼を諦めてしまった。  前を見ないままとぼとぼ廊下を歩く。すると曲がり角に差し掛かった途端、前方に何かが現れた。  はっとして顔を上げるよりも先に、それにぶつかる。弾かれるように転びそうになったところを、がっしりと抱き支えられた。  鬱屈した気持ちを取り繕い、相手が誰かも確認しないまま、私は反射的に不自然に明るい声色で礼の言葉を口にした。貼り付けた笑顔で、私の肩を抱く腕の主を見上げる。その先にあったのは鉛色の双眼、もはや空想の世界で見るほうが多い端正な顔立ち。稲葉江だった。 「い、」 「不注意だ」 「す、すみません……」  眉間に濃く刻まれた皺に威圧され、喉が自然と狭くなる。彼と接する機会は以前と比べると激減したというのに、ここのところ怒られてばかりだ。  萎縮して俯きかけた顔を、彼の手が掬う。無理矢理視線を合わせるような手つきには、焦燥が感じられた。 「……泣いていたのか」 「えっ」  稲葉江は眉根を寄せ、感情を露わに目を細めた。顔を背けることは、彼の手によって許されない。思えば別れを告げて以降、ろくに彼の顔を見てこなかった。  日中、戦装束と共にあしらわれた化粧はすっかり落ちて、厳格な印象に反して顔立ちは麗しい。白い肌は雪原のようで、直線的なまつ毛の影が頬まで落ちていた。  心臓が久しい鼓動を刻み出す。私は彼の問いを否定する形で乱暴に頭を振り、彼の手から逃れた。  恥じらいから顔に手をやり鼻をすすると、いかにも心配してくださいと言わんばかりにずびと音が鳴り、赤面した。 「なんでもないです」 「そのような顔を晒しておいて誤魔化せるとでも」 「……稲葉には関係ない」  真っ赤な嘘と共に突き放す。俯いたまま、垂れ下がった髪の隙間から彼の様子を窺った。  いつも通りの鋭い眼差しを期待した先には、思いがけない表情があった。眉を顰め、痛みに堪えるように目を細めている。  視線は何か言いたげに揺れていた。思わず絶句し、まじまじと見つめてしまうほどに彼らしからぬ顔だった。後悔と傷心に満ちたそれが、刃のように私の胸に突き刺さる。 「出過ぎた真似をした」 「あ……」 「失礼する」  稲葉江は顔を背け、私の脇を抜けて廊下を進む。振り返ってそれを視線で追うも、彼の背中はどんどん小さくなっていった。  心配してくれた彼を、自分勝手な理由で冷たく突き放してしまった。自分への自己嫌悪が募って、目頭が熱くなる。呼び止めてもどうしようもないのに、ひどく彼の名を呼びたくなった。それも、自分の罪悪感を取り除くための自己中心的な行動に違いないのに。  私はずっと、間違いばかりを起こしている。混乱して、視野が狭くなったのを理由に迂闊な判断をすべきではなかった。彼に思いを明かすべきではなかった。  ——稲葉江を、好きになるべきではなかった。 [newpage]  一夜明けたところで事態は好転するはずもない。勝手な思い込みで突っ走って、自ら崖に転げ落ちた哀れな女がひとりいるだけの状況には変わりなく、私の胸中と無関係に朝日は昇る。  しかし睡眠とは偉大なものだ。何が起きたわけでもないのに、どちらにも行けぬ袋小路の地獄に閉じ込められたような心地からは、少しだけ解放されていた。要は、ただの諦めだった。  稲葉江にとって私と過ごした時間は瞬きにも満たないような時間で、この本丸の刀剣男士としての記憶は顕現に用いた私の霊力が尽きた時点で消え失せる。私の命もまた、同じことだ。信念の塊のような彼のことだから、ちっぽけな小娘ひとりの存在一つで揺らぐものもないだろう。そんな彼が揺らぐところが見たいと思ったから、手を伸ばしたのは否めないけれど。  歴史改変を阻む中、いくつもの人の営みが生まれ、消え失せるさまを眺めてきた。歴史にも残らないからと、見て見ぬふりをしてきたそれらと、私の心の荒れ模様は同じ、いや、きっとそれ以下のちっぽけなものだ。  いつかきっと、忘れられる。この後悔も、恋心も。それまではやるべきことをやるだけ。彼がそうしているように、私も強くならなければ。そんな風に、意識を新たにした。  講義の翌日、私は予定通り、山姥切国広を連れて時の政府管轄の病院へと向かった。広い病院なのにほとんど他の患者とすれ違うことがないのは、ここが一般には解放されていない審神者のためだけの場所だからだろう。数々の検査を受けたのち、私と山姥切国広は待合室で問診を待った。  無機質な待合室はやはり私と山姥切国広の貸切状態だった。口を開くのを躊躇う静寂が沈黙を促す。無言の時間が気まずい相手でないのに加えて、今何を言っても診断結果に変わりようはないのだから、余計なことを言うのは避けたかった。  本丸番号で呼び出しを受け、診察室へと入る。待っていたのは中年の男性医師だ。  彼は神妙な顔の私に反し、手慣れた様子で紙に記された検査結果を一つずつ追い、一点、チェックのついた数値にボールペンで丸をつけた。 「霊力異常ですね」  審神者となるための絶対条件である『物の心を励起する力』を機械に例えるならば、霊力は燃料にあたる。霊力自体は『物の心を励起する力』そのものを持たない人間にも通っていて、それを保持するための器の容量や、体から霊力を生み出せる量は人それぞれだ。  器が小さければ神格の高い刀剣男士を呼び出すことが難しく、霊力を生み出す量が少なければすぐに霊力が尽きてしまうため手入れや鍛刀を頻繁に行うことはできない。この二つと将としての才能が備わった者が、高い素質を持つとされている。  本来、私の霊力を保つ器・霊力を生み出す力は平均をやや上回る程度の能力だ。しかし、今は何らかの原因でその器にヒビが入ったような状態になっている。本丸の運営が堅実だったおかげで、審神者の役目の中で自覚するより先に、体調不良という形で明らかになったのだろう、と医者は話した。 「初期症状としては寝つきが悪くなる、熱っぽくなるなどが挙げられます。主な原因は過労やストレスですね」 「過労……そんなに忙しくないと思うんですけど」 「若い女性審神者だと心因性がほとんどです。心当たりは」 「…………」  思い当たる節は、ひとつだけあった。しかしこの場で口にするのも憚られ、推し黙る。医者もここで詳細を聞き出すつもりはないらしく、私に語る様子がないと見ると、言葉を続けた。 「必要であれば心療内科の受診をお勧めしますが、その前に霊力器官の治療ですね」 「治療……。治るんでしょうか」  霊力異常と診断された審神者は日を追うごとにその力を失い、ついには審神者の職を追われることもあるという。薬で進行を緩やかにすることはできても、治療は難しいものだと思っていた。私は思わず前のめりになって、医師の話に聞き入った。 「一口に霊力異常といっても、症状は人それぞれです。あなたの場合は本丸にいると症状を感じやすい傾向にあるようです」 「それは……はい。確かにそうです」  頭を過ったのは例の講義の日のことだ。慣れない環境下、机に向きっぱなしだったのにもかかわらず、本丸で仕事をしているときよりもずっと体の調子がよかった。講師の話を聞いて具合が悪くなるまでは。  まさか、治療のためには本丸を離れなくてはならないのか。過った不安を、医師の言葉が遮る。 「症状が深刻な場合は一時的に本丸を離れ療養する必要がありますが――この程度ならその必要もないでしょう」 「ほ、ほんとですか」  様々な患者を見ているからこそ、医師は私が思っているほど霊力異常としての症状はそう重篤なものではないと捉えている。それを感じ取り、審神者をやめろと言われたらどうしよう、と恐れていた私は、少しだけ安堵した。 「ストレスの原因に心当たりがあるならば、それを取り除くことが先決です。本丸での生活が合っていないようなら、それも検討しなくてはなりませんが」 「…………」  私の頭に住み着いた黒い影がこちらを一瞥する。落ちた沈黙を払うように、医師が待合室に続く扉に視線をやった。 「今日の付き添いはどなたです?」 「えっ? 山姥切国広です」 「始まりのひと振りの?」 「はい。それがなにか?」  脈絡なく近侍のことを訊ねられ、私はきょとんとする。医者は一拍置いて、再び検査結果に目を落とした。ふん、と鼻息を吐いて、ボールペンの先で意味のない点を刻んだ。 「山姥切国広とはどの程度話ができますか?」 「えっ? 国広と……ですか?」  一体この症状と彼がどうかかわってくるのか。理解が追い付かず混乱したまま、私は拙く問い返す。医者は神妙な顔で頷いて、デスクサイドのラックから、一部の冊子を取り出した。 「この病の最も有効な治療法は刀剣男士の力を借りることです」  短く切りそろえられた爪が題字を叩く。これ以上の説明は、もはや必要なかった。  私の視線は冊子の表紙に縫い留められる。耳鳴りがして、目の前の景色がドラマか何か、別世界のことに感じられた。 『霊力供給の手引き』  淡色地にやたらポップな字体でそう記された冊子には、そう記されていた。  本丸へ戻る前に少し散歩をしようと誘うと、山姥切国広は私の体調を気遣う言葉の後、深く頷いた。  病院の庭園を風が吹き抜ける。本丸の庭の方がずっと広いというのに、より心地よく感じたのは例の霊力異常の影響だろう。広く美しい庭園を前にしてもそれを楽しむ余裕のないほどに、あの空間にいるだけで私の心身は追い詰められていく。  ただ庭を見たくて散歩に誘ったわけではないということを、山姥切国広は見抜いていた。景観を楽しむこともせず、彼は「どうだったんだ」と訊ねる。  少しの逡巡ののち、私は医師から聞いた話を洗いざらい山姥切国広に話した。思いの外切羽詰まった状況ではないこと。それから、治療には刀剣男士の力を借りる必要があるということを。 「……そうか」  その声には、落胆と同時に腑に落ちた様子があった。  なんとなく、山姥切国広にはある程度私の状態が伝わっているのではないかと予感していた。  医師の話によると、霊力を分けた審神者の状態は、その体に触れると刀剣男士にはありありと伝わってしまうのだという。女である私に気遣って、刀剣男士はみだりに私に触れようとはしない。機会があったとすれば、執務室で倒れた後に布団に運び込んでもらったときだろう。彼に通院を強く勧められたのも、あの後だった。 「それでね、早い話が霊力供給をしてもらえって。そうしたら私の症状も収まって安定するかも、って……」  診察の後、山姥切国広のいる待合室に戻る前にぱらりと捲った冊子には、霊力供給の方法が記されていた。  体液、粘膜、皮膚を介して、多量の霊力を直接受け渡す手段の中には、想像するのも躊躇するようなグロテスクな方法が含まれる。本来、何もしなくても共に本丸で暮らしているだけで必要量の霊力は巡る中で、無理なやり取りをするのだ。当然、審神者の体には大きな負担がかかる。  その中で最もリスクが小さい手段として、必要に迫られた女審神者に選ばれるのが刀剣男士との性交渉だった。  状況も、言葉も、取り繕ったってそれが示す事実は変わらない。私は本丸の誰かに、抱いてくださいと頼まなければならなかった。 「俺は構わない」 「えっ……」 「それであんたの命が助かるんだろう。ならなんだってする」  私をまっすぐ見据える山姥切国広の瞳は、偽りの日の光を受けてきらきらと輝いていた。私も彼も、言葉の意味を正しく理解していて、それでも尚彼は恥じらいひとつ見せない。真に心から、私の身を案じて言ってくれているということが、まなざしから明らかだった。  ここまで苦楽を共にしてきた山姥切国広を、今更異性として扱えるか、と想像してみた。  不測の状況から身を寄せ合って眠ったことや、初めての勝利に歓喜のあまり抱き着いてしまったこと、堪えきれぬ恐怖心を分け合うために手を握り合ったことはある。しかし、そこに信頼はあれど、気持ちが恋慕へ傾くことは一度たりともなかった。  きっとそういう行為を行うことになったとしても、私と山姥切国広の関係は変わらない。彼ならばきっと、望んだとおりの不変を貫いてくれる。「俺はあんたのための刀だからな」と、頼もしい顔でそう言って。そんな自信があった。  ——でも。  私の脳裏を黒い影がちらつくと同時に、山姥切国広が口を開いた。 「だが、あんたはそれでいいのか」 「え……」 「俺は、あんたが無事ならなんだって構わない。どうするかは、あんたが決めてくれ」  山姥切国広は、それ以上この件について話を続けることはなかった。  私の中に蟠る未練は、日に日に存在感を増すばかりだ。彼――稲葉江のことを清算しないまま、山姥切国広に甘えるのは道理に外れている。しかし二の足を踏んでいても、私の体は霊力の機能が壊れたまま、状態は悪化する一方で、いずれは本丸、刀剣男士にも大きな影響を与えるだろう。  猶予はない。決断の時は、目前に迫っていた。  本丸へと帰った私の足は、無意識にあの離れ付近へと向いていた。  離れのそばには小さな池があり、アーチ状の橋が架かっている。この辺りは母屋から見える庭と違って手入れは行き届いておらず、彩に欠けた寂しげな景色だ。  離れ自体も使われなくなって久しく、用がなければ誰も寄り付かない。人員が増えるにつれて継ぎ足しで敷地を拡張した結果出来た、今や何の意味も持たない場所だ。百数振りが暮らすこの本丸では、どこにいてもひとの気配がある。この場所の寂し気な静謐は居心地がよかった。  病院を出て本丸へ戻ってからというもの、汚泥の膜にくるまれたような不快感に付きまとわれていた。  体の重さと頭の鈍痛に気を取られ、物思いに耽ることもままならない。いよいよ悩む余裕すらもないかと、橋の手すりに身を預け、額に手を添えたときだった。  やけにはっきりと砂利の音が耳に届いた。額に指を当てたまま、鈍い動きで音の方へ顔を向ける。  そこに立っていたのは稲葉江だった。  交わった視線を逸らす余裕もなく、動揺は表にならなかった。私より先に、稲葉江が目をそらす。  昨晩の出来事を思うと仕方のないことだが、今まで幾度も目を背けてきた自分の行動を棚に上げて、その様子に切なく胸が痛んだ。彼もこれまで同じ思いをしてきたのだと思うと、尚の事痛みは鋭く、重く響いた。 「……邪魔をしたな」  十数秒にも満たない僅かな沈黙の後、彼は立ち去ろうとした。私は何の考えもなく、「待って」と彼を呼び止める。しかし稲葉江は私の言葉も聞かず、背を向けて歩いていった。  私は体重を預けていた橋の手すりから離れ、稲葉江を追いかけようとした。踏み出したはずの一歩が、反対の足に縺れる。そのまま体重を崩し、砂利に膝を打った。  視界が揺らいだ後にべしゃ、と自分の体が崩れる音が遅れて聞こえて、転んだのだと気付く。痛みが走った膝に触れると、その触感はゴムのようで、自分に触れたのだと感知できなかった。  ぬるりと何かで滑った手を顔の前に寄せると、赤く濡れている。運悪く膝を石か何かでぶつけて切ってしまったらしい。  それを理解するまで、何秒を要したのだろう。一連の出来事を、私はつまらない映画でも見ているかのように、遠くに感じていた。  気が付くと、私の体は稲葉江に抱きかかえられていた。記憶は細かく途切れて連続性がない。見上げた端正な顔は、何かを必死に訴えて口をぱくぱくと動かしていた。 「——————! ———、———!」 「いなば……」  本丸の端とはいえ、こんなにも静かなのは奇妙だった。風や池の音だけでなく、彼の声も聞こえない。私の耳は、昨日を失っていた。強いストレスを感じると大きな症状が出やすいと言っていたっけ――私は、医師の言葉を思い出した。  鉛でも括りつけられたように重い腕を必死に動かして、彼の顔に手を伸ばす。頬に触れたはずの指先は、もはや何も感じない。感触もないのに、白い肌が赤く汚れていた。彼に顔に触れたのは、これが初めてだった。  驚いて口を閉ざした彼に向けた言葉は、自分でも思いがけないものだった。 「稲葉、助けて」  次に意識が戻った時、私は離れの中にいた。  これまで苦しめられていた苦痛が嘘のように体は軽く、視界も、匂いも、音も、何もかもが明瞭だ。肺いっぱいに空気を充《みた》して、指一本一本が思うように動いた。  わずかに開いた扉の隙間からは、橙の光の帯が伸びていた。体を起こすと、肌に外気が触れる。そこでようやく、私は自分が一糸纏わぬ姿であることに気がついた。  咄嗟に近くにあったものを手繰り寄せる。よく見るとそれは、離れに備えておいた客人用の布団だった。  ゆっくりと振り返ると、そこには着衣を整える稲葉江がいた。  いつもは開け放っているパーカーのジッパーを胸元まで上げ、身を起こした私にちらりと目をやる。頬には微かに、乾いた血が残っていた。 「具合は」 「うん……もう、大丈夫」  体の内を蝕む熱はすっかり引いて、全身に錘をつけられたような気怠さはなくなっていた。それだけ聞くと、稲葉江は満足した様子で静かに頷いた。  私たちの会話は、それだけだった。何があったのか、どうしてこんなことになったのか。私は訊ねなかったし、彼も説明しようとしなかった。  視線で服を探すと、稲葉江が布団の端に投げ捨てられていた服を手渡してくれた。日頃から身形に気を遣っている彼は、自分のものだけでなく他人の衣服を雑に扱ったりはしない。状況ひとつひとつが、欠けた記憶を縁取っていく。足の付け根がじわりと熱を持った。  猶予がないだなんて、まるで気楽な考えだった。私には選ぶ余地すらなかったのだ。そんなことに、今更になって気がついた。  着衣を整える私を待たずして、稲葉江は離れを出ようとする。私が呼び止めると、今度は足を止めてくれた。  眩しい夕日が扉から差し込んで、濃い影を背負った稲葉江が最低限肌を隠した私を振り返った。 「稲葉、……その、ごめん」  一方的に別れを告げたこと。身勝手な理由で振り回したこと。未練がましく今も想っていること。自分のために、あなたの体を利用したこと。  稲葉江に謝らなければならないことは山ほどあった。その言葉は、全てを内包したつもりでいて、結局は許されて楽になりたいがための逃避に過ぎない。ここまでこじれた関係は言葉一つで動くことはないと知っていて、私は言わずにいられなかった。 「詫びはいらん。今回の件は、我の勝手な判断だ。不服なら好きに処罰を下せ」 「処罰なんて……」 「だが」  夕日の眩しさに目を細めると、少しだけ逆光になった彼の顔が露わになる。厳めしいその顔つきには、苦悶とも諦観とも言い難い喪失感を纏っていた。 「我は、我がすべきことをした。後悔はない」  ぴしゃりと扉が閉められる。日の光に慣れた目は、殊更室内を暗く見せた。部屋の明るさに目が慣れるまでの時間、私は茫然と座りこんでいた。  身なりを整え、布団を片付けて、離れを出る。母屋へと戻ると、夕飯のにおいが空腹を誘った。  食事の席で稲葉江と顔を合わせたが、私たちは互いに何事もなかったかのように平然と過ごした。稲葉江は、いつも通りだったけれど。  食事がいつもよりおいしく感じたのは、きっと気のせいではない。量を減らされても食べきることが難しくなっていた夕飯を、久しぶりに完食した。  空になった皿を見て、歌仙兼定は涙ぐむ勢いで嬉しそうに笑っていた。ずっと体調を気にかけてくれていた薬研藤四郎が「大将、今日は調子よさそうだな」と声をかけてきた。一緒にいたほかの短刀たちも、安堵の笑みをこちらに向けている。  この笑顔の数だけ心配をかけてきたのだと思うと、胸が痛んだ。 [newpage]  一度は快方へ向かった体調は、一週間もたつとみるみる元通りに悪化していった。  医者曰く、一度にやり取りする霊力の量——つまりは霊力供給の手段によるが、繰り返し対処することで症状は落ち着いていくのだという。肉体が霊力の器の形を覚え、修復していくのだと。  つまりは、また稲葉江にあの日と同じ行為を求めなくてはならない。  闇雲に苦痛に耐えていた頃と違い、対処法がわかっているとなると余計に気が重かった。しかしこのまま放っておいては、今度は別の誰かの前で倒れてしまいかねない。  深夜、飛び上がるように目を覚ます。全身にじっとりと汗をかき、喉が渇ききっていた。  夏も近づき、連日寝苦しい夜が続いている。しかし部屋を冷やすと今度は寒気で眠りにつくことができないので、ここ最近は寝室にいる間、丈の長いキャミソールとパンツだけを身に着けて過ごしていた。  実のところ、離れでの行為の記憶はほとんど残っていなかった。  しかし、注がれた霊力の巡る私の身体には、彼の熱がはっきりと刻み込まれてしまったらしい。体を蝕む苦痛から逃れるためか、あの日の快感を追い求めてか。私の脳はわずかな記憶を接ぎ合わせ、夢の中で再現しようとしていた。  夢の中で、稲葉江は知らない顔で笑い、私の肌を啜っていた。それが途切れた記憶の狭間に落ちてしまったものなのか、はたまた私の淫らで身勝手な妄想が作り出した虚像か、確かめる術はなかった。  汗を吸ったキャミソールよりもぬかるむパンツが不快だ。ただ、着替えるのも面倒だった。  のどの渇きに耐えかねた私は、あられもない格好のまま部屋を出た。向かう先はすぐそばのキッチンだ。いくら草木も寝静まった深夜とはいえ、普段ならこの格好のまま部屋の外に出るなどありえないことだった。  重い体を引きずり、壁に手をつきながら廊下を進む。キッチンまであと数歩の場所に迫った時、私は思わずその場に腰を下ろしてしまった。  たった数メートルの廊下を歩いただけで全身から汗が吹き出し、全力疾走した後のように息が乱れている。間違いなく、稲葉江から霊力供給を受ける前よりも症状は悪化していた。  格好が格好なこともあり、尚のことここで倒れるわけにはいかない。へたり込んだまま肩を上下させ、熱が収まるのを待っていると、足音が聞こえた。  音の主は私に気づいたようで、規則的な音は早足に変わる。歩幅から打刀以上、いや、太刀ほどか。けれど距離を考えると夜目の利く大柄な打刀かもしれない――体に反して冷静な頭は、そんなことを推理立てていた。  どうしたの、と訊ねられたような気がする。鼓膜に水が入ったみたいに、音は不明瞭だった。  視界に入った膝は、白い布に包まれていた。体を支えられて顔を上げると、そこにいたのは富田江だ。  ああなるほど、だからか――と、場違いに自分の推理が当たっていたことにほくそ笑む。苦しさから逃れるための、ちゃちな現実逃避だった。  富田江に触れられた肩から伝播して、体が楽になっていく。彼に触れて、霊力の動きが落ち着いてきたのだろう。苦痛が取り除かれると同時に、私は己の身体に落胆していた。  本当に誰でもいいのだ、自分が顕現した刀剣男士ならば。  彼を困らせるとわかっていて、私の身体は富田江に少しでも触れていようとしていた。子供が甘えるような仕草を、富田江は受け入れ、私を抱き寄せる。  肌からのぼる香りも、温度も、呼吸も、まるで知らないものだ。それが私の身体を癒していく。  ――求めて、しまう。 「……この状態なら、やむを得ないか」  富田江との接触により少しずつ本来の機能を取り戻した耳が、そんな声を拾い上げた。  彼は「ごめんね」と一言謝ると、私の体を横抱きにした。浮遊感と同時に、体の表面をぞわぞわとした感覚が走る。心と身体は、それぞれ真逆の反応を示していた。  どこへ行くのか、と訊ねる気力もなかった。彼はさっき、やむを得ないと言っていた。山姥切国広や稲葉江の言動を見るに、この状態の私に触れさえすれば彼らは何をすべきか――私の体が何を求めているのかが分かるのだろう。  自らの主が苦痛を訴え、対処する方法があるならば、臣下として応じるのは当然のこと。特に富田江ならば、私が望むように、私の体が望んでしまうことに躊躇なく応えてしまうはずだ。  夜な夜な襲い来るみだらな夢を思い出す。現実と空想の入り混じったその景色で、私に覆いかぶさるのはいつも稲葉江だった。  それが富田江に置き換わった様を想像し、喉が苦しくなる。私に選択の余地がないことを、思い知らされたばかりなのに。罪悪感と嫌悪感から、涙がじわりと滲んだ。  富田江が足を向けた先は、刀剣男士たちの部屋がある棟だった。彼は私の身体に負担をかけぬよう、細心の注意を払い、しかし急ぎ足でそこへ向かった。ある一室の前でぴたりと立ち止まる。顔を伏せていたけれど、頭の中の地図からなんとなくの場所はわかっていた。このあたりには、江の刀の部屋が纏められていたはずだ。  彼は私を抱えたまま器用に、そして遠慮なく襖を開けた。淵が当たるすぱんという小気味いい音が響く。静かな深夜と富田江という優雅な人物には、不釣り合いだった。  襖の奥は、暗がりだった。  誰もいない――そう思いきや、闇間に何かの影が揺らぐ。目が慣れると、その影の正体が明らかになった。誰かが布団の上で上体だけを起こし、刀の鞘を握っていた。  無遠慮に開け放たれた襖は、富田江の部屋のものではなく、その隣――稲葉江の部屋だった。 「貴様」  夜襲相手に今にも切りかかりそうな鋭い警戒心は、片割れの顔を認識すると同時に霧散した。  眉間に刻まれた皺は深いまま、眠りを妨げた侵入者を睨みつける。しかし鉛色の眼が私に止まると同時に、彼は瞠目する。稲葉江は刀を置くと布団から起き上がり、代わりにそこには私の体が降ろされた。 「この子が廊下で倒れていたんだ。だからお前の元へ連れていくべきだと判断したよ」 「っ……」 「後のことは任せて構わないかな」 「……ああ」  仰向けになって天井を見上げながら、頭上で交わされる言葉に耳を傾ける。富田江は少しだけ私に顔を寄せると、「稲葉に任せておけばもう大丈夫だから、ね」と幼子に語りかけるような優しい口調で囁いた。  富田江は部屋を出て、今度は静かに襖を閉じた。薄暗い部屋には私と稲葉江、ふたりきりになる。少しずつ慣れてきたとはいえ、照明のない部屋では彼の表情を窺い知ることはできなかった。 「なぜ倒れるまで対処しなかった」 「……すみません」 「理由《わけ》を聞いている」  鋭く詰められ、目尻に溜まった涙が頬を伝う。夜目の利く彼が、ぴたりと動きを止めた気配がした。 「対処が先か」  ひとり、自分に言い聞かせるような口調だった。  稲葉江は私に覆いかぶさる形で、私を抱擁した。ずっしりとした彼の体重に押しつぶされそうになりながら、しかし私が苦しくない程度に加減されているのが分かる。その重みと温もりに身体が安らいでいく一方で、淡い欲がどろりと滲んだ。 「稲葉以外にされるのいやだったから」  今になって、彼が訊ねた理由を答えたくなった。  小学生の作文でも、もう少しまともな言い回しができそうなものだと思った。舌っ足らずで拙い答えに、触れ合った稲葉江の身体が少しだけ強張る。  首筋に彼の顔が埋まって、吐息が耳朶を擽った。小さく漏れそうになった声に思わぬ色が乗っている気配がして、必死に飲み込んだ。 「ならば何故、」  ざらついた低い声が、鼓膜に注がれる。詰まった吐息に、躊躇して引き返そうとする彼の葛藤が浮かぶ。彼の苦しみが、ゼロになった距離でひしひしと伝わってきた。  別れを告げられた苦しみ。抗うことも、手を伸ばすことが許されない立場。それから、訊ねられない彼自身の優しさ。  私が飲み込んだ棘なんて、比にならない苦しみが彼にはあったのだろう。歴史を守るために刃を振るう刀剣男士という役目と存在は、審神者以上にしがらみが多い。  それでも、それらすべてを飲み込んで、黙ってしまうのが稲葉江という男だった。――そういうところがどうしようもなく好きだった。  ずっとずっと、気にかけてくれていたことを知っていた。不器用ながらに距離をはかって、私が引いた線に踏み込むこともなく、見守ってくれていた。歯がゆい思いをさせてしまった。  それなのに、身勝手に凭れ込んだ私を、抱きしめてくれた。  身を捩り、彼の方へ顔を向ける。暗闇の中、刃文のような瞳がぎらついていた。触れ合った肌の狭間にあるのは、互いの汗が混ざったものだけだ。  薄く開いた唇に噛みつくように口づける。唇越しに歯が当たって、それを制するように稲葉江は顔の角度を変えた。  存外柔らかいそれが、食むように私に先を促す。誰に教えられたわけでもないのに舌を突き出すと、稲葉江のそれが絡められた。  布団の上に投げ出されていた手に、稲葉江の指が絡む。そのまま縫い留められて、抗うことができなくなった。その少し乱暴な動きに、これが私のためではなく彼の意思で行う行為だと告げられている気がして、心が深く満たされた。  窓の外が白んだ頃、私は稲葉江の腕の中ですべてを話した。  私の身勝手で、先走った決断のことを。彼は私を詰るでもなく、ただ黙って聞いていた。私の葛藤、苦しみを受け止めてくれた。  全部を聞き終えた後、いつかの夢を想起する優しい手つきで髪を撫で、「そうか」と答える。これまでのことを思うとあまりにも淡白な返事だったけれど、それが彼らしいと思った。  不意に抱き寄せられ、厚い胸板に顔が埋まる。思いの外柔らかい胸筋に口が埋まって、羞恥と息苦しさから身を捩り呼吸の道筋を確保すると、彼が小さく笑った気がした。 「怒らないの?」 「過ぎたことだ」 「…………」  ともすれば見放されたとでも聞き違えそうな、淡々とした口調だった。黙り込んだ私に自分の言葉足らずを自覚したのか、髪を撫でながら稲葉江は私の顔を覗き込む。  形のいい眉が見たことのない弧を描いていた。まつ毛の隙間から覗く刃文は、なにより美しく愛おしかった。 「今、こうしているだけで十分だ。違うか」 「ちがわない……」  抱きしめる腕の力が強くなって、同じくらい力を込めて抱き返す。朝を告げる鳥の声が遠くに聞こえて、清々しい幸福に胸がいっぱいになった。  朝が早い本丸は、もう活動を始めている者もいるのだろう。あまりここに長居しては、私の身を案じてくれる近侍に心配をかけてしまう。  それでももう少しだけ、この幸せの中で微睡んでいたかった。 [newpage]  笑っている顔を見られれば、それで十分だったはずだった。  願ったものを得れば、更に欲しくなる。人の身を得て、稲葉江はその欲深さを身を以て知った。  彼自身も気付かぬうちに、稲葉江はいつしか審神者に心を奪われていた。ただ幸せにその生を全うしてくれればいいとだけ願っていた彼女と同じ気持ちを抱いていることを知り、互いにその想いを確かめ合ってからは、欲は溢れんばかりに膨れあがった。  手の届く場所にいてほしい。その笑顔の理由が自分であればいい。叶うなら、終生その傍で。  しかし、夢のような時間はそう長くは続かなかった。  理由もわからないまま関係を反故にされ、稲葉江はそれを受け入れた。問い質す口があっても、抗う手足があっても、彼は物で審神者は人だ。刹那を生きる彼女が自分の意志で選んだものを、たかがエゴで覆せようか。  結果、稲葉江は口を噤んで別れを受け入れた。彼女の選択に抗うには、稲葉江は願ったものがその手をすり抜ける感覚を知りすぎていた。  この身が在る限り、彼女への感情を消し去ることは出来ないだろう。稲葉江は覚悟していた。折れるなり、役目を終えて本霊に還るなりするまで、想いは秘めたままでいるつもりだった。  再びその小さな体を腕の中に収める日がくるだなんて、誰が想像しただろう。  審神者の不調に、稲葉江は早い内から気が付いていた。何せ、否が応でも目がその小さな身体を追ってしまう。人目がないと思い込んで壁にもたれかかる姿や、息苦しそうに眉を顰める姿を何度も見てきた。  気遣ってやりたくても、今の彼女は稲葉江と目も合わさない。不意に視線が重なっても、気まずそうに逸らされてしまう。自分が何をしたって、彼女を苦しめる結果にしかならない。それがひどくもどかしく、そして解決する手立てのないという状況が、余計に彼を苛んだ。  己が気付くということは、当然側仕えの刀や古株はもっと早くに彼女の体調を察しているはず。そう信じた稲葉江は、己の使命に没頭し、雑念を追い払おうとした。審神者と己を唯一結びつける第一部隊隊長という肩書きに恥じない働きにつとめ、ただ刃を振るって戦果を上げた。  彼が審神者のためにできることは、それくらいしかなかった。  自分の汗から立つ香りは、見知らぬ甘さを孕んでいた。  審神者を抱えて離れに連れ込んだ後、稲葉江は湯浴みを済ませて自室へと向かった。  襖に手をかけたところで、隣の部屋が開く。顔を出した柔和な顔《かんばせ》は、稲葉江を目に入れると更に柔らかく、楽しげにほどけた。その形がいやに擽ったく、稲葉江は眉を顰める。  無視して部屋に入っても良かったが、無下にしてはよりしつこく食い下がってくる。片割れに限って、そういうのを面白がる男なのだ。それがわかっていたので、稲葉江は渋々足を止めた。 「あの子とは仲直りできたみたいだね」 「……何の話だ」 「違うの? お前からあの子の気配がする」 「…………」  稲葉江がひとたび審神者に触れただけで何を求められているかが分かったように、刀剣男士であれば誰しもが物の心を励起する力を持ちし者が纏う霊力を感じ取ることができる。それに刀剣男士の神気が絡めば、香りを嗅ぎとるが如く事情を察せられる。  そしてそれは、逆もまた然りだ。汗を洗い流しても、稲葉江の身体に染み渡った彼女の霊力は芳しくその存在感を主張している。  はぐらかしたとて何の誤魔化しにもならないと分かっていて稲葉江はしらを切り、その上で富田江は踏み込んだ。いくらでも上手く流す術を知っているはずの口は、あえて稲葉江から逃げ場を奪おうとする。互いが互いで有るがゆえの、気安いやりとりだった。 「やむを得ず対処したに過ぎん」  稲葉江は自分に言い聞かせるように富田江に答えた。  審神者の肉体は危険な状態にあった。あの場で捨て置けば事態は悪化し本丸の維持に差し障る。稲葉江は歴史を守るために顕現した存在であり、主である審神者の身を守るのも使命のひとつだ。  たとえ過去に相思相愛を確かめ合った後に一方的に拒まれたのだとしても、未だ納得がいかぬまま溶かしきれない恋心を秘めていたのだとしても——それは無関係なことである。稲葉江の感情よりも、審神者の身の安全が優先されるのは当然だった。  交際関係にあった期間、稲葉江は審神者を愛おしむあまり、ろくに触れられずにいた。  無邪気に話す彼女が愛らしく、唇を塞ぐのも惜しかった。それほどまでに大切に思っていた彼女の身体を暴くことは、差し迫った状況とはいえ心苦しい。しかし、与えられた肉体が若い男のものであったが故に、肉欲は容易く彼の高潔な魂に覆い被さった。  涙目でたすけてと懇願する愛しい女を躊躇なく組み敷き、彼女のためと大義名分を掲げやわい身体を貪る。今だってその自己嫌悪に苛まれた結果、少しでも心から煤を払うために鍛錬に打ち込んできたところだった。 「やむを得ず、か」 「貴様には関係のないことだ」 「ない、とは言い切れないよ。あの子は私の主でもあるのだし」  富田江の唇が弧を描く。それだけで彼が何を言おうとしているのか、稲葉江は理解してしまった。  稲葉江にその役目が回ってきたということは、状況が変われば富田江のみならず、他の誰だって同じことが起こりうる。この本丸の刀剣男士は皆、主思いで腹が据わっている。審神者の危機とあらば、どんな手段も選ばない。  お前はそれで良いの、と言葉にせず富田江は訊ねた。  ——良いわけがない。  想像するだけで、腑が煮え繰り返る。それが許される立場でもない癖に、情けのない嫉妬心に嫌気がさした。くゆった炎から目を背け、拳を固く握り込むと、手のひらに爪が食い込む。その痛みだけが、稲葉江を冷静であれと宥めていた。 「意地悪を言いすぎたかな」  富田江がふっと表情を緩める。  元よりこの男にその気がないことは分かりきっていた。やり方の趣味が悪いだけで、富田江は稲葉江が真に望むことに応えようとしているだけなのだ。尤も、それを稲葉江は全く求めていなかったが。 「ここのところ、またあの子の具合が悪そうに見える。お前もわかっているだろうけれど、ああなった以上、一度で治りはしないだろうね」 「……ああ」  言いたいことを言い終えて満足したらしい富田江は、稲葉江を置いて廊下を歩いていった。  富田江が稲葉江の部屋に審神者を担ぎ込んでくるのは、その数日後のことだった。

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