ついに、終わりなのだと思った。 「二週間ほど連絡がつかん」 恋人からのそんな宣言に、私は絶望の淵に立たされた気分だった。過去の経験をもとに翻訳すれば、こういう時の男の人の多忙はただの言い訳で——要は、距離を置きたいという意味だ。 真っ白になって思考停止した頭を無理やり動かして、ここで問いただすのは悪手だと、言いたい言葉を必死に飲み込む。物わかりの良い返事をすれば話はそれで終わりになって、それから一週間の間、恋人とは一切連絡を取り合っていない。 顔に似合わず——というのも失礼な話だが、恋人は愛想がない割に律儀な男だ。多忙で寡黙ながら意外にも筆まめだし、そのメッセージ自体は淡々としたものだが、それでも不器用ながら愛情を持って接してくれているのが伝わってくる。一見取っつきにくいものの、そういう男だと理解すれば情に厚い良い恋人だ。 そんな彼に突き放されたのは初めてで、当然戸惑いはあった。 しかし、それを押し付けるほど互いに幼くもない。最初の数日こそ、寂しくて何度もメッセージアプリを開いて電話をかけようかと迷ったが、今では半ば諦めも交じって心は凪のようである。——嘘だ。そう思い込むことにしている。 とはいえ、指定された日が来るまではどれほど思い悩んだって仕方がない。私は恋人のことをなるべく考えないようにして過ごしていた。 職場からの帰路、乗換駅に降りるといつもより逆走してくる人が多いことに気が付いた。 嫌な予感がしてスマホで電車の運行情報を調べると、家へと向かう路線で列車が運転を見合わせている。振り替え輸送を使って遠回りをすれば帰れないわけではないが、それもなんだか面倒だった。 幸い、この近辺には飲食店が充実している。ここ数日の鬱屈とした気持ちをリフレッシュするためにも、何かおいしいものでも食べて帰ろう。そう考えた時だった。 人混みの中、誰かに名前を呼ばれた気がした。周囲を見渡すと、今度はすぐ近く、頭上で声がする。「こっちだよ」と聞こえた方を振り向くと、そこにいたのは恋人の親友だった。 「富田さん」 「こんばんは。久しぶりだね」 すらりとした長身は、天井の低い連絡通路にあまりに不釣り合いだった。道行く人があまりの美貌に振り向くのを意に介さず、富田さんは微笑んでいる。彼にとってはこれが日常茶飯事なのだろう。 気品溢れる出立ちが、彼を中心とした半径1メートルを別世界のように思わせる。毎日歩いている通勤路のはずなのに、彼の前に立つと自分が場違いに感じられた。 「お仕事帰りですか?」 「ああ、この上のオフィスで少し商談を」 電車とか乗るのかな、この人——と半ば失礼なことを考えながら訊ねたが、私と同じように満員電車に詰められて働きに出ているわけではないらしい。用があったのは駅ではなく、ビルの上階に連なるオフィスのようだ。 「君は?」 「帰るところだったんですけど……電車が止まっちゃって。せっかくだし、復旧するまで何かおいしいものでも食べて時間をつぶそうかなって」 恋人の親友とはいえ、私と富田さんはただの知人止まりだ。にも拘わらずすらすらと状況を話してしまったことに、私は心の中で驚いていた。 富田さんは顎に手を添え、何かを考え込むように深く頷いた。 「そう。良ければご一緒しても構わないかな」 「えっ、はい。それは勿論大丈夫ですけど……」 突然の提案に、私は反射的に了承してしまう。当然ながら、富田さんと恋人を介さず話をしたのは今日が初めてだった。こんなことになるとは思わず、緊張から手汗が滲む。そして何より—— 「稲葉には私から話しておくよ」 「!」 不意に頭をよぎった恋人の名を出され、どきりとする。一応は距離を置いている最中に、恋人の親友とはいえ男とふたりで食事に行くのは少し後ろめたい。 けれどそれと同時に浮かんだのは、私とは連絡を断っているくせに富田さんとは取り合っているんだ、という黒い感情だった。 元より、富田さんと食事に行ったくらいで問題にするような狭量な人ではない。それが分かっていて反発したくなって、私はこくりと頷いた。 「お店の目星はつけているの?」 「特には。美味しそうなお店たくさんあるなぁとは思ってたんですけど」 「それなら、この辺りには少し詳しいから私が案内しよう。君が食べたいものを聞かせて」 「えっと——」 富田さんのエスコートは流れるようだった。気分でいくつか食べたいものをあげるとすぐに候補を提示され、その中で一番近くにあった店に入ることになった。 店へと到着すると、運良く席が空いていて、すぐに席へと通される。座席間の距離が広く、店内の雰囲気も落ち着いており、料理だけでなくドリンクにもこだわりが見える店だった。 初めて二人で食事をするとは思えない程に会話は澱みない。話し上手とは、まさに彼のような人のことを言うのだなと実感した。 「稲葉とは仲良くしているのかな」 「えっ……と。実は、最近連絡取ってなくて」 ふたりの共通点であるはずの恋人の名前は、最初に出て以降これまで話題に登っていなかった。 デザートで舌を冷やしていた最中、そんな風に訊ねられ、私は思わず本当のことを口にしてしまう。じくじくと胸が痛んで、蓋をしていた寂しさが溢れ出てしまいそうだ。 「ああ、ここのところ忙しそうだからね」 「……富田さんは、話してますか?」 「先週少し会ったきりだよ。周期的なものでね、忙しくなると他に気を回せないからと連絡がつかなくなるんだ。その様子だと、君にも寂しい思いをさせているのかな」 「…………」 いつの間にか、無意識に呼吸を止めていたらしい。私はどっと安堵の息を吐いた。 連絡を断っていたのは自分だけでなく、親友の彼も同様だった。嫌気がさして距離を置かれたわけではないのかもしれない。そんな考えが浮かんで、胸を縛っていた不安が解けていく。 「実は、忙しいっていうのはただの言い訳で、私と距離を置きたいのかなーとか、思ってて……」 「稲葉が? まさか。言葉が足りていなかったんだね。そんなつもりはないはずだよ」 「そうだといいんですけど」 苦笑しながら、デザートの最後のひとさじを口に運ぶ。舌を癒す甘さにつられて、一際恋人が恋しくなった。 結局富田さんには、相談に乗ってもらった挙句食事までご馳走になってしまった。何を言っても上手く躱され、「私の顔を立てると思って、ね」と押し切られてしまう。「次は私がご馳走します」と何度も念を押してから、いつの間にか復旧していた電車に乗った。 帰宅して寝る支度を整えた後、ベッドで横になっていると、ヘッドボードから延びる充電器に刺したスマホが振動した。 眠りに落ちかけていた私はその音で目を覚まし、寝転がりながらスマホに手を伸ばす。液晶には、久しく声を聞いていない恋人の名が記されていた。 応答ボタンを押すと、間を置いて聞き慣れた低音が耳に届く。それだけで目頭が熱くなって、下瞼に力を込めた。 「……もしもし」 「寝ていたのか」 「ううん、まだ。忙しいんじゃなかったの」 そのつもりはなかったのに、自然といじけた子供みたいな口調になっていた。電話越しに言葉に詰まったらしい吐息が聞こえる。それだけでしてやったりな気分になり、少しだけ溜飲が下がった。 「富田から連絡があった」 「あっ、うん。今日ご飯ご馳走してもらったの」 「そうか」 「…………」 沈黙が続く。怒気は感じないが、何か言いたげな声だ。耳を澄ませると、電話越しに規則的な足音が聞こえた。 「もしかして、まだ外?」 「ああ」 「……まさかここ最近、毎日?」 「そうだが」 壁掛け時計に目をやると、もう日付は変わってしまっていた。こんな時間まで仕事に追われるほど忙しいなら、いつも通りに接するのも難しいはずだと納得する。私は自分の浅慮な勘違いに恥ずかしくなった。 彼にとっては、急に連絡がつかなくなっては不安になるだろうと気遣っての言葉だったのだろう。それを、勝手な妄想で私が空回りしてしまっていただけで。 「お疲れ様」 「……ああ」 「あの、……忙しいのに電話してくれてありがとう」 「声が聞きたかっただけだ」 「っ……」 肝心なことは言わないくせに、こういう時だけ言葉をためらわないのがずるいと思った。 電話越しで分かるはずもないのに、赤くなった顔を隠したくて枕に顔を埋める。じっとしていられなくて、足をばたばたと上下させた。 ——好きだな。 全身がじわりと熱を持つ。指先が痺れて、シーツをぎゅっと握った。 「来週、都合は合うか」 「誰かさんが忙しいおかげで暇してるよ」 「そのまま空けておけ」 「うん」 そのあと、彼は体調は崩してないかとか、ご飯は食べてるかとか、遠方に住む親みたいなことばかり訊ねた。体調を気遣うべきはこちらだろうに、変な人だと笑う。「何がおかしい」と凄まれて、それがまた笑いを誘った。 「稲葉」 「何だ」 「えっとね、早く会いたい……」 無理なわがままを言って困らせたくなかったのに、愛おしさのあまり本心が口に出る。彼と同じように、言わずにいるよりはずっといいと思った。 「ああ、我もだ」