これはただの惚気なんだけど

現パロ

 二度目のデートの時、通りがかった書店の店頭にトラベル雑誌が並んでいた。表紙を飾る『いちご狩り特集』の文字を見て、私は何気なく「いちご狩りいいなあ」と呟いた。  本当に、心の底からいちご狩りに行きたかったわけではない。今でこそ沈黙を苦に感じることはなくなったが、この男は兎角無口だ。知り合って間もない頃の私は、沈黙を埋めようと矢鱈に口を開いていた。名前のない関係から生じる緊張感を緩めたくて零しただけの、言わばクッション代わりの独り言で、帰路に着く頃には私自身ですら言ったことをすっかり忘れてしまっていた。  しかし男——稲葉はそう捉えなかったらしい。次のデートの話になって、また誘ってくれたことに「この人思ったより私のこと気に入ってるんだな」と喜んだ直後の衝撃は、とてつもないものだった。  あの堅苦しい口調と渋くて低い声で「いちご狩りに行きたいのだったか」と稲葉は訊ねた。頬を弾けば金属音が聞こえてきそうな愛想の悪い表情は変わらぬまま、言葉だけが信じられないくらい愛くるしい。そういう冗談を使いこなすユーモアを兼ね備えた人なのかと思えば、彼は至極真剣だったようだ。考えなしに茶化したりしなかった当時の自分の判断は、賢明だったと今でも思う。  そういう経緯で、私と稲葉の三度目のデートはいちご狩りになった。  学生時代、彼が学校行事の畑仕事を嫌がっていたことは、交際が始まった後に彼の親友から聞いた。それを鑑みれば、いかに当時の彼が強い想いでデートに誘ってくれていたかが窺い知れるが、この件に触れれば不興を買うのが目に見えている。自分も人のことを言えない振る舞いに覚えがあったので、そこはお互い様と飲み込んだ。  彼が節のはっきりした太い指でかわいいいちごを摘む様子があまりに不似合いで面白かっただとか、家族で参加していた小学生の男の子に懐かれて困惑していただとか、外向きに話せるような思い出もいくつかあるが、その日のことで最も強く記憶に残っているのは、帰路での出来事だった。  いちご狩りの農園が隣県だったこともあり、行き帰りは稲葉の運転に甘えた。彼の愛車は車に詳しくない私でもこだわりが見て取れて、彼らしさが随所に散らばっている。多くを語らぬ彼の趣味嗜好が詰まった空間への立ち入りを許されたことに、喜びと照れくささを感じた。  行きこそ乗り慣れない他人の車に緊張していたものの、帰りは慣れと疲労のせいで睡魔との戦いだった。人に運転を任せて助手席で眠るわけにはいかないと必死に抵抗するも、窓から差し込む春の陽だまりと居心地の良い静けさが私を眠りへ導く。  船を漕ぐ私に、稲葉は「まだかかる。寝ていろ」と空調の向きを変えた。ドアガラスから差し込む夕日に染められたその横顔は、いつもより穏やかだ。その表情に全てを許されたような気になった私は、彼の気遣いに甘え、目を閉じた。  目を覚ました時、車は待ち合わせ場所だった私の自宅マンション付近の駐車場に止まっていた。眠る前は橙に染まっていた窓の外は、すっかり夜の帳が下りている。一体、何時間寝てしまったのだろう。私は頭が真っ白になった。  運転席の稲葉は、室内灯を付けて静かに本を読んでいた。慌てて時間を確認すると、当初の帰宅予定よりずっと遅い時間だ。移動時間から逆算しても、ここへ着いてから私が目を覚ますまで、長い時間彼を待たせていたのは間違いなかった。  平謝りする私に、稲葉は「熟睡していたな」と珍しくからかい調子で言った。起こそうとしても目を覚まさなかったのか、敢えて寝かせたままでいたのかは、何度訊ねても答えてくれなかった。  明日は互いに休みで、これといって予定はないことを会話の流れで共有し合っている。彼のことだから支障がないと判断した上で目を覚ますのを待つ選択をしたのだろうが、このまま私が起きなければ朝まで車内で過ごすつもりだったのだろうか。それは今でも疑問のままだが、肯定された時にどんな反応をすればいいのかわからないことを理由に、解消されていない。  私がドアを開けると、稲葉も車を降りた。道中寄った道の駅での購入品が入った紙袋を持ち、当然のようにマンションの前まで見送ってくれる。エントランスで礼を言って、紙袋を受け取るまでの数秒間がやけに長く感じた。好きだから付き合ってほしいという旨のことを言われたのは、このときだった。  ——この言葉を伝えるためだけに、彼は数時間待っていたのかもしれない。  その律義さに愛おしさが込み上げ、胸が苦しくなった。紙袋の紐を介して触れた指先が、やけに熱かった。吊り上がった形のいい眉が僅かに歪んで、この男にも不安に憂うことがあるのだなと他人事のように思って、体は疲れ果てているのにどうも帰り難かった。  部屋に誘おうか、少しだけ迷った。きっと彼は断って帰るだろうと思って言葉を飲み込む。「眠いから、次会った時に返事します」と言ったのは、まあ、ただの見栄だった。

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