卑猥な因習村に閉じ込められる話

[chapter:一]  平和でまったりとした本丸のおやつどき、執務室にはと、差し入れをしにきた燭台切光忠と、彼からお揚げを貰ってはぐはぐとそれを口にする管狐の姿があった。  は時の政府から送られた瓦版に目を通す。就任当初は毎度しっかりと読み込んでいたものの、今となっては変わり映えしない内容を斜め読みする程度だ。  座布団を並べ「ちょっと休憩」とゴロンと横になってそれを眺めていた彼女は、燭台切光忠に苦笑混じりに言われた「お行儀が悪いよ」の言葉を無視しながら、ぺらりと紙を一枚捲って手を止めた。 『中堅審神者向け勉強会』  その題字には見覚えがなく、新たな催しだろうかとはその下の文字に視線を移す。  新米だった頃は何かに付けて講習を受けさせられていたが、その延長線だろうか。当時は何の疑問も持たず「もう審神者になったのに講習多いなあ」と思っていたが、後になってそれは、健全な本丸運営がされているかの監査も兼ねているのだと分かった。審神者不在の間に本丸や刀剣男士の様子を探り、違反がないか管狐が調査していたのである。  現在は問題なく運営されていると認可されたようで、こんな風に召集されることも稀だ。そんな中だったから、はこの勉強会の知らせにも何が裏があると思えてならなかった。 「これって強制参加?」 「強制ではありませんが、参加を強く推奨しております。報酬も豪華ですよ」 「うわっ、ほんとだ!」  は紙面に並ぶ魅力的な報酬の数々に目を剥いた。資材や小判は勿論、入手の難しい道具まで大盤振る舞いだ。  たった一日会議室に軟禁状態で講習を受けるだけで、こんなに豪華な報酬が貰えるだなんて。そこまでして審神者を勉強会に呼びたいのだとすると、やはり益々怪しいと思わざるを得ない。しかし、は欲に逆らえず、参加に心が傾きかけていた。 「参加の際は刀剣男士を一振り伴ってくださいね。練度が高く戦闘にも慣れた刀剣男士を推奨しております」 「えっ、座学だけじゃないの?」 「簡単な実践形式の講習も行われるそうですよ」 「ふーん……。燭台切、どう?」 「僕?」  お盆を持った燭台切光忠が自分を指差す。  彼は本丸にその身を置いて長く、戦場でも厨でも活躍してくれている。条件に当てはまる上、人当たりも良く温厚だ。短気な者は数時間座りっぱなしの座学には向かないし、かといって真面目すぎるとの息が詰まる。そういう意味では、偶然この場に居合わせたとはいえ彼が適任ではないかと考えた。 「ご指名なら勿論喜んで。……でも、せっかく二人で行くなら稲葉くんを誘ってみたらどうかな」 「ぐっ……い、稲葉!?︎ な、な、なんで!?︎」  の顔が火を吹いたように赤く染まる。その様子を見て、燭台切光忠がくすくすと笑った。  と稲葉江が相思相愛の仲だというのは、この本丸周知の事実だ。何せ。お互い分かりやすいにも程がある。言葉で明確に伝えずとも、視線や態度がそれを物語っていた。  けれど、ふたりは揃って不器用な程に真面目な性分だった。歴史を守り敵を斬るためにこの身を得たのだから、色恋沙汰に現を抜かすなど言語道断と己の使命に奔走する稲葉江と、百数振りの刀剣男士を率いる責任感から、人間のために快く力を貸してくれた彼らに恋慕を抱くなどもってのほか、とその想いを切り捨てる。  似たもの同士のふたりは互いが互いを想うあまりそれが不器用に噛み合って、稲葉江はのために武功を上げ、彼女は天下の夢に少しでも近づけばと稲葉江を頻繁に戦場に送り出した。その結果、稲葉江は実力で古株にも肩を並べんとしている。  稲葉江の活躍により戦績が右肩上がりになる一方で、ふたりの関係はまるで変わらない。それどころか、時が経つごとにより頑固になっているようにも見えた。  いずれ数十年で潰える命だ。せっかくまだ若いのだからどうせならもっと娘らしい楽しみを知って欲しいと、を孫や娘のように可愛がる刀たちは思うのである。  下は百から、上は千を超える時を知る彼らにとって、は絶対的な主でありながらも、ぷにぷにもちもちした赤子みたいなものだ。それに好いた男がいるなら、それが——無骨で頑固で不器用ではあるものの一途で強さを兼ね備えた稲葉江であるならば、幸せになって欲しいと願うのが自然な心の動きだった。  相手が稲葉江でなければ結果は変わったかもしれないが、概ねそんなところでこの本丸の刀剣男士たちの意見は一致していた。燭台切光忠の言葉も、その意思によるものだ。ここに居合わせたのが彼でなくても、一部の例外を除けばほとんど同じことを言っていただろう。 「僕たちは人の身を得て長いし何度か政府の建物に行っているけど、稲葉くんはそういう機会なかなかなかっただろう? 彼も興味あるんじゃないかな」 「ええー……戦じゃないのに興味持ってくれるかなぁ」 「実践形式の講習があるなら、頼りにされたら喜ぶと思うよ」 「そうかな……?」  不安げに燭台切光忠を上目遣いで見つめる彼女を、彼は素直にかわいらしいと思った。刀剣男士から見て稲葉江のへの想いは明らかであったが、当人である彼女にはまだ伝わっていないらしい。つくづく不器用なふたりである。  稲葉江は朴念仁の気はあるが、この好意に気付かぬほどの愚鈍ではない。それで尚、こんなかわいらしい娘に思いを寄せられて手を付けずいられるのだから、まさに鋼の精神力だと燭台切光忠は素直に彼を尊敬した。  彼女を思えば、もう少し隙を見せたっていいものだが。けれど、彼がそういった性質の刀であるからこそ、本丸の信頼を勝ち得ることができたのは間違いなかった。 「……わかった。一回誘ってみる。でもその代わり、断られたら燭台切がついてきてね」 「オーケー、もちろん任せて」  断られることはまずないだろう、という燭台切光忠の読み通り、稲葉江は二つ返事で了承した。こうしてふたりは講習当日の朝、揃って本丸を出て行ったのだった。 [chapter:二]    朝から始まった講習は、最初に配られたプログラム表によると、丁度折り返し地点であるらしい。支給された弁当を食べた後のは、ホワイトボードに向かってずらりと並んだ長机の一席で眠そうにあくびを噛み殺していた。  燭台切光忠に唆され、好きな相手とふたりで一日過ごしたい、なんて下心で彼を誘っただが、稲葉江を伴に選んだことを早々に後悔していた。  ただでさえ慣れない環境の中、真面目な彼の前でだらしなく姿勢を崩したり居眠りをするわけにもいかず、加えてすぐ隣に好きな相手が座っているという緊張感で二重に疲労が重なる。今も船を漕いでは意識を取り戻し、姿勢を正すのを繰り返している。  特に昼一番のこの講習の講師は、間延びして冗長な話し方と低い声が睡眠導入に向いていた。知らない間に瞼が下りていたは、誰かに腕をつつかれた気がしてハッと目を覚ます。咄嗟に触れられた腕の方を振り向くと、驚くほどすぐそばに稲葉江の顔があった。 「八[[rb:頁 > ページ]]目だ」 「っ……、あ、ありがとう……」  が睡眠学習をしている間に項目は次へと移っていたらしい。稲葉江の助言に従って、は慌てて手元の資料のページを捲った。  間近に好きな相手の顔があったことと耳元で囁かれたことで、彼女の眠気はすっかり消え失せている。代わりに、心臓が速く脈打って騒がしい。  講師の口調も原因だが、全編通して講習の内容は初歩的なものだった。審神者ならば誰でも知っているようなことを改めてくどくどと説明されるばかりで、新米審神者向け講習に毛が生えた程度の内容だ。手引書を読み直す方がまだ有意義な時間を過ごせそうなものである。  彼女以外の審神者も同じことを考えているのか、皆退屈そうにしている。隣に控える刀剣男士の様子からも、彼女と同程度もしくは少し上の実力の審神者が集められているように見えた。今更こんなことを説いて聞かせる必要があるとは到底思えない。  長い座学を終えて、残されたのは最後の実践形式の講習だ。合間の時間に、は簡単なストレッチをして座りっぱなしで疲れた体をほぐしていた。  審神者と刀剣男士、一組ごとに別室へ呼ばれて講習を受けるようだ。最初に振られた受講番号順に呼ばれているので、彼女たちの番はまだ先のようである。 「ふぁ……疲れたぁ。実践形式って、何するんだろうね。戦うのかな?」 「審神者を伴った状態での非常時対応の訓練らしいですよ」 「えっ!?︎」  暇つぶしがてら何気なく稲葉江に問いかけたつもりだったは、思わぬところから返事が返ってきて驚いた。言葉を返したのは彼女の隣で講習を受けていた女性の審神者だ。彼女よりも少し年上に見える、美しく長い黒髪が特徴的な美女だった。  肩を跳ねさせ大仰な反応をしたを見て、長髪の女性はくすくすと人形染みた顔で笑う。連れているのが小狐丸ということもあって、どこか浮世離れしたふたり組だ。 「そうなんですか? えっと……」 「ふふ、兄も審神者をやっているから聞いたことがあるんです。妙に報酬が豪華でしょう? それはこの訓練が困難なものだからですって」 「へぇー……」  長髪の女性はの疑問をすべて見透かしたようにすべてにつらつらと答えた。  ミステリアスな容貌も相まって、はまさかこの人は人の心が読めるんだろうか? なんてファンタジーめいた想像をする。ここにいる審神者の任に就いている人間すべてが物の魂を励起させ刀剣男士として従えているというのだから、何ができたっておかしなことではない。  一日中よその審神者に囲まれていたわけだが、言葉を交わしたのはこの女性が初めてだ。碌に同業者の友人もいないは、どういった距離感で会話をすればいいのかを掴みあぐねていた。  そんなの様子を見かねてか、女性は言葉を続ける。 「なんでも、訓練は訓練でも本当に時間遡行をするみたいで」 「! じゃあ、敵との交戦も……」 「それは運次第かしら。ふふふ、でも貴方たちだったら問題なさそうね」  長髪の女性はうっとりと微笑みながらの後ろの稲葉江に目をやった。値踏みするような不躾な視線に、稲葉江の表情が険しさを増す。  けれど、女性はそれを気にも留めていないようだ。自分が降ろした以外の刀剣男士に凄まれようものなら普通の人は腰を抜かすものだが、見た目に反して肝の据わった女性だとは思った。 「……稲葉」 「案ずるな。どのような状況であろうと遅れを取るつもりはない」 「分かってる。頼りにしてるからね」  そうこうしていると、の番号が呼び出される。彼女は長髪の女性に会釈して、その場を後にした。  呼び出しをしている役員に促され、進んだ先には見慣れた転移装置があった。長髪の女性の言葉は本当のようだ。と稲葉江はふたり並んで、今度は転移装置の前にいた別の役員から説明を受ける。 「これからある時代のある村に転移して頂きます。条件を達成次第訓練は終了、自動的にこの施設へ戻るようになっています。ただし、条件を達成しない限り、一部例外を除いては戻ってこられません。転移先での時間の流れは現在に反映されませんので、時間のことはご心配なく」 「その条件って?」 「この宝玉を手にすることです」  役員の手には水晶玉のようなものがあった。パブリックイメージの占い師が持つような砲丸サイズのもので、のぞき込んだの顔を反転して映し出している。 「村のどこかにこの宝玉が隠されていますので、見つけ出して審神者が触れることで条件の達成とします」 「触るだけでいいんですか?」 「はい。指先だけでも触れることが出来れば条件は達成とします。説明は以上です。質問がなければ転移に移りますが何かありますか?」  はちらりと稲葉江の方を振り返った。  彼はに視線を落とすと、役員に「主に命の危険はあるのか」と尋ねた。役員は意外そうに目を見開いた後、「それは貴方次第です。稲葉江」と返す。その返事が気に食わなかったのか、稲葉江の眉間に深い皺が刻まれた。 「ある時代のある村、と言いましたが、我々も誰がどこに転移するかわかっていないんです。この講習に呼ばれる程度の実力のある審神者と刀剣男士であれば、問題はないと見ています」 「……なるほど。転移するまでどうなるかわからん、というわけか」 「ご納得いただけたなら、どうぞ中へ」  後にも別の審神者が控えているんだからさっさと転移してくれ、とでも言いたげに急かす役員に促されるまま、ふたりは転移装置に入り訓練の開始を待った。  どんな時代か、どんな場所かすらも知らされないままの転移に、は緊張でじっとりと手汗をかく。稲葉江の様子をちらりと窺えば、彼は平素と変わらぬ堂々とした佇まいだ。日頃戦場を駆け回っている彼にとっては、こんな訓練など取るに足らないものなのだろう。  機械音と共に転移が開始する。眩い光に包まれながら、は咄嗟に稲葉江の腕を掴んだ。 [newpage] [chapter:三]    まぶしさのあまり強く瞑った瞳を開くと、そこはもう見知らぬ場所である。  は辺りを見渡した。開けた土地だが四方を山に囲まれており、時々トンビのような鳥の鳴き声が響くばかりで人の気配はない。踏みしめられて出来た道以外は雑草が生い茂って、手入れされている様子はなかった。  てっきりどこかの村のはずれにでも転移させられるものと思っていたは、どうしたものかと稲葉江に意見を求めた。 「ここ、どこだろう。村があるって言ってたけど……」 「西方に神社と家屋が見えるな。村があるならそちらだろう」 「ええ? よく見えるね」  は目を凝らして稲葉江の指さす方向を見たが、それらしきものは見えない。が、現地での判断は稲葉江の方が向いていると判断し、は彼の言葉に従うことにした。 「よし、行ってみよう」 「距離があるが歩けるか」 「大丈夫、任せて」  山が近いせいか上り坂が多く、村が見える頃にははすっかり息が上がっていた。歩幅を彼女に合わせていた稲葉江の顔には疲れは見えない。  彼の見立て通り西方には村があり、そこまではの足で一時間強を要した。人通りのなかった道は村が近付くにつれ人とすれ違う機会が増えていく。小さな村だが、行き交う人々は活気があるように見えた。 「お二人さん、見ない顔だね。もしかして祭りに参加しに来たのか?」  きょろきょろと物珍し気に辺りを見渡しながら歩くが目についたのだろうか。快活な青年がふたりに声をかけた。 「この近辺で祭りがあるのか」 「なんだ、知らないで来たのか? そりゃ勿体ない! 時間があるならぜひ見てってくれよ。うちの村で年に一度の盛大な祭りなんだから」  男は村の住民であった。男曰く、村では今日から三日間に渡る、大きな祭りが開かれるらしい。今はその準備の真っ最中とのことである。  そんな忙しい中訪ねるのは邪魔になるのではと稲葉江が問うと、男は首を横に振った。 「うちの祭りはよそ者大歓迎なんだ。村の連中も喜ぶよ。なんなら、俺が村長のところまで案内しようか」  と稲葉江は顔を見合わせる。未だ未知の土地、警戒するに越したことはないが、宝玉のありかの手掛かりが一切掴めていない以上、まずは村について知る必要がある。  の所感では、男に怪しい点はない。ただの気のいい青年に見えた。は頷き、ふたりは彼の後をついていくことにした。 「頼めるか。[[rb:忝 > かたじけな]]い」 「いいって、気にすんな。あんたら、[[rb:夫婦 > めおと]]だろう?」 「えっ!」  これまで男との会話を稲葉江に任せきりにしていたは、彼の言葉に反射的に声を上げた。男は意外そうに「違うのかい?」と首を傾ける。がしまった、と口を噤むと、稲葉江が「そうだ。祝言を挙げたばかりだが」彼女の肩を抱き寄せた。は顔を真っ赤にして、激しく頷く。男はの反応をただの初心な娘だと疑わなかったようで、「そっか、初々しいなぁ!」と笑った。  男に連れられるまま、ふたりは村へ足を踏み入れた。山を切り開くような形で家屋が立ち並んでいる。村民総出で祭り準備に取り掛かっているようで、今はまさに仕上げの真っ最中だ。梯子に登って装飾を仕上げる男や祭りの道具を抱えて運ぶ女など、皆忙しなく働いていた。  その間を抜けて先を進み、石階段や坂をいくつか上がった先、男が案内したのは村で一番立派な建物だ。塀で囲まれたそれは村を一望できる高い場所にあって、すぐ側には祭りの中心地となっている神社がある。稲葉江が見た家屋とはこれのことだろう。大仰な門に取り付けられた看板には『詰所』と書かれていた。 「すごい、旅館みたい」 「まあ、遠からずかな。客人はここに泊まることになってんだ。ちょっと待っててくれ、村長に話をしてくるよ」  男が先に詰所の中へと入り、と稲葉江は門の前に取り残された。祭りの準備作業をしている村人の不思議そうな視線がふたりの背中に突き刺さる。  が稲葉江の顔を見上げると、彼はバツが悪そうに口を開いた。 「……夫婦を騙ったのはそちらの方が都合がいいと判断したまでだ。夫婦でもない男女が二人で旅をしていては不審がられかねん」 「えっ?」 「不本意だろうが許せ」  特に深い意味があって見上げたわけではなかったが、稲葉江はの視線を勝手に夫婦を名乗ったことに対しての苦情と捉えたらしい。惚れた男と偽りとはいえ一時的に夫婦として振る舞うことに何の不満があろうか。は先ほど肩を抱かれたことを思い出し、ぽっと頬を赤く染めた。 「あっ……違うよ。嫌だったわけじゃなくて、びっくりしちゃっただけ。私こそごめんね、大袈裟に動揺しちゃって」  の返事を聞いて、稲葉江はそっぽを向いた。素気無いその反応に、は不本意なのはそちらでは、と胸を痛める。  一度夫婦と名乗ってしまった以上、この村ではそれで押し通すしかない。それらしく振る舞った方がいいかとは半歩稲葉江と距離を縮めた。 「おふたりさん、待たせたな。入っとくれ!」  丁度その頃、男が建物の中から戻ってきた。が稲葉江にアイコンタクトを送ると、彼はの手を握り、「行くぞ」と小さく呟く。はまた赤面してしまいそうになりながら、「これは演技、夫婦のふり!」と心の中で自分に言い聞かせた。  男に案内された先には村長を名乗る老人がいた。人の良さそうな笑みを浮かべ、と稲葉江を歓迎する。村長はふたりが夫婦と知ると、祭りの間はこの村にぜひ留まって楽しんでいって欲しいと言った。その間の宿もこちらで用意する、とまで。  祭りで浮かれているとはいえ、ここまで客人を手厚くもてなすものだろうか。些か不審なほどの待遇に、この村には何かある、と思わずにはいられない。まさかよそ者を儀式の生贄として神に捧げるのでは、なんて物騒な妄想まで広がってしまい、はひとりで身震いした。  村長は祭りの準備があるとのことで、村の案内は村長の孫娘へと託された。孫娘はちよという名前で、より少し若い小柄で可愛らしい女性だ。  ちよに連れられて村を歩く頃には、もう祭りの飾り付けはほとんど完成して、あとは暗くなるのを待つばかりであった。祭りが始まるのが待ちきれないと言わんばかりに境内を子供たちが走り回っている。彼らは見慣れぬふたりに気付いて、不思議そうに凝視した。 「おちよさん、このひとたちは?」 「おそとさまよ。挨拶して」 「おそとさま、よくいらっしゃいました」  子供達は予め教えられたかのような格式張った挨拶をした。おそとさま、と聞き慣れない呼び名で呼ばれ、は狼狽える。どうすべきかわからず彼らがしたように頭を下げて挨拶を返すと、子供達は満足したと言わんばかりに駆けていった。 「素性も知れぬ客人を随分と手厚く歓迎するのだな、この村は」 「うふふ。おそとさまですから」 「あの、そのおそとさま……ってなんですか?」  さっきから気になっていた不思議な呼称についてが訊ねると、ちよは快く説明してくれた。 「よそからのお客様のことです。この村は[[rb:山間 > やまあい]]にあるから、滅多にお客様がいらっしゃいませんの。だからその分、もしいらっしゃった際は丁寧におもてなしをする習わしで。古くからそういう言い伝えがあるんです」 「言い伝え……?」 「なんでも、ずっと昔にこの村が滅びかけた時、外から数年ぶりに旅の方がいらっしゃったんです。村人も病で減ってしまって食べ物もほとんど残っていなかったけれど、せっかく来てくださったからって村長がおもてなししたの。そうしたら、不思議とそこから復興していって」  日が暮れて、提灯に明かりが灯される。すると、村中が一気に幻想的な空気に包まれ、その絶景には息を呑んだ。 「旅の方への感謝を忘れないために、その方がいらっしゃったこの日は毎年盛大にお祝いするの。だからお祭りの間にいらっしゃったお客様——おそとさまは、特に丁重におもてなしするのよ。村の繁栄を祈ってね」  つまりは、古より伝わる言い伝えに倣ってたちは暖かく迎えられているわけである。油断させた隙をついて生贄としてその身を捧げようと思っているわけではない——と一旦納得し、はほっと胸を撫で下ろす。 「じゃあ私たちは都合のいい時期に来たんですね」 「ふふ、そうですね。私たちにとっても大事なことだから、どうかゆっくりとこの村を楽しんでいってくださいね」 「我々以外にも客人はいるのか」 「あぁ……、私はまだ会っていないんですけれど、たしか男のおそとさまがもう一人いらっしゃってるって。あ、あの方かしら?」  ちよが視線をやった先には、確かに一人浮いた装いの男がいた。彼もと稲葉江と同じ、[[rb:よそ者 > おそとさま]]であるようだ。男は村の若い女に取り囲まれ、満更でもない様子である。ちよをはじめとして、この村の娘は皆別嬪揃いだ。男が鼻の下を伸ばすのも無理のないことだった。 「すごい、女の子に囲まれてる」 「うふふ、やっぱりおそとさまは物珍しいもの。村の女はみんな気になっちゃうわ」  ちよの視線が意味深に稲葉江に向けられる。それを目にして、の胸が苦しくなった。今は夫婦として振る舞っているが、そうでなければあの男のように美女たちが稲葉江を取り囲んでいたのだろうか。いやな想像に、の表情が暗くなる。 「そろそろ詰所の方へ戻りましょうか。屋台もいろいろ出ているから、是非お二人で見て回って」 「ありがとうございます。おちよさん」  ちよが愛らしく微笑む。村人の男性が「おちよ、ちょっと来てくれ!」と彼女を手招きした。その場を離れようとするちよを見送ろうとして、はふとあることを思い出し、彼女を呼び止めた。 「あの、すみません。最後に一つ聞きたいんですけど」 「あら、なあに?」 「このくらいの大きさの……水晶玉、で通じるのかな。丸い透明の珠、見たことありませんか?」  村のことに気を取られ、肝心の宝玉のありかを探り忘れていたことを思い出し、は思い切って問いかける。役員が持っていた宝玉のサイズを手で表すと、ちよは少し考え込んだ後、「ああ!」と大袈裟に声を上げた。 「もしかして、神事の道具のことかしら」 「神事の?」 「ええ。このお祭りの2日目の夜から朝にかけてね、儀式を行うんです。その中の道具にそのくらいの珠があったかもしれないわ。私は儀式のお役目を務めたことがないから、本物は見たことないけれど」  は思わず稲葉江の方を振り向いた。恐らく、それこそが宝玉だろう。やっと一つ手がかりを掴んだと、彼女の表情が明るくなる。 「そ、それ! 見せてもらったりって……」 「んー、どうかしらね。神事以外で外に出すことはないから、難しいと思いますけど」 「で、ですよね……」  年に一度のお祭りの重要な儀式で使うものだ。よそ者がこうも持て囃される村とはいえ、そう易々と触れさせるはずがない。はがっくりと肩を落とす。 「あっ、でも一つだけ方法が」 「なんですか!?︎」  顔を上げたに、ちよは妖艶な笑みを浮かべた。勿体ぶるようなその表情に焦らされた気分になりながら、は続きの言葉を待った。 「……うふふ、神事の——儀式お役目を担うんです。そうしたらきっと見れますわ」 「儀式のお役目……? でもそんな、よそ者の私たちができるわけ」 「いいえ、おそとさまですもの。むしろ、お役目を務めたいと申し出て頂ければ村長はきっと喜ぶわ」 「……?」  こういった神事や儀式の役目とは、得てして栄誉あるものだ。それをよそ者にやらせるだなんて、なかなか聞かない話である。やっぱり血生臭い秘密があるのでは、との背筋に冷たい汗が伝った。 「ああでも、まずは今日を楽しんでもらわなくちゃね。義式のお役目を誰が務めるかはまだ決まっていないの。今夜一晩、ゆっくり考えてみて」  考えるも何も、他に珠に近付く方法がない以上、義式の役目に立候補するしかない。しかし、得体のしれない儀式を無策に行うわけにもいかない。  よそ者——おそとさまが優遇される儀式とは一体なんなのか。そしてその内容とは。の胸に不安と疑問を残したまま、ちよは去っていった。 [newpage] [chapter:四]    祭り自体は別段変わったところのない、賑やかなものだった。強いて言えば、他と違うのはおそとさまだと気付かれると例の挨拶をされることだろうか。けれどそれも悪い気はしないため、彼女は気に留めなかった。  この時代よりあとの世を生きる彼女にも馴染みのある屋台も多く、訓練だと分かっていながらも楽しげな空気につい釣られて、はつい浮かれた。こうして祭りに参加すること自体が彼女にとっては数年ぶりのことだ。そんなの身の上を知ってか、稲葉江ははしゃぐ彼女を咎めたりはせず、ただ見守っていた。    境内の舞台での舞を観た後、と稲葉江は詰所の客室へと案内された。簡素だが二人眠るには十分な広さである。腰を下ろすと一日の疲れがどっと出て、は今にも眠ってしまいそうだった。疲労困憊の彼女を見て、案内役のちよが「湯浴みになさいますか?」と尋ねる。 「お風呂あるんですか?」 「ええ。祭りの間、村の若い者は神社のそばの温泉で身を清めることになっているんです。よかったら」  温泉の言葉にの瞳が煌めく。祭りを楽しみ屋台でお腹を膨らませ、美しい舞を見た後に温泉で体を癒すだなんて、至れり尽くせりだ。本丸でも長湯がちの稲葉江もこれには喜ぶだろう、とは彼を見上げたが、存外彼の表情は険しいものだった。 「尋ねるが、まさか混浴ではないだろうな」 「あら、残念だけど男女別ですよ」 「稲葉、混浴が良かったの?」 「逆だ」 「うふふ、旦那様は奥様を他の方に見られるのが嫌なのね」  稲葉江の問いを妻への独占欲と捉えたらしいちよは、微笑まし気にくすくすと笑った。  確かに、昔の銭湯は混浴が常識だったなんて話も聞く。長らく刀剣男士と暮らした結果、男の裸は見慣れているが、自身の体を稲葉江に見られる覚悟はない。夫婦を名乗っているのに風呂で裸を恥じらっていては不審がられるだろう。は事前に知れて良かった、と安堵した。 「そうだ。湯浴みのあと、ささやかな酒宴があるんです。よかったらいらっしゃいませんか?」  酒を酌み交わすことは、今の世を生きる彼女が思う以上にこの時代では意味のあるものだと聞く。せっかくここまでもてなされているのだから参加すべきだが、さすがに日中座りっぱなしで講義を受けた上に一時間歩き通し、祭りを楽しんだ体は疲労困憊であった。  散々はしゃいだ後で説得力もないが、一応は訓練の真っ最中で、酒を飲むのには抵抗がある。せっかくの誘いだが、は辞退することにした。 「えっと……ごめんなさい。今日は疲れているから遠慮しようかな。稲葉は?」 「我も今宵は身を休めよう」 「あら残念だわ。じゃあ、湯へご案内しますね」  温泉があるとはいえ、湯治で栄えた観光地には見えない。どんなものかなとあまり期待していなかっただが、そこは立派な露天風呂だった。自然が剥き出しでかなり開放的ではあるものの見晴らしが良く、燻る湯気越しの絶景にはつい声を上げた。  風呂場には以外にも数名女性がいた。若い者は、とちよが言っていただけあり、皆と近い年頃であろうことが窺える。  彼女たちはおそとさまであるに興味津々らしく、遠慮のない視線を注いだ。がそれを気にしないようにしつつ湯船の淵に寄りかかりながら浸かっていると、そのうちの一人が近づいて来た。  はつい、彼女の露わになった豊満な胸に目がいった。の時代ほど容易く食料が手に入るわけでもないだろうに、どこでそんな栄養を蓄えたのか。は彼女と比べると慎ましやかとしか言いようのない自分の胸元と見比べる。おっきいおっぱいってお風呂で浮くんだ、と彼女は場違いに新たな発見をしていた。  女は例の挨拶もそこそこにとの距離を縮めると、「あなたの旦那様、ずいぶんいい男よね」と妖しげな声で囁く。リラックスしていたせいで設定を忘れかけたは、旦那様と稲葉江が結び付かず一瞬呆けたが、すぐに彼のことを褒められているのだと気付き、取り繕った。 「ああ、あはは、そう……ですね。私にはもったいないくらいのいい夫です……」 「顔も身体もたまんないわ、きっとそっちもご立派なんでしょうね。ねぇ、どうなの?」 「えっ?」  初心な生娘であるだが、こうも下品な言い回しをされれば流石に意味を理解する。彼女の問いの意味より先に、なぜこんなことを聞いてくるのか? と疑問を抱いた。他人の性事情を詮索する意図が分からなかったのだ。今は擬似夫婦であり彼女の片想いの相手だが、それ以前に自身の[[rb:所有物 > 持ち刀]]だ。下卑た目で見られていい気はしない。 「あの、そういうお話はちょっと」 「ふうん。慎ましやかなのね」  ——私が慎ましやかなのではなくあなたが大胆すぎるのでは?  勝手に古い時代の女性はもっと奥ゆかしいものだと思っていたは、彼女の明け透けな言動に面食らった。確かに武人なんかは性に奔放だったと聞くが、この時代、この地域では村人も彼女のように大らかな意識が一般的なのだろうか。  返事に困窮したがぐっと黙り込むと、女はこれ以上面白い話は聞けないと判断したのか、あっさりと引き下がった。 「じゃあ……旦那のどこに惚れたの?」 「ど、どこに!?︎」  だが、まだ話は続ける気であるらしい。先ほどのように女をあしらえば良かったものの、心から稲葉江を好いていた彼女は、動揺のあまり彼女の問いに正直に向き合ってしまっていた。  稲葉江という男の好きな部分は枚挙にいとまがない。顔や体つきなど容姿は勿論のこと、生真面目で律儀な性分と頑固で夢に一途なところ、不愛想で取っつきにくそうに思われるが、視野が広く意外にも他人をよく見ているところ。心が折れそうになった時、言葉少なくも励ましてくれた優しさ。自分に厳しいからこそ、他人の努力を認められるところ。  語り始めれば何時間だって話せたが、彼女が尋ねているのは〝どこが〟好きかではなく、〝どこに〟惚れたかだ。長い時間をかけて彼にゆっくりと惹かれていった自覚があるが、決め手となったのは何だろう。  の頭に、ふとある景色が過る。稲葉江が顕現して、季節が一巡した春。険しく勇ましい彼がふと見せた、美しい花の散りざまに目を細める姿。  ——そうだ、あの日。あの春の日に、私は。  つい目を奪われたその一瞬を、恋に落ちた瞬間を、は今でも鮮明に思い出すことが出来た。 「美しいものを愛でる心、ですかね……」 「ふぅん?」  恥じらいながら答えたに対して、女の返事は素っ気ない。期待外れの詩的な回答はお気に召さなかったのだろう。は女との間の温度差が気まずくて、湯の中でちゃぷちゃぷと手を擦り合わせた。 「あーあ、せっかくなら貴方の旦那様みたいな男がひとりで来てくださればよかったのに。それとも、味見しちゃおうかしら?」 「あ、味見……?」 「ふふ、冗談よ」  は聞き捨てならないことを言われた気がして、女性に視線をやった。女の豊かな胸が揺れると共に湯の表面が波打って波紋が広がる。女は笑ったが、どうにものことをからかっているだけのようには見えなかった。 「まぁ、私は冗談だけど他の子はどうかしらね」 「どういうことですか?」 「ほらぁ、ここって人の出入りがないって聞いたでしょ? だからいい男に会う機会も少ないの。もし気に入った男を見つけたら、絶対逃がさない。たとえ……他人の物でもね」  女の言葉に、は嫌でも想像を掻き立てられた。例のおそとさまがされていたように、若くて美しい女性に纏わりつかれる稲葉江の姿。それだけでは飽き足らず、彼女の頭は勝手に稲葉江と見知らぬ女が寝床で乱れる姿を思い描いてしまう。は、思わずザパンと大きな水音を立てて立ち上がった。 「……上がります」 「そう。足元気を付けてね」    慌てて風呂からあがると、稲葉江は律儀に女湯の外で待っていた。時計もなく湯を上がる時間を示し合わせるのは難しいと判断して各々客室へ戻る算段だったはずだが、どういう風の吹き回しだろうか。  しかし、が気になったのはそこではない。壁に背を預けた稲葉江は、湯上がりらしい女にべたべたと体を触られながら絡まれていた。甘い声色を耳にすれば、女がどのような意図をもって話しかけているのかを嫌でも理解する。 「……話はもういいな。妻が戻った。我は行く」 「やだ、本当につれない人」  稲葉江はに気付くと、女の手を振り払った。あしらわれた女は振り返ってを一瞥すると、つまらなそうに足早に去っていく。女の背を目で追いながら呆然と立ち尽くしたに、稲葉江が近付いた。 「稲葉。いまの女の人、誰……?」 「知らん。村の女だ。それより、我と離れてから村の人間と話したか」 「お風呂で女の人と喋ったけど」 「男に声はかけられなかったか」  稲葉江と離れてから、と言っても、稲葉江とは風呂の前で別れ、風呂の前でこうして合流している。女湯に男が入ってこない限りあり得ないわけだが、何を心配しているのだろう。が「男の人には会ってない」と答えると、稲葉江は安心したように気を緩ませた。 「ならば良い。言うまでもないが、我の傍を離れるな」 「う、うん。あのね、稲葉」 「なんだ」  ——せっかくなら貴方の旦那様みたいな男がひとりで来てくださればよかったのに。それとも、味見しちゃおうかしら?  浴場での女との話を思い出し、口を噤む。さっきの女も、恐らくは〝味見〟目当てだ。  こんな状況で稲葉江が主である自分以外を優先し、私欲に溺れるはずがないとは分かっているものの、どうしてもいい気はしない。それどころか、訓練中でなければ稲葉江はあの女の誘いに乗ったのだろうか——なんて、下らぬ『もしも』を空想してしまう。狭量で浅はかな考えに、は自己嫌悪した。  と稲葉江は今でこそ夫婦として接しているが、実情はただの主従だ。稲葉江が誰と夜を過ごそうと、口を挟む余地はない。 「……なんでもない」 「言いたい事があるならばはっきりしろ」 「なんでもないってば! 早く戻ろう、疲れちゃった」  は稲葉江を催促し、ふたりは客室へと戻った。  当然のように、部屋には二組の布団が並べて敷かれていた。夫婦の寝床なのだからそうして然るべきだが、はそれを目にし、これからこの男と一夜を過ごすのだと改めて認識させられ硬直した。  ぴったりと寄り添うように揃えられた敷布団の端を摘み、は気まずそうに訊ねる。 「稲葉、これさ……離す?」 「好きにしろ」 「…………」  稲葉江から離してくれと言わせたいがための問いだったが、彼女の策は不発に終わった。こちらは稲葉江の一挙一動にどぎまぎしているというのに、相手はが隣で眠っていてもなんら問題ないと言わんばかりの態度だ。自分ばかりが動揺させられているのが腹立たしくて仕方がなかった。  不満を抱いた彼女は、拗ねた子供のような態度で、「あっそ。じゃあこのままでいいや」とさっさと布団に入ってしまった。  主とはいえ女である自分が湯上がりで無防備な姿を晒しているというのに、ここまで動じないのは如何なものか。プライドが傷つけられると共に、こういったお堅い一面が好きなのだと彼女は恋心を再認識する。  恥ずかしくなったは、掛け布団を頭まで被った。心身ともに疲れ果てて、ふかふかの布団に包まれたは、あっという間に眠りに落ちた。 [newpage] [chapter:五]   「あぁんっ!」 「ッ……!?︎」  ——が眠りに就いてから、どれほどの時が経っただろうか。突如耳をつんざくその大声には目を覚まし、がばりと勢いよく体を起こした。  真っ暗な部屋の中、次第に目が闇に慣れ始める。隣で眠っていたはずの稲葉江は、布団の上に胡座をかいていた。 「目覚めたか」 「な、なに、今の声。悲鳴?」  寝ぼけ眼でも、今の声の主が尋常でない状態であることがわかった。何か事件でも起きたのではないか——動揺するを前に、稲葉江はふいと視線を逸らす。一体何があったのかと状況を把握しようと感覚を鋭くした彼女の耳に、再びその声が届いた。 「ああんっ! イイっ、そこっ! もっと突いてぇっ」 「なっ、な、な、なん……!?︎」  声の出所が隣の部屋であること、そしてそれが女の喘ぎ声であることに気付くと、は顔を紅潮させた。に問われて言葉を返せずにいた稲葉江の心中を察し、彼女も口を閉ざす。  隣の部屋に宿泊しているのは、例のおそとさまの男性だ。村の女に取り囲まれて大層いい思いをしていたようだが、まさか、そういうもてなしまで受けているというのだろうか。  暗闇で視覚が鈍い分を補うように鋭敏になった聴覚は、次第に余計な音まで拾い始める。薄い壁越しに、女の派手な喘ぎ声だけでなく肉同士がぶつかり合う音まで聞こえてくる始末だ。誤解のしようもないほどに、情事の真っ最中だった。  他人のプライベートを盗み聞く後ろめたさもありながら、それ以上に深夜の騒音として耳障りだ。かといって部屋に殴り込んで文句を言えるほどの度胸もは持ち合わせておらず、この場をやり過ごすほかないようである。 「……流石にこれでは眠れぬな」 「うう……」 「外へ出るか。時が経てば収まるだろう」  こんな事態でも稲葉江は冷静さを失わない。は稲葉江の提案に乗り、布団から這い出て立ち上がった。    夜目の利く稲葉江の先導でふたりは部屋を抜け出す。廊下に出ると、部屋の障子には行燈の光によって男女のシルエットが映し出されていた。  どうやら、情事に耽っているのは例のおそとさまだけではないようだ。いくつかある客室には村人が何人か泊まっているらしく、そのどこでも行為が行われている。そして部屋にいるのは男女一組に留まらないようで、声や障子に映る姿から複数人が一度にまぐわっている様子が明らかな部屋もあった。  日中に案内された時はものの数秒で抜けたはずの廊下が、果てしなく長く感じる。暗闇の中ではぐれまいと、心細さからは稲葉江の浴衣の裾を掴んでいたが、それすらも心許ない。しかし、うっかり肌に触れた日には妙な気を起こしてしまいそうで、手を掴むのは躊躇われた。  詰所を出ると、外の空気はじめじめと湿っていた。緊張から汗をかき、浴衣が体に張り付く感覚が気持ち悪い。は少しでもその不快さを和らげようと、襟をぱたぱたと仰いで空気を胸元に取り入れた。  あれほど賑やかだった村は静まり返って、どこか不気味である。眠気がすっかり吹き飛んでしまったふたりは、辺りを散策することにした。  誰かが転がしていた下駄を拝借し、詰所の周りをぐるりと一周する。草むらから聞こえる虫の鳴き声に重なって、まだ鼓膜の奥に卑猥な喘ぎ声が残っている気がした。  神社の方面まで来ると、空が開けているからか月が不思議なほどに明るい。鳥居越しに見る月は、この世のものとは思えぬほどに大きく見えた。 「待て」 「えっ、あ」  突如、先に進もうとしたの腕を、稲葉江が強く引く。何があったかと訊ねる前に彼の大きな手で口を塞がれ、背後から抱きしめられるような形で拘束された。  稲葉江は植物の影に隠れ、息を潜める。突然距離を縮められた事に驚いて、の心臓がどくどくと早鐘を打った。 「稲葉、急に——」 「静かにしろ」 「……っ!」  耳たぶに稲葉江の吐息を感じるほどの距離、彼の低い声色でそう囁かれ、は静かに頷く。理由は不明だが、身を潜めなければならぬ状況だと把握した。「わかったから身体を解放してくれ」と無言で念じるも、稲葉江に彼女のそんな思いは伝わらない。  あんな妙な音を聞かされた後に好いた男とこれほどまでにぴったりと密着して、その上耳元で囁かれて。正気でいられるはずがなかった。は心臓の鼓動の速さに気付かれるのではないかと、胸元にじっとり汗をかいた。  息を潜めていると、男女の会話が耳に入る。こんな時間から逢引きだろうか、彼らはこちらに近付いて来ているようだ。どこか甘ったるい声色に、はまた嫌な気配を察知する。  男女はと稲葉江が隠れている場所のすぐ側で立ち止まると、舌を絡めて口付けし始めた。囁き合う言葉は不明瞭だが、淫らな水音だけがはっきりとの耳に届く。息遣いすら感じられそうなほどに情熱的な交わりだった。  ふと人影が動いて、陰に隠れていた男女の顔がの視界に映る。女は、ちよだった。予想外に見知った顔がそこにあったことで、は思わずハッと息を呑む。 「………!」  ちよは土で汚れることも気にせず地面に膝をついて、男の股座を弄り男性器を下穿きから取りだす。そうして手で扱いて勃起させてから、舌を這わせた。  手慣れた動きだ。まるで何度も繰り返し、そうするのが当たり前のようにちよは男に奉仕をしている。はその卑猥な光景から目を離せなくなった。  男は性器を咥えさせるだけでは飽き足らず、ちよの浴衣の上をはだけさせ、胸に手を伸ばした。先っぽをいじってやると、ちよの喉からくぐもった喘ぎ声が漏れる。日中、恭しく村を案内してくれた可憐な彼女とは似ても似つかない淫らな声に、は頭がおかしくなりそうだった。 「っ、おちよ、お前最高だ……良いよ……」 「んっ、そんなこと言って、あなたおそとさまを見てたじゃない……」 「そりゃあ、見るだろ。この村の女と違って清楚な女だったな。あれをあの男は好きにしてんだろ? 羨ましいよ」  彼らが指して言ったおそとさまが自身のことであると理解した彼女は、全身の血が沸騰したかのように体が熱くなった。  下卑た目で見られていたのは、稲葉江だけでなく彼女も同じことであった。人の世を離れ本丸暮らしの長い彼女は、無遠慮で下劣な視線に晒される機会に乏しい。まさかそういった好奇の眼差しで見られているとは思いもしなかったのである。 「旦那の方がおっかねえったらありゃしない。声かける隙すら作らねえ。見てるだけで睨まれちまったよ」 「ふふ、あの二人、本当にお熱いわよねえ……」  背後すぐそばで歯が軋む音がする。稲葉江だ。彼もまたがそうであったように、主が愚弄されていることが許し難いようだった。  漏れ出た殺気を抑えようと、はぽんぽんと自らの口を塞ぐ手を叩く。外して、の意思表示だ。  稲葉江がの口元を開放すると、彼女は顔を上げて首だけで背後を振り返った。[[rb:厳 > いかめ]]しいその顔に、唇の動きだけで「大丈夫」と伝える。  大丈夫もなにもないのだが、このままではのために怒り狂い、今にも刃で斬りかかりかねない勢いだ。稲葉江はそれで多少落ち着きを取り戻したようで、息を吐いて小さく頷く。  それよりも、はいち早く彼女に注がれる視線に気付きそれから守ってくれていた稲葉江の心が嬉しくてたまらなかった。彼からしてみれば主を如何なる災難からも護り通すのは任務の内に過ぎず、当然のことだとしても、〝妻〟として庇護されたのだと思うと喜びで胸が締め付けられる。彼女の心臓は、先ほどまでと違った理由でとくとくと鼓動を速めた。  しかし、そうときめいていられる状況ではない。男女の吐息と喘ぎ声混じりの下衆な会話は、互いを愛撫し合いながらも続いた。 「お前こそ、旦那の方を見て物欲しそうな顔してたじゃないか」 「そりゃ、あんないい男だもの。ん、でもダメね、他の子も声をかけたと言ってたけど、奥様以外にまるで興味を示さないみたい」  は湯上がりに稲葉江に絡んでいた女のことを思い出す。あれ以外にも、の目の届かぬ場所で稲葉江はアプローチを掛けられていたのかもしれない。  は改めて、夫婦と名乗っておいて良かった、と稲葉江の機転に感謝した。あれがなければ、今頃互いにどうなっていたか分からない。  いつの間にか、男はちよの股を貫いていた。神社の大木に手をついて突き出されたちよの尻に男は腰を打ちつける。パンッパンッと規則的に肌がぶつかり合う音が響いていた。  この異常な光景を見慣れてしまったは、神様の前で罰当たりなことをするものだ、とぼんやりと思った。もはや他者の性交を目の当たりにして感慨などありはしない。  結局、二人のまぐわいが終わるまで、と稲葉江は心を殺してそこに潜んでいた。男女の姿が消え外が白んだ頃、ようやく部屋へ戻るとさすがに詰所の中は静かだ。と稲葉江は一言も口を聞かぬまま、再び布団に潜った。 [newpage] [chapter:六]  が目を覚ました頃には、もう日が高くなっていた。  稲葉江は既に身支度を済ませて、村の住民が気を利かせて用意してくれた着物に身を包んでいる。いつもの整髪料がないせいか、波がかった髪を後ろへと撫でつけた髪型だ。普段と印象の違う稲葉江の容姿に、はついうっとりと見惚れそうになってしまった。  彼女も用意された着物に袖を通す。普段和装に身を包む習慣のない彼女だが、いざという時のためにと篭手切江から着付けを習っていたことが幸いし、人の手を借りずに着替えを済ませることができた。  外へ出ると、昨晩の卑猥な光景が嘘のように平和な村の光景が広がっていた。  すれ違う人々は、当たり前の顔をして祭りの二日目の準備に取り掛かっている。昨晩目を覚まさなければ、この村の異常な一面に気付くことはなかっただろう。たった一晩過ごしただけだというのに、昨日とまるで変わらぬこの光景が全く違った印象を抱かせた。 「こんにちは。昨夜は楽しめまして?」 「っ……おちよ、さん」  の脳裏に昨夜のちよの姿が浮かぶ。彼らが事に及んでいた大樹は目と鼻の先だ。彼女は平静を取り繕い、「ぐっすりでした」と返した。  ちよは少し面食らった様子で、それからあははと声を立てて笑う。「よく眠れたのならよかったわ」という言葉は、清廉なを嘲笑しているように聞こえた。  と稲葉江は用意された食事を取り、客室へと戻って作戦会議をすることにした。  今わかっているのは、宝玉が神事の道具であり、それに近付くためには神事に参加しなくてはならないということ。そしてこの村は、どこかおかしいのだということだ。  の想像する神事は舞や祝詞で神への信仰を表すものだが、この村における儀式とやらがそれらと同一であると判断するにはこの村はあまりにも異常であった。若い村民の貞操観念がイカれているだけならまだいいが、この祭りの由来がおそとさまであること、そしておそとさまに向けられる下品な視線を考えると、楽観的に構えてはいられない。軽率に儀式に参加すると言ったが最後、とんでもない目に合わされるのではないか、と憂慮していた。 「この村の言い伝えに関してだが、一つの仮説を立てた」 「仮説?」  座布団に座った稲葉江が口を開く。 「おそとさま——それがよそ者であることは間違いない。だが、村の繁栄が盛り返したのは何も伝説めいた話……人智を超えた理由ではない。おそとさまはただの人間だ」 「どういうこと?」 「この村は人の出入りに乏しい。長い間閉鎖的な環境で子孫存続を繰り返すうちに血が濃くなり、特定の病に対する免疫が著しく下がった結果、人口が減って村が衰退したのだろう。よそ者をもてなせ、とは村の外の血を受け入れろという意味だ。新しい血を入れ人口を増やし、この村は再び栄えた——というのが我の見立てだ」 「…………」  つまりこの言い伝えは、再び村が滅びぬための教訓めいたものである。それが長く語り継がれるうちに捻じ曲がり、いつの間にかこの村は性に奔放になり、祭りの夜は男女が入り乱れまぐわい合うと伝承が変化した——それが稲葉江の推測だ。一見馬鹿みたいな話だが、筋は通っている。は稲葉江の仮定がそう事実と遠からぬものであると納得した。  ——ならば、その仮定から導き出される儀式の内容とは。 「じゃ、じゃあ儀式って……」 「十中八九、低俗な内容だろうな」 「ど、どうしよう……」 「いざとなれば実力行使するしかあるまい」 「実力行使って」  ふたりが話し合う最中、部屋の外から誰かが呼ぶ声が聞こえる。稲葉江とはそちらに耳を傾けた。  どうやら、声の主は稲葉江に用があるらしい。彼が障子を開けると、そこには村の男がいた。昨晩の祭りで、屋台をやっていた男だ。夫婦の仲をしつこく冷やかされたため、その顔はふたりの印象に残っていた。 「旦那、旦那! あんたを見かねて頼みがあるんだが、ちょっと力貸してもらえねえか」 「我か」 「本来はおそとさまに頼むようなことじゃないんだが、男手が必要で……頼む! あんた、見たところ腕っぷしには自信あるんだろう?」  祭りの設営中にトラブルが起きたらしく、男は力仕事の手伝いを探していた。恰幅のいい稲葉江ならばと声を掛けに来たそうだ。  稲葉江は視線でに伺いを立てた。昨夜の件もあって、の傍を離れることを躊躇している様子である。 「いいよ。お世話になってるし、お礼と思って手伝ってあげて」 「だが」 「私は大丈夫。その間に村の女の人に儀式のことを聞いてくるから。男の人が全部そっち手伝ってるなら平気だと思う」  が小声でそう囁けば、稲葉江は短く考え込む。最終的には「承知した」と頷き、男に付いていくことにした。    取り残されたは、ひとまず自分も話を聞けそうな人を探そうと詰所を出た。忙しなく働く村人たちを見ていると、不思議と目につくのは男性ばかりだ。昨日は同じ数ほどの女性も働いていたはずだが、不思議なことに今は、と近い年頃の若い女性がひとりも見当たらない。  しばらく村を探し回って、はようやく乳飲み子を抱えた女性を発見した。声を掛けて儀式のことを知りたいのだと素直に打ち明けると、女性は「それなら今、ちょうど若い女たちが準備をしていると思うわ」と答える。どうやら村の若い女性は、詰所で儀式の用意をしているらしい。  は礼を言って、再び詰所へと戻った。教えられた部屋を訪ねると、そこにはちよをはじめとした村の若い女性が集っていた。 「あら、いらっしゃったのね。もしかして儀式に参加してくださるのかしら」 「えっと……まずは詳しく話を聞きたくて。儀式って何をするんですか?」  女性たちの品定めするような視線がに突き刺さり、気圧された彼女は後ずさりをしそうになる。それをぐっと堪えて問えば、女たちは一拍顔を見合わせたのち、アハハと声をあげて笑った。何がこうも笑いを誘うのか、理解できないだけが取り残された心地だ。 「そうよね、そうよねえ。今年のお役目は今度こそ私かと思っていたんだけど……おそとさまがいらっしゃったなら仕方ないわ」 「えっ?」 「あなたにお役目を譲る、と言っているの」  は思わず面食らった。まだ儀式の内容を知りたい、としか言っていないのに、いつの間にか彼女が参加したいと申し出たかのような空気になっている。まるでそれが、最初から定められていたかのように。  ちよが「いいわよね」と尋ねたのは、に温泉で声をかけた豊満な体の女性である。その場にいる女性たちの顔をよく見ると、稲葉江にちょっかいをかけていた女性の姿もあった。 「おちよったら残念ね、せっかくあんないい男がおそとさまでいらっしゃったのに」 「そうね、他に機会があればいいのだけど」  温泉で出会った女性が妖艶に笑う。ちよとの掛け合いを前には居心地が悪くなって、着物の中にだくだくと嫌な汗をかいた。 「儀式はね、男女一組で行うの。大抵は男がおそとさま、女が村の者ね。おそとさまがいらっしゃらない場合は村の男女で行うけれど、女のおそとさまは珍しいから逆の場合はあまりないわ。夫婦でいらっしゃったのは私が生まれてからは初めてじゃないかしら」 「あの、それで儀式って何を……?」  女の視線が品評するようにの体を這う。顔、首筋、胸元、腰、それから足を伝ってつま先。それが実態を伴って、大きな舌に舐められているような錯覚を覚え、は鳥肌を立てた。 「何を……ふふっ、そうね。何もしなくてもいいわ。事前準備と作法は多少あるけれど、部屋でふたりで過ごすだけ……部屋から一晩出なければ、何をしたってかまわない」 「何を……そのまま寝ててもいいってことですか?」 「ええ。寝ていられるなら、ね」  女の口調はまるで、寝ていられるはずがない、とでも言いたげだ。けれど、妙なことをさせられるのではないか、と想像しうる限りの卑猥な儀式を考えていたは、その返事に少しばかり安堵した。いかがわしい映像の馬鹿みたいな遊戯紛いのことをさせられると思っていたのである。儀式の中に定められた一連の流れがないとなれば、まだ対処もできようと考えた。 「それで、相手はどうする? 単身でいらっしゃったおそとさまでも、村の男で気に入った者がいれば選んでもいいわよ。あぁ、心配しなくても旦那様には上手く言っておくから、遠慮なく選んで」 「なっ、なんで他の人前提なんですか!? 相手は夫でお願いします」 「あらぁ、いいの? 勿体ない。こんな機会、滅多にないのに。こんなこと言うのもなんだけど、貴方の旦那様、相当に嫉妬深いでしょう。遊ぶなら今のうちよ」 「…………」 「もう、怖い顔しないで。ふふ、本当に仲睦まじいのねえ。羨ましいわ」  稲葉江の忠義を侮辱されたように感じたは、不快感を露に女を睨む。しかし彼女はそれを意に介さず笑い飛ばした。  若い女たちは儀式のお役目を決めるためだけに集まっていたらしく、が務めると決まるやいなや彼女たちは用は済んだとばかりに解散した。思いのほか事が調子良く進んでしまったばかりに取り残された心地のが動揺していると、ちよが肩を叩く。 「儀式の手順は準備の際にお教えいたしますから。心配しなくても難しいことはありませんよ」 「あの……今更ですけど、本当に私がやっていいんでしょうか?」 「あら、変わってくださるの? 私に旦那様を貸していただけるのかしら」 「そっ、それはちょっと……」 「うふふ。本当にかわいらしい反応をされる方ね。大丈夫です。きちんと準備をして、旦那様に身を委ねるだけですから」  その姿は村を案内してくれた時のちよと変わらぬはずだ。しかし、はどうしてか乱れた彼女の姿を連想した。その笑みがあまりに妖艶だったからだろうか。この村の異常な環境が女たちをそう育てるのか、村の女たちは皆やけに色っぽい。その中でも、ちよは際立って独特な魅力があった。    稲葉江を探そうとが詰所を出ると、どうやら件の力仕事がひと段落したところらしい。門の前では、汗をかいた男衆が飲み物を飲んだり石の上に腰を下ろしたりして休息を取っていた。  その中に稲葉江の姿を見つけたは、速足で彼に駆け寄る。その様が熱烈に夫を慕う姿に見えたのか、男衆の内の誰かが口笛を吹いて囃し立てた。  稲葉江はさりげなく、男共の視線から彼女を遮る位置に立つ。清い彼女に向けられるには、あまりにも不躾なものであったからだった。  は手拭いで汗を拭いている稲葉江に屈んでと手で指示すると、彼の耳に顔を寄せて囁いた。 「あのね、儀式に参加することに……なっちゃって」  その言葉を耳にして、稲葉江は瞠目した。その表情には焦りと動揺が滲む。戦場でも常に冷静な判断を下す彼が、なかなか見せることのないものだった。苛立ちを隠さぬ様子で「勝手な真似を」と低声を漏らす。 「儀式の内容に調べは付いたのか」 「まだ、ちゃんとしたことは……でも大丈夫。相手も稲葉がいいって言ったから」 「……………どこが大丈夫なのか言ってみろ」 「え?」  怪訝そうな稲葉江には目を丸くする。勝手な判断を責めているわけでも、彼女に迫った危機を案じているわけでもない。彼の声は、楽観的な彼女に呆れたような調子であった。  作業を手伝う傍ら、稲葉江も村の男から儀式について情報収集を行っていたらしい。けれど、肝心の内容については下品な冗談交じりにはぐらかされるばかりだったという。ならば教えてやらねばなるまいと、は村民に聞こえぬよう、声量を落として言葉を続ける。 「あの、儀式ってね。一晩部屋で過ごすだけでいいんだって。だから昨日みたいな感じで寝ちゃえばいいと思う。まぁその、寝れるかは別としてね」 「……………………成程な」 「ねっ、大丈夫でしょ? 細かい作法はこれから聞くんだけど、そんなに難しくないって。……稲葉、どうしたの?」  稲葉江は額を抑えて俯いていた。彼が思い悩むような節に心当たりのないは、不思議そうにその顔を見る。それが却って稲葉江を苛んだようで、彼は[[rb:頭 > かぶり]]を振った。 「手入れ札の枚数を思い出していた」 「なんで今?」  その問いに稲葉江は答えなかった。  ふたりが沈黙していると、恰幅のいい男が稲葉江に声を掛けた。彼は祭りの準備の総指揮を務めているらしい。稲葉江の働きぶりを知り、手が空いているならそのまま手伝って貰えないかと頼みに来たようだ。  ふたりは世話になった分を返せるならばと祭りの準備を手伝うことになり、それぞれ男女に分かれての作業に参加することにした。ふたりが再び合流したのは、日が暮れて祭りが始まった後のことであった。 [newpage] [chapter:七]    一日目と同じように、と稲葉江は夫婦らしく腕を組んで祭りを見て回った。いくつか内容が変わっている出店もあり、二日目ながら退屈することなくは祭りを楽しんだ。  違ったのは、一日目は舞を見ていた時間になると、それぞれ女に声をかけられたことだ。はちよに、稲葉江は温泉でに声をかけた豊満な体の女性に、儀式の準備のためにと呼び出された。  温泉の女性は、あからさまに顔をこわばらせるを見て「やだ、儀式の前にはさすがに味見しないわよ」と笑う。稲葉江に限って変な気は起こすまいと信じているものの、それを覆すほどに女性の肉付きのいい体は暴力的なまでに色気が溢れていた。  ——ただ準備に連れて行くだけならば、あそこまで体を寄せずともいいのではないか?  稲葉江の腕にぶつかって形を変える胸を見て、はじっとりとした目で稲葉江とその女性を睨みつける。稲葉江は謂れのない罪をかぶせられたかのような具合悪そうな顔で、眉を顰めていた。  が連れてこられたのは温泉のある建物だ。昨日入った広い露天風呂とは別の、小ぢんまりとはしているが作りはより豪華な浴場へと通される。は複数の女性に囲まれたかと思うと着物をひん剥かれ、そこで体を清められた。  まるでお姫様にでもなったかのような待遇だ。手伝いの女性は皆襦袢のようなものを着ており、一人が素っ裸なのが恥ずかしい。彼女は「自分で洗えます」と手伝いを辞したが、こういうものだからと取り合ってもらえず、されるがままであった。  身を清め終わると、今度は髪を乾かされ体を拭かれ、マッサージをするように良い香りのする油を塗られた。手足を揉まれると心地よく、これは気持ちいいかも、とリラックスして目を細めていると、油を塗っていた女性の手があらぬ場所へ伸びる。そこに油を塗布され、はつい大声を上げた。いくら同性とはいえ、初対面の——そもそも、他人に触らせる場所ではない。 「どっ、どこ触ってるんですか!?︎」 「もう、大事な儀式の準備の邪魔しないで。殿方にお見せするんだからお手入れは入念にしないと。あなた、手伝ってもらえる?」 「はい。おそとさま、失礼しますね」 「何を……きゃっ!?︎」  油を塗っていた女性は制止するを疎ましそうにあしらうと、彼女の髪を拭いていた若い娘に声をかけた。若い娘は心得たと躊躇いなくの足を大きく開かせて、股を露わにした恥ずかしい姿勢で固定する。  娘の手に阻まれ足を閉じることもできず、他人に触れられたことのない場所に得体の知れないものを塗り込まれ、は涙目になった。油をまとった指が敏感な場所を掠める度に人に聞かせられない声をあげそうになるのを必死に堪え、足が解放された頃には息も絶え絶えとなっていた。  最後に着せられたのは白い薄手の、これまた襦袢のような衣服だ。しかし手伝いの娘が着ていたものと違って、が知るもので言えばオーガンジーのような、肌がよく透ける素材でできている。下着もなしに着せられたせいで、到底人前には出られない恥ずかしい恰好であった。  最後に髪を整えて化粧を施したのちに、白い羽織を上から着せられる。全身白ずくめで、肌が透けていることを除けばもっともらしい儀式の装いに見えた。  下準備と称して触れられた場所や卑猥な襦袢——これだけ仕立てられれば、は嫌でも理解する。ちよは何もしなくていいと言ったが、何もしないわけにはいかない環境が作り出されていた。  何も知らないおそとさまの男が、村民に頼み込まれ儀式に参加する。すると、こんな格好の村娘が部屋を訪ねてくるのだ。その後の顛末は、想像に容易い。彼女は、稲葉江の複雑そうな顔つきを今になって思い出した。  ——もしかして私、とんでもないことを安請け合いしてしまったのでは?  後悔するも時すでに遅し。そして宝玉に近付く方法はこれ以外なく、あとは稲葉江の言うところの実力行使だ。小さな村とはいえ、歴史を守る側の彼らが途絶えさせるわけにはいくまい。  が儀式に参加することは避けられないとして、他の相手を選べば目も当てられない結果となることは明らかだった。よその男に貞操を奪われるくらいなら、たとえ本人は不本意であろうと好いた男に抱かれたい。まさかこんな訓練の一環で、しかも見知らぬ土地で処女を奪われることになろうとは想像もしていなかったが。  本丸に戻れぬまま村に幽閉され命を終えてしまうくらいなら、一夜を過ごすことなどどうってことはない。都市伝説レベルの話だが、霊力供給のために刀剣男士と体を重ねる審神者もいるようだし——とは自身を鼓舞した。  そんな決心を固めたばかりのだったが、直後、作法の指導で心が折れそうになる。「こんなことできるか!」と拒否反応を起こす頭に何とか一連の流れを叩きこむ最中、意識は遠い本丸にあった。  思えばこの災難は、ふかふかしたお揚げを貪る管狐のせいで起こったも同然なのだ。あれが勉強会に参加しろなんて言わなければ、今はこんな辱めを受けることもなかったはずである。帰ったら覚えていろよと憎しみを燃やしながら、は促されるまま足を進めた。  稲葉江は女に連れられ、温泉で身を清めた。用意された着替えの浴衣は上質な白いもので、儀式然としている。侍女のように振る舞う若い女に椿油を差し出され、髪を整えた。  まるで初夜だ、と彼は思う。うっすらと嫌な予感が、稲葉江の背後をずっとついて回っている。  通された部屋は、豪奢な一室であった。贅沢な襖絵に囲まれ、鶴の刺繡の入ったいかにもな布団が鎮座している。昨夜稲葉江が身を横たえたものとは厚みも手触りも明らかに違った。昨晩の待遇が悪かったわけではない。この部屋の内装が取り立てて豪華なのだ。  人の身を得てからの年月は数えるほどだが、鋼の頃から人の営みは見聞きしている。さすがにこれだけ御膳立てされてしらを切れるほど、稲葉江は無知蒙昧ではない。    襖が開く。稲葉江はその先にいた娘を見て、目を見開いた。だ。見慣れぬ装いで不釣り合いに着飾られているが、見紛うことない今代の主である。  清廉な羽織は白無垢を連想させたが、それにしたって妙だった。露出した肌が下品に油で濡れ、薄い襦袢が張り付いている。の慎ましやかな双丘すら明らかだった。 「……なんだ、その恰好は」 「〝おそとさま、よくぞいらっしゃいました。今宵はわたくしめがこの身体をもって御持て成しを務めさせていただきます〟」  よく見るとは涙目だ。覚えさせられたばかりのぎこちない口上を述べながら三つ指を突いて頭を下げた。儀式の手順であろうことはすぐに理解した稲葉江だが、主にさせるべきことではないことをさせていることで胸が重くなる。  部屋へ入った彼女が襖を閉じ、突き出した三宝の上には徳利と杯があった。しかし、杯はひとつだけ。は徳利の中身を杯に注ぎ、一思いに飲み干す。度数の強い酒なのか、その表情は苦し気だ。  は顔をしかめたまま、もう一杯注ぐ。どこまでが作法のうちなのか分らぬ稲葉江はその様子を眺めていたが、二杯目を傾けようとした彼女を見て流石に止めようと手が動いた。  しかし、杯に口をつける直前、が早口で「稲葉、ごめん」と呟く。一体何を、と思った次の瞬間、は口に含んだ酒を稲葉江に口移ししていた。  勢いよく胸を押された稲葉江は驚いたが、小娘の力で倒れるような軟な鍛え方はしていない。けれど唇が合わされた衝撃で挙動が遅れ、されるがままに一口酒を口に含んでしまった。  稲葉江が慌ててを突き飛ばすと、彼女の体が三宝にぶつかり徳利が倒れ、強い酒の香りが立つ。咄嗟に手荒な真似をしたことを詫びようと稲葉江が彼女に手を伸ばした時には、もう遅かった。  どくりと強く心臓が鼓動する。さして強い力で押したわけではないのに、は畳に伏したまま動かない。 「おい」 「っ……な、なにこれ……」 「くっ……何を飲ませた」  たった一口しか飲んでいない稲葉江と違い、は一杯分の酒を一気飲みしている。この酒の効能は未知であるが、これまでの村の様子を鑑みれば想像に容易い。どうせ、ろくでもないものだ。  何が、部屋で一晩過ごすだけでいい——だ。稲葉江は日中の楽観的としか言いようがない彼女の言葉を思い出していた。 「稲葉……」  肩を掴んで起こさせたの瞳はとろんとしていた。強い酒気を飲み下す苦痛とは別の涙が滲んでいる。その顔を見て、稲葉江はまずいと直感した。  酒が通った食道が燃えるようである。その熱が体全身に広がって、稲葉江は額に汗をかいた。心拍数が増え、息が荒くなる。稲葉江が感じている以上の症状を、彼女の体は訴えていた。  抱き起した拍子に羽織が落ち、が身に纏うのは何の意味も持たない薄い襦袢だけになった。稲葉江は誘われるように、その身体に釘付けになる。  少しでも魅惑的でやわらかなその肉から意識を逸らそうと、自身と鏡写しの印を持つ片割れの顔を思い浮かべたが、その幻影すら稲葉江に囁く。お前の好きにすればいい、あの子はお前に惚れているんだろう——と。  意識を他にやった隙をついて、は稲葉江の首にしがみついた。密着した肌から彼女の体温が伝わる。塗りたくられた油の香りに交じって、彼女の匂いが稲葉江の鼻腔を掠めた。  その匂いは、肉体を得る直前に嗅いだ香しい花の香りによく似ている。それが酒の匂いと混じって、稲葉江の欲を呼び起こそうとしていた。 「いなば、ん、っ……」 「……!」  存外強い力で首を寄せられたかと思うと、は再び稲葉江に口付けた。彼の唇を舌が割る。今度は酒の代わりに、彼女の唾液が流し込まれた。  側頭部を殴られたような眩暈がして、稲葉江は目を細める。流されてはならない。今のは正気ではない。分かっていても、その誘惑は抗い難いものだった。  稲葉江の膝に陣取った彼女は、稲葉江の唇を啄んだり、汗が滲む胸板を撫でたりしていた。幼子の戯れのような手つきでありながら、その動きは的確に稲葉江の情欲を煽る。生理的な反応で硬くなった稲葉江自身が、柔らかい尻肉に沈んだ。  力の差は歴然であり、その気になれば稲葉江は彼女の体を容易に引き剥がすことが出来たが、自ら触れたが最後自身の欲に抗える自信がない。稲葉江はされるがままであった。  の薄くも確かな胸の膨らみが胸板に潰されている。色の濃い尖った先端が透けて、あまりにも官能的だった。視界に入れまいと目を瞑ると口を塞がれるためそれも儘ならず、理性を失った彼女は開いた穴を埋める杭を探すように稲葉江の体を[[rb:弄 > まさぐ]]る。  この状態のまま、一晩耐えよというのか。ひどい生殺し状態だ。は素知らぬ様子で、思うままに肌を触れ合わせている。 「あっ……」 「!」  すると、もぞもぞと稲葉江の膝の上で身動ぎしていた彼女が声を上げた。稲葉江の高い鼻筋に、汗が伝う。それは不味い、と思ったのだった。  何の下着もつけていない彼女の襦袢が[[rb:開 > はだ]]け、胸元が露になる。それだけならまだよかった。は自分を塞ぐものを見つけたかのように、[[rb:陰 > ほと]]を稲葉江の浴衣を押し上げる剛直に擦り付けた。  塗りたくられた油のせいか、内側から溢れた彼女自身の欲望か。滑りが良くなったそこを、は浅ましく擦り付ける。下穿きと浴衣の布越に先を擦られて、稲葉江は堪らなかった。眉間の皺が深くなり、吐く息は熱い。 「ん、っ……ん、あっ……」 「くっ……、そこで動くな……!」 「やだ、いなば……これ、きもちい、……んっ」 「人の気も知らず勝手なことを……ッ」  稲葉江の切っ先を、熱く膨れた突起に擦り付けるのが善いらしい。は稲葉江の足を跨いで膝を着き、腰を浮かせてそこを揺すった。  こりゅ、こりゅと陰核を押しつぶす度には小さく喘ぎ、体を震わせる。彼の首にしがみついて抱き着きながらそれを耐えるので、稲葉江としては気が気でなかった。  今すぐ二人の粘膜を遮る浴衣を取り払い、しとどに濡れそぼって火照ったそこに欲望を捩じ込みたくてたまらない。衝動に突き動かされるまま雌を貪り、主と慕うべき女を男根で屈服させたかった。  譫言のように名前を呼ばれる度に外れそうになる箍を、稲葉江は割れんばかりの力で奥歯を食いしばって堪えた。濡れたそこははくはくと戦慄いて、布越しに先端を咥えこもうとしている。勃ち上がったそれはもう、痛いほどに張り詰めていた。 「あっ、ん、ん、やっ、あ、ああっ」 「ッ、……ふーッ……、はッ……」  欲を貪る女の嬌声と、理性の手綱を離すまいと懸命に耐え続ける男の荒い吐息。互いに滲んだ肌から立つ熱気で、部屋は曇ってしまいそうだ。  の腰の動きが小刻みになり、声が大きくなる。稲葉江の肩に爪が食い込んで、はひと際強くぎゅっと抱き着いた。 「あっ、あ、ああッッッ……! ~~~っ……!」  彼女の内腿が震え、稲葉江の腰を挟み込む。びくびくと痙攣しているのが、彼の体にも伝わった。  はあろうことにも、一方的に稲葉江の刀身で淫らにも自身を慰め、絶頂に達してしまった。媚肉が震えるさまが稲葉江の猛りを[[rb:苛 > さいな]]む。彼は長い息を吐き、押し寄せる衝動をやり過ごした。  は呼吸を荒げながら、ぐったりと体を稲葉江に預けている。はぁ、はぁと漏れた吐息は、次第に寝息に変わった。稲葉江は正気かこの女、と思いながら、じっとりと体液で湿った彼女の体をふかふかした布団に寝かせてやった。  時間にして一時間足らずだが、とんでもなく長い時間、拷問に耐えたかのように稲葉江の体は疲れ果てている。それ以上に精神的疲労が大きかった。渦中の女は素知らぬ顔でもう夢の世界である。稲葉江はぐったりと脱力して、部屋の柱に身を預けた。  酒のせいか中途半端に灯った欲望の炎のせいか、寝られる気はしなかった。この状況でこの女と同じ布団に入るなど言語道断だ。  自身で火照りを処理することも考えたが、無防備に眠るの前ではそれも躊躇われた。慰めるための何かを脳裏に思い描いたとして、それはきっと彼女の姿をしている。稲葉江は本丸のむさ苦しい面々の顔を思い出し、なんとか熱を治めた。 [newpage] [chapter:八]    が目を覚ますと、その体は布団に包まれていた。身を起こすと刺繍の入った上等そうな掛け布団が落ちて、肌が外気に触れる。寒い、と思って視線をやった自身の体は昨夜着せられたとんでもない装束のままであったので、は「ぎゃっ」と叫んで掛け布団で体をくるんだ。 「……目を覚ましたか」 「稲葉、おはよ……って、何、その顔。どうしたの?」 「何がだ」 「すっごい隈だけど」  きょとんとしたを稲葉江は何か言いたげに睨む。しばらくの沈黙の後、稲葉江は溜め息をついて「不寝番をしていただけだ」と答えた。  が熟睡している間に着替えたのか、稲葉江はこの村へやってきた時と同じく戦装束に身を包んでいた。しっかりと本体を携え、いつでも出陣できる備えがあった。 「着替えだ。さっさと身支度をしろ。女が呼んでいた」 「あっ、うん。ありがとう」  稲葉江がの服を寄越す。座ったままの彼をはじっと見つめた。稲葉江は不審そうに「まだ何かあるのか」と問う。 「着替えるから出ていって欲しいなー、みたいな……」 「………………………………」  稲葉江は立ち上がると、無言で部屋を出ていった。襖に手をかけた時の恨みがましい目つきが、の頭に焼き付いている。  彼女の頭からは、すっぽりと昨夜の記憶が抜け落ちていた。二日酔いのような気怠さと、強い酒が喉を焼く感覚、朧げながら残った儀式の作法から、酔い潰れてしまったのだと推測する。  不機嫌を全面に押し出した稲葉江の顔を見るに、酔った勢いで何かしてしまったのではないか——とは憂いた。  が身支度を終えた頃、ちよが部屋を訪れた。村へやってきたときと同じ姿に更衣しているふたりを見て「着替えてしまったんですね」と言う。 「あの格好で妻を部屋から出すわけにいくまい。儀式に支障はあるか」 「いいえ、まさか。素っ裸だったらどうしましょう、とは思いましたけど」  ふたりが連れられたのは幣殿だ。村長が神職を兼ねているらしく、相応しい装いの彼が祝詞をあげていた。  と稲葉江は言われるがまま指定された場所に正座し、周囲の様子を窺った。けれど、どれだけ目を凝らしても宝玉らしいものは見当たらない。ちよの言葉からてっきり祀られでもしているか、装飾のうちの一つであると思い込んでいたは大いに慌てた。  結局宝玉の在処を掴むこともできぬまま儀式は終え、どこか満足げな村長に恭しく礼を言われ、幣殿を出されてしまった。は村長に宝玉について尋ねたが、彼は知らないという。その態度にはぐらかしている様子はなく、悪意も見えない。本心からそんな珠のことは初めて聞いた、と言っているようであった。  そこで初めて、は思い当たるのである。ちよに謀られたのではないか——と。  境内を出て、人気のない石階段に腰を下ろしたはがっくりと肩を落としていた。  ちよの言葉を過信するあまり、情報の精査もせず突っ走り、勝手に儀式に参加すると決めたのは彼女だ。記憶はないが稲葉江の様子から、昨夜も相当に彼に負担を強いたようだ。ここまで付き合わせておいて策を見誤るとは、情けないにもほどがある。  ふたりに残ったのは儀式を終えた夫婦への好奇の視線だけだった。 「稲葉、本当にごめん……」 「[[rb:諄 > くど]]い、何度言わせる気だ。こうなった以上は他を探すしかあるまい」 「でも……」  の煮え切らぬ態度に稲葉江は本日何度目かのため息を吐く。  稲葉江に何を言われようと、の頭は生産性のない後悔ばかりを繰り返した。あの時村長にも宝玉の在処を尋ねていれば儀式の道具にそんなものはないと知れたかもしれないし、あの時村民の集う酒宴に無理をしてでも出ていれば、有力な情報が集まったかもしれない。強い悔恨に押しつぶされそうだった。 「このまま村を出られなくなったらどうしよう……」 「無駄な空想に頭を使う暇があるなら宝玉の在処を探し出す術を考えろ。今更後悔しても詮無きことだ」  判断を誤ったことによって自信を失ったは、らしくない弱音を零した。稲葉江の不器用な鼓舞も今の彼女には届かず、その表情は暗くなるばかりだ。 「悲観的になるな。村に宝玉があると断定されている以上、どれほど時をかけてもそれを探し出すまでだ。やることは最初から変わらん」 「時をかけてもって……何年もかかるかもしれないよ」 「用心棒でも何でもして食い繋げばいい」 「……天下はどうするの」 「この程度で諦めるような夢なら、端からここまで執着せん」 「でも」 「[[rb:執拗 > しつこ]]いぞ」  呆れ調子の稲葉江にの視界が歪む。背の低い彼女が俯けば、その表情は稲葉江が窺えるはずもない。  訓練という形ながら自ら事態に直面することで、はいかに自分が刀剣男士たちに支えられていたかを実感していた。後ろ向きな思考は止まらず、今目の前にいない彼らが自分を主として相応しくないと見捨てる想像をしてしまう。ただ偶然審神者となる力を得ただけのちっぽけな人間に過ぎないと、無力を痛感していた。 「稲葉がいなくなったら、私何にもできない……。審神者じゃない私って、本当に何もないもん」 「それこそ最も愚かな杞憂だ。我が見限るとでも」 「……わかんないじゃん」 「そこまで侮られては怒りを通り越して呆れるな」  稲葉江がの腕を掴んだ。華奢な体は彼にとっては僅かな力で容易く傾く。が顔をあげると、鉛色の眼球が彼女を射抜いていた。眩いほどに真っ直ぐなそれからは目を逸らせない。 「この村にいる内は、我らは夫婦だ。妻の憂いを晴らすのも我の務め。これで足りぬというなら納得するまで言い聞かせるまでだが、ほかに言うことはあるか」  は今にも溢れそうな涙を堪えようと、下唇を噛んで首を横に振った。今この時だけは、ただの虚勢でもそれを貫き通したい。  他人を励ますなど到底向かない堅物のあの稲葉江が、言葉を尽くしてここまで彼女を鼓舞してくれているのだ。これ以上不安を口にできるだろうか。  足手まといは今更で、けれど主として認めてくれている彼を裏切るような無様な姿は見せたくなかった。 「………ない」 「ならばやるべきことは分かっているな。今代の主は、我に負けず劣らず諦めの悪い女だったはずだが」 「ごめん。弱気になってた。……絶対戻ろうね」  は立ち上がり、地面に着いていた尻を叩いた。したことを悔いて無為に時を過ごす暇があるなら、だれかれ構わず話しかけてでも情報を引き出すべきだ。   ようやく前向きになった彼女は、さっきまでのジメジメした態度から一転、勇み足で境内の傍の広場で遊んでいた子供たちの群れへと突撃していった。 「ねえ、ちょっといいかな」 「あっおそとさま」  と稲葉江はもはや聞きなれた挨拶を受け、お辞儀を返す。子供たちの年の頃は十前後だろうか。本丸にいる見目の幼い短刀たち同じくらいに見える。男女入り混じって遊んでいた彼らにはしゃがんで視線を合わせた。 「あのね、この村でこのくらいの……透明の珠って見たことないかな?」 「珠? こんな感じの?」 「そうそうそんな——って、え!?︎」  が手で表した珠の大きさとそっくり同じようなものが、少女の手に握られている。は仰天してつい大声をあげた。まさか、こんな子供が持っているだなんて。諦めかけた矢先こうもすんなりと見つかるとは思っていなかったものだから、喜びよりも衝撃が上回った。 「こ、これどうしたの。どこで……」 「そこに落ちてたんだあ」 「おれが拾ったんだぞ、勝手に触んなよ!」  わなわなと珠に手を伸ばすに奪われまいとするように、少女を押しのけて少年が現れ、珠を掠め取る。乱暴に珠を奪われた少女の文句を彼は聞き流し、から見えないように背に珠を隠した。 「ねえ、お願い。これちょっとお姉さんに触らせてもらえないかな?」 「えーっ! やだよおれンだもん!」 「お願い! ねっ?」 「どうしよっかなー」  が下手に出て頼み込むと、この年頃特有のいたずら心を刺激してしまったらしい。最初はただおもちゃを取られまいとしていた少年はそれほどにとって関心のあるものだと分かると、大の大人より優位に立つ材料を得たとばかりに目をにやりと細めた。 「じゃあさ、おそとさまって昨日ギシキに参加したんだろ? どうだったか教えてよ」 「えっ?」 「教えてくれたら触らしてやってもいいけどー?」  は少年の要求に硬直し、それから稲葉江の方を振り返った。子供相手に高圧的な態度を思わせる姿勢を崩さぬまま、彼は視線だけで訴える。「我に言わせる気か」と。  なにせ、には昨夜の記憶がない。人には言えない支度を施されこっぱずかしい口上を言わされたことは記憶しているが、以降は酒気に押し流されている。適当にはぐらかしても良かったが、この手の男児はあしらわれるとよりしつこくなるのが目に見えていた。  交渉名人である富田江ほど華麗な解決を求めてはいないが、自分よりはマシな答えを返せるだろうと、は回答権を稲葉江に譲ろうとした。しかし彼は、記憶があるがゆえに余計に妙なことを言えない。未遂であるとはいえ、痴態を晒したと知れば彼女は思いつめるだろう。本人が忘れたことをわざと掘り返して傷付けるのは稲葉江の本意ではない。  稲葉江は子供たちを見下して、「下らんな」とわざとらしくため息を吐いた。 「なんだよう、じゃあ珠触らしてやんないぞ!」  下世話な交渉に乗ってこなかった稲葉江が面白くなかったのか、少年は頬を膨らませた。それを威圧するように、稲葉江は意図して低い声で答える。 「妻を辱めてまで欲するものなど無い」  子供たちの視線が一様に稲葉江へ向けられた。彼らだけでなく、ですら目を剥いている。  何の衒いもなく妻を思いやった男らしい一言が、思春期真っ盛りの少年の胸を打ったようだ。好奇心一色に塗りつぶされていた少年の瞳が、だんだんとキラキラした羨望の眼差しに変わる。はその変化を目の当たりにしながら「稲葉ってやっぱ男が憧れるタイプの男なんだ」と思っていた。 「もう、勘吉、おそとさまに意地悪言ったってばれたらおちよさんに怒られるよ」 「ふ、ふん……別に、ちょっとくらいなら触らしてやらないこともないけど」 「本当に!?︎」 「おう。ちょっとだけだからな、ちょっとだけ!」  本当に触れるだけで戻れるのか。最早随分前のことのように感じる訓練の説明を思い出す。は不安に思って、左手で稲葉江のジャケットの裾を掴んだ。  は稲葉江と頷き合ってから珠に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、ちかっと視界が眩いほどの白に染まる。ぐにゃりと世界が歪むような一瞬の気持ち悪さの後、地に足がついていた。    気がつけば、彼女は時間転移用の機械の中へと戻っていた。狭い箱状の場所で、ジャケットを掴んだままだった稲葉江と肩が触れ合う。機械的なアナウンス音と共に扉が開いて、その先は政府施設の一室だった。 「も、戻ってこれた……?」 「そのようだな」 「お疲れさまでした。訓練はいかがでしたか?」  を待ち受けていたのは転移の前に淡々と案内をした例の役人であった。  ——いかがでしたか、だって?  の片眉が上がる。こんな講習二度と参加しない、そもそも自分たちもわかっていない場所に転移させるな、人の心はないのか? どんな目に遭ったと思ってる——と、言いたいことは山ほどあったが、三日分の疲労と無事に戻ってこれた安心感から脱力しきった彼女は「疲れました」とだけしか答えられなかった。  講習自体もこれで終了らしく、簡単な事務手続きをすれば本丸へと帰還できるそうだ。は稲葉江を引き連れて手早く帰り支度を進める。訓練に際し預けていた手荷物を回収していると、は訓練の前に話した長髪の女性に鉢合わせた。  ここまで滅茶苦茶な訓練を想定してはいなかったが、彼女のおかげで突然見知らぬ場所へ放り出されることへの心構えは出来ていたように思う。お礼を言おうと声を掛けようとして、は女性の様子を見て、喉まで出かかった声が引っ込んだ。  女性の目は虚ろで、小狐丸に支えられねば歩けぬような状態だった。ぶつぶつと小声で何かを唱えて、正気には見えない。小狐丸はたちに気付くと、申し訳なさそうに眉を下げた。 「これはこれは。……なんだかお久しぶりのような気が致しますね」 「そう……ですね。あのっ、そちらの審神者の方、大丈夫ですか」 「……申し訳ございませぬ、ぬしさまは少し……お疲れで」 「いえ……お大事になさってください」 「お気遣い痛み入ります。では、我らはこれで」  が話している間も、長髪の女性は彼女の存在に気付いていなかった。それどころか、彼女が今どこで何をしているのか、それすら理解していない様子である。一体どんな出来事を経験すれば、あの女性がこうもやつれてしまうのだろうか。小狐丸と女性の背中が小さくなった頃、はぽつりと呟く。 「もしかして、私たちってまだマシな村引いてたりする……?」 「やも知れんな」  何かが違えばたちもあんな色情狂いの村ではなく、廃人寸前にまで追い込まれるような目に遭っていたのかもしれない——そう思うと背筋がぞっと凍った。      本丸へと帰還すると、見慣れた顔ぶれが彼女の帰りを出迎えてくれた。  短刀たちに取り囲まれながら、は目頭が熱くなる。彼らにとっては数時間だろうが、にとっては三日間——日数以上に濃厚な日々を過ごした。一時はもう二度と戻れないかもしれないとさえ思った本丸の暖かさが身に沁みていた。 「おかえり。もうすぐ夕餉の支度ができるよ」 「燭台切! 今日のご飯何?」 「ビーフシチューだよ。疲れていると思って、君が好きそうな献立にしてみたんだ」 「しょ、燭台切……!」  彼の気遣いに感動したは、「燭台切を厨番長にしてよかった」と涙を流して喜んだ。それほどまでに歓喜するとは思ってもみなかった彼は、熱い胸板でを抱き留める。 「講習、大変だったみたいだね」 「大変だった…………! すっごい、すっごい大変だった……!」  燭台切光忠は「一体なにがあったの?」と稲葉江に視線を投げかけたが、彼はふいと目を逸らして答えなかった。  稲葉江の顔にも疲れが見えたことから、余程の目に遭ったらしいと燭台切光忠は苦笑する。聡い彼は、が緊張の糸を解いて安心し切った姿に稲葉江がそれを慈しむような視線を送っていることに気がついた。  何があったかは知らないが、二人の関係にも進展があったようである。彼らを労おうと、疲れの吹き飛ぶような甘いものでも食後に用意してあげよう、と考えていた。 [newpage] [chapter:夢]  が鍋の中の煮物の様子を見ていると、玄関から物音がした。稲葉江の帰りだ。は小走りでそちらへ向かい、彼を出迎える。  疲れを労い夕飯の献立を伝えるのも、もう慣れたやり取りだ。彼が荷解きをしているうちに支度を終えて出来立てを食べてもらおうと、は台所へ戻った。  現世や本丸にいた頃と違って便利な家電はないけれど、二人分の食事を用意することにはもう慣れた。慣れてしまった。料理の腕前に自信はなかったが、毎日続けているうちに様になってきたらしく、今では焦がしてしまうこともない。  稲葉江は早々彼女の料理を誉めそやしたりはしないが、いつも文句ひとつ言わずに完食していた。それが彼女の細やかな幸せであった。  食後、洗い物をするの髪に、稲葉江の手が触れる。くすぐったくも愛おしいその指先の感覚に、は胸を高鳴らせた。 「随分伸びたな」 「うん。切ったほうがいいかな?」 「好きにすればいい」  ——ああ、これは夢だ。それも、あの村の。彼らしくないやさしい声色に、は気付く。  彼女[#「彼女」に傍点]はよりずっと髪が長かった。本丸にいた頃は手先の器用な刀が彼女を整えてくれていたが、今は自分で上手く整えられないため、伸びたままにしている。稲葉江の容姿は変わらないまま、彼女だけが少しだけ時を経て変化していた。  自分でありながら自分を通して別人を見ているようだと、夢だと自覚したは思った。どこかの誰かの記憶との魂が重なった景色が、夢となって現れているようだった。  その夢の中で、と稲葉江はもうおそとさまと呼ばれていなかった。村人の一員で、村一番のおしどり夫婦としてよく知られている。彼らはおそとさまとして他所からやってきて、村に定住し、生活を営んでいた。  主である彼女の髪に稲葉江が気安く触れるなどあり得ない。演技や設定などではなく、彼はの本当の夫となっていた。  夜も更け、ふたりは並べた布団に眠る。が稲葉江の布団に手を差し入れると、稲葉江が握り返す。それが、ふたりの合図だった。  稲葉江はの上に覆いかぶさると、口付けを落とした。は応えるように首に腕を回す。貪欲な舌先が互いを求め合うのは時間の問題だった。  の寝着の襟を寛がせると、稲葉江は露になった鎖骨やその下の皮膚の薄い部分に吸い付く。真に夫婦となってから知ったことだが、稲葉江は彼女の体に痕を残したがる男だった。  [[rb:逃 > のが]]すまいと記される所有印のようなそれを見るたび、は高揚する。彼女には、もう他に行く当てなどないのに。稲葉江がいなければ、たったひとりでこんな村では到底生きていけないというのに。  数えきれないほど重ねた体は、少し触れられるだけで彼を受け入れる準備を始める。すぐに疼き始めたそこを宥めようと膝を擦り合わせると、気付いた稲葉江が彼女の足を持ち上げて大きく股を開かせた。濡れたそこを指で撫で、「随分淫らに育ったものだな」と嘲笑する。 「……っ、稲葉のせいだよ」 「当然だ。でなくては困る」  稲葉江は濡れたそこに舌を這わせた。表面に滲んだ愛液を舐めとってから中に舌を差し入れると、彼女は自らの手で口を押さえて声を殺した。村長から借りたこの空き家は稲葉江が修繕してだいぶ暮らしやすくなったものの、壁がとにかく薄いのだ。こういった話が回るのが早い村なので、彼女は夫婦の密事を誰にも悟らせまいと漏れる声を抑えていた。    ——儀式の後、宝玉を見つけることが出来ないままひと月が経った頃、は稲葉江に想いを伝えた。  本丸に帰ることを諦めたからではない。こんな状況になった以上、いつ命が潰えるとも限らない。延々と続くと思っていた本丸生活が、予想外の形で途絶えたのだ。ならば、悔いを残して死ぬよりは伝えておくべきだと判断し、行動に出た。  一か月間共に過ごしていれば、鈍い彼女でも稲葉江の想いには勘付く。夫婦でありながら臣下でもある彼から一線を越えることは出来まいと、踏み出したのが彼女だっただけだ。  その夜に、ふたりは主従ではなく夫婦になった。  村での暮らしに不足はなかった。審神者不在の本丸のことが気がかりではあったが、それを忘れたことにしてしまって、暮らしの不便さにも慣れれば、それなりに幸福だった。いつになっても子が出来ないことを村人に揶揄されることを除けば、はこの暮らしに何の不満もなかった。それが却って恐ろしい。  本来の彼女は、その力の続く限り時間遡行軍との戦いに身を尽くすはずだった。好いた男と結ばれ、平穏に夫の帰りを待ち、慎ましやかに暮らす——そんな平凡な幸せがあっていいわけがない。  まるで誰かの幸せを掠め取っているような気がしてならなかった。この時代にいるはずだった平凡な夫婦の役目を乗っ取ったような違和感が、長閑な日常に着いて回っていた。  かといって宝玉が見つからない以上は本丸に帰る術はなく、よそ者だった彼らを暖かく受け入れた村を蹴ってまで行く当てもない。平坦で単調なぬるま湯のような幸福に浸かって、はもう抜け出せなかった。    杭を欲しがって戦慄く密壺の入り口に、彼女が望むものが宛がわれる。稲葉江が一思いに腰を進めると、そこは躊躇いなく彼を受け入れた。  最初こそ長大な稲葉江の刀身を収めるのに苦労した鞘は、今は奥まで貫かれ離すまいときつく食い締める。形をよく覚えた膣内は稲葉江を悦ばせる為だけに収縮した。  中の強い締め付けに稲葉江の額を汗が伝った。荒い息を吐く彼には腕を伸ばし、口付けを請う。  声もなく静謐な夜に、卑猥な水音だけが響いた。もはや言葉は不要だ。静かに互いを埋め合うように、ふたりは相手をただ一心に求める。  一度達しても、それは終わらなかった。幾ら貪っても足りないと言わんばかりに姿勢を変え、また快感を高め合う。二人の行為は、長い時には空が白むまで続いた。この村には、ふたりを阻むものはなにもない。  何度目かの絶頂を迎えたの体がべしゃりと崩れる。荒い息と落ちた瞼に稲葉江はそろそろ潮時かと彼女の頭を撫でて労ったが、は譫言のように「もっとして」と零した。  そうなると稲葉江は堪える理由を失って、幾度も吐き出した精が溢れるそこに指を差し入れる。掻き出してやればそれも善いらしく、理性を失ったは壁の薄さも忘れて喘ぎ声をあげた。 「あぁっ、いなば、ッ、かきだしちゃ、だめっ……!」 「すぐにまた注いでやる」  稲葉江の指が陰核を掠めると、は腰を振るわせて絶頂した。きつく締まったそこに、稲葉江は再び挿入する。 「イ゛っ……て、イ゛ってるときに入れな、んんぅ、〜〜ッッ」 「ッ……く、よく締まる……!」  どちゅ、どちゅと遠慮なく稲葉江が奥を穿った。擦れた襞が平たくなるのではないかというほどに抽挿を繰り返して、また達する。  疲れ果てるまで愛し合ったのち、ふたりはどちらの体液かもわからぬもので湿った布団で身を寄せ合って眠った。女は、この暮らしはいつまで続くのだろうと朧げに思いながら、愛する夫を抱きしめていた。      講義の日の翌日、数日振りに慣れた自分の布団で眠ったからだろうか。は珍しく寝坊をした。  なかなか起きてこない彼女を案じた前田藤四郎に揺り起こされ、慌てて身支度をして部屋を出る。彼女の分を残してくれているらしい朝食を食べようと食堂へ向かうと、稲葉江、そして彼と同室の富田江に鉢合わせた。  彼らはどうやら朝食を食べ終えた後らしい。富田江がまだぼんやりしたに「お寝坊さんかな」と声を掛けた。 「うん、昨日の疲れがたまってたみたい。稲葉はちゃんと起きれたんだね」 「当然だ」 「お前、私が起こすまで寝こけていたじゃないか」 「富田、余計なことを言うな」 「あはは、稲葉も眠かったんだ」  稲葉江と富田江の気の置けないやり取りにはけらけらと笑った。すると、稲葉江の視線がの髪に向けられていることに気が付く。洗面台で寝ぐせは直したはずだがどこかおかしいのだろうか、と彼女は手櫛で髪を梳いた。 「なに、稲葉。私なんか変?」 「いや、髪を切ったのかと——」 「髪? ずっとこのくらいの長さだけど……」 「思い違いだ。忘れろ」 「稲葉?」  稲葉江は足早に彼女の元を去った。素っ気ない彼の代わりに富田江が「寝起きが悪かったみたいなんだ。ごめんね」と詫びる。  一食分取り置かれた朝食を食べながら、彼女はふっと昨晩の夢を思い出した。数年間の営みを一夜に凝縮したような不思議な夢。は稲葉江の言葉の意味を理解して、ひとり赤面していた。

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