大学生の稲葉くん
私と稲葉くんが話すようになったのは、いくつかの偶然の積み重ねの結果に過ぎない。それがなければ在学中一度も会話するどころか、名前を知ることもなかったのではないか、とすら思う。
最初の説明会で同じタイミングで入室しようとしてドアを開けてくれたこと、廊下で私が落としたハンカチを拾ってくれたこと、なんとなく参加した新入生歓迎会で隣に座っていたこと。
一つ一つは取るに足らない小さな出来事だが、顔を合わせるごとに他人とは呼べなくなり、顔見知りと称するのも味気ないと思うようになって、今では私は、彼のことを友達だと認識している。向こうがどう思っているかは知らないけれど、有象無象のうちの一人でなければいいな、とそんな風に思っていた。
そんな彼との縁は細々続き、互いに酒の味を覚えた頃、稲葉君が私のバイト先に訪れた。
私が働くお店は安酒と半端な料理で満足できなくなったサラリーマンがしっとり飲みにくるか、デートで使われるようなちょっと凝った居酒屋で、とにかく安く飲みたいであろう大学生のお客さんは珍しい。そうでなくとも、長身で見た目のいい二人組の彼らは、忙しない店内で注目を集めていた。
店長に「あのお客さん私の友達です」と伝えると、話してきてもいいよと言われたが、忙しい中抜けるのも気が引けたし、お友達と来ているところに邪魔するのも悪いと思って、彼と話したのは会計の時だけだった。私が働いていることを知っていたのか知らなかったのか、稲葉くんはレジに立つ私を見下ろしながら、特に驚いた様子も見せず淡々と会計をする。むしろ、隣で稲葉くんが財布からお金を出すのを見ているお友達の方が積極的に話してくれた方で、「美味しかったよ。また来るね」と言ってくれたことが、自分が料理を作っているわけでもないのに嬉しかった。
稲葉くんが発した言葉は、会計の最低限のやり取りと、店を出る前にドアを開けた私に対し「帰りはいつも遅いのか」と聞いたことくらいだった。この辺りの治安を知って心配してくれたのだろう。いつも近所に住んでいる女性社員と一緒に帰っていると言うと、少しだけ安心した様子が見えた。
その表情が胸を貫いて、今の今までずっと抜けずにいる。本当はもっと前から惹かれていたのかもしれないけれど、私がはっきりと稲葉くんが好きだと自覚したのはその時だった。
姿勢の良さ、綺麗な字、響きの良い落ち着いた声、勤勉な態度とか、口数は少ないけど思慮深くよく物事を見ているところ。分かりにくいけど優しくて、見た目や態度の割に怖い人ではないということ。ただ彼のことを知るきっかけが多かっただけなのに、私の心はたやすく彼に攫われてしまった。
そんな稲葉くんがなぜ私に告白してくれたのか、幾度も身体を重ねて互いを知り尽くした今でもよく分からない。
他に靡く様子もなく、筆まめとは言えないまでも私の連絡には必ず応えてくれるし、人混みが苦手だろうに、私の行きたい場所には付き合ってくれようとする。律儀に恋人らしいことをしてくれる彼の気持ちを疑う余地など全くなかったけれど、それでもふとした時に「どうして私なんだろう」と気になってしまうことがあった。稲葉くんが恋をするということ自体、彼女になった今でも不思議だが、その相手が私だということはそれ以上に不思議だ。
私が稲葉くんを好きな理由もあげ連ねれば他愛無いものばかりで、彼も同じことなのかもしれない。明らかにする方が野暮だというのもわかってたのに、ある朝、私はそれを訊ねてしまった。
規則正しい稲葉くんが昼前までベッドにいるのは、私と一緒に寝た日の翌日だけだ。頭も身体もとっくに覚醒しているだろうに、まだ眠いと擦り寄る私から温もりを奪わずにいてくれている。
幸せの絶頂であるからこそ、失うのが怖くて確かめたくなってしまったのだろう。
「稲葉くんって、なんで私に告白してくれたの?」
そう聞いた私の声はかすれていて、瞼も半分閉じていた。だから、寝言か何かだと思われたのかもしれない。実際私もほとんど微睡の中にいて、正常な思考ならそんな面倒なことを聞かなかっただろう。稲葉くんから問いの答えが返ってくることはなかった。
その後ベッドから起き出して、朝食と一緒になった昼食を食べているとき、稲葉くんは唐突に「さっきの話だが」と切り出した。
もう答えのないものだと思って聞いたことすら忘れかけていた私は、一瞬何のことか分からず返事に詰まる。お茶で喉をうるおしながら、何でもないふりをして彼の言葉を聞いていた。
「会う理由をこじつけるのが面倒になったからだ」
「……うん?」
「時期尚早かとは思ったが、結果的に誤った判断ではなかったと自負している」
その答えに、私はしばらく呆けたままでいた。「食わんのか」と促され、食事の手を再開する。
質問を無視したわけではなかったこととか、これまでずっと答えを考えてくれていたのかなだとか、こじつけっていつからそうだったのかとか、そんなことを考えると胸がいっぱいになって、お腹は空いていたはずなのに食事は全く捗らなかった。
先に食べ終えた稲葉くんが、コーヒーを飲みながら私をじっと見ている。この人、私のことがすごく好きなんだなあ、と思った。
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