与太話
横面を強く殴られたような衝撃があった。
稲葉江がこの本丸に刀剣男士として顕現してから数年の間を置いて、彼と江の双璧を成す富田江が顕現した。片割れとの再会を喜んだのも束の間、と富田江が並ぶ姿を見て強い衝撃を受けたのだ。
——稲葉江は今代の主である女に懸想している。
態々言い表せば大仰なことだが、稲葉江はと結ばれようなどと身分不相応な考えを抱かず、彼女が擁する百数振りのうちの一振りとしてその使命を終えるつもりでいた。は人で、稲葉江は刀剣男士なんてご立派な名称を当てがわれた刀の付喪神だ。理に準えればそれが正しい結論である。
しかし、彼女自ら与えた人の身というものは、理屈や正論の枠に押し固めて黙って居られるほどお利口なものではないようだ。かつての主も、渇望したものがその手を擦り抜ける感覚を——この様な身を裂くような苦痛を味わったのだろうか、と彼は思う。
にとっては富田江も稲葉江も等しく彼女の一振りだ。そこに邪心を持ち込んだ稲葉江こそ間違っていると彼は理解していて、それでも尚臓腑が腐り落ちるような不快感を受け止めきれなかった。だからといって彼女を手籠にしようとは毛頭考えられず、その律儀さが稲葉江を苛む。稲葉江は行き場のない感情の行き先を探して、道場の扉を開いた。
時を忘れて鍛錬に打ち込んでいると、誰かが彼の名を呼んだ。刀を振るう手を止めて振り返ると、それは富田江である。稲葉江は手の甲で鼻に伝った汗を拭った。
「貴様も鍛錬か」
「いいや。お前の様子がおかしいと聞いたから見にきたんだ」
「…………」
江の刀の王子様、などというふざけた名乗りに応えてか、彼は優雅を形にしたような所作で道場の壁に凭れ掛かった。
ここに来るまでは誰にも会わなかったはずだが、誰かが稲葉江の異変を察して富田江に告口したらしい。余計なことを、と思いながら、稲葉江は富田江の元へ歩み寄った。
「太刀筋に乱れがある。お前らしくもない」
「小言を言いにきたのか」
「まさか。相談に乗ってあげようかと思って」
心配してやってきたという建前を提げて、けれど富田江の声色は弾むようだ。琥珀色の瞳は稲葉江の内に秘めた心さえ見透かすようで、稲葉江は思わず彼から目を逸らした。
「あの子、主のことだろう」
「見当違いの無駄口を叩く暇があるなら抜け」
「手合わせか。構わないよ、付き合おう。今は交渉より、こちらの方が手っ取り早そうだ」
稲葉江が煽れば、存外容易く富田江はそれに乗っかった。
二振りは向かい合って構え、そして打ち合う。人の身の扱いには数年分の優位が稲葉江にあるはずだが、心の乱れが太刀筋に現れてか稲葉江は攻めあぐねていた。しかし、富田江がこうも真剣に手合わせに乗ることも珍しい。安い挑発だろうとこの機を逃すわけにはいかないと、二振りはしばらくの間、激しく刃を交えた。
もはや体力差で勝利したと言ってもいいほどの泥試合の末、勝ったのは稲葉江だった。互いに肩で息をしながら、刀を納める。
向かい合った彼らは、勝敗を反転したような表情をしていた。余裕ある顔で楽しげに笑う富田江に対し、稲葉江は眉間に皺を寄せ険しく富田江を睨む。
「楽しかったよ。それに、お前のことがよく分かった」
「知った口を」
「当ててみようか。稲葉、私に嫉妬しただろう。あの子の——王子様みたいな人と結婚する、なんて酒の席での戯言を間に受けて」
稲葉江の心に刺さった棘の在処を言い当てられ、流石の彼も狼狽えた。
惚れた弱みというのか、どうこうなる気が無くとも己の心を奪った女の言葉ひとつですら気にかかるのが、恋の病というやつだ。強靭な精神を持つ稲葉江もまた例外ではなく、彼女が酒飲みの陽気な刀に囲まれながらへべれけ状態で語った『好みのタイプ』とやらが、忘れられずにいた。
それがまあ富田江とぴたりと重なっていたので——稲葉江はこうも余計な雑念に翻弄されていたわけだ。昔の与太話をどこで聞いたかは知ったことではないが、彼ならばどの筋から聞き出したって何ら疑問はない。
今更この男に口で勝とうなどとは毛頭考えていなかったが、あまりにも無惨な敗北に稲葉江は下唇を噛んだ。ここまで言い当てられれば、もはや言い逃れのしようもない。無言は肯定の意味となるとわかっていて、彼は何の言葉も返せなかった。
富田江は想像通りの稲葉江の反応に満足げである。鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌な顔つきが、稲葉江の神経を逆撫でた。
「そんなお前にいいことを教えてやろうか」
「何を」
最早悪態をつくのも面倒で、稲葉江は素直に返事をした。富田江は勿体ぶるように口角を上げ、恋とかいう可愛らしいものに掻き乱される稲葉江が愉快でたまらないことを微塵も隠さぬ表情で口を開いた。
「あの子が言っていたよ。好みのタイプと好きになる人は違う、とね」
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