据え膳

元ネタは抱かない攻めからです。使用許可頂きありがとうございました。

 夜半、稲葉江がの部屋を訊ねると、襖の奥から返ってきたのは生返事だ。遠慮なく部屋へ足を踏み入れると、恋人である彼女は布団の上でうつ伏せになりながらタブレット端末を眺めている。読書中のようだ。その姿に、稲葉江はつい眉を顰めた。  短針と長針が重なろうとする頃、普段であれば目くじらを立てて咎めたりはしない時間帯だ。しかし、今宵ばかりはわけが違う。稲葉江は時刻を指摘したが、やはり返事は気のないものだった。  明日は時の政府からの指令により早朝から外出することが決まっている。稲葉江も近侍として付き添う予定だ。は、お世辞にも朝が得意とはいえない体質だったので、稲葉江の理想を言えばこの時間には消灯し眠りに就かせておきたかった。  が、彼女にそんな気は更々ないようで、今も入眠を妨げるブルーライトを浴びながら読書に熱中している。稲葉江が露骨にため息を吐くと、彼の意図に気付かない彼女は「どうしたの?」とようやく画面から顔を上げた。 「明日の予定を忘れていないだろうな」 「覚えてるよ。六時に起きて準備して七時半には出る」 「心得ているならば寝ろ」 「えー……」  は子供のように唇を尖らせた。稲葉江がそれに睨み返すと、彼の険しい顔つきに威圧されたのか彼女は渋々とタブレットを定位置へと戻す。想定よりずっと聞き分けの良い彼女に安堵しながら、稲葉江は短刀の誰かが整えてくれた床に入った。  が照明を落とし、部屋は闇に包まれる。それから、布団に潜る音が聞こえた。  稲葉江は眠りに就こうと、仰向けの姿勢で瞼を閉じ体を脱力させた。しかし、数分経っても隣から聞こえる衣擦れの音は止まない。直前まで眩しい画面を見続けていたせいか、どうやらは寝付けなくなってしまったらしい。自業自得と思いながらも、このまま一人眠れぬ彼女を見捨てるのは酷かと、稲葉江は目を開いた。  彼が頭だけを彼女の方に向けると、暗闇でと目が合う。彼女は側臥位で稲葉江を見つめていた。  からどう見えているかは不明だが、打刀の稲葉江は短刀や脇差ほどとは言わずとも、並みの人間よりは夜目が利く。暗い中に見えるその表情が物欲しそうなものであったので、稲葉江はそちらを見たことを後悔した。 「稲葉」 「断る」 「まだ何も言ってないのに」  この関係に収まるまで長い時間を要したふたりだが、恋人でなかった期間も互いを想い続けた分、他人より相手の考えを理解している自負がある。稲葉江は顔を見ただけで、彼女が彼に何を求めているかを理解した。  こんな夜でなければ稲葉江も恋人の可愛らしい夜の誘いに興じたものだが、何せ日が悪い。仮に彼女の願いに応えたとして、稲葉江”は”まるで問題なく決めた時間に目を覚まし、何食わぬ顔で部屋を出られることだろう。しかし、問題はだ。彼女を腕の中に招き入れたが最後、明日まともに早起きをさせてやれる自信がなかった。  これは、実績と経験に基づいた明確な予測である。故に、稲葉江はどれほどその表情に後ろ髪を引かれようと指一本触れるわけにはいかなかった。  もし想定通りの結果となった場合、当然稲葉江にも責任は降りかかる。彼女のはじまりの一振りは稲葉江を男として、刀剣男士としてそれなりに買ってくれているらしい。その信頼を裏切ることは彼にとって心苦しいものだ。  その上、この本丸には彼女と稲葉江の関係をとにかく囃し立てたくて堪らない層がいるのだ。は「応援してくれているだけ」と言うが、彼らの視線からは善意でなく好奇心ばかりが滲み出ている。そんな連中に自ら餌をやるような真似を、彼は到底許せなかった。 「寒いから寝れないかも」 「湯湯婆でも用意するか」 「そこはさ……、『我が抱きしめて温めてあげよう……』じゃない?」  掠れた低音のの声は、稲葉江には似ても似つかぬものだ。それによって、彼の眉の皺が一段と濃くなった。  こんな放蕩した台詞を言った覚えはないが、彼女にはそんな理想があるのだろうか。そんな甘ったるい言葉をかけるらしい彼女の理想の恋人像と自分の乖離に、稲葉江は益々頭が痛くなる。  双璧の片割れの王子様の方と違って、稲葉江にはその願いに応えてやる気はない。その気はないが、まあ、思うところはあった。  別に、稲葉江としては、彼女の期待通りに意識を失うまで蕩かせてやっても構わなかった。ただ、その後が面倒なだけで。翌朝さえぱっちりと目覚めしっかりとしてくれさえすれば、望むものを与えてやったって良い。それこそ、嫌というまで。  それをどうやら、彼女は稲葉江にその気が無いばかりに冷たくあしらわれたと捉えているらしい。恋人の可愛い甘え文句に応えられぬような男だと見定めて。  それがどうにも鼻持ちならない。しかしそこで全てを捨てて理性を脱ぎ捨てられるほど人の出来ていない男ではなかったから、それが余計に稲葉江を苛んだ。  は稲葉江が無言を貫くばかりであったので、とうとう不貞腐れてしまった。もぞもぞとか掛け布団にくるまって、誘いを素気なく断られたことが寂しいのか唇をへの字に曲げている。 「稲葉」 「何だ」 「……えっちなこと、ちょっとだけもだめ?」 「……………」  明かりのない部屋のはずなのに、恋人の頬の赤みだけを稲葉江の瞳孔は不思議と明瞭に捉えた。口までを布団で覆っているせいか、どこか幼くも見えながら、しかしその眼差しは色を求める女のそれである。稲葉江はまた長い溜息を吐きたくなって、右手で額を抑えた。 「ならん」 「なんで」 「……"ちょっと"で終わった試しが無い」 「…………………そうかも」  は得心したようで、仰向けに姿勢を変えた。  彼女の頭に浮かんでいたのがまた別の夜の熱烈に恋人を求める己の姿だというのが、稲葉江には容易に想像がついた。彼は非常に居心地が悪くなったが、この程度の恥で明朝、味方を自称する刀連中の揶揄から逃れられるなら安いものだ、と思った。  ようやく諦めてくれたらしい彼女に安堵し、稲葉江は再び眠りに就こうと瞼を下ろす。 「稲葉」 「まだあるのか」 「じゃあキスだけして。おでこでいいから」  稲葉江は三秒迷った後に身を起こした。  希望通りに額に口付けてやると、唇が触れた瞬間に軽い音が立つ。が「へへへ」と溢した気の抜けた笑いが想定以上に嬉しそうなものだったので、稲葉江は悪い気がしないでもなかった。  結局、は翌朝散々起き渋ったものの、最終的には他の刀の力も借りて予定通りに出立を果たした。  道中、ふたりきりになったタイミングでが「今日は夜更かししてもいいよね?」と訊ねる。稲葉江は「好きにしろ」と返したが、こういう時は大抵の方が疲れ果てて先に眠ってしまうのが目に見えているため、据え膳はもう一夜続くだろうなと彼は思った。

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