香り兆し
お互いの気持ちを確かめ合い相思相愛となった稲葉江とであったが、それ以降ふたりきりとなる機会に恵まれぬまま二ヶ月が経った。
同じ屋根の下で暮らしている以上、幾ら本丸が広く互いの都合があろうとも最低でも三日に一度は顔を合わせることになるので、却って態々約束し合うこともない。しかし恋仲であろうと稲葉江は百数振りいる刀剣の一振りでしかなく、そうなればたったふたりきりで、とは都合よくいかないものだった。
そんな様子を見かねて、ある日古株の刀達が「時間を作るからどこかへ出掛けてきてはどうか」と彼女に提案した。は本丸の長だが、数日彼女が開けたくらいで破綻するような杜撰な運営はしていない。戦時中とはいえ、年頃の娘に好い仲の相手ができたにも関わらず逢引きのひとつもさせてやれないことが、彼女を実の娘のように思う彼らには心苦しかった。
そんなわけで、稲葉江とは装いを整えた後に本丸を追い出された。どちらもデートの作法には疎いので、ひとまず街へ出て腹拵えをし、の好みそうな店を覗き、日が暮れる頃に夕陽の見える川沿いを歩いて、どちらともなしに手を繋いで帰ってきた。
冷やかされるのが恥ずかしくて門の前に着く頃には離してしまったが、青春と名のつくもの全てを取り上げられたような暮らしをしていた彼女にとっては宝物のような時間だった。その後暫くはやはり二人きりの時間を取ることが出来なかったが、彼女はその時稲葉江から贈られた蜻蛉玉の髪飾りを眺めては心を癒した。
稲葉江という男は香りを身につける習慣のある男だった。戦の前に武具や髪に香りを焚き染める刀はそう少なくない。集中力を高めたり緊張を解したりと、それぞれ目的に合わせて出陣前のルーティンとして取り入れている。
稲葉江も同じことで、出陣前の彼からはいつも香が薫ったが、その日はまた違った香りがした。とはいえ、手を繋ぎ身を寄せるまでは気付かなかったほどの微かなものだ。がそれを訊ねると、稲葉江は逡巡の後、場に合わせて香りを変えているのだと教えてくれた。
香水瓶の見た目に惹かれていくつか持ってはいるものの、彼女は日常的に香水をつける習慣がない。オシャレに気を使う人はそういうことをするのか、と感心するに留まった。
ある日、遠征から戻った稲葉江が身を清め終えるなり「土産を渡したい」と声を掛けてきた。
遠征部隊の隊長は豊前江、気心が知れている方がやりやすかろうと、他にも江の刀が編成されている。普段そんな殊勝な真似をすることのない彼が突然そんなことを言ってきたものだから、はすぐに「江の刀に冷やかされたんだな」と得心し、了承した。
指定した時間は一日の仕事をまとめ終えた宵五つ。人を呼ぶにはやや遅い時間だが、土産を渡すだけなら手短に済むだろうし、恋人が相手となれば咎める者はいなかろうと、はそんな気軽な気持ちであった。
律儀にも指定した時間丁度に稲葉江が彼女の元を訪れる。寝衣の着物と流して波を描いた髪が、少しだけ彼の厳しい表情を柔らかく見せた。
「それで、お土産ってなに?」
「急くな。……口に合うかは知らん」
稲葉江が手渡した包みを待ちきれないという様子では開封した。丁寧に色紙に包まれた箱の中を開くと、焼き印の入った最中がある。
「わぁ最中だ! 美味しそう。ありがとう、稲葉」
ご機嫌ににこりと笑いかけたに稲葉江は言葉も返さなかったが、そんな素っ気ないとも取れる反応を彼女は意に介さない。らしくないことをしていると自覚した上での照れ隠しのようなものだと彼女は心得ていた。
が箱に蓋をして元あったように包み直すと、稲葉江が「食わんのか」と口を挟む。夕飯後だが、普段から「夜食は心の栄養だから満たされる部分が違うんだよ」と詭弁を述べながらこの時間帯から菓子やら間食やらを口にしていることが珍しくない彼女だ。大人しくそれを仕舞おうとしていることが、稲葉江には意外に見えたらしかった。
は返事に数秒詰まった後、「最中は口の中くっついちゃって恥ずかしいから、一人で食べる」と言った。稲葉江は甘味を好まぬ性質で、料理上手な長船が全員分にと作った菓子も目についた見目の幼い刀に譲ることが多い。加えてそういった乙女の恥じらいにも疎かったため、彼女がその場で最中を食べない理由にも思い至らなかった。
本来の目的である土産を手渡しても、稲葉江はの部屋を出たりしなかった。てっきり用が済んだらさっさと出ていかれるものだと思っていた彼女は、恋人とのふたりきりの希少な時間に喜びながらも、どう振る舞うべきか困惑していた。何せ、この男以外に恋人の例を知らない。変に気取らず、最中を食べて感想を伝えた方が良かったのではないか、などと後悔し始めた。しかし一度綺麗に包み直したそれを開くのは卑しい気もして躊躇ってしまう。そうこうしているうちに、無言のままの時間が続いた。
「……もうちょっと、こっち座っていいよ」
「…………」
居心地の悪さとこの時間を手放し難いという気持ちが争って、はそんなことを口にした。稲葉江は彼女に言われるがまま、座布団ごと彼女に身を寄せる。
がそっと稲葉江の腕に体重を預けると、それを触れることへの了承と取った稲葉江がの肩を抱き寄せた。それだけで彼女の心臓は早鐘のように鳴って、途端に落ち着かなくなってしまう。膝の上で握った拳を開いたり閉じたり、パジャマのボタンをいじったりと、忙しなく動かしていなくてはどうにかなりそうだった。
ふと顔を上げると、嗅ぎ慣れぬ香りがの鼻腔を擽った。けれど覚えがある。それは、いつか出かけた時に稲葉江がつけていたものと同じであった。場面を分けて香りをつけているのだ。この香りは、——
「っ……!」
「……何だ」
「な、なんでも、なんでもない」
「そうは見えん」
稲葉江の腕が肩に回されていなければ、今頃彼女は仰け反って床に後頭部を打ち付けていたことだろう。奇妙な恋人の様子に稲葉江は眉根を寄せたが、が「本当になんでもないからね」としつこく言えば追及はしなかった。
どうということはない。ただは迂闊で、日が落ちた時間にひとり男を部屋に招くことに対し特別意味を見出していなかった。だがそれは彼女の思い過ごしであり、相手はそうとも限らない。それを、香りが教えてくれただけの話であった。
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