Sink

共に眠れぬ夜を知れ

 作戦に穴はないはずだった。任務の内容も推測と違わず、敵の勢力も予想通り。本来ならば、悪くて軽傷、調子が良ければ傷ひとつなく完遂出来たはず。
 帰還した部隊を出迎えたは、御手杵に担がれた稲葉江を目にし、血の気が引いた。稲葉江も大概恰幅の良い男だが、槍である御手杵には及ばない。浮いた爪先は力無く垂れ下がり、割れた額からは赤い雫が滴って御手杵の上着を汚していた。
「い、稲葉。なんで……」
 は部隊長である歌仙兼定に視線を送る。彼は、の始まりの一振りだ。信頼に厚く、本丸随一の実力者である。そんな彼が理由なくこのようなしくじりを犯すとは考えられず、彼女の表情は困惑し切っていた。
「きみ、事情は後で話そう。今は手入れが先だ。……御手杵、手入れ部屋まで運んでやってくれるかい」
「あいよ」
「……わ、わかった。ごめん、御手杵。お願い」
 歩幅の広い御手杵が急いで手入れ部屋に稲葉江を運び込むのを、は早足で追った。手入れ部屋の敷布団に御手杵が稲葉江を横たえさせている間に、は手入れの支度をする。道具を並べる手の震えが止まらず。は自らの手首を拳で強く殴った。
「なぁ、あんたから見て最近の稲葉、おかしいとこなかったか? あんたら、良い仲なんだろ」
 手入れ道具を手にしていたが、御手杵の言葉にぴたりと手を止めた。
 稲葉江の血を拭ってやっていた御手杵は、待てど暮らせど返事を返さない彼女に違和感を感じ、振り返る。そして、その顔を見てぎょっとした。目釘を握ったまま、は涙をぼとぼと流している。
「な、泣くなよ! 責めてるわけじゃなくってさ……あーっ、悪いって!」
「ちがっ……なんか急に止まんなくて……ごめん、御手杵がそういうつもりじゃないのはわかってるんだけど……っ」
 服の裾で涙を拭き始めたを見ていられず、御手杵はオロオロと狼狽えた。涙を拭ってやろうにも、彼が手に持っているのは稲葉江の血に塗れた手拭いだけだ。
 刺すことは得意だが、生憎と女の泣き止ませ方は知らない。それが自らの主人で、かつ旧知の中である稲葉江の恋人であれば尚のこと。結果、御手杵は彼女が泣き止むまで手を浮かせて言葉で宥めるしかなかった。

 手入れを終え、〝稲葉江〟についてはが施せる処置を終えた。あとは肉体の回復を待つばかりである。
 泥のように眠った稲葉江を置いて手入れ部屋を出たは、歌仙兼定と御手杵を呼んだ。その頃には少しばかり平静を取り戻し、落ち着いて話をできる状態となっていた。
「任務については報告書の通り。稲葉江の負傷以外は滞りなく完遂したよ」
「おつかれさま、ありがとう。それで、稲葉の件だけど」
 が歌仙兼定から報告書を受け取る。稲葉江の名前を聞くと、歌仙兼定は悩ましげに瞼を伏せた。
 今回の任務の情報をは洗い直したが、特に異変は見当たらない。検非違使などのイレギュラー要素によって想定外の負傷を負うことはあれど、今回はその要因に心当たりがなかった。
「ああ。……これは僕の見立てだけどね、彼、碌に眠れていないんじゃないか」
「えっ」
 歌仙兼定の言葉は意外なものだった。が意見を求め、御手杵に視線をやる。彼は後頭部をばりばりと掻いて、気まずそうに口を開いた。
「俺も同意見だ。さっき聞きたかったのはそのことなんだけど……聞き方が悪かったよな」
「そっか……。ごめん、動揺して」
「何かあったのかい?」
「ううん! 気にしないで、大したことじゃないから。それより、寝れてないってどういうこと?」
 歌仙兼定は人としても主としても未熟だった頃からのことをよく知っている。そんな彼は過保護な一面があり、御手杵の言葉に動揺して涙を流したと知れば、御手杵が不要に問責されるかもしれない。彼女は話を誤魔化して先を促した。
「交戦の最中さなかだったから僕もずっと見ていたわけではないけれどね、稲葉江が傷を負った時は大した攻撃ではなかったと記憶している。普段の彼なら躱せただろう」
「つまり、疲れてたから傷を負ったと?」
「その可能性が高いと見ているよ」
 は腕を組んで思案し、手を叩いて管狐を呼んだ。どこからともなく現れた小さな狐は、「どうかなさいましたか」とちょこんと畳の上に座った。
「この任務の出陣時の部隊の状態を確認したいんだけど」
「第二部隊ですね。この通りです」
「……えっ」
 管狐は端末を用いて部隊に編成された刀剣男士の状態を数値化したものを表示した。六振り並んだ名前は間違いなく編成した刀剣男士のものだが、彼女が声を上げたのは稲葉江の状態表記だ。出陣時の稲葉江は、酷い疲労状態と示されていた。
「私が見た時はそんなに疲れている様子はなかったのに……」
「これはあくまで正確に数値化したもの。本刃たちが状態を偽ることはあり得ますので」
「そうなの?」
 が歌仙兼定と御手杵に視線をやると、二振りは同時に頷いた。歌仙兼定は「新刃が来るたびに身体に異常や疲れがあれば迅速に主に報告するようにと教えているつもりだけれどね」と付け加える。
 も出陣前に、隊員全員に体に異常はないか確認していた。これは毎度のルールで、何か異常を感じるものがいれば編成を入れ替えることとしている。
 特に、人の身を得て浅い者は感覚が鈍いため、自身の疲労に気付けない。そのため、教育番長をはじめ歴の長い者が顕現して間も無い刀剣の疲労状態に気を配ってやる必要があった。
 出陣前、稲葉江は彼女に問われ「変わりない」と答えたはずだ。管狐のデータを見る限りでは、あの言葉が偽りだったということになる。
 稲葉江がその身を得てからは、もう二年が経過している。戦をよく知る彼だからこそ、些細な状態変化が戦況を左右する可能性があることを理解しているはずだ。そんな彼が自身の疲労を隠匿する理由が、には見当たらなかった。
「ここしばらくの出陣状況も確認したけれど、別段彼に無理を強いていたとも思えない。原因があるとすれば生活面だと思ってね」
「……つまりふたりは、稲葉が休めてないんじゃないかと思うってわけか」
 二振りは同時に頷いた。はうーんと首を傾げたが、考えれば考えるほど心当たりが出てこない。毎晩共に眠っているため、他の刀剣よりは共に過ごす時間を長く取っているはずだ。その中で、稲葉江が体の不調を訴えたことはなかった。
「つかぬことをお聞きしますが、審神者殿と稲葉江は恋仲でいらっしゃいますよね」
 本当につかぬことだな、と思いながらは管狐を見下ろす。恥じらいながらも頷けば、管狐はますますわからないと言った顔をした。
「おかしいですね、審神者殿の霊力を体内に取り込めばここまで肉体疲労が蓄積するはずはないのですが……」
「霊力を……?」
「……こんのすけ」
 はきょとんと目を丸くする。こんのすけは不思議そうに前足を頬に添えた。いち早く何かを察した歌仙兼定が言葉を止めるように咳払いをしてから管狐を呼んだが、管狐はそれを聞き流し言葉を続ける。
「はい。同衾なさっているのにこの状態になるということは何かエラーが発生している可能性が……」
「どうき……?」
「こんのすけ、少しいいかい」
「はい、なんでしょう歌仙兼定」
 先程よりも強い口調で歌仙兼定が管狐を呼び止める。、御手杵、管狐、と三対の瞳が彼へ向けられた。
「こういうのは当人たちの問題だ。勝手な決めつけや推量は無粋だと思わないか」
「し、失礼致しました。ではもしや、審神者殿と稲葉江はまだ清い関係だと?」
「僕の言葉の意味を理解していないようだね。たった今無粋だと言ったばかりだが」
「歌仙、こんのすけ、なんの話?」
 言い合っていた歌仙兼定と管狐の動きが固まり、部屋には沈黙が訪れた。状況を理解できないの顔が、ふたりに交互に向けられる。
 思っていたのと違う話の流れになり、膠着した状況で、沈黙を貫いていた御手杵が徐に挙手をする。がどうぞと御手杵に言葉を促すと、彼は「つまりさぁ」と口を開いた。
「稲葉は主と毎日寝てるけどよく寝れてなくて、交合とぼしてねえから疲労も回復しない、ってことだろ?」
「とぼ……」
「あー、なんだっけ。そうだ、主の時代で言うとこのセックスだ」
「御手杵!」
「いでっ」
 立ち上がった歌仙兼定が力一杯御手杵の頭を引っ叩いた。御手杵は前のめりになって、殴られた後頭部を摩る。
「いってぇ……今本気で殴っただろ」
「僕が本気で殴ったら首から上が残っているはずがないだろう」
「……それもそうか」
 彼のあけすけな言葉でようやく意味を理解したは、顔のみならず耳や首筋までもを紅潮させた。固まってしまった彼女の代わりに歌仙兼定が管狐と御手杵を下がらせ、部屋にはふたりきりになる。
 自惚れではなく、歌仙兼定とはなんでも話し合える仲であった。この本丸で、を最もよく知るのは自分だと歌仙兼定は自負しているし、も彼を一番に頼った。
 最初こそに恋愛相談をされそうになるたびに、恋慕う思いは胸に秘めて当人同士で育むべきだと辞していた歌仙兼定だが、と稲葉江の関係が少しも進まないと知って以降は、風情を脱ぎ捨て彼女の保護者として全力で助力している。今回もその役目が回ってきただけの話であった。
「僕としてはこういうのは当人同士の話だから口を出すつもりはないんだけどね。君の時代ではあまり拘らないと聞いたが、嫁入り前だろう。他人に干渉されて決めることではないよ」
「うん……」
「責任は部隊や主に迷惑がかかると分かっていて状態を偽った稲葉江にある。原因がなんであれ、自己管理不足だ。篭手切江あたりにでも教育し直させよう」
「うん……」
 まさか稲葉江の——恋刃こいびとの負傷の一因に自分の損害があると思わず、は見るからに気落ちしていた。
 寝食を削って勤めるほどではないにせよ、審神者という職は多忙だ。数百振りの魂がその手にかかった責任感は計り知れず、大の大人であれど精神を病んで退くことも珍しくはない。そんな中で彼女は若い頃からこの仕事に尽力し、ここまでやってきた。そんな、青春全てを戦に捧げた彼女にやっと訪れた春である。
 眠る前、月だけが知る稲葉江との語らいは、過酷な戦に身を投じる彼女に取っての憩いの時間だった。無口で無愛想で仏頂面の彼が、この時ばかりはほんの少し表情と声を和らげる。
 刃文のように鋭い鉛色の視線が愛おしげに細められ、その先に自分がいるのだと思うと彼女はこれ以上なく心が満たされた。心から愛した人に愛されるとはこうも充足した気分になるのだと、彼女は彼と出会って知ったのだ。
 その時間がまさか、彼の妨げになっていただなんて。は衝撃を受けると同時に落胆した。けれど愛しいひとの命には変えられない。今回はお守りが間一髪彼の命を救ったようだが、次同じ状況に陥った時、今度こそその命は潰えるだろう。今更彼を失うなど、耐えられそうに無い。
「稲葉が目を覚ましたら、話をしてみる。みんなの本分は戦うことなんだから、私がそれを邪魔しちゃいけないよね……」
「……ああ。ゆっくり二人で話し合っておくれ。何かあれば、相談してくれて構わない」
「ありがとう、歌仙」
 部屋を出て、は自室へ戻る前に手入れ部屋を覗いた。未だ意識を取り戻さない稲葉江は、硬く瞼を閉ざしたまま目を覚ます気配がない。わずかに上下する胸の動きがなければ、死体と見間違う程に静かな眠りであった。

「——そういうわけだから、今夜からは自分の部屋で寝てもらって大丈夫。これまで、ごめんね。気付かなくて……」
 傷を癒やし復帰した稲葉江は、これまで通りの就寝時間に合わせて彼女の部屋を訪れた。
 普段は二組敷かれた布団が今宵は一組しか敷かれておらず、まずそのことに眉を顰めたが、の言葉に稲葉江の表情はさらに険しいものとなる。向かい合って正座した彼女は膝の上で拳を握り込んでいる。望んでこんなことを言っているわけではないのが、稲葉江から見て明白であった。
「先の出陣の負傷の件なら、あれは己を見誤った我の失態だと詫びた通りだ。二度とあのような手抜かりはせん」
「そうじゃないの。私と一緒だと稲葉、寝れないんでしょ。戦関係なく、それは良くないことだから」
 稲葉江が眠っている間にどのような話がなされたのか、彼は知らない。故に、自身が眠れていないことを言い当てられ彼は静かに息を呑んだ。しかし、一方的に話を進められては堪らないと稲葉江は言い返す。
「我は構わん」
「構わなくないよ……」
 夜に似合わぬ硬い稲葉江の声に、の声が沈む。
 稲葉江が眠っている間、が彼の身近な人物に此度の件について尋ね回ったところ、彼が頻繁に仮眠を取っていることがわかった。もちろん、日々の当番や任務、鍛錬に差し障らぬ範囲の話だ。にも勘付かれぬよう、夜眠れない分を補うように、ひっそりとその身を休めていたという。
 これまで気付けなかったことには自己嫌悪した。どこまでも自分本位で、恋刃の都合を微塵も考えられない愚かな女だ。彼の優しさに甘えて、思い遣ることをしなかった。そんな自責が重く胸にのしかかって、ここしばらくはずっと肺が苦しい。
「言うまでもないことだけど、稲葉は私の恋人である前に刀剣だから。戦うのが本分でしょ。私のせいで負担が掛かって折れたりなんかしたら、耐えられない。稲葉が私のこと大事にしてくれるのわかるから、私も稲葉のことちゃんと大事にしたいの……」
 は俯いて、膝にぽたぽたと染みを作った。稲葉江はその様を見て、開きかけた唇を閉ざし、ぐっと言葉を飲み込む。
 この男は、一等恋人の涙に弱かった。彼女が瞳を潤ませているのを視界に入れただけで、臓腑が腐り落ちたような不快感で体の内側が一杯になる。ともすれば呼吸を忘れてしまいそうになる程の苦痛に、稲葉江の表情が歪む。
 すると、ちらりと彼の顔を盗み見たがまた表情を曇らせた。元より、強く意見を主張するのが得意なたちではない。稲葉江の表情が、意図せず溢れた涙を疎ましく思ってのことだと解釈し、少しでもそれを表に出すまいと顔を背けた。
 恋人同士の夜とは思えぬ重苦しい空気に、稲葉江が腰を上げる。の視線が自然にその動きを追った。
 稲葉江はまだ涙で濡れたその瞳を見下ろし、何か言いかけてから、部屋の戸へとつま先を向ける。彼女の方も振り返らず、「夜分遅くに邪魔をした」と言って部屋を出て行った。
 ひとり取り残されたはそのまま床に崩れるように横になり、先ほどまで彼が座っていた座布団を見つめる。彼の主として正しい選択をしたはずだ。そう思いながらも、自分は何かとんでもない失態を犯したのではないかという気がしてならない。
 彼の、歪められた形のいい眉が忘れられない。言葉を押し殺すように強く握られた拳が、かつては優しく自分の髪を撫でてくれたものと同じに見えなかった。
 恋人の関係を解消したわけでもないのに、一番好きな男の存在が今最も遠く感じていた。


 以降のは、目も当てられない状態であった。
 稲葉江がいなくなると、途端に就寝前に何をすればいいか分からなくなってしまい、どうにも寝付けない。稲葉江と恋仲になる前は当然であるが、その後も彼の遠征時などは一人で眠っていたはずだ。けれど、途端に眠り方を忘れてしまったようには床で意識を手放すことが出来なくなった。
 暇つぶしに電子端末を眺めているのが良くないのかと読書に切り替えたが、それでも目は冴えたままだ。苦渋の選択でいつぞやに酒飲みの刀に遠征の手土産としてもらった酒を引っ張り出してきて、燃えるような喉の熱さを無視して流し込めば、気絶するように眠りに落ちた。が、睡眠の質はひどいものなので翌日は使い物にならない。
 手持ちの酒を飲み切った彼女は厨に保管された宴会の残りに手を付けたが、いち早くが質の悪い寝酒に頼っていることに勘付いた厨当番によって撤去された。調味料棚を開くと、彼女の行動を先読みしてご丁寧にみりんと料理酒だけが姿を消している。
 稲葉江は睡眠不足を取るに足らないことだという風に言っていたが、これ程まで苦痛な物だとは身を以て知り、己が彼に与えていた負担の重みを思い知らされた。この状態で戦場に出るだなんて、信じられないことだ。
 日を追うごとに悪くなる彼女の状態に、刀剣たちが気付かないはずがない。全てを知らずとも、派手に負傷した稲葉江が手入れ部屋での休養を終えてからああなったのだと察することは容易だった。
 彼女の不調は実務にも大いに影響して、ここのところ総務部と勘定部はぴりぴりとしている。何回目かのミスの指摘で山姥切長義が小言ではなく不慣れな気遣いを見せた時、さすがにヤバいのかもしれない、とはようやく自覚した。

「うおっ、あぶねー……踏むところだった」
「きみ、こんなところで何をしているんだ。仕事が溜まっているんじゃなかったのかい?」
「ああ、歌仙と御手杵。ははは、私のことなんて踏んでくれていいのに……玄関マットくらいなら私にもできると思うからさ……」
「どうしたんだよ卑屈になって……」
 御手杵は廊下の真ん中に大の字で横たわったに憐憫の眼差しを送りながら、その体を抱き起した。脇の下に手を差し入れて持ち上げると、人間に抱きかかえられた猫のようにの身体がぐでんと伸びる。宙に浮いた彼女のつま先がぷらぷらと揺れた。
「ミスが多すぎて執務室から追い出されたの。松井は気晴らしてもしておいでって言ってたけど、あれは完全に邪魔だから出ていけって意味だったね」
 松井江からここ最近の執務室の状況を聞いていた歌仙兼定は、慰めの言葉を持たなかった。ここしばらくの彼女は、ひとつ仕事をこなせばみっつ仕事を増やす有様であるらしい。
 執務室を追い出されたは、せめて誰かの役に立とうと厨に向かい手伝いを申し出た。
 しかし厨番長の燭台切光忠は視線を泳がせる。他の面々が殺気を帯びた表情でキャベツを微塵切りにしている以上、手は足りているという言い訳が使えない。長船らしいカッコいい文句が思いつかなかったらしい彼は、迫真の表情で「僕たちはまだ君の血の味を知りたくないから」と彼女を追い返した。
 かくなる上はと、今度はいつも人手不足を嘆いている畑に向かった。
 最初こそ桑名江は喜んで彼女を歓迎したが、うっかり植えたばかりの苗を掘り返しているのを見るや否や、戦場でも見ない速さでの手から農具を取り上げた。普段と変わらぬ穏やかな口調ながら有無を言わさぬ威圧感で手伝いを退けられまたしてもは追い出されてしまった。
 そんなわけで、居場所を失くした彼女はこうしてここでマットの役目を務めていたわけである。
「稲葉江とは話し合ったんじゃなかったのかい」
「話し合ったよ。それで、負担をかけたくないからもう部屋には来なくていいって言った」
「それできみがそんな有様では元も子もないだろう」
「……慣れたら元に戻るって、たぶん。みんなには迷惑かけて申し訳ないけどさ……」
 足を床に降ろされたががっくりと肩を落とす。
 自身の不出来を嘆き、自嘲する笑い声は渇いていた。口ではこう言うが、日に日に悪化の一途を辿っていることには彼女も勘付いている。それでも、強がりを言わざるを得ない状況だった。
「なぁ、なんで対策が稲葉と一緒に寝ない、なんだ?」
 ふと御手杵が至極不思議そうにに訊ねた。は何を言っているんだと目をじとっと細くする。
「なんでって……稲葉が私と一緒にいると寝れ、ないから、でしょ……ぐすっ」
「うお、落ち込むなって!」
 は自分で言いながら自分の言葉に傷ついたのか、一語ごとに声色を沈ませていった。図らずの急所を刺した御手杵は、申し訳なさそうに彼女の背を擦る。
「そうじゃなくってさ、あー、なんて言うのかな。稲葉があんたの横で寝れない理由わけを解消すりゃいいんじゃねえかなって」
「私の横で寝れない理由……?」
 瞬間、何かの気配を察知した歌仙兼定の視線が鋭くなったことには気付かない。御手杵は右半身に殺気を感じながら、らしくなく言葉を選んで、何もわかっていない様子のに自分の意図を伝えようとした。
「寝れない理由なんて……落ち着かないからじゃないの。私といるとこう……気が立つとか」
「そりゃあんたの想像だろぉ? 稲葉はなんて言ってたんだよ」
「それは……聞いてない、けど……」
「だろ? 話し合いってそっからだって、多分」
 歌仙兼定は自身が危惧したのと違う方向に話を進める御手杵を見て、視線を緩ませ彼の言葉に同意し、頷く。
 は腑に落ちない様子であったが、御手杵の助言は的を射ていた。対処を誤って不備が起きているなら、その方法を変えるしかない。
「でも今更なんて言えばいいんだろう」
「心配しなくても稲葉はあんたの話ならなんだって聞いてくれるって。もう一回喋ってみろよ」
「僕も同意だ。きみのことだから、一方的に捲し立てて碌に彼の話を聞いていないんだろう」
「うっ」
図星を刺されたは、子供っぽく口をへの字にした。
 確かに、あの夜の稲葉江は何か言いかけていた。それを、彼女が泣き出したあまりに言い出せなくなったのだろう。
 本来の彼は目的に向かって真っ直ぐで言葉に偽りはなく、鋭い刃物じんぶつだ。けれどの前では、彼女を思い遣るあまり口を閉ざすことがある。それを聞かずして何が話し合いかと、は自らの行動を顧みた。
「確かにそうだね、ありがとう」
「それに寝るのがダメならさ、こんのすけが言ってたけど交合せば治るもんなんだろ? だったらそっちで……」
「御手杵!」
「うおっ、あぶね!」
 歌仙兼定の手刀が空を切る。素早くしゃがんだおかげで、御手杵の頭はまだ体とくっついていた。もし死角から繰り出されていれば、今度手入れ部屋を使うのは御手杵になっていたはずだ。
「悪かったって! でもこういうのはちゃんと言わなきゃわかんないだろ!」
「言い方ってものがあるだろう!」
「あー、やっぱわかんなかったか? 主の時代だとセッ」
「つ、伝わってるから大丈夫だって! 歌仙も怒らないで、私一応もう大人なんだから……」
「……それもそうだね。取り乱してすまなかった」
 彼女の時代で、はもう成人の扱いであった。
 しかし、まだ子供だった頃から彼女をよく知る歌仙兼定の父性染みた過保護が抜けないのも仕方ないと思えるほどに、本丸という幽世で育った彼女は世間知らずだ。特に男女交際については、真っ当に育った女学生の方がよく知っているだろう。
 不躾な性欲の視線に晒されることもなければ望まずアダルトコンテンツに触れることもない。平たく言えば性を意識する機会に恵まれなかった。
 持っているのはフィクションで得た付け焼刃の知識だけ。恋人が出来て尚、それを自分事のように捉えられていなかったのである。

 御手杵に背中を押されたは、稲葉江がいるであろう洗濯用の竿が掛かっている場所へと向かった。
 だだっ広い庭に洗い立てのシーツがはためいている。最初に彼女に気付いた洗濯当番の篭手切江に声を掛けると、篭手切江が稲葉江を呼んだ。
 二人の仲を案じていたためか、が洗濯仕事を手伝いに来たのではないと分かったからか、はたまたその両方か――篭手切江の表情は明るい。
「何の用だ」
「……え、っと」
 洗濯ものの合間から顔を出した稲葉江の表情は険しい。はその空気に気圧されてたじろいだ。
 しかし、ここで引くわけにはいかない。は機嫌を取るように、少し声の調子を高くした。
「あのね、前にもう来なくていいって言ったけど、やっぱり一緒に寝て欲しい……」
 は口に出してから、人前で言うことではなかったかもしれない、と思った。都合がいいことを口走っている自覚がある上、の胸の内には野望が掲げられている。あわよくば稲葉江と関係を進展させ、疲労問題を解消しようというものだ。
 稲葉江はややあって、「今宵は先約がある」と口にした。が落胆したようなほっとしたような声で「そうなんだ」と漏らせば、シーツの間から篭手切江が飛び出し「いいえ、今夜稲葉せんぱいはふりーです! どうぞお二人でお過ごしください」と口を挟む。
「えっ」
「本当はめんばあの集いがあったのですが、たった今無くなりましたので! お気になさらずに」
「……篭手切」
 篭手切江を睨む稲葉江、外向けの笑顔を浮かべる篭手切江、本当に彼の時間をもらっても良いのか、迷う。三人は暫し見つめあっていたが、稲葉江が諦めたようにため息を吐いたことで状況が崩れた。
「……承知した。今宵向かおう」
「あ、ありがとう。……篭手切もごめんね」
「いいえ。お二人の仲がいいと私も嬉しいです」
 篭手切江はきらりとアイドルスマイルを浮かべ、稲葉江からのじとりとした視線を黙殺していた。
 ひとまず約束を取り付けたは、執務室へと戻った。急ぎの仕事は粗方片付けたのか、ぐったりした山姥切長義と松井江が休息を取っている。
「おや、顔の血色がいいね。頭は冴えたのかな」
「まあ、そんなところ。ごめんね、ふたりに負担かけて」
「謝罪はいらない。その分きっちり働いてくれればね」
「うっ、努力します……」
 は選り分けられた彼女の印や確認が必要な書類に向き合った。恐る恐る山姥切長義に確認してくれと回せば、今度は「問題なしだ。頭が冴えたというのは嘘じゃないようだね」と口角を上げる。それでやる気に火がついた彼女は、次々と仕事をこなしていった。


 陽が落ちてしばらく経ち、寝支度を始める時間。が二組敷いた布団の上で座って待っていると、約束通り稲葉江が部屋を訪れた。稲葉江はいつも通り、彼女の隣に腰を下ろす。の様子が普段と違うことに、彼はもう勘付いていた。
「それで、何の用だ」
「何の用って、前みたいに一緒に寝てもらおうと思って」
「我のためにそれはやめたのではなかったか」
 我のために、を態とらしく強調され、は押し黙った。気遣いと称して己の意見を押し通したことを根に持っているらしい。がごめんね、と呟いたが、返事はなかった。
「前はその、私の考えを押し付けてごめん。稲葉の話もちゃんと聞くべきだった」
「…………」
「だからその、……えっと。お詫びとかじゃ、ないけど」
 が姿勢を変えるのを見て、稲葉江が顔を上げた。
 は稲葉江の膝の上に乗ると、彼の上半身に抱きついた。勢いよく体重を預けたものの、稲葉江の鍛え上られた体はその程度では揺らがない。
 一体何を企んでいるのかと稲葉江は彼女の行動を訝しんだ。少なくとも彼の知る彼女は、このような方法で男に媚びる技を知らないはずだ。ただ甘えているだけなら構わず好きにさせてやるつもりであったが、そうは見えない。
「何の真似だ」
「どきどきしない?」
「何の真似だと問うている」
「う、わかった……」
 会話が成り立たない彼女に眉を顰めた稲葉江は、その後目を見開いた。
 稲葉江の返事を否定と取った彼女は、ワンピース型のパジャマの裾に手をかけるとそれを脱ぎ捨てて下着姿になった。白い肌が顕になり、稲葉江は咄嗟に目を逸らす。
「これならどう? どきどきする?」
「……巫山戯ふざけているのか? 冗談だとしても笑えん」
「ふざけてなんかないよ。こういうことしたら、眠れなくても疲労しないってこんのすけが……」
「下らんな」
 氷点下の声色に、の背筋が冷たくなる。稲葉江にこうも手酷くあしらわれたのは初めてで、触れている皮膚からは体温が伝わるのにひどく彼を遠く感じた。
「わ、わかってるよそんなの! でもだって、もう稲葉がいないと寝れないの。でもそしたら稲葉は疲れちゃうから、だったらこうするしかないじゃん」
 外気に触れた肌が鳥肌を立てた。稲葉江がちらりとに視線を落とす。首から下を見るまいと動く眼球に、は居心地が悪くなった。
「我に、己のために好いた女に慰めさせる下衆に成り下がれと」
「そうじゃない……」
「この状況では他に捉えようがないだろう」
「…………」
 は唇を尖らせる。光景だけ見れば閨事の入り口に見えたが、稲葉江の膝に乗った彼女の表情はまるで拗ねた幼子だ。
 が肌寒さに身慄いすると、稲葉江は掛け布団を掴んで彼女の肩にかけた。そして布団で彼女の体を包んでしまい、膝から下ろす。そのまま体を横たえて子供を寝つかせるような姿勢にし、隣に稲葉江も頬杖を突いて横になった。
「馬鹿な真似を」
 詰るような言葉でありながら、その声色は優しげだった。稲葉江はの瞼を手で塞ぎ、彼女の視界を暗くする。
「…………わがままで勝手なことしてるって、ガキっぽいから魅力もないって言いたいんでしょ」
「話を聞け」
「……」
 はこれ以上もう何も言えなくなってしまった。
「何を誤解しているかは知らんが、すべて我が望んでしたことだ。改めて誓うが、二度とあのような過ちは犯さん。次同じことがあれば、甲斐性の無いなまくらだと捨てるがいい」
 稲葉江ともあろう男にここまで言わせてしまえば、はもう一緒に寝ないなんて冗談でも言えなかった。暗闇の中、どんな顔をしてこんな甘ったるい事を口にしているのか彼女は想像する。彼女の思い出す稲葉江は、いつも背筋が伸びて凛々しく逞しく、そしてこちらを見る時だけは一等優しい眼差しをしている。
 不思議なことに視界を塞がれて以降、ここ数日あれだけ眠れなかったというのに、こうして稲葉江の声を聞いているだけでうとうとと睡魔が襲ってくる。声と体温もさることながら、すぐそばに恋人がいるという安心感が彼女を微睡みへと導いた。
「稲葉、もっとくっついていい?」
「ならん」
「じゃ、手だけでも」
「…………これで良いか」
 稲葉江が彼女の瞼を押えていた手を差し出すと、おくるみ状態のは布団から腕を伸ばしそれを掴んだ。
 稲葉江ともあろう男が碌に恋人と交合さず手を繋いで寝ているだなんて、旧知の者が知れば笑うだろうか。けれど惚れた弱みとでもいうのか、今の稲葉江には下らぬ幼児の我儘のような彼女のささやかな願いを退けることが、どうしても難しかった。
「稲葉はどうして私と一緒だと寝れないの?」
「惚れた女を前にして熟睡できる方がどうかしている」
「……じゃあ私のことを好きな限り稲葉は一緒に寝れないってこと?」
 惚れた女、の言葉が照れ臭かったのか、の顔が半分掛け布団に埋まった。
「いずれ慣れる」
「慣れたらもう私にどきどきしない……?」
「………………」
「そもそも、私に興奮するんだ、稲葉って」
「今度は不能扱いか」
「違うよ。想像つかなくて」
 稲葉江は長く息を吐くと、「わからんか」と呆れたように呟く。が頷き、静かな部屋に肌が布と擦れる音が立った。
「今宵のような不作法は気に食わんが、真っ当に求められれば応じる」
「……もっとわかりやすい言葉で」
「抱かれたいのならもう少し色気のある誘い方をしろ」
「だ…………」
 稲葉江の言葉に、とうとうの顔がすべて布団に埋まった。
 しばらく布にくるまれて悶絶した彼女は、ちらりと目元まで顔を出す。僅かに覗いた皮膚が赤い。稲葉江はそれを見て、やたら色気のある息を交えてふっと笑った。
「い、稲葉こそ」
「なんだ」
 察しが悪く幼い彼女は、ここまで来てようやく恋人が未熟な自分の準備が整うのを待っていたことに気が付いた。
 稲葉江は、が恋人と眠りに就くまでの語らいを心から楽しんでいることを分かっていたのだろう。だからこそ自分の不調を察したうえで口に出さず己で対処しようとして、戦場でらしくない不覚を取った。
 愛を知ったが故の弱さを、この本丸で彼女を好いた稲葉江は風情と読み取った。それはいずれ、天下に届くほどの強さになると信じて。
「…………抱きたいのなら言えばいいじゃん」
 はそう言っておきながら、彼はきっと言えないだろうな、と思った。そんな簡単に話が済めば、ここまで拗れていない。
 彼女の言葉に、稲葉江が目を細める。戦場を鬼神が如き勢いで駆け回る彼とも、本丸での無愛想な彼とも、似ても似つかぬ妖艶な笑みを浮かべた。
「悪くない誘い文句だな」
「……!」
「もう寝ろ。我が言うことではないが、顔色が悪い」
「稲葉は?」
「眠れぬだろうが、努力はしよう」
 稲葉江に促されは瞼を閉じる。
 二人でこうして穏やかに過ごせる時間は久しく、まだ何か話していたいと思うのに、波のような眠気に攫われて意識が遠のいていった。
 程なくしてすやすやと寝息を立て始めた彼女を、稲葉江が一人眺める。彼女の望む通り、可能な限り寝てやらねばと思いながらも、その安らかな寝顔からいつまでも目が離せずにいた。

 一夜明け、そしてまた日が沈む。は今宵も二組布団をそろえて恋人を待った。
 昨日の今日であるが、彼女の胸中は穏やかなものだ。自分の傍は落ち着かないのではないか、という懸念が、思いもよらず彼女の中でよほど大きな不安となっていたようだ。
 それが解消された上に恋人が自分に惚れこんでいると再確認して、すっかり浮かれてしまっていた。
 彼女の部屋はやってきた稲葉江の手には、酒瓶とグラスがあった。彼がこれまで何かを持って訪れたことはなかったため、は不思議そうにそれを見つめた。
「お酒飲むの? 最近禁止されてたから久しぶりかも」
たちの悪い飲み方をするからだ」
「だって、寝れなくて」
 知らぬ間に寝酒のことまで稲葉江に把握されていて彼女は驚いた。誰から聞いたのだろう、とは自身を子供のように可愛がってくれる保護者ヅラの刀たちの顔をいくつか思い浮かべる。
 稲葉江が胡座をかいた隣には腰を下ろす。稲葉江は酒を注いだ杯を彼女に手渡した。
 杯を掲げ乾杯し、が匂いを嗅ぐと、アルコールの奥に芳醇な果物の香りが立っている。口をつけて酒を喉へと送ると、存外するりと口当たりがいい。いくらでも飲めてしまいそうだ。
「美味しい。初めて飲んだかもこのお酒」
「そうか」
「うん。アルコール強そうな香りがするけどすごく飲みやすい」
 小さな杯の中身を飲み干せば、稲葉江が瓶から注いだ。
 そういえば、こうして二人きりでお酒を飲むのは初めてかもしれない、とは気付く。酒宴で飲み交わしたことは幾度もあるが、恋人同士密室でお酒を入れて、なんて展開は初めてだ。それに気付いて妙に緊張し始めたは、それを誤魔化すように調子に乗って杯を傾けた。
 すると、あっという間に酔いが回る。飲みすぎたかもしれない、とが一旦杯を酒瓶の隣に置くと、稲葉江も同じように杯を休めた。
 がふと顔を上げると、稲葉江の鉛色の瞳が彼女を捉えている。あっ、と思った時にはもう遅く、いつもより高い体温に身体を抱き寄せられていた。
 体勢を崩し胸板に手をついた彼女の顔を、稲葉江の手が上げさせる。の言葉も待たず、性急に口付けられた。
 喉を反らせた苦しい姿勢で唇を塞がれ、はつい稲葉江の寝巻の浴衣を掴む。角度を変えて唇を何度も触れ合わせ、息苦しさに開いた彼女の唇をぬるりと熱い舌が割った。
 粘膜同士が合わさると、くちくちと音が立つ。それが明瞭にの耳に届いて、羞恥を煽った。
 稲葉江とは、口付けは初めてではなかった。眠る前に戯れのように唇を合わせることはあれど、ここまで欲望を押し出し全てを食らいつくすようなものは初めてで、は勢いに飲まれそうになる。これまでこの男が隠してきた欲情がこうも激しいものだとは想像もしていなかった。
 唇と共に身体が離されると、の上体が大きく揺れた。多少酒に酔った自覚はあったが、うわばみとは言わずともそれなりにアルコールへの耐性はあるつもりだった。普段は、あの量でここまで体の自由が利かなくなることはない。
 むしろこれは酒というよりも――思考が纏まらず、は崩れるように布団に横たわった。
 稲葉江と触れていた部分がどこもかしこも熱い。稲葉江の唾液で濡れて艶のある唇から目が離せなかった。
 彼は乱雑に片手で酒を杯に注ぐと、ぐいと一気に煽る。かと思えば彼女に覆い被さりながら口付けて、舌を使っての咥内へと流し込んだ。
 重力に従って液体は喉の奥へ流れていき、彼女の鼓動がより激しいものとなる。全身が心臓になったように強く脈打っていた。飲みきれなかった酒が唇から顎、首筋を伝ってパジャマへと染みを作る。
「……さすがに飲ませすぎたか」
「いな、ば。これ、なに……?」
「心配せずとも害のあるものではない。身を緩める薬とでも思え」
「くすり……?」
 ふわふわした意識で深く考えられなくなった彼女は、稲葉江に与えられるものを与えられたまま受け入れた。
 再び唇が合わさると、今度は彼女から舌を差し出す。ざりざりとした粘膜同士が触れ合う感触が癖になったようで、夢中になって貪った。舌が擦れ合う感覚と、同じ酒の味がするはずの唾液が堪らなく甘い。
「いなば……」
「どうした」
「服、濡れちゃった。……脱がせて」
「………………」
 稲葉江は誘われるがままにパジャマの裾を捲った。下着姿になったの肌に、稲葉江が口づけを落とす。リップノイズと共に、空気に触れて冷えた体に熱を灯していくようだ。
 稲葉江は彼女の背中に手を差し入れ下着のホックを外し胸元を緩めると、ブラを押し上げ双丘を露にした。はその様をぼんやりと眺めながら、「稲葉ってどこでブラジャーの外し方勉強したんだろ」なんて考えていた。
 が、そんな思考はすぐさま快楽に押し流される。稲葉江が唇で先端を食むと、は咄嗟に彼の癖のある髪を掴んだ。
「あっ、や」
 ぞくぞくと快感が背筋を這い上がった。尖った舌先が乳首を弾く。次第にそこは立ち上がり、感度を増した。
 稲葉江は彼女が善がる部分を探すように、べったりと舌を付けて舐め上げたり、先を吸ったりした。先端をじれったく掠められるのが好いらしく、舌先で先端を弾くとは一際大きい声を上げる。心得たと稲葉江がもう片方の胸の先を黒い爪先で掠ると、は腰をうねらせて善がった。
「あっ、だめっ、さきっぽ、それ、やだっ」
「善がっているようにしか見えんが」
「っ、きもちよくて、だめなの、っ……!」
「ならばそう言え」
「ッッ、ん、あッ……! きもちい、んッ、あぁっ」
 稲葉江は容赦なくの弱い部分をかりかり、かりかりと執拗に攻め立てた。
 無意識にもっと、もっとと乞うようにの背が弓なりに反り、胸を突き出すような姿勢になる。絶頂には至らない浅い刺激で蕩かされ感度を高められ切った体は、戯れのように指の腹でへそ周りを撫でられるだけでも快楽を拾うようになっていた。
 稲葉江から胸から顔を上げると、は肩で息をしていた。
 酒で緩められた身体は快感だけを鋭く感じ取るようになり、まだ誰にも拓かれたことのないそこを疼かせている。生理的な涙が滲んだ目元を、稲葉江の指先が優しく拭った。
「……いなば」
「なんだ、怖気付いたか」
「稲葉は、怖くないけど……気持ちよくて怖い……っ」
「止めるか?」
 が首を横に振る。それを合図に、稲葉江の手が下半身へと及んだ。
 内腿を撫でると、柔らかな肉に節くれ立った指が沈む。白い肌は汗ばんでじっとりと湿っていた。下着は目視だけでもわかるほどに染みを作って、稲葉江に触れられるのを今か今かと待ちわびている。
「っ、あっ……」
 稲葉江の指が溝を撫でる。下着から染み出した愛液が指に纏わりついて、滑りを助けた。
 初めて触れた場所への愛撫に彼女が抵抗を示さないところを見て、稲葉江は躊躇なく指を這わせる。ゆっくりと焦らしながら撫でてやると息を止めて体を強張らせるのがいじらしく見えた。
「んぅぅっっ!!」
 何度かそこを行き来した後、陰核のある場所を強めに擦ってやると、の腰が面白いほどに跳ねた。電撃のような鋭い快楽に驚いて、目を白黒とさせている。
 自慰の心得もない彼女は、浴室で体を洗う時以外にそこに触れたことはなかった。これほどまでに強く快感を感じる場所が自分にあるだなんて、それすら知らなかったかのような反応だ。
「な、なに、いまの……」
「ここか」
「んあぁあ゛ッッッ!!」
 稲葉江の爪先がさらに強くそこを弾くと、軽く達したのか腰を高く掲げてがくがくと震えた。べしゃっと尻から体を落とし、だらしなく足を開いて胸を大きく上下させている。
「はーッ、な、……っ、なに、」
「気をやっただけだ。その感覚をよく覚えておけ」
「っ、は……」
 これだけで達していてこの先持つのだろうか、と稲葉江は自ら仕込んでおきながら彼女の身を案じた。
 下着を剥ぎ取ると、陰部に触れていた部分が淫らに糸を引く。男を知らないまま自身の気を混ぜた酒に酔わされ愛撫に蕩かされているのを見ると、稲葉江の征服欲が満たされた。
 けれどそれは際限なく沸き上がり、満ち足りた傍から乾いてゆく。彼の内側の欲望に呼応するように、下腹部に熱が集まった。
 陰唇に指を差し入れると、湿ったそこは稲葉江の指を容易く受け入れた。酒のせいか軽く絶頂したばかりだからか、中は熱を持ち肉襞は柔らかく、けれど襞ひとつひとつが稲葉江の指を確かめるように収縮した。
 男を欲しがり戦慄くそこへいきり立った刀身をねじ込めばどれだけ気持ち良いだろうか。想像だけで稲葉江の下穿きが窮屈になる。
 彼女が初物である事を思い出し、稲葉江は丁寧に中をほぐした。それが却って焦ったいようで、は無意識に腰を揺らす。
「あ゛ーっ……、それ、なんかッ……なんかやッ、こわいっッッ、やっ……〜〜〜っ!!」
 腹の内側のざらついた部分を指先で圧してやると過ぎる快感に喉を締め上げられてか、彼女の喘ぎは音とならなかった。
 狭いそこはじわじわと染み出す愛液によって次第に滑りが良くなっていく。これならば、と稲葉江は指を増やし、中を広げるように動かした。
 動きが激しくなり中から滴る淫らな汁が増えるごとに、粘り気を帯びた水音が激しくなる。彼女の喘ぎ声に混じって、絶え間なく膣内を掻き回す音が響いた。
「まだ狭い、か」
「ッ、あ゛ッッ、あ、あ、やぁッッ……! どっちも、だめっ、っ……!」
 中をぐりぐりと指を曲げながら刺激してやり、同時に親指で陰核を潰すと、逃れるように腰が動いた。
 しかし稲葉江は体の距離を詰め膝裏を片手で掴み上げ、太腿を彼女の腹に押し付けながら大きく開かせ拘束する。敷布団に腰を押し付けられる形になり快楽を逃がせなくなったは、なお身を捩って喘いだ。その度にふるふると胸が揺れ、扇状的な光景だ。
「もう一度達しておけ」
「んうぅぅっっっ! あ゛ッ、ああぁっっ……! 〜〜〜ッッ!!」
 稲葉江が同時に激しく中と外の弱い部分をぐりぐりと刺激して追い詰めれば、ビクビクビクッッと全身を痙攣させ、の爪先がぴんと伸び、彼女は絶頂した。
 は全身を雷に貫かれたような快感に打ちひしがれ、彼女の瞳の奥にちかちかと星が散る。気持ちいい感覚を追うように中が収縮し、余韻に腰がぴくぴくと跳ねた。
「ッ、は、……あー、っ……」
 何も知らぬまま彼の身を案じて行為を許した彼女だが、安易な気持ちで足を踏み入れたことへの後悔と、もうこの感覚を知らない自分には戻れないという不安で脳が焼き切れそうだった。そんな負の感情が、覆い被さってきた激しい快感にかき消され、は稲葉江に与えられる快感以外のことを考えられなくなってしまう。
 他でもない彼に自分の知らない扉を開かれることが、狂おしいほどに愛おしく、恐ろしいほどに心地が良い。全てをこの男に委ねてしまいたくなるほどの抗い難い快楽に押し流されそうになっていた。
「……っ!」
 の眼前に稲葉江の男性器が姿を現す。赤黒く怒張したそれはグロテスクで、雄々しく脈打っていた。
 初めてそれを目にしたはぞくりと本能的な恐怖を覚えるが、一度快楽を叩き込まれた彼女は直ぐに己の雌を呼び覚まし、そんな恐れはあっという間にかき消された。膨らんだ先端から亀頭頚がくびれ凹凸の激しいそれに中を掻き回されたいという欲に支配され、逞しいそれから視線を外せなくなってしまう。
「そう物欲しそうな顔をするな」
「してな、……」
「乞わずともすぐにくれてやる」
「っ、い、いなば……あぁっ、ん、ッッ……!」
 切先が当てがわれたかと思うと、それはすぐにずぷずぷと蜜壺に沈んでいった。
 彼女と同じく、稲葉江ももう猛りの我慢が限界だった。元より、辛抱は性に合わない。それを、初心な彼女への愛だけでここまで押し留めてきたのである。これだけ舞台が整えられて、もはや躊躇う理由はない。
「あ゛ーーっっ、あ、ッッッ……!」
「っく、……ッ、さすがに、きつい……か……」
 初めて男を受け入れるそこは散々達したせいでよく滑って、酒の影響か躊躇いなく容易くそれを飲み込み、受け入れた側から窮屈に締め上げる。ぞりぞりと気持ちのいい部分をカリで掻かれて、は求めていた感覚を与えられ大きく喘いだ。
 指を咥え込んでいた襞が今度は稲葉江の魔羅を包んで、形を覚えようとする。十分に蕩けたとはいえ中はまだ狭く、稲葉江の竿を半分ほど喰んだところで奥へとぶつかった。
 流石に今動いてやるのは酷かと、稲葉江は彼女の膣内なかが自身に馴染むのを待った。
 摩擦がなくともぎゅうぎゅうと締め上げられる感覚に、油断すれば全てを吐き出してしまいたくなる。けれどそれを矜持で堪え、彼女の肌を堪能した。
「いなば……っ、いなば、」
「……っく、なんだ」
 は訳もわからず、救いを求めるかのように恋人の名前を呼んだ。
 沈みゆく快楽に突き落としたのは、まさにこの男だというのに。それ以外の言葉を知らないみたいに、は彼の名を繰り返す。
「っ、ちゅーして……ほしい……っ、んあぁっ、……んぅっ」
「は……っ、随分覚えがいいようだ……!」
 稲葉江は彼女の要望に応え、唇に吸い付いた。顔を寄せたばかりに姿勢が変わり、中にあたる場所が変わったからか彼女が小さく喘ぐ。それを飲み込むように、稲葉江はの舌を捉えた。
「っ、ん……ふっ、あ、いなば、なか、おっきくなってる……?」
「……それほど煽る余裕があるなら、動いても良さそうだな」
「ふ……えっ、んぅうぁ……っッッッ!?」
 稲葉江は腰を一度引くと、奥へ叩きつけた。稲葉江の質量に慣れ始めた彼女の中は、突然の動きに驚いたようにぎゅっとそれを締め付ける。その隙を逃さずまた引き抜いては、今度は腹の裏側を掻くように押し込んだ。
 次第に激しくなるピストン運動に、の息が乱れる。
「あっ、やっ、っっ、っ、あ、ッッ、……!」
「っ、……はっ、はぁ……」
 もはや声を出すこともままならないようで、は中も外も激しく悶えた。稲葉江も額に汗を滲ませ、雄としてのこれ以上ない愉悦を噛み締める。
 中だけで達するのはまだ厳しいかと稲葉江が陰核を撫でれば、男根を食いちぎらんばかりの勢いで中が締まった。同時に奥の快感を教え込むように、亀頭を子宮口に押し付ける。精液を搾り取らんとする深い場所の動きに、稲葉江の眉が歪んだ。
「っっっうぅっ! あ゛ッッッ……!」
 稲葉江は緊張の後に弛緩し崩れ落ちた身体を今度は反転させうつ伏せに寝かせると、腰を高く掲げさせた。ふやけそうなほどに濡れそぼった陰部を掲げるような姿勢になり、は羞恥から枕に顔を埋める。
「はーッ、は、ッ……っく、いなば、これっ……はずかし……」
「あぁ、我のものを咥え込む姿がよく見える」
「……!」
 辱めの言葉にの膣がひくりと反応する。稲葉江はひとり、なるほどこういう嗜好かと得心して、ふたたび抽送運動を始めた。
「っ、あ……擦れちゃッ……!」
「ふっ、欲しいものをくれてやる」
「んんんぅう゛っっ、それ、だめっ……!」
「何と言うか教えた筈だが、忘れたか。覚えるまで此処に教え込む必要があるか?」
「っっ……」
 稲葉江が陰核を撫でると、は枕に顔を埋めたまま首を横に振った。すると、「きもちいから、もっとして……」と、掠れるような声で鳴く。可愛い女の懇願に気を良くした稲葉江は、求められるがままに彼女のいい場所を突いてやった。
「っあ、ッ、あぁっ、きもちい、いなば、いなば……!」
「……っく、はッ」
 既に快楽に蕩され欲しがり方だけを覚えたばかりの彼女だけでなく、稲葉江も限界が近かった。求め合うままに、彼の腰の動きが激しくなる。中の快感を覚えたばかりの膣はうまく稲葉江の竿に絡んで媚びるように吐精を促す。
「いな、いなばっ、はげし、っっ、あ、あ゛あ゛あ゛ぁぁぁーーーーーーッッ!!」
「中に出す、ッ……我のものを受け止めろ……ッ!」
 が達すると同時に最奥に叩きつけるように腰を深く突き出して、稲葉江は欲望を彼女の膣内に放ち切った。
 欲していたものを得たことへの達成感と快感で、稲葉江の頭が一瞬、真っ白になる。精を吐き切ったそれがの膣から抜け、彼女は瞳の焦点が合わぬままありとあらゆる体液を吸った布団に崩れ落ちた。
 開いた足の間から、ごぷりと稲葉江の精液が溢れ出る。液体が伝う感覚ですら感じるようで、彼女の淫らな唇がひくひくと反応した。
 その卑猥な光景を見下ろしながら、稲葉江はまたしても欲望が猛り始めるのを感じた。ここまで散々据え膳を食らってきたのだ。一度味を知れば、もう我慢ならない。
 しかし、彼女の方はもう体力の限界が近いようである。繰り返した絶頂の気怠さと強い酒が一度に襲ってきたようで、未だ体全体で息をしながらも意識は遠のいていた。
 流石にこの状態の女を揺さ振り起こし、好き勝手犯すような外道の趣味は稲葉江にはなかった。
 の汗で張り付いた髪を避け、稲葉江は彼女の顔を見た。安らかな寝顔には、もはや先ほどまでの淫靡さは見られない。
 稲葉江は諦観と充足、そして愛おしさを混ぜて小さく溜息を吐き、じっとりと濡れた身を清めてやることにした。

 その後の顛末については、語る必要はない。と稲葉江が何を言わずとも、もう気を揉むことはないのだと主思いの刀たちは察した。戦場での稲葉江の躍進が止まらないのである。
 あまり空気の読めないこの本丸の管狐も、彼なりに二人の関係を案じていたらしい。「おふたりとも仲睦まじいようで」と誉が並び桜の舞う稲葉江の戦績を眺めながら余計な事を口走った彼は、今度こそ歌仙兼定の手によって軒下に吊るされた。


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