Sink

今日はなんか無理かもな

 
 起きた瞬間、今日はなんか無理かもな、と思った。
 頻繁にこういうことがあるわけではない。ただ、時々どうしても今日は何にもできないな、と思う日があった。
 この日は休日で、彼氏とデートの約束をしている。とはいえどこかきちんと予約して行き先を決めていたわけでもなく、いつものように週の中頃に「週末はどうする」と訊ねられたから、「どっか行こう」と返してそれだけだった。
 こういう時は大抵、適当に行き先を決めてドライブがてら美味しいものを食べるだけのお決まりコースになる。運転も彼任せなので何の負担もないはずだが、どうしてもその日は起き出すことすら難しかった。
 時計を確認する。律儀な彼は今頃身支度をしていることだろう。この時間ならまだ間に合うはず、と彼氏に「ごめん今日無理かも」とメッセージを送ると、数分して了承の返事が返ってくる。
 特にこちらの都合を問いただすわけでもない単調なメッセージが、居心地良くもあり寂しくもあり。そういう人を好きになったので不満はないが、こんなことを思ってしまう時点で今の私って結構沈んでるんだなと自覚した。
 変なキャラクターのスタンプを送って連絡を終えたことにして、私は布団に潜ってSNSを眺めた。
 大して役に立つ情報もないのにスワイプの手を止められず、こういうのがよくないんだろうなと思ってもスマホを投げ出してしまえば途端に暇になる。とりあえずカーテンだけでも開けるか、と考えてからそこからまた十分くらい布団の中でモゾモゾしてしまって、このままではあっという間に日が暮れてしまうことだろう。貴重な休日を無駄にしてしまうことへの強迫観念が募って、それがまた私の心を押しつぶす重荷へと変わってしまうのに。それでも私の体は柔らかくて暖かい布団から逃れられない。
 あれからどのくらいの時が経ったのか。ふとインターホンが鳴る。特に郵便物が届く予定もないので無視していると、暫くしてからまたベルが鳴らされた。
 なんなんだよ、とイライラしながらも、仕方なく立ち上がってオートロックのモニターを見ると、画質の悪い画面越しに恋人の姿があった。
「我だ」
「い、稲葉。なんでいるの」
 今日は無しで、と連絡して了承したはずの彼がなぜか、私が住むマンションのエントランスにいるらしい。一度目の呼び鈴を無視した罪悪感から、すぐにロックを解錠する。部屋の前のベルが鳴って、すぐに鍵を開けた。
「鍵を開ける前に確認しろと言ったはずだが」
「あ、……ごめんなさい」
 前回うちに来た時も、彼は同じことでお怒りであった。有無を言わさず彼は我が家へと上がり込み、家主の私は奥へ追いやられてしまう。
 カーテンすら開けられていない、今さっきベッドから起き出してきたことが丸わかりのとっ散らかった部屋を見て、稲葉は私の方を振り返る。
「寝ていたのか」
「うん……」
「どこか具合が悪いのか」
「えっ? あ……そういう、わけでもない、かな?」
 どうやらこの恋人は、私のドタキャンを体調不良によるものと思い心配で駆けつけてくれたようだ。およそ看病に来た人間とは思えない威圧感を、私のいかにも女の一人暮らし、という感じのファンシーな部屋で放っている。
「何か食べたのか」
「食べてない……」
「適当に買ってきたが、食えるか」
 稲葉は手にしていたコンビニの袋を私に手渡した。袋の中にはおにぎりとかスープとかサラダとか、あとプリンとかアイスとか。コンビニと人気キャラクターがコラボしている限定パッケージのロールケーキまである。
 コンビニでブラックコーヒーくらいしか買わない彼がこんなものをカゴに入れる姿が想像できなくて、私はきょとんとしてしまった。
「体調を崩しているわけでないなら、構わん。邪魔をした」
「ま、待ってよ。もう帰るの?」
 コンビニの袋の中身を私に渡して、用は済んだと言わんばかりに部屋を出ようとする稲葉を呼び止める。約束をドタキャンしたにも関わらず体を案じて訪ねてきてくれた恋人を、このまま返せるほど傲慢な人間になった覚えはなかった。けれど稲葉はそんな私を不思議そうな目で見下ろす。
「そう連絡しただろう」
「いやでも……せっかく来てくれたのに」
「無理をさせに来たわけではない」
「……」
 彼の目には、私が大病人に映っているらしかった。
 他人の機微に疎い自覚のある彼は、とりわけ注意して私のことを気遣ってくれている。これを自惚れと思えない程の時間を彼と過ごしてきたつもりだ。
 初めて彼と会話した時、「この人こんな感じだけど彼女とかにはどんな態度なんだろ」と思ったのをよく覚えている。今となってみてはあの時から私は彼のことが気になっていて、結果今こんな関係性なわけだが、つまるところ私はこの男に相当惚れ込んでおり、そしてきっと、彼も同じことだった。
「出かけるのは無理だけど、稲葉といるのは無理じゃない……」
「……………」
 稲葉が上着を脱ぐ。一旦ここにとどまることにしてくれたことに安堵し、私はもう一度ビニール袋の中身を見た。
 私がよく好んで買っているものばかりで、何も言わないなりに食の好みをしっかりと把握してくれているところが愛おしいな、と思う。「稲葉、お昼食べた?」と尋ねると、彼は首を横に振った。
「じゃあ食べようよ。サラダいる?」
「構うな。お前に買ってきたものだ」
「ロールケーキも食べていいよ」
「ふざけているな」
「あはは」
 そんな掛け合いをしていると楽しくなってきて、いつの間にか私は憂鬱な気持ちを忘れ去ってしまっていた。
 買ってきてもらったものを冷蔵庫や冷凍庫に仕舞って、食料棚を確認すると袋麺が一人前だけ残っている。体の大きな稲葉の腹は満たせないだろうが、ないよりはマシだろう。
 稲葉が高さの合わない私の部屋の小さいキッチンで袋麺を茹でているのを見ていると何だか幸せな気持ちになってきて、用もないのに鍋の中を覗き込む。
「私も麺食べたいかも」と言えば彼は眉を顰めたが、きっと優しい彼のことなので私に分け与えてくれるに違いなかった。 


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